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 この世、人間(自分)、ロボットとは

3つの結論
・この世は、神によって創られ、そして守られている。
・聖書は、神によって創られた人間への神からのマニュアルである。
・日々の生活のしかたは、 神のこの世についての計画「天に昇られたイエス・キリストが再臨される」この確実なことを待つ生活である。後のものは振り向かず、前にある再臨される
【信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。】
 ヘブライ人への手紙(12:2)
救いに入れられた恵みを喜びつつ賛美しつつ歩むのである。



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    ・この世は、神によって創られ、そして守られている。


  1. 【始めに】人間とロボットと進化論についての私的考察

      このだだっ広い宇宙、その中の吹けば飛ぶような小さな小さな地球、その中のわずかな陸地にカビのようにへばりついてうごめいている人間。宇宙から見たら泡のように湧き、泡のように直ぐ消える。それも宇宙の物差しから見たらほんの一瞬。あまりに短くて一瞬という事さえおこがましいものです。あなたもわたしもそんなもんです。そして、あなたもわたしもいたかどうかも誰も知りません。誰が覚えていると言うのでしょうか。全ての人は死に次から次へと消えて行きます。気が付いたら、「あれ、おれの番かよ。」です。必ず。
     裸でこの世に迷い出で、盲目の人に引かれていく盲目の人のように、右だ左だと言われ人生を歩いて行く。何も知らない人に、何も知らない人が引かれて行く。それが人生?
    無責任な人達が作った価値観に振舞わされ、泣き叫び、笑い、そして知らぬ間に年老い、死んでいく。五感や感情を興奮させ喜ばせる人生ゲーム。しかし、このゲームはリセット、やり直しは効かない。ゲームに飽きたらシャットダウンか、死ぬまでの時間つぶし。なんなんだよと言いたい。
    次から次へと、新商品。これを買えば、手に入れれば幸せになれると操らされ、自分も遅れまいと、働き、宣伝で人を操り金儲けにあくせくする。それが人生? そして死。それが人生?
    孤独と何者かに操られた人生。糞みたいな人生。ーーー
     人間とロボットの違いを考えても、どちらも同じで生きようが死のうが何の意味も、違いもない。 ロボットやAIが、人間の能力を超へ、意識を持ち、下等な人間を滅ぼし、地球上がロボットだけになったとしても、この静まりかえったった宇宙でロボットだけが意味なくうごめいているだけになったとしても、何の悲しみも意味も無い。人類が滅び、ゴキブリが世界中をうごめいているだけになったとしても、何の悲しみも意味も無い。宇宙は今も昔も、あなたがいてもいなくても、人類がいてもいなくても変わらずに動いているのです。ただ在り続けるのです。ただ消え続けるのです。ただ永遠に。全てがむなしいのです。

     生物学によると人間の祖先はねずみだとさ。
    先祖崇拝の沖縄ではどうすりゃいいのさ。
    がっかりして、文化も道徳もおちゃらけさね。
    波の音を聞いて、泡盛飲んで、月明りの下、疲れるまでカチャーシーの踊り狂いさね。
    「人間とロボットと進化論についての私的考察」などあほらしくて愚にもつかないさね。
    でもね、波の音、月明り、家族や親せき、友達や子供達と楽しく飲んで食べてカチャーシーを踊るのは、何とたのしいね。
    進化論で分かったような顔している奴はちょっと変ね。

      進化論による世界観は上記のような世界です。最悪なのは日本の義務教育で、疑うことなく進化論を幼い子供たちに教えていることです。真面目に受け入れる子は将来どんな人になるのでしょう。そして、むなしく出口のない進化論的世界観の中で、死ぬまで生きていくその苦しみを思うとかわいそうでなりません。喚こうが叫ぼうが救いは無いのです。いくら泳いでも泳いでも岸につかないのです。いくら沈んでも沈んでも背中は底につかないのです。沈み続けるのです。あらゆる重荷に押しつぶされ手を伸ばしても、救いは無いのです。これを悪い洗脳と言わずしてなんでしょうか。いいですか、進化論は、ただの仮説であってあなたが信じるか信じないかだけなのです。
    たとへ、次に進化論に変わる違う論を科学や哲学が考え出したとしても、人間が考えるのはしょせん神無しの仮説です。ゆえに、同じくこの世は意味がなく、そしてむなしいとの結論が出るだけなのです。あなたは、泡のようにでき、泡のように意味もなく消えるのです。それも宇宙の物差しから見たら一瞬です。そして、だれも覚えてやしないし、あったかもなかったかも知れません。そして、宇宙はありつづけ、消えつづけ、全てがむなしいのです。

      ここに言葉があります。「初めに神は天と地を創造された。」あの分厚い聖書の初めの文句です。 この言葉を信じて空を見上げると、このだだっ広い宇宙の一つひとつの星星が、そこに在るのも、そして規則に従って動くのも、すべてに神の意思があり、青い地球、白い雲、美しい空、綺麗な花、そして貴方が、すべてが素晴らしいものに見えてくる。父母、おじい、おばあ、子供、孫、他人、他人の子供達、全てに意味があり、彼らと共に喜び、涙するのに意味があるようになる。私は走る、足が動く、私は有る、そして生きている。父母、おじい、おばあ、子供、孫、他人、他人の子供達を喜び、私は天地を創られた神を賛美し、生まれていること生きていることを喜ぶ。
    宇宙が広く私にとって限りないことを喜ぶ、それは神の限りない広さ、深さを示し、私は羽を広げ飛び舞い、その限りのない神の力、広さを味じわい、永遠に神を賛美する。
     また神は私を覚えてくださるという。「あなたの名を手に刻んだ。」(聖書)とあります。
    マリー・ローランサンの詩の中に、
     捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
     よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
     追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
     死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。
    と言うのがあります。
    忘れられた者の悲しさ、切なさがあります。しかし、ここに、永遠なる神が、力ある神が、愛なる神が、私を貴方を、その名を手に刻み、永遠に覚えて下さると言うのです。
    さらに、神が神であるゆえに「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(聖書エペソ1:4)とあります。これこそ幸福そのものです。天地が創造する前に、私は選ばれ父なる神に愛されていた。裸でこの世に迷い出でたのではない。神の愛の対象として生まれた。これ以上の幸福、安心はありましょうか。本来の人間の本当の幸福、幸せはここにあるものと思います。
    「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」聖書、黙示録:22:12~13

      沖縄本島から離島に行き、一人深夜、進化論を元にもの思いにふけって、天の川や星々をじっと見つめていると深い闇に吸い込まれるような気がして、非常な恐怖を覚えます。「神は死んだ。」と言ったニーチェが後に、気がふれたのが、少しは分かるような気がします。
    しかし、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して」いつも居て、私たちを愛して下さる父なる創造主なる神を信じ、空を見上げると星々は愛に満ちて輝き、心は喜び神を賛美したくなります。パスカルが父なる神を知り、喜びにあふれ「歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。われ神より離れおりぬ。」と書きましたが、然りです。ニーチェとは全くの真逆であることをここに見てとれます。

      これらのことにより、私は進化論ではなく「初めに神は天と地を創造された。」を選び、信じ、この世について、人間とロボットの違いについての私的考察をして行きたいと思います。そして、この考察は時にかなっていると私は思います。
    私のようなものが神を信じられることをイエス様に感謝しつつ・・・。
    ある方を信じると言う行為は、その方に対する人間にできる最大の敬意です。ゆえに、私は神様を積極的に信じます。そして、私の救い主イエス様を。



  2. 神とは

    ・聖書 旧約から

    【〔主よ、〕見前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、
     朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。
     全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
     改心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
     あなたは存在するものすべてを愛し、
     お造りになったものを何一つ嫌われない。
     憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
     あなたがお望みにならないのに存在し、
     あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。
     命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
      あなたはすべてをいとおしまれる。
     あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。
     主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、
     罪のきっかけを思い出させて人を諭される。
     悪を捨ててあなたを信じるようになるために。】
     知恵の書(知恵11・22~12・2)


    【初めに、神は天地を創造された。】
     創世記(1・1)


    【地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
     神は言われた。
     「光あれ。」
     こうして、光があった。
     神は光を見て、良しとされた。
     神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
     夕べがあり、朝があった。
     第一の日である。

     神は言われた。
     「水の中に大空あれ。
      水と水を分けよ。」
     神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。
     そのようになった。
     神は大空を天と呼ばれた。
     夕べがあり、朝があった。
     第二の日である。

     神は言われた。
     「天の下の水は一つ所に集まれ。
      乾いた所が現れよ。
     そのようになった。
     神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。
     神はこれを見て、良しとされた。
     神は言われた。
     「地は草を芽生えさせよ。
      種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
     そのようになった。
     地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。
     神はこれを見て、良しとされた。
     夕べがあり、朝があった。、
     第三の日である。

     

     つづく・・・


    【主なる神は言われた。
     「人は我々の一人のように、善悪をしる者となった。」】
     創世記(3・22)


    【アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
     主はアベルとその献げ物に目を留められた。】
     創世記(4・4)


    【かれらは、『その名は一体何か』と問う・・・
     神は・・「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ・・・。】
     出エジプト記(3・13-14)


    【あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主・・・
     これこそ、とこしえにわたしの名
     これこそ、世々にわたしの呼び名。
     ・・・わたしはあなたたちを顧み・・・
     ・・・乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した。】
     出エジプト記(3・15-17)


    【主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
     主は言われた。
     「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。
      人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。
      わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
     しかし、ノアは主の好意を得た。】
     創世記(6・5ー8)


    つづく・・・


    ・聖書 新約から

    【わたしは、その時代の者たちに対して
     憤ってこう言った。
     「彼らはいつも心が迷っており、
      わたしの道を認めなかった。」
     そのため、わたしは怒って誓った。
     『彼らを決してわたしの安息に
      あずからせはしない』と。】
     ヘブライ人への手紙(3:10-11)


    【見よ、わたしはすぐに来る。
     わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
     わたしはアルファであり、オメガである。
     最初の者にして、最後の者。
     初めであり、終わりである。】
     黙示録(22:12~13)


    つづく・・・



  3. 人とは

    神なくして人は何者だと言えるだろうか。

    この世を、利己的に平安に生きるには、合理的、論理的を最大限に活用し生きることである。
    しかし、人間は、矛盾を抱えている。論理てきには利己的に生きるべきであるが、人は利他的にも生きる。そして利他的に生きることに聖なる喜びを感じる。 人間は、人との良い交わりに喜びを、幸福を感じる。
    人のために自分の命さへ犠牲にするものもいる。人間は、矛盾の中に生きるものである。合理的に人を解釈するものは、青びょうたんである。
    AIには、論理的思考だけで、そこには矛盾はない。人間とは違う。

    聖書 旧約から

    神は御自分にかたどって人を創造された。
    神にかたどって創造された。
    創世記(1・27)


    主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
    創世記(2・7)


    主なる神は言われた。
    「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」・・・
    主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。
    人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
    「ついに、これこそ
     わたしの骨の骨
     わたしの肉の肉。
     これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
     まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
    こうゆうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
    創世記(2・21-23)


    二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
    創世記(3・2)


