ラサール神父が建てたカトリック小禄教会
1930年ニューヨークに生まれる。
1958年9月に来県。
沖縄で63年間、宣教活動を行う。
2021年9月、カトリック小禄教会のカプチン会修道院にて帰天、90歳。
教会の外庭に陽気なダンス音楽が流れ、フィリッピンの女性達が思い思いに音楽にあわせて踊った。晴れた日だった。陽気だ。
インド人の主任司祭が肩を片方ずつひょいひょいあげながら踊りの輪に加わって行った。インド風の踊りなのだろうか、そのしぐさ可笑しくて皆をさらに陽気にさせた。
それを見ていたラサール神父が座っていた花壇の淵からよろよろと立ち上がり、何時も移動でつかっている運搬台車を押しながら、踊りの輪によたよたと加わって行った。
台車の取っ手につかまって踊った。片足をひょいと上げ、次に反対の足を上げ、ぎこちなく繰り返した。
もちろん音楽には合ってなかった。しかし全てが合っていた。
さすがニューヨーク生まれだ。
踊った。踊った。
その片足づつ上げるしぐさが可笑しかった。
踊りの輪の中で楽しそうに何時までも踊った。
楽しかった。
ラサール神父の踊っている姿を見ていて、
ボブディランの歌う「ミスター・ボージャングルズ」が脳裏から聞こえた。
「白髪交じりの髪で、破れたシャツ
そして、ダブダブのズボン、古くてぐにゃぐにゃの靴
ラサール神父さん、踊っておくれ!
ラサール神父さん、踊っておくれ!
高くジャンプして
高くジャンプして
そして軽ろやかに」
宴たけなわの中、カラオケが始まった。
ラサール神父の番になり、彼の十八番だと言う
『骨まで愛して』を
椅子に座っている皆の輪の中に立ってマイクを持って
大きな声で歌いだした。
「生きてるかぎりは どこまでも
探しつづける 恋ねぐら
傷つきよごろた わたしでも
骨まで 骨まで
骨まで愛してほしいのよ
・・・・・」
笑った。
上手い。
歌いこんでいる。
楽しませてくれる。
あの歌声を情景を今も懐かしく思う。
昔、沖縄でまだクリスマスが浸透していなかったころ。
クリスマスの日には米軍基地ではパーティーがあり、そこで働いている日本の労働者は、その日は何時もより速く帰れたとの事である。
彼らが帰途の途中、教会の前を通ると教会でパーティーをやっているのを見て、
「教会でもクリスマスをやっているよ。」
と言ったそうだ。
それが気に入ったらしく嬉しそうに何度も何度も繰り返し私に話した。
最初は面白かったが、何度もいうので、席をたつのも申し訳ないし、腹を決めて合わせて何度もうなずいて何度も笑った。
後で思うとやはり面白い話である。
兄弟は多かったらしい、8人くらいいたと聞いた。記憶が曖昧だが。
ラサール神父はその真ん中でお兄さんが一人いて、あとは皆女性だったらしい。
お兄さんは、神父か神学者だったとのこと。
ラサール神父は、お兄さんを尊敬し慕っていたようだ。
厳しい修練の生活と勉強で早死にしたらしい。
姉妹は皆シスターになったとのこと。
ラサール神父は、そのお兄さんの影響で修道士になったのかなと思ったが、
共同生活が好きで修道士になったと言っていた。
お祖父さんは、政治家だったそうで、私に「選挙には行かなくてはいけないよ。政治は生活なんだから。」と言っていた。
お父さんについては聞いたのか聞かなかった覚えがない。
お母さんは働きものだったらしく良く働いて子供たちを育てたのこと。
信仰熱心だったらしい。
ラサール神父と、のんびり長時間話をしていると、その優しい気をくばった話し方から、何故かラサール神父のお母さんと話しているような気がして来て、ラサール神父はお母さん似なのかなと思った。
ニューヨークでは、白人同士のなかで何系何系とらやで差別があったらしい。
学生のころバスケットをやっていたとか言っていた気がする。記憶が曖昧だが。
詩が好きだったらしい。
今から思うとラサール神父に詩を見せてと言えばよかったなと思う。
入院する前、英語が聞きたいと、ポツンと漏らしていた。
つづく・・・
カトリック小禄教会の玄関を入ると、聖堂までの通路がある。
最初に右側に事務室がある。
その向かいにトイレがある。
事務室の隣には、ユンタク室(私個人の命名)がある。そんなには大きくはない丸テーブルが三つほど置いてありその周りに椅子が幾つも置いてある。
壁側には、フリッピンの婦人たちが何時も入れて置いてくれているコーヒーが置かれている。無料で何杯でも飲める。フィリッピンスタイルである。
丸テーブルには、お菓子やサンドイッチ、誰かの誕生日の時にはケーキが置かれ、何時も何かが置かれ絶えることはない。テーブルの上は豊かだ、そして部屋は窓からの日がさして明るく沖縄の光で輝いている。
