教会

ラサール神父が建てた小禄教会

ラサール・パーソンズ神父との私の思い出

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1930年ニューヨークに生まれる。
1958年9月に来県。
沖縄で63年間、宣教活動を行う。
2021年9月、カトリック小禄教会のカプチン会修道院にて帰天、90歳。



2019年カトリック小禄教会でのバザーでの思い出


教会の外庭に陽気なダンス音楽が流れ、フィリッピンの女性達が思い思いに音楽にあわせて踊った。晴れた日だった。陽気だ。
インド人の主任司祭が肩を片方ずつひょいひょいあげながら踊りの輪に加わって行った。インド風の踊りなのだろうか、そのしぐさ可笑しくて皆をさらに陽気にさせた。
それを見ていたラサール神父がよろよろと立ち上がり、何時も移動でつかっている運搬台車につかまって、踊りの輪によたよたと加わって行った。
踊った。片足を上げ、そしてもう一方の足をぎこちなく上げ繰り返した。
もちろん音楽には合ってなかった。しかし全てが合っていた。
さすがニューヨーク生まれだ。
踊った。踊った。
その片足づつ上げるしぐさが可笑しかった。楽しかった。何時までも踊った。

ラサール神父の踊っている姿を見ていて、
ボブディランの歌う「ミスター・ボージャングルズ」が頭をよぎった。
「白髪交じりの髪で、破れたシャツ
 そして、ダブダブのズボン、古くてぐにゃぐにゃの靴
 ラサール神父さん、踊っておくれ!
 ラサール神父さん、踊っておくれ!
 高くジャンプして
 高くジャンプして
 そして軽ろやかに」

荷台




2019年カトリック小禄教会での敬老の日の思い出


宴たけなわの中、カラオケが始まった。
ラサール神父の番になり、彼の十八番だと言う
『骨まで愛して』を
椅子に座っている皆の輪の中に立ってマイクを持って
大きな声で歌いだした。

「生きてるかぎりは どこまでも
 探しつづける 恋ねぐら
 傷つきよごろた わたしでも

 骨まで 骨まで
 骨まで愛してほしいのよ
 ・・・・・」

笑った。
上手い。
歌いこんでいる。
楽しませてくれる。
あの歌声を情景を今も懐かしく思う。




2019年クリスマスの日が近づくころの思い出


昔、沖縄でまだクリスマスが浸透していなかったころ。
クリスマスの日には米軍基地ではパーティーがあり、そこで働いている日本の労働者は、その日は何時もより速く帰れたとの事である。
彼らが帰途の途中、教会の前を通ると教会でパーティーをやっているのを見て、
「教会でもクリスマスをやっているよ。」
と言ったそうだ。
それが気に入ったらしく嬉しそうに何度も何度も繰り返し私に話した。
最初は面白かったが、何度もいうので、席をたつのも申し訳ないし、腹を決めて合わせて何度もうなずいて何度も笑った。

後で思うとやはり面白い話である。



ラサール神父の家族とニューヨークでのことについて


兄弟は多かったらしい、8人くらいいたと聞いた。記憶が曖昧だが。
ラサール神父はその真ん中でお兄さんが一人いて、あとは皆女性だったらしい。
お兄さんは、神父か神学者だったとのこと。
ラサール神父は、お兄さんを尊敬し慕っていたようだ。
厳しい修練の生活と勉強で早死にしたらしい。
姉妹は皆シスターになったとのこと。
ラサール神父は、そのお兄さんの影響で修道士になったのかなと思ったが、
共同生活が好きで修道士になったと言っていた。
お祖父さんは、政治家だったそうで、私に「選挙には行かなくてはいけないよ。政治は生活なんだから。」と言っていた。
お父さんについては聞いたのか聞かなかった覚えがない。
お母さんは働きものだったらしく良く働いて子供たちを育てたのこと。
信仰熱心だったらしい。
ラサール神父とのんびりと長時間話をしていると、その優しい気をくばった話し方から、何故かラサール神父のお母さんと話しているような気がして来て、ラサール神父はお母さん似なのかなと思った。
余談だが、最近イエス様もお母さん似かなと思ったりする。「イエス様は神様です。影響されません。」と言う神父も居るかもしれないが。
ニューヨークでは、白人同士のなかで何系何系とらやで差別があったらしい。
学生のころバスケットをやっていたとか言っていた気がする。記憶が曖昧だが。
詩が好きだったらしい。
今から思うとラサール神父に詩を見せてと言えばよかったなと思う。
入院する前、英語が聞きたいと、ポツンと漏らしていた。