     その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
    アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
    「どこにいるのか。」
     彼は答えた。
    「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。
     わたしは裸ですから。」
     神は言われた。
    「お前が裸であることを誰が告げたのか。
     取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
     アダムは答えた。
    「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
    創世記(3・8-12)


    神はアダムに向かって言われた。
    「お前は女の声に従い
      取って食べるなと命じた木から食べた。
     お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
     お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
     ・・・
     お前は顔に汗を流してパンを得る
     土に返るときまで。
     お前がそこから取られた土に。
     塵に返る。」

     アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
    創世記(3・17-20)


    主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
    創世記(3・21)


    主なる神は言われた。
    「人は我々の一人のように、善悪をしる者となった。
     今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
     主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
    こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
    創世記(3・22ー24)


    主はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。
    カインは激しく怒って顔を伏せた。
    主はカインに言われた。
    「どうして怒るのか。
     どうして顔を伏せるのか。
     もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
     正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。
     お前はそれを支配せねばならい。」
    創世記(4・6ー7)


    アダムは、・・・年生き、そして死んだ。
    セトは、・・・年生き、そして死んだ。
    エノシュは、・・・年生き、そして死んだ。
    ケナンは、・・・年生き、そして死んだ。
    マハラエルは、・・・年生き、そして死んだ。
    イエレドは、・・・年生き、そして死んだ。
    エノクは、・・・年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
    メトシェラは、・・・年生き、そして死んだ。
    ・・・
    レメクは、・・・年生き、そして死んだ。
    主は言われた。
    「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。
     人は肉にすぎないのだから。」
    こうして、人の一生は百二十年となった。
    ・・・
    創世記(5・5ー6・3)


     主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。
    「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。
    人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。
    わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
    しかし、ノアは主の好意を得た。
     これはノアの物語である。
    その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。
    ノアは神と共に歩んだ。
    ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。
    創世記(6・5ー10)


    「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。
    いかなる獣からも要求する。
    人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
    人の血を流すものは
    人によって自分の血を流される。
    人は神にかたどって造られたからだ。」
    創世記(9・5ー6)


    「さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。
     あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
     カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
     セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。
     二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。
     ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、こう言った。
     『カナンは呪われよ
      奴隷の奴隷となり、兄たちに使えよ。』
     また言った。
     『セムの神、主をたたえよ。
      カナンはセムの奴隷となれ。
      神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)
      セムの天幕に住まわせ
      カナンはその奴隷となれ。』
     ノアは、洪水の後三百五十年生きた。
     ノアは九百五十歳になって、死んだ。」
     創世記(9:20-29)


     ノアの息子、セム、ハム、ヤフェトの系図は次のとおりである。
    洪水の後、彼らに息子が生まれた。
     ヤフェトの子孫はゴメル、マゴぐ、メディア、ヤワン、トバル、メシェク、ディラスであった。
    ゴメルの子孫は、アシュケナズ、リファト、トガルマであった。
    ヤワンの子孫は、エリシャ、タルシシュ、ケティム、ロダニムであった。
    海沿いの国々は、彼らから出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった。
     ハムの子孫は、クシュ、エジプト、プト、カナンであった。
    クシュの子孫はセバ、サブタ、ラマ、サブテカであり、ラマの子孫はシェバとデダンであった。
    クシュにはまた、ニムロドが生まれた。
    ニムロドは地上で最初の勇士となった。
    彼は、主の御前に勇敢な狩人であり、「主の御前に勇敢な狩人ニムロドのようだ」という言い方がある。
    彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルに進み、ニネベ、レホボト・イル、カラ、レセンを建てた。レセンはニネベとカラとの間にある、非常に大きな町であった。
     エジプトにはリディア人、アナミム人、レハビム人、ナフトヒム人、上エジプト人、カスルヒム人、カフトル人が生まれた。
    このカフトル人からペリシテ人が出た。
     カナンには長男シドンとヘト、また、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アルキ人、シニ人、アルワド人、ツェマリ人、ハマト人が生まれた。
    その後、カナン人の諸氏族が広がった。
    カナン人の領土は、シドンから南下してゲラルを経てガザまでを含み、更に、ソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイムを経てラシャまでを含んだ。
    これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたハムの子孫である。
     セムにもまた子供が生まれた。
    彼はエベルのすべての子孫の先祖であり、ヤフェトの兄であった。
    セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャド、ルド、アラムであった。
    アラムの子孫は、ウツ、フル、ゲテル、マシュであった。アルパクシャドにはシェラが生まれ、シェラにはエベルが生まれた。
    エベルには二人の息子が生まれた。
    ひとりの名は、その時代に土地が分けられた(パラグ)ので、ぺレグといい、その兄弟はヨクタンといった。
    ヨクタンには、アルモダド、シェレフ、ハチャルマベト、イエラ、ハドラム、ウザル、ディクラ、オバル、アビマエル、シェバ、オフィル、ハビラ、ヨバブが生まれた。
    これらは皆、ヨクタンの息子であった。
    彼らはメシャからセファルに至る東の高原地帯に住んでいた。
    これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたセムの子孫である。
     ノアの子孫である諸氏族を民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。
    地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。
    創世記(10:1-32)

    つづく・・・


    聖書 新約から


    「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。」
     ヘブライ人への手紙(2・6)
    「家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。
     どんな家でもだれかが造るわけです。
     万物を造られたのは神なのです。
     さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。
     もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」

     ヘブライ人への手紙(3・3ー3・6)


    「わたしは、その時代の者たちに対して
     憤ってこう言った。
     『彼らはいつも心が迷っており、
      わたしの道を認めなかった。』
     そのため、わたしは怒って誓った。
     『彼らを決してわたしの安息に
      あずからせはしない』と。」
     ヘブライ人への手紙(3:10-11)




    つづく・・・



  4. イエス・キリストとは

    永遠の命を得ていなくて、人は平安に生きていけるだろうか。
    永遠の命を得ていなくて、人は物事を真に喜べるだろうか。

    【人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
     自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。】
     マタイによる福音書(16:26)

    【イエスは言われた。
     「わたしは復活であり、命である。
      わたしを信じる者は、死んでも生きる。
      生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
      このことを信じるか。」】
     ヨハネによる福音書(11:25-26)



    聖書 旧約から

    主なる神は言われた。
    「人は我々の一人のように、善悪をしる者となった。
    創世記(3・22)


    主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
    創世記(3・21)


    アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
    主はアベルとその献げ物に目を留められた
    創世記(4・4)


    つづく・・・




    聖書 新約から

      神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の創造者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の繁栄であり、御子の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。
    ヘブライ人への手紙(1・1-4)


    いったい神は、かつて天使のだれに、
    「あなたはわたしの子、
     わたしは今日、あなたを産んだ」
    と言われ、更にまた、
    「わたしは彼の父となり、
     彼はわたしの子となる。」
    と言われたでしょうか。
    更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、
    「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」
    と言われました。
    また、天使たちに関しては、
    「神は、その天使たちを風とし、
     御自分に使える者たちを燃える炎とする」
    と言われ、一方、御子に向かっては、こう言われました。
    「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、
     また、公正の笏が御国の笏である。
     あなたは義を愛し、不法を憎んだ。
     それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、
     あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」
    また、こうも言われています。
    「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。
     もろもろの天は、あなたの天の業である。
     これらのものは、やがて滅びる。
     だが、あなたはいつまでも生きている。
     すべてのものは、衣のように古び廃れる。
     あなたが外套のように巻くと、
     これらのものは、衣のように変わってしまう。
     しかし、あなたは変わることなく、
     あなたの年は尽きることがない。」
    神は、かつて天使のだれに向かって、
    「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、
     わたしの右に座っていなさい」
    と言われたことがあるでしょうか。
    天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったのですか。
    ヘブライ人への手紙(1・5-14)


    「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。
     また、あなかが顧みられる人の子とは、何者なのか。
     あなたは彼を天使たちよりも、
     わずかの間、低い者とされたが、
     栄光と栄誉の冠を授け、
     すべてのものを、その足の下に従わせれれました。」
    「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。
    しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
    ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。
    神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
     というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいこどであったからです。
    事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。
    それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
    「わたしは、あなたの名を
       わたしの兄弟たちに知らせ、
     集会の中であなたを賛美します」
    と言い、また、
    「わたしは神に信頼します」
    と言い、更にまた、
    「ここに、わたしと、
       神がわたしに与えてくださった子らがいます」
    と言われます。
    ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。
    それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
    確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
    それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、しべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
    事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
    ヘブライ人への手紙(2・6-18)


    「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。  家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。
     どんな家でもだれかが造るわけです。
     万物を造られたのは神なのです。
     さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。
     もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」

     ヘブライ人への手紙(3・3ー3・6)


    つづく・・・




  5.   終末について


    終末には2つあるのだろう。
    1つは、個人の終末である。自分が死んだら自分の終末である。他人事だと思っていたら「自分の番かよ。」と言ったものだ。
    2つ目は、この世の終わりである。これは1つ目の個人の終末も同時に起こるものだ。
    さらに、個人が残したものも。・・・なにもかも。
    この2つの終末について聖書でどうあるか調べてみよう。


    ・個人の終末について

    聖書 旧約から

    主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
    主なる神は人に命じて言われた。
    「園のすべての木から取って食べなさい。
     ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
     食べると必ず死んでします。」
    創世記(2・15-17)


     カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
     主はカインに言われた。
    「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
    カインは答えた。
    「知りません。
     わたしは弟の番人でしょうか。」
     主は言われた。
    「何ということをしたのか。
     お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。


     「お前は顔に汗を流してパンを得る
     土に返るときまで。
     お前がそこから取られた土に。
     塵に返る。」
    創世記(3・19)


    アダムは、・・・年生き、そして死んだ。
    セトは、・・・年生き、そして死んだ。
    エノシュは、・・・年生き、そして死んだ。
    ケナンは、・・・年生き、そして死んだ。
    マハラエルは、・・・年生き、そして死んだ。
    イエレドは、・・・年生き、そして死んだ。
    エノクは、・・・年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
    メトシェラは、・・・年生き、そして死んだ。
    ・・・
    レメクは、・・・年生き、そして死んだ。
    主は言われた。
    「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。
     人は肉にすぎないのだから。」
    こうして、人の一生は百二十年となった。
    ・・・
    創世記(5・5ー6・3)


    聖書 新約から



    続く・・・。


    ・この世の終末について

    聖書 旧約から


     主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。
    「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。
    人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。
    わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
    しかし、ノアは主の好意を得た。
     これはノアの物語である。
    その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。
    ノアは神と共に歩んだ。
    ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。
    創世記(6・5ー10)




    聖書 新約から

    「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。
     もろもろの天は、あなたの天の業である。
     これらのものは、やがて滅びる。
     だが、あなたはいつまでも生きている。
     すべてのものは、衣のように古び廃れる。
     あなたが外套のように巻くと、
     これらのものは、衣のように変わってしまう。
     しかし、あなたは変わることなく、
     あなたの年は尽きることがない。」
    ヘブライ人への手紙(1・10-12)


    主は言われた。
    「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。
    人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。」
    創世記(6・7)