丸テーブルは、座っている人の顔が皆見えるので、とても良い。大きもちょうど良い。
ユンタク室の隣には、オープンの畳敷きの部屋がある。ユンタク室から畳の部屋で遊んでいる子供たちの姿が近くに見える。家族的雰囲気をかもしだしている。
ユンタク室と畳敷きの部屋の向かいは、調理室だ。婦人たちがお茶や料理をユンタク室に運んでくれる。
フリッピンと沖縄の婦人たちには、いつも「いっぺーにへーでーびる」さあー。
そして、先に行くと聖堂がある。
ミサが終わって帰るには、皆この通路を通って帰る。
ラサール神父は、ユンタク室の奥の丸テーブルに通路に向かって何時も座っている。
だから帰る人は、皆ラサール神父に挨拶をして帰るわけだ。
ラサール神父は、一人ひとりに「ハイサイ」と声を掛ける。
「ハイサイ」とは、沖縄方言で、時間帯に関係なく使える軽いあいさつの言葉だ。
立ち止まって、ラサール神父に話しかけたり、懐かしんで話こんだり、
色々な国の人が笑顔で挨拶する。天国を垣間見た気持ちだ。
隣にいるに私は、実に役得でした。
つづく・・・
沖縄に来て最初に、琉球大学で英語の教師をされたそうです。
最初の7年間は無給だったそうで、その後交通費が支給されたとのこと。
楽しかったそうです。
80歳になって、その時の生徒達がラサール神父をお祝いしてくれたそうです。
つづく・・・
周家の人がカトリックに土地を買ってもらえないだろうかと来たとのこと、
理由は、沖縄の人には売りたくないのでとのことだった。
しかし、神父の言うところでは、お金が欲しかったようだと言っていた。
高台にある首里の人達は、下に住んでいる人達を馬鹿にし差別をしていたそうだ。
下の人達は、首里の人達を怠け者と馬鹿にしてたらしい。
また、村単位で、島単位でそれぞれ差別しあってたとのこと。
沖縄のように小さいな島は、差別が起きやすいといっていた。
小さくなればなるほど差別があるといっていた。
沖縄では、今も差別されている島がある。
ほとんどの沖縄の人は知っている。今も差別をしているからだ。
このようなことがあったらしい。
その島の若者の医者が、本島の女性と恋仲になり互いに結婚したかったのだが、女性の親が相手がその島の人だというのでがんとして認めず。互いに愛し合っているのに結婚できなかったとのこと。
お医者さんでもだよ。と言っていた。
その他いくつも不幸な例があったらしい。
その島の人たちをラサール神父は大変可哀そうに思い、自分のことのように胸を痛めていた。
つづく・・・
平日は、沖縄県立博物館の近くにある、カトリック文化センターで店番をしているとのことである。
90歳近くにもなってもお仕事をしているのだと思った。
「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
の聖書の箇所を思い出した。
帰天された今、そこで今も仕事をしているのじゃなかろうかとふと思ったりもする。
カトリック開南教会で、嫌なことが有って(「70歳からの福音伝道」の中の「簡単な自己紹介」を参照)教会に行けなくなり、
1年ほど病気したり悩んだりして家で寝転んでいました。それから2年ほど近くの幾つかのプロテスタントの教会を見て回りました。そこで2つの教会の礼拝で初めて来たと言う20代の若者で、カトリック開南教会から来ましたと自己紹介していた信徒に出会いました。何があったかはしりませんが可哀そうに見えました。
しばらくして、カトリック教会が恋しくなり、カトリック小禄教会に行きました。
カトリック小禄教会は、外人が多く、私がいた東京、目黒の聖アンセルモ教会
(今はカトリック目黒教会と命名)少しにているところがありました。聖ベネディクト修道院が有って(今は移転しましたが)、外人が多く、日曜日のミサは1日に2回に分けて行われ、最初は日本語のミサ、その後すぐに英語のミサが行われました。ミサにはそれぞれ二百人ぐらいの信者が集まり、何時も満員でした。ミサの後は外人が多いので何時もにぎやかでした。若いころは、そこで日曜学校の校長をやり、幼稚園でのサンタクロース役、老人ホームへの慰問、近くのカトリック教会の日曜学校との運動会、バザーなど、その他いろいろ楽しかった思い出があります。)
と規模は違いますが、カプチン修道会があり、なんとなく雰囲気が似てました。
カトリック小禄で久しぶりにミサに預かりました。