つづく・・・



「ハイサイ」について


カトリック小禄教会の玄関を入ると、聖堂までの通路がある。
最初に右側に事務室がある。
その向かいにトイレがある。
事務室の隣には、ユンタク室(私個人の命名)ある。そんなには大きくはない丸テーブルが三つほど置いてありその周りに椅子が幾つも置いてある。
壁側には、フリッピンの婦人たちが何時も入れて置いてくれているコーヒーが置かれている。無料で何杯でも飲める。フィリッピンスタイルである。
丸テーブルには、お菓子やサンドイッチ、誰かの誕生日の時にはケーキが置かれ、何時も何かが置かれ絶えることはない。テーブルの上は豊かだ、そして部屋は明るく沖縄の光で輝いている。
丸テーブルは、座っている人の顔が皆見えるので、とても良い。大きもちょうど良い。
ユンタク室の隣には、オープンの畳敷きの部屋がある。ユンタク室から畳の部屋で遊んでいる子供たちの姿が近くに見える。家族的雰囲気をかもしだしている。
ユンタク室と畳敷きの部屋の向かいは、調理室だ。婦人たちがお茶や料理をユンタク室に運んでくれる。
フリッピンと沖縄の婦人たちには、いつも「いっぺーにへーでーびる」さあー。
そして、聖堂がある。
ミサが終わって帰るには、皆この通路を通って帰る。
ラサール神父は、ユンタク室の奥に通路に向かって何時も座っている。
だから帰る人は、皆ラサール神父に挨拶をして帰るわけだ。
ラサール神父は、一人ひとりに「ハイサイ」と声を掛ける。
「ハイサイ」とは、沖縄方言で、時間帯に関係なく使える軽いあいさつの言葉だ。
立ち止まって、ラサール神父に話しかけたり、懐かしんで話こんだり、
色々な国の人が笑顔で挨拶する。天国を垣間見た気持ちだ。
隣にいるに私は、実に役得でした。



つづく・・・



琉球大学でのことについて


沖縄に来て最初に、琉球大学で英語の教師をされたそうです。
最初の7年間は無給だったそうで、その後交通費が支給されたとのこと。
楽しかったそうです。
80歳になって、その時の生徒達がラサール神父をお祝いしてくれたそうです。


つづく・・・



カトリック首里教会のことについて


周家の人がカトリックに土地を買ってもらえないだろうかと来たとのこと、
理由は、沖縄の人には売りたくないのでとのことだった。
しかし、神父の言うところでは、お金が欲しかったようだと言っていた。






沖縄での差別について


高台にある首里の人達は、下に住んでいる人達を馬鹿にし差別をしていたそうだ。
下の人達は、首里の人達を怠け者と馬鹿にしてたらしい。
また、村単位で、島単位でそれぞれ差別しあってたとのこと。
沖縄のように小さいな島は、差別が起きやすいといっていた。
小さくなればなるほど差別があるといっていた。
沖縄では、今も差別されている島がある。
ほとんどの沖縄の人は知っている。今も差別をしているからだ。

このようなことがあったらしい。
その島の若者の医者が、本島の女性と恋仲になり互いに結婚したかったのだが、女性の親が相手がその島の人だというのでがんとして認めず。互いに愛し合っているのに結婚できなかったとのこと。
お医者さんでもだよ。と言っていた。
その他いくつも不幸な例があったらしい。
その島の人たちをラサール神父は大変可哀そうに思い、自分のことのように胸を痛めていた。



つづく・・・



お年を召されてからの仕事について


平日は、沖縄県立博物館の近くにある、カトリック文化センターで店番をしているとのことである。
90歳近くにもなってもお仕事をしているのだと思った。
「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
の聖書の箇所を思い出した。
帰天された今、そこで今も仕事をしているのじゃなかろうかとふと思ったりもする。