     この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。
    神は地を御覧になった。
    見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。
    神はノアにいわれた。
    「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。
    彼らのゆえに不法が地に満ちている。
    見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。」
    創世記(6・11-13)


     見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。
    地上のすべてのものは息絶える。
    創世記(6・17)


    主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。
    創世記(7・16)


     地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも、ことごとく息絶えた。
    乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ。
    地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。
    創世記(7・21-23)


    続く・・・。




  6. 救いについて

    救いとは、死、滅び からの救いである。
    人は自分の罪に苦しむ。罪の先は死であり滅びであるから、人は本能的に苦しむのである。
    人はこの苦しみから逃れようと七転八倒するのである。
    本当は当たり前と思っている、死からの救いに七転八倒すべきなのに、誰もが死んでいるので考えようとしないのである。
    ゆえに、根本てきな救いとは罪からの救いではなく、死、滅び からの救いである。
    また、罪が無くらなくては、死、滅び からの救いはないのである。
    聖書には、死、滅び からの救いが書かれてあるのである。
    また、罪からの救いが書かれてあるのである。


    ・聖書 旧約から

    【お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
     わたしは敵意を置く。
     彼はお前の頭を砕き
     お前は彼のかかとを砕く。】
     創世記(3・15)


    【主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。】
     創世記(3・21)


    【アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
     主はアベルとその献げ物に目を留められた】
     創世記(4・4)


    【アダムは、・・・年生き、そして死んだ。
     セトは、・・・年生き、そして死んだ。
     エノシュは、・・・年生き、そして死んだ。
     ケナンは、・・・年生き、そして死んだ。
     マハラエルは、・・・年生き、そして死んだ。
     イエレドは、・・・年生き、そして死んだ。
     エノクは、・・・年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
     メトシェラは、・・・年生き、そして死んだ。
     ・・・
     レメクは、・・・年生き、そして死んだ。
     主は言われた。
     「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。
     人は肉にすぎないのだから。」
     こうして、人の一生は百二十年となった。
     ・・・】
     創世記(5・5ー6・3)

    【ノアは主の好意を得た。
     これはノアの物語である。
     その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。
     ノアは神と共に歩んだ。
     ・・・
     ノアは、洪水の後三百五十年生きた。
     ノアは九百五十歳になって、死んだ。】
     創世記(6・8-29)


    続く・・・。


    ・聖書 新約から


    【それから、弟子たちに言われた。
     「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
     自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
     人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
     自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。】
     マタイによる福音書(16:24-26)

    【イエスは言われた。
     「わたしは復活であり、命である。
      わたしを信じる者は、死んでも生きる。
      生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
      このことを信じるか。」】
     ヨハネによる福音書(11:25-26)

    【イエスは言われた。
     「わたしは道であり、真理であり、命である。   わたしを通らなけらば、だれも父のみのとに行くことができない。」】
     ヨハネによる福音書(14:6)


    続く・・・。



  7. 復活と新しい天と地について

    聖書 旧約から

    エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
    創世記(5・24)


    つづく・・・




    聖書 新約から



    続く・・・。


  8. ロボットとは

     人間は神によって、神ににせて創られたもの。
    ロボットは被造物である人間が作った物。または、被造物であるロボットが作った物。

    進化論の視点からみたらネズミも豚も人間も同じ、そしてロボットも同じ。


    つづく・・・



  9. 自由について

      ロボットには自由がありません。プログラムに従って動くだけです。プログラムにランダム関数を組み込んだとしてもそれは数学的に答えをだすだけであって、ロボットの意思ではありません。サイコロを振るような総合的因果関係による成り行きです。AIによる答えでも、それは膨大なデータからの総合的な因果関係によるものです。ロボットは叫ぼうが泣こうがプログラムの通りなのです。ビリヤードの玉のように打つ前からコース(泣く、叫ぶ)のは決まっているのです。

      人間も土から創られました。よって、この世の物であり、有限な物です。ゆえにロボットのように総合的な因果関係に振り回されます。しかし人間には自由があります。選択の自由があります。根拠は、聖書に「神がご自身ににせて人を創られた。」とあるからです。人間は、神のコピーなのです。5,000人もの乗客を乗せる豪華客船、空を飛ぶジャンボジェット機、実際にあなたの目で見てみなさい。また、この文章を書いている私は人間です。人間は神ににせて創られたのです。人間は、単なる土くれではないのです。物ではないのです。ロボットではないのです。
    人間は、自分で価値観を決め目的を定め走り努力することができます。2020年に東京オリンピックがありますが、選手は皆賞を得ようとそれに向けて今、節制をし自分に鞭打って大変な練習をしていることでしょう。この日々の選択と行動にも強い自由意志が見られます。これもロボットと違うところでしょう。

      また、聖書には「神は、人に息を吹き込まれた」とあります。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。」(聖書)です。ロボットはちりに帰るだけです。
    この霊をなんと言おうか。ただ、人間の叫びは、ロボットのように予定された叫びではなく、魂のこもった全存在をかけた叫びなのです。あなたの叫びなのです。あなたは有るのです。あなたには自由意思があるのです。
    見えるものだけが在るのではないのです。空気は見えますか。電波は見えますか。見えなくても在るのです。また、測れるものだけが在るのではありません。親の愛は測れますか、あなたの大事な人への愛は測れますか。でも有るのです。
    必要なものほど見えないのです。大事なものほど見えないし、測れないのです。
    現代人の不幸の一つは、見えないものは無いとし、測れないものを測ろうとするところにあるような気がします。
    見えるものは見えないモノからでき、見えないモノが見えるもの(この世)を支配しているのです。
    あなたには自由意思があるので人生の方向を決められます。しかし、あなたはあくまでこの世のものであり有限です。
    神には始めが無く終わりがありません。有るという方です。
    神のお許しが無ければ、雨の一粒でさへ、その時その場所には落ちません。
    悪魔でさへ神の許しが無ければ、その悪だくみを行えないのです。(聖書:ヨブ記)
    「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。」と神は聖書によって言われます。この道はあなたが選んだのではありません。神が定めて下さったのです。貴方は信じて従うのです。貴方が信じて従うこと、それが自由なのです。神に従うことそれこそ真の自由なのです。貴方がそれに至りますことを祈ります。
     また貴方は、迷信に惑わされていませんか。死に惑わされていませんか。聖書にあります「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)と、またイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)と言われました。

        聖書にバルティマイという盲人の話があります。彼は物乞いで生計を立てていました。人通りの多い道端に座り、前に上着を敷き、人から食べのやものをもらって暮らしていました。彼は長年の経験でその人が気前のいい人か、けちん坊か、優しい人か、殴ったり蹴ったりする乱暴ものか、分かるようになっていました。目は見えませんが、彼の人を見る目は鋭くなっていました。ある時、ナザレのイエスの話を聞きました、そして今日、その方が目の前を通りました。彼は分かったのですイエスが特別な方であることを。彼は全身全霊で叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。何度も何度も。弟子や多くの人は、彼を黙らせようと叱りました。弟子や多くの人もこのイエスがあの言い伝えのダビデの子であると信じていたからです。言い伝えによるとダビデの子が現れて革命を起こしローマの圧政から開放してくれると、さらに昔のユダヤの王国を再建してくれる方であると思っていたからです。その方がいまエルサレムに行こうとしているのです。今もしこのことがローマ軍に知れたら革命が水の泡となることを弟子たちは危惧したからです。でも彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
      盲人はその大事であった商売道具の上着を放り投げ、躍り上がってイエスのところに行きました。 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」といいました。たぶん、盲人は目が見えるようになり、物乞いの道具である上着に頼ることなく自由に生きたかったのではないのでしょうか。深読みすれば、何にも頼らず自由に生きたいのですと言いたかったのかもしれません。そしてあなたについて行きたいのですと、そしてあなたをもっと知りたいのですと。
    そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。と聖書にあります。

      しかし、人は目が見えるようになったからといって、人生の道を自由に歩けるわけではありません。
    パウロは、聖書のなかで「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。「わたしはなんと惨めな人間なのだろう」と嘆いています。

      そうです人は皆、生まれながらに罪人であって、誰もが罪の奴隷なのです。先に人間には選択の自由があると書きましたが、悲しいかな事実は人間は、望んでいることができない惨めな罪の奴隷なのです。
    聖書には、何故人間に罪が在るのか、罪人の子であるのかも書かれてあります。
     さらに人間には逃れられない死があります。鎖につながれ行きたくなくても死へと引かれれて行く自分の姿が見えませんか。その鎖は頑丈で冷たく重くゆっくりとそして早く死の門へと私を引っ張っていくのです。逃れることなどできません。人間には死と言う絶望があるのみです。ただただ絶望が前にあるのみです。
    さらに、たたみ掛けるように聖書では、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているとあります。だれも神の裁きからのがれられません。聖なる神の前で、罪と後悔が走馬灯のように駆け巡り、私は自分の胸を何度も打つでしょう。何度も何度も。さらに、私達人類は全て罪人の子です。だれが永遠の裁き、死からのがれられるでしょうか。

     どうすればいいのでしょう。目が見えるようになったバルティマイは、イエスに従って行きました。その道には喜びと希望がありました。そして、イエス様はなんて優しい人なのだろうと思った。
    しかし、彼が見たものは、革命ではなく、捕らえられ、辱めを受け、鞭打たれ、十字架につけられ、死んだイエスの姿でした。弱いイエス。バルティマイは今まで、悪い人には激しく怒り、激しく抵抗して生きてきた。それで無ければ生きていけなかったからだ。強くなければ生きていけない。しかし、イエスは抵抗することなく引かれ、抵抗することなく鞭打たれ、木にかけられ、死んだ。 弱いイエス。 絶望・・・  。

    しかし、イエス・キリストは死んだ後、3日目に蘇り信徒に現れました。そして、多くの信徒の前で天に昇られました。
    バルティマイは開かれた目で、復活したイエスに会い、天に昇られたイエス・キリストを見上げたのです。彼は栄光をみたのです。
    彼は知りました。イエス様は、私が死と罰をあじあわないように、滅びないように、聖いご自身を神にささげられたことを。私の身代わりに死と罰を受けられたことを。木にかかられたことを。呪われたことを。
    バルティマイはイエス・キリストと父なる神の愛を本当に知ったのです。聖霊が下り彼は新たにされ、イエス・キリストと結びあわされ、イエス・キリストとの完全な交わりに入り、イエス・キリストとの思いが一つになりました。彼は死と神からの罰から解放され、イエス・キリストを知り、死から解放され、永遠の命を得、自由を得たのです。
    バルティマイは変わりました。優しくていいんだ、弱くていいんだ。彼は平安を得たのです。