ミサが終わって、教会聖堂(おみどう)の中を懐かしく眺め歩きました。おみどうの出口を出ると、左に「ユンタク」(沖縄弁で気楽にのんびりとお話すること)をする場所がありました。そこには、丸テーブルが3つほど置いてあって、周りに幾つもの椅子が置いてありました。奥に年老いた外人が一人ポツンと座っていました。
私も来たばかりで知り合いもなく一人だったので、隣に座らしてもらいました。
フリッピンの婦人たちが入れた無料のコーヒーとお菓子を二人でほうばりながら、ミサの後のユンタクをしました。その部屋は、窓から沖縄の光が良く入り、年寄り二人、のんびりと日向ぼっこしているような時間でした。
その年老いた外人が、ラサール神父でした。
最初は何を話したでしょうか、たぶんカプチン会の帽子のことだったような気がします。この帽子はカプチンと言うんだ。それで修道会の名がカプチン会と言うんだと話してくれました。私は、昔東京の聖アンセルモ教会で、そこにあるベネディクト修道院に泊まったこともあり、そこでのことを話しました。お互いに色々話しこんでいたら夕暮れとなってしまいました。
ラサール神父には、昔からの知り合いのような、安心させてくれるものがありました。
何時も移動でつかっている運搬台車で修道院の玄関まで一緒に歩いていき別れました。
一人帰り道すがら、聖ベネディクト修道院の中庭で老修道士が一人、関東の春の穏やかな光の中で古ぼけた扇風機を愛おしそうに丁寧に掃除していた、昔見た懐かしい風景が脳裏に浮かびました。そんな良い安らかなひと時でした。
次の週も教会に行き、ミサの後神父の隣に座り、ユンタクしました。神父は、色々なことを話してくれました。
神父は足が悪くお年でもあり移動やその他で、だれかのサポートが必要のようでした。
だれかが何時もついていた方がいいと思い、何週間か夕ぐれまで、隣にいました。
お茶などをテーブルに運んでくれるおばさんが、神父のそばにいてくれると助かるわ。と私に言ってくれました。
私はここに居てもいいのだなと思いました。
後にラサール神父が入院して私がこの教会を去ってから思うことは、私がラサール神父を介護してたのではなく、傷んだ葦であった私の方が神父に時間をかけて丁寧に介護されていたことを知りました。
そんなわけでミサの後は何時もラサール神父のそばにいました。そして、話を聞きました。信者の出入りが落ち着いて、神父が運搬車を押して修道院の玄関に入るまでそばにいました。
そして1年ぐらいたったころ、(2020年2月ごろ)ミサに神父の姿がありませんでした。
入院されたとのこと。
ミサが終わって私は一人ポツンといつもの丸テーブルの椅子に座って何時ものようにコーヒーを飲みました。
隣にはラサール神父は居ない。
入院する前、私に 貴方は私の兄弟だと言ってくれたことを思い出しました。
私の霊名がパウロと知って、神父は即座に宣教しなきゃと私に言われた。宣教への思いが何時もあるようです。
亡くなってから振り返ると、別れる日が近いことを知っていたような気がします。
次の週も神父は居いません。
ミサの後、聖堂(おみどう)で一人座っていると、年配の婦人が隣に来てお名前はと聞かれた。メモに記入していたので教会の何かの役員だと思いました。何々ですと言うと、いきなり大きな声で下の名前はと怒鳴った。
聖堂で怒鳴られたのは初めてだった。聞いたこともない。ありえない。
女性に怒鳴られるのは気分の良いものではない。また、老人にはキツイものだ。
聖書第一コリント11:3より【 しかし、あなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリストであり、女の頭は男であり、キリストの頭は神であるということです。】
ラサール神父が入院していなくなったら、急に名前を聞いたり、何故いきなり怒鳴るのか分からなかった。1年間も日曜日には、ラサール神父のかたわらに何時もいたのに。
用済みになったようだ。
十数年前ごろだろうか、会社を定年退職した人達が教会で奉仕するようになって、似たようなことを他の幾つのも教会で目にすることがある。彼らは会社のスタイル、価値観をそのまま教会にもって来ている様な気がする。イエス様がお与えくださった掟「愛」は会社にはない。
それから小禄教会に行きずらくなって、行かなくなってしまいました。
そして、コロナ禍が始まりました。
1年半後、ラサール神父が帰天したことを知った。
ラサール神父さん ハイサイ。
ラサール神父が九州で買った「十字架の道行き」です。
これらはそれぞれバラバラに聖堂の周りの壁に掛けてあるの物で、
写真を撮って一つに編集した物です。