私とラサール神父との出会い


カトリック開南教会で、若いベトナム人の神父らに酷い目に遭い、教会に行けなくなり、 1年ほど病気したり家で寝転んでいました。それから2年ほど近くの幾つかのプロテスタントの教会を見て回りましたが、慣れないこともあり、長年通っていたカトリックが恋しくなり、カトリック小禄教会に来ました。
カトリック小禄教会は、私がいた東京の聖アンセルモ教会
(今はカトリック目黒教会と名前も変わり、聖ベネディクト修道院も移転し、その他色々と変わってしまったと人ず手に聞きました。そこでは、日曜日のミサは1日に2回に分て行われ、最初は日本語のミサ、その後すぐに英語のミサが行われました。ミサにはそれぞれ二百人ぐらいの信者が集まり、何時も満員でした。外国人が多く、ミサの後は何時もにぎやかでした。若いころは、そこで日曜学校の校長をやり、幼稚園でのサンタクロース役、老人ホームへの慰問、近くのカトリック教会の日曜学校との運動会、バザーなど、その他いろいろ一番楽しかった時期でした。)
と規模は違いますが、ここも外国人が多く、なんとなく雰囲気が似てました。

カトリック小禄で久しぶりにミサに預かりました。
ミサが終わって、教会聖堂(おみどう)の中を懐かしく眺め、玄関への通路を歩くと、左に「ユンタク」(沖縄弁で気楽にのんびりとお話すること)をする場所があり、丸テーブルが3つほど置いてあって、周りに幾つもの椅子が置いてありました。奥に年老いた外人が一人ポツンと座っていました。
私も来たばかりで知り合いもなく一人だったので、隣に座りユンタクをしました。
フリッピンの婦人たちが入れた無料のコーヒーとお菓子を二人でほうばり、年寄り二人ミサの後のユンタクをしました。その部屋は、沖縄の光が良く入り、のんびりとした時間でした。
その年老いた外人が、ラサール神父でした。最初は何を話したでしょうか、たぶんカプチン会の帽子のことだったような気がします。この帽子はカプチンと言うんだ。それで修道会の名がカプチン会と言うんだと話してくれました。私は、昔東京の聖アンセルモ教会で、そこにあるベネディクト修道院に泊まったこともあり、そこでのことを話しました。お互いに色々話しこんでいたら夕暮れとなってしまいました。
ラサール神父には、昔からの知り合いのような、安心させてくれるものがありました。
何時も移動でつかっている運搬台車で修道院の玄関まで一緒に歩いていき別れました。
一人帰り道すがら、聖ベネディクト修道院の中庭で老修道しが一人、関東の春の穏やかな光の中で古ぼけた扇風機を愛おしそうに丁寧に掃除していた、昔見た懐かしい風景が脳裏に浮かびました。そんな良い安らかなひと時でした。
次の週も教会に行き、ミサの後神父の隣に座り、ユンタクしました。神父は、色々なことを話してくれました。
神父は足が悪くお年でもあり移動やその他で、だれかのサポートが必要のようでした。
だれかが何時もついていた方がいいと思い、何週間か夕ぐれまで、隣にいました。
お茶などをテーブルに運んでくれるおばさんが、神父のそばにいてくれると助かるわ。と私に言ってくれました。
私はここに居てもいいのだなと思いました。
後にラサール神父が入院して私がこの教会を去ってから思うことは、私がラサール神父を介護してたのではなく、傷んだ葦であった私の方が神父に時間をかけて丁寧に介護されていたことを知りました。
そんなわけでミサの後は何時もラサール神父のそばにいました。そして、話を聞きました。信者の出入りが落ち着いて、神父が運搬車を押して修道院の玄関に入るまでそばにいました。
そして1年ぐらいたったころ、(2020年2月ごろ)ミサに神父の姿がありませんでした。
入院されたとのこと。
ミサが終わって私は一人ポツンといつもの丸テーブルの椅子に座って何時ものようにコーヒーを飲みました。
隣にはラサール神父は居ない。
入院する前、私に 貴方は私の兄弟だと言ってくれたことを思い出しました。
私の霊名がパウロと知って、神父は即座に宣教しなきゃと私に言われた。宣教への思いが何時もあるようです。
亡くなってから振り返ると、別れる日が近いことを知っていたような気がします。
次の週も神父は居いません。
ミサの後、聖堂(おみどう)で一人座っていると、年配の婦人が隣に来てお名前はと聞かれた。メモに記入していたので教会の何かの役員だと思いました。何々ですと言うと、いきなり大きな声で下の名前はと大きな声でどなりました。
何故どなるのか分かりませんでした。
 用済みになったようです。
それから小禄教会に行きずらくなって、行かなくなってしまいました。
そして、コロナが始まりました。
1年半後、ラサール神父が帰天したことを知りました。