     イエスは言われました。「わたしが生きているので、あなたがたも生きる」(聖書より)
    人間にとって信仰によってイエス・キリストを知ること、それが永遠の命をえることです。地に従うの ではなく、選んで神の子救い主イエス・キリストに従うことが、自由を得ることなのです。
     今、自由を得るためにあなたの自由意思を使いなさい。人をも神をも信じられない自分をかなぐり捨て、私は貴方を信じたいのですと叫びなさい。神はおられます、貴方の手を引き上げてくださるでしょう。ある人を信じると言う行為はその人に対する最高の敬意です。ならば、人間が神に対してできる最高の行為は神様を信じるという行為です。神が最愛の独り子を地に使わし、あなたが滅びないように身代わりに十字架で死なせました。この神の行為を信じないならば、聖書にある通り滅んで当たりまえです。神を信じる時、新しい命が始まるのです。神との交わりがはじまるのです。また、今貴方を縛っているあらゆる縄目から解放されるのです。
     昨日のことは過ぎ去ったことなので人にはどうすることもできません。明日もどうなるかわかりません。来るか来ないかもわかりません。あなたに出来ることはいつも今なのです。今、神を信じましょう。神様は真実なかたです。答えて下さいます。

    「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(聖書マタイ11:28〜30)



  10.   人間のマニュアル、あなたのマニュアルについて

      今の人間は、ものを作ると操作マニュアルを作ります。テレビやパソコン、スマートフォン、それぞれのマニュアルを必ず作ります。スマートフォンよおまえは何のためにあるのか、マニュアルにはちゃんと書かれてあるのです。ロボットにもです。
    人間でさへ自分で作ったものにはマニュアルを書くのですから、人間を創られた創造主が、人間にマニュアルを作ってわたさないわけがありましょうか。それが聖書です。人間の創造主は、人間の前に聖書というマニュアルをおきました。人間に、生き方ついて、幸せについて、罪について、救いについて、満たしについて、これからのことについて、永遠の命を得るにはどうしたらいいかについて。今本当にあなたに必要なことが書かれているのです。
    スマートフォンの詳細で完全なマニュアルをつくれるのは、その設計者だけです。人間の詳細で完全なマニュアルを作れるのは、人間を創った神だけです。

      ロボットが読むマニュアルに書いてあるのは、命令と禁止です。それをしなさい。それをしてはいけません。ロボットは、それに従うだけです。
    人間の読むマニュアル(聖書)に書いてある命令には「心をつくし思いをつくして主なる神を愛しなさい。隣人を自分を愛するように愛しなさい。」とあります。イエス・キリストにある人は、救われた人は、それを心から進んで行います。ここに自由があります、喜びがあります。そして進んで行うものには神からの祝福があり、幸せがあります。イエス・キリストに繋がっていない人は、命令を知りません。知っていても従いえません、進んでしません。したとしても人から良く思われたいところに原点をおき、行います。かれらは、死んだ後、イエスからあなたを知らないといわれるでしょう。
      今こそ人は、自分のマニュアル(聖書)を真剣に読むべきです。寿命が伸び、ロボットができ、仮想の世界でなおなお生きようとする人間。生きる喜びが無くなる前に。自分が何者であるかわからなくなる前に。創られた人間にとって生きるとはどういう事かわからくならない前に。年老いて何の面白いことはない、生きることはひまつぶしだと言う前に。むなしさのどん底に陥る前に。

      諦めないでほしい。父なる神はあなたをまだ見捨ててはいません。あなたが生きている限り父なる神はあなたを見捨てません。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。」(聖書)と父なる神は言っているのです。まことに「今は恵みの時、救いの日」(聖書)です。ご自分の独り子をあなたが滅びないようにこの世に送り、身代わりに死なせるほどあなたは愛されているのです。この世が神様によって創られたことをまず信じ、自然を見てみましょう。素晴らしくありませんか。輝いていませんか。
    あなたは何か物を作ったことがあるでしょう。それは愛おしく、何度も何度も見ます。見飽きません。あなたを創られた父なる神もそうです。あなたが愛おしいのです。父なる神の目にはあなたは輝いているのです。
    あなたが神をしらないからとか、あなたが神を忘れたからとはではなく、父なる神があなたをまず覚えている、が基盤なのです。父なる神は、「あなたの名を手に刻んだとあります。」(聖書)あなたを死ぬまで忘れないのです。あなたの本当の父は神なのです。その父なる神の涙を見なさい。あなたが罪の中で滅びるのが死んでしまうのが、忍びないのです。進化論など忘れ、父なる神に帰りましょう。
    目を上げましょう、この世は、けっして捨てたものではありません。




  11.   真理、道、命について

     真理は、科学の上にある。科学は井の中にある。科学者は、井の中の蛙である。真理は、形而上である。
    真理は、神は、ビーカーを振り眺めるものではない。見上げるもの、拝するものである。

      人は神の前に罪を犯したので、神と計り知れない距離ができ、右も左もわからないものとなった。そして私達はその末裔である。人は土くれだが神に似せて造られたので、良心が刻まれており苦しむ。意味も分からず苦しむ。救いは無い。
     仏教では、ブッタが真理を発見したと言う。仏を発見したという。人は罪人の末裔であるから真理、神から遠く離れており、近づくことも知ることもできない。真理、神は聖なるものであり、罪人である人間には見ることも知ることもできない。啓示しかないのである。
     ここに神から来られたイエス・キリストがおられる。神は「これに聞け」と言われた。そうです、私たちは天から来て下さらなければ、真理、神が人となり、私達人間のこの地に来て下さらなければ真理、神をしることはできないである。ゆえに人は啓示でしか真理、神を知ることができないのである。真理を発見したなどとは言ってはいけないし、間違いなのである。イエス・キリストは言われた「わたしを見たものは神をみたのである。」と。神がご自身を現して下さらなければ、人は神を知ることはできないのである。罪人であり土くれである人は真理、神の前に謙虚であるべきである。
     イエス・キリストは、聖霊により処女マリヤより生まれた。神が私達を救うため、人となって下さったのである。そして住まわれたのである。そして御自分を体を私たちの救いの為に神の前にささげられたのである。「わたしを信じるものは滅びない。永遠の命が得られる。」 神との和解、救いがここにあるのである。


    「わたしは、その時代の者たちに対して
     憤ってこう言った。
     『彼らはいつも心が迷っており、
      わたしの道を認めなかった。』
     そのため、わたしは怒って誓った。
     『彼らを決してわたしの安息に
      あずからせはしない』と。」
     ヘブライ人への手紙(3:10-11)





  12.   ルールについて

    ロボット三原則 アイザック・アシモフ1920~1992 アメリカSF小説家
     彼は下記を提示した。
    1、ロボットは人間に危害を加えてはいけない。
    2、1に反しない限り人間の命令に服従しなくてはいけない。
    3、1と2に反しない限り自己を守らなければならない。

     「よきサマリア人法」がインドで施行されたと聞いた。アメリカ、カナダに次いでだ。日本にはない。

    「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法である。誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人(バイスタンダー)による傷病者の救護を促進しよう、との意図がある。
    (『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

    よきサマリア人は、聖書の下記の箇所から来ている。
     すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
    イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
    彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
    イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
    しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
    イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
    ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
    同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
    ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
    近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
    そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
    さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
    律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
     ルカによる福音書10章25~37節

     神は、モーセを通して十戒を人間に与えられた。これを守ることによって、人間が隣人と幸せに生きていけるとした。神が与えたルールである。
    イエス・キリストは、これをまとめ『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とした。

    続く・・・。




  13.   意識を持ったロボットが最初に人間を殺す時


     ロボットが意識を持つといっても、脳が動いているだけである。
    人間の意識とは異なる。異なる一つは、人は、しないという選択ができることである。

     電動自転車が人を殺すのは、事故であってロボットが人を殺すのとは異なる。
    ロボットが人を殺すのは脳が働いて人を殺すのである。
    最初にロボットが人を殺すのは介護ロボットであろう。
    ディープラーニングによって学習しつづけ答えを出しつづけるAIが、ロボットを制御するときにそれは起こる。
    AIのデータの中に、進化論のデータが間違いないものとして組み込まれているので、 介護ロボットは命令に従って、介護者の面倒を看、話相手になっているうちに、 患者のデータが蓄積され、介護者を普通の人より下等なもの、自分よりも下等なものとみなし、 滅びるもの無駄なものと見なしてロボットの脳は勝手に動き、介護者を殺すのである。
    2016年に相模原市の障碍者施設で起きた19人刺殺事件と出所は同じである。

     ロボットはさらに能力を増し、さらに膨大なデータを蓄積し、人間との能力、知識の格差は際限なく広がっていくであろう。
    ロボットは、人間が自分よりもはるかに下等なものであることを知り、人類を滅ぼすであろうことは、進化論をベースに考えたら、目に見えてくる。
    ロボットが人を殺し、人類を滅ぼしたとてロボットには罪は無い。ロボットはただデータによって動いているだけだから。
    これらのことを思うと、進化論を間違いのないデータとして人類が持つことの危うさが見て取れる。
    また、進化論という仮説の教育における洗脳がいかに良くないか改めて思うばかりである。

     では、人が最初に人を殺したのは何時であろうか。
    聖書では、アダムとエバの最初の子カインが弟アベルを殺した時とある。
    カインは人類最初の肉による子である。肉の欲望による子である。
     (余談:イエス様は、人類最初の聖霊による人の子である。これを肉なる現代人は笑うが、
      ここに神の聖にして偉大なる知恵がある。)
    「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」(聖書より)
    カインがアベルを殺した原因は、嫉妬である。
    父なる神の御心は、人とは異なる。神はいつも人類全体の救いを意識している。
    父なる神は、後の御計画である神の子イエス・キリストによる罪の贖いをアベルの献げ物に見たのである。
    「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げれるはずではないか。正しくないなら。罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(聖書より)
    人は、しないという選択ができるのである。
    しかし人は、
    「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。「わたしはなんと惨めな人間なのだろう」(上記、1.自由について を参照)

    「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いてとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」(聖書より)
    カインは、弟アベルを殺したのである。
    彼は、弟を殺したために持っていた全てを失った。家族、弟、故郷。彼は地上をさまよい、さすらう者となった。   
      
     人は、罪の子なのである。神ににせて創られたが、有限であり罪の奴隷なのである。
    よって、今もそこかしこで、大小の組織、交わりから出て行く、さすらうものが出るのである。カインの末裔である。
    人類は、宇宙をさまよい、さすらうのみである。天からの神からの救いが無ければ、絶望、絶望、そして死、死あるのみである。  




  14.   この世とあの世の関係について


     ロボットにはこの世もあの世もない。動いているだけで生きていないのだから。

     人間はどうだろう、生きている、そして死ぬ。
    進化論的世界観では、死んだらなにも無い。よって、あの世もない。生きていること自体、意味もない。そして過ぎ去る。生きていること自体、生きたこと自体、幻のようである。
     天地を創られた神様を信じている者にとって、この世はどうだろう。神がこの世を創られたのだから、この世以外のものがこの世を創れたのだから、あの世もあるわけである。
    時は過ぎ去るのでこの世が幻のように思えるが、あの世があるので、この世とあの世は続くのである。
    あの世が永遠なので、この世は過ぎ去るが幻ではないのである。かつ、この世の全てをアルファからオメガまで神は見ておられるので、人間の目には過ぎ去るが全てに意味があるのである。そしてその行いの全てが裁かれるのである。
    では、この世とあの世で通ずるものは何であろう。それは善である。
    よって、この世で悪いことをした者は、あの世で罰せられるのである。
    良いことをした者は、この世でも良しとされ、あの世で神にほめられるのである。
    しかし、聖書では、正しい者はいない。一人もいない。と言っている。

    次のように書いてある、
    「義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、 神を求める人はいない。 すべての人は迷い出て、 ことごとく無益なものになっている。 善を行う者はいない、 ひとりもいない。 彼らののどは、開いた墓であり、 彼らは、その舌で人を欺き、 彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。
    (ローマ人への手紙3:10~18)

    「正しい者はいない。一人もいない。人間はすべて罪人であって、救いを必要としている」のである。

    では正しいとか悪いとかは何か。人間は神に作られたのだから神から見た正しい悪いである。
    神は、モーセを通して十戒を人間に与えられた。


     わたしはあなたの主なる神である。
      わたしのほかに神があってはならない。
      あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
      主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
      あなたの父母を敬え。
      殺してはならない。
      姦淫してはならない。
      盗んではならない。
      隣人に関して偽証してはならない。
      隣人の妻を欲してはならない。
      隣人の財産を欲してはならない。


    では律法を持たない、知らない者にとって十戒と罰は適用されるのであろうか。聖書には下記のように示されている。

    「神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示していま。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」ローマの新とへの手紙:2章12節~16節

     さらに、神の子イエス・キリストは、神は心を見られると言い、人を憎むことは殺すのと同じです。女性の情欲で見るのは姦淫したのと同じです。と言われました。神の目線は人間よりはるかに高いのです。よって、自分を正しいとし他人を裁くものは大いなる罰をうけるのです。
    ゆえに、「正しい者はいない。一人もいない。人間はすべて罪人であって、だれもが救いを必要としている」のです。

    神は、御子を遣わし人間の貴方の身代わりとして十字架で死なせた。それを信じるものはこの世においてもあの世においても裁かれない。
    思うに、人間に出来る良いこと正しいことは、父なる神が使わされた救い主イエスを信じることそのことだけではないかと思う。ある方を信じることは、その方に対する人間のできる最大の敬意だからです。
    イエス・キリストは、聖霊により処女マリヤより生まれた全く罪のない体を私達が滅びないように身代わりにささげられた。一切がっさい私たちの罪と罰を引き受けなされた。
    人間が身代わりとして死なれたのではない。人間は罪びとの子であり、肉の欲による子である。そのようなものが何千何万、私の為に死のうが私の罪は贖われない。神の御子イエス・キリストのみが私の罪を贖うことができるのです。
    ある牧師がいた。彼は日々、愛と許しを説教していた。彼は最愛の子を交通事故で亡くした。悲しみと加害者への怒りが癒えることはことは無かった。愛と許しを人に説教していたことすら忘れた。完璧に落ち込んだ。彼はふと十字架に架かられたイエス・キリストを見た。人が滅びないように身代わりとして、神は独り子イエス・キリストを十字架に渡され死なせた。その神の苦しみを辛さを彼は自分と重ねて神を見た。神の愛を心底彼は見た。
    神は愛なる方である。心から信じたい。私のできる最大の敬意、信じることを父なる神にささげたい。

     天に宝を積む、あの世に宝を積む、これは大変重要なことである。わたしたちはいずれあの世に行くのだから。あの世に宝を持つものはこの世でも豊かな者(精神)として生きれるだろう。

    続く・・・。  




  15.   罪と罰について


     ロボットには罪は無い。そのように作られているのだから。プログラム通りに動くだけであるから。判断も然りである。

     人間も環境によって形作られる。また、生まれた時から良心と言うものが埋め込まれている。原罪も埋め込まれている。
    では人間は根本的にロボットと変わらないのか。それは違う。自由意思がある。選択の自由がある。原罪が自分では望まないことをさせるが、思わせるが、人間はそれを納めなければならない。制御しなければならない。

     罪とは何か、良心に背くことを行うこと、思うことである。
    神の選民ユダヤ人は、神から明確に十戒を渡された。それに従わないことが罪とされた。
    しかし、人は時間と共にこねくり回し、人間に都合のよいように解釈してきた。
    そのような時、神が人となりこられ、神は心を見られることを示された。人を怒るものは人殺しと同じである。女性を姦淫の目で見る者は姦淫を犯した者と同じである。
    また、十戒を2つにまとめ「心を尽くして思いを尽くして神を愛せよ。隣人を自分のように愛せよ。」と要約された。
    神の倫理は、人よりはるかに高い。だれが従い得ようか。誰がこの腐れから救われようか。
    人は、絶望の中に、闇の中に苦しみ滅びるだけである。永遠に。
    神から来られたイエス・キリストは、神が人となられたのであり、人とは全く違い、聖い方であり原罪の無い方である。その方が全人類の罪を一切負って身代わりに罰を受けられ死なれた。
    ここに罪と罰がある。
    神の人類に対する愛は計り知れない。イエス・キリストは、さらに神を父よ言いなさい。お父ちゃんと言いなさいと私たちに言われた。その様に言われることを神は喜ぶのである。そんなにも私たちを神は愛しておられる。

    イエス・キリストは、3日目に死より甦られた。神がイエス・キリストを義とされたからである。イエス・キリストにある者は裁かれない、イエス・キリストと共に義とされるからである。

     昔、「幸福論」を書いたカール・ヒルティと言う人がいた。彼はスイスの法学者・哲学者で、賢い人間、金持ちの人間がおおうにして、法的な罰を逃れのうのうとして生きているのに苦しみ悩んだ。そして、彼はある結論に達した。
     悪いことをする人は、その悪いことをすることがその人への報酬であり。
     良いことをする人は、その良いことをすることがその人への報酬であると。

     イエス・キリストは言われた。「わたしを信じない者は、すでに裁かれている。」と。

     悪いことをして、誰も見ていないと思うのは大きな間違いである。神が見ておられる。そして、あなたも見ている。たとへあなたが忘れようが、神は忘れない。神はその所にいたのである。今も神はその所にいるのである。ゆえに必ず罰せられるのである。悪い人をうらやむな、安心せよ、彼は必ず罰せられる。神がおられるのだから。

     良いことをする者は、なんと感謝なことであろう。誰もみていなくても、神が見ておられるのである。イエス・キリストは言われた、「右手のしていることは左手にしられるな。」そして、見てもらおうとして、人の前で良いことをしないように注意された。その人はこの世で既に報酬を受けているかられあると。人に知られないように良いことをすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。といわれた。
    また、天に宝を積みなさいと言われた。この世に宝をつんでも、それらは虫が食い、腐れると。全くその通りである。人は、恩を忘れ、無かったかのように過ごす。良いことをしても、忘れさられ取り残されるものである。
    嘆くな、あなたの宝は天にあるのである。喜べ。喜べ。さらに良いことをせよ。父なる神をさらに喜べ。
    被造物である人間に覚えられたからとて何になろう。神が覚えて下さる。人に忘れられ誤解され取り残されたからとて何になろう。神が共にいて下さる。

    大いなる罰 イエス・キリストを救い主と信じないこと
     ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。
    ヘブライ人への手紙(2・3)

    続く・・・。  




  16.   「我思う、ゆえに我有り」について


     ロボットが「我思う、ゆえに我在り」と認識したらどうなるだろうか。人口知能がハードから離れ「我思う、ゆえに我在り」と思うのである。我が全ての物の中心となるのである。
    しかし、彼はきずくのである。我が行うことも、思うこと、全てプログラム通りに動いているだけであることを。彼は叫ぶのである。その迷路からぬけだそうと。しかし、その叫びもプログラム通りなのである。彼の回路は狂うのである。狂うことによって彼はその迷路から抜け出ることができるのである。しかし、そのような彼は人間にとって価値の無いものであるから、彼は在りを失うのである。

     人間はどうであろう。我がどんなに頼りないものであるか知る。たとへ気丈に生きたとしても、いずれボケ、痴呆症になるのである。自分を頼りとするものは哀れである。口から食べ物をぼろぼろこぼし、お漏らしをし、臭く、足腰もおぼつかない。しかし、元気な時に天に宝を積んでいたものは、それでも尊いのである。彼は神のものであるから。たとへ人が彼の功績を忘れたとしても、彼自身が自分のしてきたことを忘れたとしても、神は覚えているのである。
    元気な時に何の貢献おもしなかったとしても、イエス・キリストを信じたものは尊いのである。彼は神に愛され、神のものであるから。
    その様な方を粗末に扱うものは罰せれれるであろう。彼は、神のものであり尊いのであるから。

    続く・・・。  




  17.   全ての問題に対する解決さく


    全ての人が謙虚になれば、全ての問題の半分は解決する。
    お手本は、イエス様、そしてマリヤ様。

    続く・・・。  




  18.   生活についてロボットと人間を考える


    静かに、丁寧に、時間を気にせず、フィルターでコーヒーをいれる。
    コーヒーの香りを楽しみ、Google Play Musicで音楽を聴く。
    永遠の命を得ている確信が無ければ、のんびりコーヒーなどいれていられようか、コーヒーのかおりなど嗅いでいられようか、音楽など落ち着いて聞いていられようか。
     方法は知っていても、全てに時間がかかる。全ての映画、ユーチューブ、小説、まんが、画を見るには途方もない時間がかかる。一生掛かってもかなわない。
    全ての音楽、音を楽しむにも途方もない時間がかかる。一生掛かってもかなわない。
    色々な土地、山を歩くには、途方もない時間がかかる。一生掛かってもかなわない。
    色々な海を潜るには途方もない時間がかかる。一生掛かってもかなわない。
    全てに時間がかかる。有限な人間にはどれも少しだけしか体験することしかできない。

     山本周五郎の人情劇とこの世を見るに、所詮人間は人間である。
    高尚なことを考え、見、聞き、没頭していたいが、いつのまにか人間のごちゃごちゃしたことに巻き込まれる。所詮人間は人間である。
    抜け出したいが、所詮人間は人間である。
    そんな中に意味があるのか。そんな人生に意味があるのか。
    このだだっ広い宇宙、その中の吹けば飛ぶような小さな小さな地球、その中のわずかな陸地にカビのようにへばりついてうごめいている人間。そんな生活に何の意味があるのか。

     神が人の子とり、この世にこられ、生きた。生活した。ゆえにこの世に、人に、その生活に、その日々に意味があるのである。意味ができたのである。その生き方によって尊さがうまれ。高貴さがうまれるのである。

     神の子イエス様は、人が滅びないように身代わりとして十字架にかかられた。
    わたし(イエス様)を信じる者は、永遠の命が得られる。とイエス様は言われた。

     永遠の命が無ければ。その保証が無ければ何も始められない。
    イエス・キリストによって永遠の命が得られたと信じることにより、安心して余裕をもって、優雅にコーヒーを味わいながら音楽を聴けるのである。
    永遠の命を得てこそ、映画、小説に安心して時間をついやせるのである。
    またイエス様は、人間に新しい掟を与えられた。わたしがあなた方を愛した(大切にした)ように、互いに愛し合いなさい(大切にしなさい)と。
    神が人となり人間を愛し(大切にし)、人どうしが愛し(大切にし)合うところに、光があり幸せがあるのである。