 ラサール神父さん ハイサイ。



追伸
その後、カトリック開南教会で朝だけ、ミサに出席しましたが、途中で行けなくなりました。
カトリックは変わったようだ、教会に愛が無い。神父にも。

若いベトナム人の神父(私は彼らが生まれる何十年も前に洗礼を受け、教会生活を送っている)がそれぞれ何回にもわたって耐えがたい侮辱を私にした。
ベトナム語で嘲り、聖体でおちょくり、人間関係で悩んでいた信徒を何とかするからと騙し、電話番号と教会まで来る時間を聞き、数日後教会の作業に呼び出し、作業中の信徒の前で指折り数へて見せて自分の力を示した。その後、数日教会の作業をしたが、約束は実行されず忘れられた様だ。その後勉強会で何人もの信徒の前で、傷口に塩を塗るパワハラ、人権を無視した行為を行った。自分の権威を信徒に見せたかったような気がする。人の傷をダシにつかって。
何故初老の信者をこのベトナムの若い神父らは、嘲リ卑しめるのか。驕るのか。あんなガキらが何故いばるのか。私には受け入れがたい。酷いものだ。イエスの前に許されるものではない。
たとへ神父不足だからと言って許されるものではない。
彼らには愛や憐れみがない。カトリック特有の家族的なものがない。
後任の日本の神父に相談しても、あしらわれるだけで、何もしない。
神父は信徒の味方だと思っていたが、神父は神父の仲間であることを私は知った。
東京が長かったので、苦情をカトリック東京大司教区の「お問い合わせ」にメールで送ったが、半年以上たっても返信がない。このまま何年もないだろう。
すごいもんだ。
立派なホームページが有っても返信が無い。一かけらの愛も無い。
これら全て、今の教皇の使用者責任である。心あるカトリックの聖職者は、考えるべきである。

40年ぐらい前だろうか、外国の神父が日本を離れるにあったって東京カテドラル聖マリア大聖堂でミサがあり、挨拶があった。
神父は、「私が日本にまた戻って来た時、まだ愛はあるであろうか。」と言って去って行ったことが思いだされる。
悪い神父への報酬はなんであろう。悪いことをしたことである。これからも悪いことをすることである。
彼らのことは、神に任せて忘れるようにしよう。ただイエス様だけが心をしめるようにしよう。それで良い。
また、若いベトナム人の一人の神父は、ミサの時、聖体を物のように扱い、聖体をもって私を茶化した。彼は、私に聖体がただの物であることを悟らせた。感謝である。
確かに、イエス様は記念とせよと言われただけだった。
聖書では偶像を一番嫌っている。
カトリックの神父が年を取った貧しい老人に対してこんな酷いことをするとは、知らなかった。彼らの中にイエス様はいない。
イエス様のいない今のカトリックで信仰を続けることはできない。 なぜ、神父が年老いた私の前にダニエルが言う抑圧者として現れるのだ。
私の前にカトリックは役目を終わり、終焉した。
信仰を守るために、プロテスタントの道を歩むしかない。
カトリック全体が今どうなっているか詳しくは知らないが押して知るべしであろう。
まさか、70歳にもなってプロテスタントの道を歩むとは思いませんでしたが。
しかし、何処に行こうが、世に救いはイエス・キリストただ御一人である。
【 二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。】マタイ18:20
を信じてその中で歩む。
イエス様は何時も共にいて下さる。幸いである。

ラサール神父が最後に、私の霊名がパウロと知って、宣教しなきゃと私に言われたからではないが、
パウロの宣教に対する熱い思いを思う時、霊名がパウロである私の心を熱くするので、
また、イエス様に救われた喜びがあるので、プロテスタントとして福音伝道に力をいれて行きたいと思う。
今のカトリックはとても私には、人にお勧めできない。