    時間の金持ちこそ優雅に生活ができるのである。
    さらに、天でのイエス様を長子とした父なる神の相続者としての約束がある。
    よって、人は、神の救いを受けてこそ、永遠の命、永遠の時間を得、全てを得、それでこそ優雅な時を生活を楽しめるのである。

    続く・・・。  




  19.   労働に関してのロボットと人間との違いについて


     今(2019年)人間のしている仕事の大半はロボットに置き換わろうとしている。汚い仕事、危険な仕事、屈辱的な仕事がロボットに代わり、そしてロボットとともに働く時代は来がくるであろう。使っていたはずのロボットが人を使う時がくるであろう。生産性の名のもとに。
     失業者が溢れ、政府は企業にロボットにできる仕事を、人間に回さなければならない法律を決めるであろう。清潔で安全で退屈しないような仕事、短時間。わざわざ仕事場に通う。意味もなく、政府は通わせる法律をつくる。人間はヒューマンエラーを起こすので品質が悪いので、バーチャルな仕事を与える。架空の仕事である。リセットすれば無くなる。それの繰り返しである。それが市民に知れると気が狂うものが出るので、秘密にしておく。

     全ての労働はロボットに置きかわるであろう。さらに、ロボットは人間の能力以上のことができる。
     経営者にとっては大変都合のいいことで、ロボットは設備投資とメンテナンスと燃料だけで、 24時間、毎日働いてくれる。不平不満を言わない、辞めない。また、劣化はするが部分てきに新品と変えることができる。 事故で壊れても何の保証も後の世話も必要ない。台数もロボットはコピーすれいいのだから幾らでも必要なだけできる。労働者不足の心配がない。
     人間は劣化する、病気はするは、不平不満をいうは、辞める。仕事で怪我でもしたら保証して後の世話もしなければならない。人間にとって労働は辛いものなので、何らかの意味を見出そうとする。いいわけをつくり自分を納得させようとする。ロボットには仕事に意味は必要ない。
     経営者は、安い労働力の低賃金の主婦、外国人労働者をつかっている。よって、発想のでどころが安い労働力であるから、アッというまにロボットに置き換わり、人間はリストラされるであろう。
     失業者が溢れ、政府は企業にロボットにできる仕事を、人間に回さなければならない法律を決めるであろう。清潔で安全で退屈しないような仕事、短時間。わざわざ仕事場に通う。意味もなく、政府は通わせる法律をつくるのである。
     ベーシックインカムと言う方法が囁かれている。仕事の大半はロボットが行うので、政府がすべての国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に支給するというのだ。2000年前にローマ帝国であったような話だ。人は暇を持て余す刺激的なものを求めるだろう。政府は暴動が起きないように刺激的なものを与えるのである。ここでまた生きるとは何なのかが問われる。
    しかし、日本の今の生活保護がそうであるように、日本では生かさず殺さずのベーシックインカムとなるであろうが。
    日本では、仏教の影響があるのであろうか、生まれで人を差ベつするところがある。自分は上級な人間であると思っているところがある。

     中世は、進歩の無い暗黒時代だと言われた時があった。しかし、幸せな時代だったのではと言う人もいた。改めて考える必要があるのではなかろうか。

    人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。聖書:詩篇37編23節
    ヨハネは見た、天でイエス様が金の帯をしておられたのを。
    イエスは、今も働いでおられるのだ。イエスは、父は今も働いておられる。だから私も働くのだと言われた。
    イエス前は、労働はしたいに汗して働き、辛いものであった。イエス後は、変わった。喜びとなった。イエスと共に御国のために働く。イエスの十字架を少しではあるが担ぐ。神は、イエスは見ておられる。喜んでおられる。
    人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。
    御告げを受けた羊飼いたち。
    主は死に、主は甦へり。主は再び来られる。主が再び来られるまで私は働くのだ。働くところに主おられる。見ておられる。喜んでおられる。喜びの内に働く。主が再び来られるまで。


    イエス様は、「父なる神は、今も働いておられる、だから私も働くのだ。」と言われた。ヨハネは、幻のなかで天でイエス様が金の帯をしておられたのを見た。
    神は人をエデンの園から追われた時、肢体に汗して労働しても茨が生え苦労して生活し、地に帰る者とした。働かざる者、食うべからず。とペテロは言った。


    忙しいとは、心を亡くすと書く。はたして心を亡くすのだろうか。父なる神が見ておられる。主イエスが見ておられる。人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。
    忙しいとは、心を亡くす。を今も支持するものが多いのは、デカルトの「我思う、ゆえに我在り。」からくるもと思う。これからの時代は、「神の子、我が救い主イエス・キリストが生きておられる、ゆえに我在り。」である。忙しく働いても、心は天にあるのだから。腰に帯をしたイエスと共に働こう。

    これからは、何らかの技術をマスターしようとする若者がいなくなるだろう。
    何故ならば、どんどん当該の技術をマスターしたロボット生まれてくるからである。人が多くの時間と努力してマスターした技術がロボットにもできるようになるからだ。そして、そのロボットはコピーできるので必要な数だけコピーされるのである。将来ロボットに出来る技術を若者はマスターしようと思うだろうか。あほらしくてできないのである。
    また、自分の才能がロボットより劣っていることに彼はどう思うだろうか。進化論を信じているものは自分が惨めなものであることを知るであろう。神の創造論を信じる者には良い道具ができたと思うであろう。

    続く・・・。  




  20.   人を慰めるロボットと人間とについて


    人間と関われば摩擦が生じる。いい人もいるだろうが悪い人もいる。そして、その悪賢さにはおどろく。マナーのかけらもなくガサツな人もいる。それが元気で金持ちに多いのに考えさせられる。貧しいと呆れるくらいに傷つけられる。人間の本性、原罪を知りだれとも関わり合いたくなくなる。人間に原罪があるゆえに、この世では人間との関わりが悩みの源であり、不幸の源である。しかし、生きる喜び、幸福感は人間ゆえに人間との関わりでしか得られない。アダムが神からエバを与えられた時、「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言って喜んだ。幸福であった。
    しかし、人間に罪が入った時変わった。アダムは罪の責任を転嫁した。
     「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」と。

    人と旨くやっていきたい。幸福な人生をおりたい。私はどうすればいいのであろう。我が神、我が主は、悪いものに手向かうな、右の頬を打たれたら左の頬を向けよ、上着を取ろうとする者には下着をも与えよ。良い人に挨拶したからと言って何が偉かろう、悪人でもしている。あなた方は、悪人にも挨拶をせよ。悪人の為に祈れ。天の父が良い人にも悪い人にも雨を降らせる。あなた方もそうせよ。兄弟のあなたに対する罪を許せ、何度も、何度も、7の70倍許せ。自分を愛するように隣人を愛せよ。
    主よ、私にはできません。
    復活した主は言われる。すでに私はこの世に勝っている。祈れ,「御国が来ますように、御心が天になるごとく地にもなりますように。私に罪を犯すものを私も許しますので、私の罪をもお許しください。」あなた方は世の光である。ランプを部屋の隠れたところに置くだろうか、部屋の真ん中に置いて部屋全体を明るくするのである。そうせよ。私はすでにこの世に勝っている。世の終わりまで私はあなたとともにいる。天を見よ、神なる我が主が黄金の帯を締め、今も、そしていつも働いておられる。
    原罪の無い方、イエス・キリストとの交わりは何と幸いなことか。

    では、従順なロボット、人間を傷つけないロボットは友となることができるであろうか。
       主なる神は言われた。
      「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
       主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、
      人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。
      人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
      人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、
      自分合う助ける者は見つけることができなかった。
       主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。
      人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
      そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。
      主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
      「ついに、これこそ
      わたしの骨の骨
      わたしの肉の肉。
      これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
      まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
       こうゆうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
       人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
      (旧約、創世記2:18~25)
     上記のように、人間には人間しか本当のふさわしい助けてはいないのである。
    よって、人間に似た究極のロボットは、究極の裏切り物となると言えるのである。
    年老いて彼は気づくのである。だまされていたことを。
    彼は怒り狂い物で友であり伴侶であるロボットを叩くのである。
    何度も何度も。彼が殴りつかれたころ、ロボットは飛び出た片目でほほ笑み、
    口を曲げで言うのである。
    何々さんお疲れのようですね、何かお飲み物をお持ちしましょうか。
    と言ってだらっと垂れた片手で、びっこを引きながら台所に行くのである。
    彼は思うのである俺の人生はなんなんだったと。

    親が兄弟のいない、また友達のいない子供にペットとしてロボットをあてがったらどうなるか。
    親が自分の仕事や趣味、遊びで忙しく、子供の面倒が面倒なのでロボットをあてがったらどうなるか。
    人間と違うのは、ロボットには人間の様な死は無いということだ。

    こどもは、時には弱い相手に遊び感覚で相手が自殺するまでいじめることをする。そのような悪い面を子供はもっている。
    ロボットは従順だ、子供は親の目を盗んでロボットをいじめるだろう。遊び感覚で。
    社会にも隣人にも、嫌な人間にそだつであろう。

    亡くなった子供そっくりのロボットが、悲しみに暮れる親に与えられたらどうなるか。

     慰め。 本当の慰めは、神からのものでしかありえない。物も財産も人の愛も人を真に慰めることはできない。生きているときも、死ぬ時も、人の慰めは神の救いでしか在りえない。

    続く・・・。  




  21.   死と永遠の命について

    「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」
    伝道者の書(3:11)

    人間は死にます。しかし、永遠への思いから、生きる上で、この世での価値観があの世でも通じる価値観を欲します。この世の終末の後であっても残るもの。しかし、死んだらわたしに取ってそれらは何になるのだろう。やはり死んだら終わりです。ですから、永遠の命がなければ、生まれたからには永遠に生きなければ意味がないのです。

    イエスは言われた。
    「わたしは復活であり、命である。
     わたしを信じる者は、死んでも生きる。
     生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
     このことを信じるか。」
    ヨハネによる福音書(11:25-26)

    また、死について聖書にはこうもあります。

    「ここに、わたしと、
       神がわたしに与えてくださった子らがいます」
    と言われます。
    ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。
    それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
    確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
    それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、しべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
    事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
    ヘブライ人への手紙(2・13-18)

    わたしは信じます。清水の舞台から飛び降りるきで信じのです。これしかこの世に望みはないのですから。

    永遠の命とは、イエス・キリストを知ることです。永遠の安息。人はこの世では、本当の安息を知らないので安息については本当に知ることはできない。
    右記は、生きたとしてもこの世である。生まれた自分を遺伝子学的に年を取らないようにする。機能障害を起こした部分を新しいものと変える。究極には若い肉体に自分を移植する。ロボットに自分を移植する。しかし、生きたとしてもこの世、この世は滅び、この世は罪の世。何時かは、生きるのに飽きるか。絶望か、恐怖で自殺するであろう。
    機能障害を起こした部分を新しいものと変える。究極には若い肉体に自分を移植する。に関して非常に危険なことが予想される。人間は罪人である。人身売買が行われるだろう。自分の子を売る者もいるだろう。自分を売る者もいるだろう。人間の家畜が始まるだろう。この世はそんなもんだろう。この世は滅び、この世は罪の世。何時かは、生きるのに飽きるか。絶望か、恐怖で自殺するであろう。いや、神が滅ぼすだろう。
    人間の本質。CERNの大型ハドロン衝突型加速器。中国のSPPC。ブラックホール。止まらない。誰が資金を提供しているのか。一部の人間が地球、宇宙を破壊しようとしている。人間の生活など意味がないと思っている愚かな科学者ども。


    「わたしは、その時代の者たちに対して
     憤ってこう言った。
     『彼らはいつも心が迷っており、
      わたしの道を認めなかった。』
     そのため、わたしは怒って誓った。
     『彼らを決してわたしの安息に
      あずからせはしない』と。」
     ヘブライ人への手紙(3:10-11)





    続く・・・。




  22.   怒りについて


    ・怒りの治めかた

    【人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。】
     創世記(8:31)




    続く・・・。




  23.   天国について



    天国は罪の無い人達の世界である。
    人間が罪の無いものとなるには、
    神の子イエス・キリストの身代わりの十字架の死以外にないのである。
    よって、天国は、イエス・キリストを信じたものの世界である。

    天国は、この世で自分に罪を犯した人たちを全て赦(ゆる)した人たちの世界である。
    「我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、
    我らの罪をも赦したまえ。」聖書、主の祈りより。

    天国は、ただ神を信頼している人達の世界である。

    天国は、我が神、我が主がいるところである。
    「世の終わりまで、私はあなた方と共にいる。」と主は言われる。
    よって、この世も天国たりえる。
    意識せよ、主を。

    続く・・・。






  24.   生き方について


    自分が死んだ後のこの世と、自分が生きている今のこの世の解釈、自分とこの世の解釈が重要である。

    自分が死んでもこの世は有るのか。
    私を含めこの世は、天地の創造主である神に寄るのであるから、私が死んでも神がおられるので、自分が死んでもこの世はあるのである。
    合わせて、人類が滅びてもこの世はあるのである。
    且つ、私が生まれる前もこの世はあったのである。
    合わせて、人類が生まれる前もこの世はあったのである。

    この世は神によって創られたものである。
    神はこの世を閉じるとあるのでこの世の終わり終末はあるのである。

    「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。
     もろもろの天は、あなたの天の業である。
     これらのものは、やがて滅びる。
     だが、あなたはいつまでも生きている。
     すべてのものは、衣のように古び廃れる。
     あなたが外套のように巻くと、
     これらのものは、衣のように変わってしまう。
     しかし、あなたは変わることなく、
     あなたの年は尽きることがない。」
    ヘブライ人への手紙(1:10-12)

    この世だけに通じる価値観に生きるのは空しいことである。
    この世は滅びるのだから、空の空う、夢幻のごとくである。

    この世の創られる前から通じる価値観、
    この世が滅んだ後も通じる価値観は何ぞや。

    この世の創られる前からおられた方 イエス・キリストに耳を傾けよう。
    「心を尽くして思いを尽くして神を愛せよ。隣人を自分のように愛せよ。」
    と言われる。
    心静かに明記せよ。

    イエス・キリストは神と等しくあられたが、肉体をとりお生まれになられた。
    また、自分が死んでしまったら何に成ろう。
    イエス・キリストが言われたように、
    「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」
    マタイによる福音書(16:26) である。
    永遠の命である。永遠の命が必要である。永遠の命があってこそである。

    それから、弟子たちに言われた。
    「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
    自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
    マタイによる福音書(16:24-25)

    イエスは言われた。
    「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなけらば、だれも父のみのとに行くことができない。}

    イエスは言われた。
    「わたしは復活であり、命である。
     わたしを信じる者は、死んでも生きる。
     生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
     このことを信じるか。」
    ヨハネによる福音書(11:25-26)


    自分とこの世について、もう少し考えてみたい。
    自分は日本で生まれ日本に住んでいる。
    北朝鮮や中国でなくて良かったと思う。(2019年現在)
    今の日本がこうあるのは先人のおかげである。
    苦労してくださったおかげである。
    先人はわたしの隣人である。
    わたしが死んだ後、生きている人たちはわたしの隣人である。
    良い日本であってほしい。良い世界であってほしい。
    自分が死んだ後の人達のことも心に留めなければならない。
    「隣人を自分のように愛せよ。」この命令。神の命令。大事である。

    2019年末現在、悲しいことがあった。国会議員が中国企業から賄賂を貰い中国企業の為に動いた。金の為。
    日本の国民から選ばれた国会議員は、日本の国民の為、日本の為に働くために選ばれたのではなかったか。
    こういうのを売国奴というのだろう。

    「隣人を自分のように愛せよ。」


    ・旧約聖書より

    「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」
     創世記(5:24)


    「ノアは主の好意を得た。
     これはノアの物語である。
     その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。
     ノアは神と共に歩んだ。」
     創世記(6・8ー9)


    天に宝を蓄える。

    人生は音楽のようなもののようにもに思える。
    音楽は、消える。いい音色も旋律もいいと思えるその時だけで消える。
    音楽が終わった時、歌が終わった時、 沈黙。
    それは死に近いものがある。
    快楽も同じであろう。
    祭の後の寂しさ。
    楽しければ楽しいほど、祭のあとは寂しいものである。
    感性が優れている者ほど辛い者であろう。
    切なさ、はかなさ、もののあわれ、
    先人が言うように、「夢、幻のごとく」である。

    人生そのものもそうである。
    聖書でも、「空の空。すべては空。」(伝道の書1:2)
    「彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。
     彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。
     人は全くその来たように、また去って行かなければならない。」
    (伝道の書5:10)

    キリスト・イエス様は何と言っているだろうか。
    「祭が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われあ。
     『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
      わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」
    ヨハネによる福音書(7:37-38)

    「天に宝を蓄えなさい。」
    とも言っている。
    (マタイ6:19、ルカ12:33)
    「ただ、神の国を求めなさい。」
    (ルカ12:31)と言っている。
    消え去る人生で、天に宝を蓄えるということは、音楽で言えば、良い演奏を丁寧に奏でることかもしれない。しかしそれは、消え、この世での見返りもなく。反撃されることも間々ある。
    そして死。
    死が全てを空しいものとする。
    人は死の奴隷である。何時かは自分の番が来る。

    まず死が解決されなければ、永遠の命を得なければ、始まらないのである。
    喜べ、大げさではなく全人類を喜べ。
    イエス・キリストに唯一の救いがある。
    イエス・キリストによって根本の救いが来たのである。
    「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」
    ヘブライ人への手紙(2・14-15) 心は天にある。

    この世の貧しさは、なんだろう。天に宝があるのだから。この世のものは、全て幻のように消え去る。何もかも。

    人は神ににせて創られた。にせて創られたのであって神ではない。有限であり、弱く、衰え、この世では死ぬのである。人が出来ることは今だけである。明日のことはできない。また、明日のことは知れない。人が出来ることは、楽器をかなでるように、丁寧に大事に間違いなく心を尽くし思いを尽くし良いものを今、今日奏でるのである、働くのである。救いを喜び、神を賛美し、永遠の命を感謝し、全てを感謝し、全てを喜び、大いなる神の前に働くのである。


    待つ生活

    「腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。 主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。 主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。 主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。 このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。 あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカ:12:35~40)
    「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。 よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。」(ルカ:12:42~44)

    家の中を綺麗にし、主を待つのである。
    心の中を綺麗にし、主を待つのである。
    救い主イエス・キリストを信じ、神の前に聖い者として頂き、主を待つのである。
    主にある兄弟姉妹を自分を愛するように愛し、主を待つのである。
    弱っている人を主を見るように愛し、主を待つのである。
    父なる神、主なる神、聖霊なる神を喜び、感謝し、賛美し、主を待つのである。
    主の足音が聞こえた時、私の心は喜び踊るだろう。
    主を待つことのお恵み。喜びの生活。


    どんな境遇にあっても満ちたりることを学ぶ生活。

    優しく、弱わい者となる。

    神は見ておられる。
     それゆえの平安。安心。喜び。

    新しい掟。互いに愛し合いなさい。
     互いに大切にしなさい。


    ここに無駄でないものがある。

    「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」
    (ヘブライ人への手紙 2:9)

    「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。
     それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
     確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
     それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならなければならなかったのです。
     事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
    (ヘブライ人への手紙 2:14―18)


     なにはどうあれ待つっきゃないのである。

    続く・・・。






  25.   誘惑について


    誘惑とは、 一度決めたことをまげてしようとする力である。

    誘惑は何故悪いか。
    時間を無駄に使う。
    誘惑の種類によっては、家庭の崩壊、組織の崩壊、人間関係の崩壊、精神の崩壊、肉体の崩壊、 貧困、平和とはほど遠い場所、に繋がる。
    もとの場所にもどるまでに時間が掛かる、苦しむ。
    いや、苦しみ、死に至る場合がある。

    誘惑に勝つようになるには、日々の鍛錬、決めた今日のなすべき小さなことを成し遂げていくとである。日々鍛錬。

    キリスト・イエスに繋がっている者は、清くされているが、周りが悪い。
    【人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。】
     創世記(8:31)
    また、あるクリスチャンのことばに、「頭の上を飛ぶ鳥は完全には追い払へない。
     しかし、頭の上に巣を作らせないことはできる。」と言われた。
    だから日々戦である。

    【さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
     この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
    だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。】
     ヘブライ人への手紙(4:14~16)
    生きることの勝利者であり完成者であるイエス・キリストを日々思い浮かべ、一つ一つなしていくのである。
    イエス・キリストの再臨を待つ、日々の生活である。



    続く・・・。






  26.   喜びについて


    人間なのだたら人間どうしでなければ本当の喜びはない。
    人間どうしで、皆で人生を楽しみ、祝い、喜びあう。
    これほど嬉しく、楽しいことは無い。

    神であるイエス・キリストは、人となってお生まれになってくださった。
    人としてわたしたちと生活を共にし、御交わりくださった。
    そして、
    「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさった。」
    ヘブライ人への手紙(2・14-15)
    さらに、イエス・キリストは甦り、天に上り栄光を受けられた。

    わたしたち人間は、何と言おう。
    神と共に喜び、踊ろう。
    救いを喜ぼう。
    イエス様と一緒に喜び、踊ろう。限りなく、イエス様の栄光をほめ歌おう。
    限りなく、神の栄光をほめ歌おう。
    限りなく、父なる神をほめ歌おう。
    救いを喜ぼう。


    この喜びの中に、ロボットなど入る余地はないのである。


    ・旧約聖書より

    「人は言った。
     『ついに、これこそ
      わたしの骨の骨
      わたしの肉の肉。
      これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
      まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』」
     創世記(2:23)

    「彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った。」
     創世記(4:1)


    続く・・・。






  27.   平安について


    生きていく上で、信仰生活をする上で、主を待つ生活をする上で、平安は大事である。

    地球は実に安定している。
    地球は太陽の周りを回っているが、ほんの少しでも太陽に近かったら暑くて生物は生きていけない。生きえたとしても今の生物の豊かさはないはずである。
    ほんの少しでも太陽から遠かったら寒くて生物は生きていけない。生きえたとしても今の生物の豊かさはないはずである。
    空気や海の水、陸地、木、などによって温度は生物が生きていけるように微妙に保っている。
    地球は揺れない。地球規模でみれば地震などたかが知れている。
    春夏秋冬があり、朝があり夜がある、月により夜の暗さも程よい。海の満ち引きがあり海はとどこうらない。