【「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。
命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」
「偽預言者に注意しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼である。
あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」】
 マタイ 7章 13-20節

【 人の歩みは主によって確かなものとされ
 その人の道を主は喜ばれる。】
 詩編 37編 23節


悪いことも良いことも、全てが良しです。
神に感謝。

 最後に私がベトナム人が嫌いなのかと勘違いされないように、下記を追加記述しておきます。
昔、1975年ごろだろうか、ベトナム人のボートピープルの人達が、私が住んでいた、東京の品川区の図書館があるビルのワンフロアに何十人かが移って来た。
公表はされなかったが、近所の人はだいたい、それらしいと知っていた。
そのフロアの全ての窓と言う窓が目張りされ何かに恐れているかのように昼も夜も音もなくひっそりとしていた。何年かそうであったと思う。近所の人達は哀れに思いできるだけちょっかいを出さないようにそっとしていた。
それから15年近くたったころ、その図書館の近くの教会の籍に私たち夫婦は移った。
ベトナム人が沢山いた。彼らは明るく元気でにぎやかで、私たち夫婦を受け入れてくれた。この人たちは、あのボートピープルの人たちだった。ベトナムで肉屋をやっていたと言う老人は、日曜日に会うたびに立って私の手を両手で強く握ってくれた。子供がお腹にいる夫婦もいた。会社を興した者もいた。イベントがあると女性は民族衣装を羽織り、フランスパンを使ったサンドイッチをふるまった。美味しかった。この光のような明るさは、喜びは、日本が彼らを受け入れ、愛をもって教会の信徒の人達が彼らを受け入れてくれた結果だと私は思った。
そこの神父は、同じようにベトナム戦争の時、逃げて日本に移住したベトナム人である。立派な神父で私たち夫婦は、大変お世話になった。尊敬する、また恩ある神父の一人である。
私たち夫婦はそこで何年か楽しく教会生活を過ごさせていただいた。
十数年後、沖縄に引っ越し、半年ほどコザの教会に通っていたが、そこでもベトナムの若い神父だった。私たちが貧しいことをしって、ミサの帰りには信徒にもらった惣菜を口に合わないのでといって、他の信徒には見えないようにこっそりと毎週渡してくれた。そのころ私は暇だったので、お礼として錆びた教会の門にペンキを塗ってあげた、2週間ぐらいかかっただろうか、いつも帰りには、住んでいた北谷まで自動車で送ってくれた。門のペンキ塗りが完成したら、大きな魚を買ってきてくれて、その魚の中に教会の庭で育てたと言うベトナムの香辛料を詰めたベトナム料理を調理して御馳走してくれた。帰りがけに飲まないのでと言って、お酒を沢山もらった。
このように何人ものベトナム人との付き合ってきた私は、ベトナムの方に好印象をもっていた。だから、私に酷い仕打ちをした、那覇のかの若い神父らが同じベトナム人とはとても思えないのです。

私は、昔若いころ聖アンセルモ教会(カトリック目黒教会)のバザーで天国を垣間見たことがある。
何百人もの色々な国の信徒が、バザーを楽しんだ。ヨーロッパの修道士は、バグパイプを吹きながら民族衣装で練り歩き、楽器を奏で歌っているグループもいる。お国の食べ物や物を売る店が色々ある。にぎやかだ。
私達日曜学校では子供たちと「アンセルモ教会」と焼き印が押されたどら焼きを作って売った。子供たちは、即興で「アンセルモ教会の名物のどら焼きだよ」と言って呼び込みをしていた。修道士も神父も信徒も子供たちも喜びに溢れていた。
楽しかった。アメリカ人の神父(修道士)が傍らで私に、アメリカのエネルギーは、人種が沢山いることなんだ。
と話してくれた。
私は、天国ってこんな感じなんだろうなと思った。





ラサール神父の建てた小禄教会


教会
祭壇
御聖体
御言葉
十字架の道行き

ラサール神父が九州で買った「十字架の道行き」です。
これらはそれぞれバラバラに聖堂の周りの壁に掛けてあるの物で、 写真を撮って一つに編集した物です。

御言葉