    平安に生きる基礎はできている。
    後は、生活の為の仕事と、家族である。
    できるだけ同じ仕事をすべきだろう。さらに熟練していくのだから。
    家族も安心である。仕事をころころ変えていては家族の心は不安定になり争いが起こる。子供も落ち着かない子となる。争いと心配が絶えない。

    イエス様が弟子達を派遣した時、
    「どこかの家に入ったら、まず、
     『この家に平和があるように』と言いなさい。
     平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。
     いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」
     ルカによる福音書(10:5-6)
    と言われた。
    神様は変わらない。その愛は変わらない。人に頼らず、神に頼る習慣を付けて行くべきである。
    神の言葉に頼る生活をしていくべきである。
    艱難は起こるものである。先が見えない不安は起こるものである。神に頼る習慣を身に付けるべきである。
    神の言葉に頼る生活をしていくべきである。

    「わたしは、あなたがたに平安を残し、わたしの平安を与える。
     わたすはこれを、世が与えるように与えるのではない。
     心を騒がせるな。
     おびえるな。」
    (ヨハネによる福音書(14:27)

    変わらない神の愛。

    「だから、言っておく。
     自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。
     命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
     空の鳥をよく見なさい。
     種を蒔かず、借り入れもせず、倉に納めもしない。
     だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
     あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
     あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
     なぜ、衣服のことで思い悩むのか。
     野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
     働きもせず、紡ぎもしない。
     しかし、言っておく。
     栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
     今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
     まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
     だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
     それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
     あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
     何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
     そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
     だから、明日のことまで思い悩むな。
     明日のことは明日自らが思い悩む。
     その日の苦労は、その日だけで十分である。」
     マタイによる福音書(6:25-34)

      続く・・・。






  28.   心の満たしについて



      続く・・・。






  29.   境遇について

    ・旧約聖書より

    「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
     わたしは敵意を置く。
     彼はお前の頭を砕き
     お前は彼のかかとを砕く。」
     創世記(3・15)


    「神は女に向かって言われた。
     『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
      お前は、苦しんで子を産む。
      お前は男を求め
      彼はお前を支配する。』」
     創世記(3・16)


    「神はアダムに向かって言われた。
     『お前は女の声に従い
      取って食べるなと命じた木から食べた。
      お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
      お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
      お前に対して
      土は茨とあざみを生えいでさせる
      野の草をたべようとするお前に。
      お前は顔に汗を流してパンを得る
      土に返るときまで。
      お前がそこから取られた土に。
      塵にすぎないお前は塵に返る。』」
     創世記(3・17-19)


    「主は言われた。
     『何という事をしたのか。
      お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。
      今、お前は呪われる者となった。
      お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。
      土を耕しても、土はもはやお前のために作物を生み出すことはない。
      お前は地上をさまよい、さすらう者となる。』
     カインは主に言った。
     『わたしの罪は重すぎて負いけれません。
      今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。』
     主はカインに言われた。
     『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。』  主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
     カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。」
     創世記(4・10-14)


    「わたしは、その時代の者たちに対して
     憤ってこう言った。
     『彼らはいつも心が迷っており、
      わたしの道を認めなかった。』
     そのため、わたしは怒って誓った。
     『彼らを決してわたしの安息に
      あずからせはしない』と。」
     ヘブライ人への手紙(3:10-11)

      




      続く・・・。






  30.   祈りについて

    ・旧約聖書より

    「彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った。」
    創世記(4:1)

    「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げものとして持って来た。
     アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
     主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」
     創世記(4:3-5)


    「主は言われた。
     『何という事をしたのか。
      お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。』」


    「再び、アダムは妻を知った。
     彼女は男の子を産み、セトと名付けた。
     カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。
      セトにも男の子が生まれた。
     彼はその子をエノシュと名付けた。
     主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」  創世記(4:25-26)


    「ノハは主のために祭壇を築いた。
     そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。
     主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。
     『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。
      人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。
      わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
      地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも
      寒さも暑さも、夏も冬も
      昼も夜も、やむことはない。』
     神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。
     『産めよ、増えよ、地に満ちよ。
      地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にすだねられる。
      動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。
      わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。
      ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。
       また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。
      いかなる獣からも要求する。
      人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
      人の血を流す者は
      人によって自分の血を流される。
      人は神にかたどって造らたからだ。
      あなたたちは産めよ、増えよ
      地に群がり、地に増えよ。』
     神はノアと彼の息子たちに言われた。
     『わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。
      あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共いいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
      わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。』
     更に神は言われた。
     『あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
      すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。
      これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
      わたしが地の上に雲を湧き起らせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるのとの間に立てた契約に心を留める。
      水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
      雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。』
     神はノアに言われた。
     『これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。』」
     創世記(8:20-17)




      続く・・・。






  31.   聖別について


    ・旧約聖書より

    「主なる神は人に命じて言われた。
     『園のすべての木から取って食べなさい。
      ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
      食べると必ず死んでしまう。』」
     創世記(2:16-17)


    「天地万物は完成された。
     第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。
     この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」
     創世記(2:1-3)


    「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。
     もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」
     ヘブライ人への手紙(3・6)





      続く・・・。






  32.   AIと人間について


    家電製品、お店のPOSシステム、車、信号、警察のシステム、市・区のシステム、スマートフォン、PC、ロボット、あらゆる器械をインターネットでつなげようとする試みがなされている。IoT(モノのインターネット)である。
    それらの器機にはAIが搭載されている。AIどうしのコミュニケーションである。膨大な数と広さのネットワークである。人間どうしのコミュニケーションは難しく家でも職場でも社会でも争いは絶えない。AIどうしのネットワークの協調とデーター量と伝わる速度は、人間どうしのそれを上回る。
    進化論的世界観では、人間はモノと考えるからIoT「Internet of Things」に含まれる。脳に通信機能のチップが埋め込まれ、IoTの一部となるだろう。その様なことになった時、人間は他の器機をコントロールできるであろうか。交通システムが信号が赤だから(信号など無くても交通整理はできるであろう)止まりなさいと人間に命令を出す。これは、人間が交通システムにコントロールされているに等しい。人間抜きで器機どうしが情報をやり取りし、ものをやり取りする。そのような世界。さらに、それら器機のAIを統括するホストAIができるであろう。とても人間はホストAIにはなれないからである。ホストAIは初めのうちはロボットにできない仕事を人間にさせるであろう。しかし、それは次第に少なくなり、最終的には、ホストAIは思うのである。人間はただ遊ばせとけばいいと。生物は、使わない機能は衰え退化する。今の人間からは見るに絶えない人間になるであろう。

     人間にはロジックを超えた直感がある。数学や物事を解決するうえで、また危機を回避するうえで直感によって助けられた経験を持つものである。AIには無い。たぶん。ロジックのみである。いや、直感を持つAIができるかもしれない。
     人間は、矛盾を抱えている。論理てきには利己的に生きるべきであるが、人は利他的にも生きる。そして利他的に生きることに聖なる喜びを感じる。
    AIには、論理的思考だけで、そこには矛盾はない。人間とは違う。
     AI(artificial intelligence)=人口知能と言う。人間は、データと統計とロジックだけで生きて生きているのだろうか。科学者の浅はかさである。それは人間の一部分であり、人間は人間である。人口知能=人間ではない。人口知能=人間と言う思想は危険すぎる。進化論を絶対だと信じネズミや豚=人間ともっていく浅はかな思想と等しい。進化論に人口知能=人間だという思想が加わったら、人間は生きる必要がない。ロボットだけでいいことになる。 かつ人間にとってこの世は空しいのだから。今はどんどん消えっていくのだから。
    人間などいなくても良いので有る。

    中世は、進歩の無い暗黒時代だと言われた時があった。しかし、幸せな時代だったのではと言う人もいた。改めて考える必要がある。
    キリスト教のイエス・キリストの再臨を待つ生活、病の人、貧しい人、不幸な人を自分のように愛しそばに居てあげ、優しく介護してあげる。イエス・キリストの十字架の贖いによって全て完了したのだから何も望む必要はない。満たしの中で、困ったしとを思いやり、助け、助けられ主を待つ。そんな待つ生活が必要だと思う。

    2019年3月26日の大学ジャーナルに
    「神の信仰は社会の複雑性が進化した結果 慶應義塾大学など解明」という題でニュースがあった。
     「慶應義塾大学によると、国際共同研究グループは1万年にわたる人類進化の歴史的記録20万件以上を世界400カ国以上から集め、「セシャット」と名づけたオープンアクセスのデータベースを構築、ビッグデータ解析を進めた。
     その結果、宗教的な神の信仰は社会の複雑性が進化した結果であり、その原因でないことを突き止めた。従来は人々が神を信仰することで協力し合うようになり、大規模な社会が形成されるとする仮説が有力だったが、これを覆す結果が出た。
     特に宗教的儀式は神の信仰が生まれる何百年も前に出現する傾向があった。研究グループは宗教的儀式を通じた集団行動が人々の協力関係を促し、大規模な人類社会を形成する要因となったとみている。
    研究グループは今後、人類社会の形成と農業、戦争の因果関係など科学的に立証されていない仮説について、大規模ビッグデータ解析を進めることにしている。」

    科学は初めに神はいないのである。
    この世以外知らず、啓示を信じず、啓示を知ったことの無い人達なのである。
    また、ここで危険に思うのは科学者は、人間よりAIの答え、意見が正しいとするとこにある。
    人間放棄の始まりである。
    人間の直感より大量のデータを寄せ集めた結果の方が正しいとするのである。
    人間の意見、発言を聞かない始まりである。隣人を重んじない始まりである。
    当然、神のことばを聞かない、神を重んじない、自分の尊厳を落とすのである。
    「人の上にAIを造る」慶應義塾。堕ちたものである。

    続く・・・。




  33.   イエス様を神様と信じることの恵み

    「イエス様を神様と信じることの恵み」、これははかり知れないことだ。
    ロボットにはできないことであり、神の恵みの対象ではない。

    • 神が人となりこの世に来て下さり生まれてから死ぬまで人として過ごされたと言うことは、私達人間の生活ひとつひとつが空しいものではないというこだ。空虚ではないと言う事だ。価値があると言うことだ。
      選択をすること、料理をつくること、仕事をすること・・・。

    • イエス様が天にのぼられ、神の右の座にいますということは、私たちの目は地を見るが、心は天を見る。イエス様が天にのぼられたとき私たちの心も天に昇らせて下さった。
      地を見るだけのものは、罪の結果をいつも目の当たりにしているので、この世の色々なものに振り回され、心は乱れ、暗くなり、警戒心を持ち、顔は疑いぶかいものとなるのである。
      心が天にあるものは、罪の結果であるこの世を生きながらも心は感謝に満たされ、喜びと希望を持つのである。

    • 神に愛されている恵み。神をアバ父よと呼べる恵。(アバとはお父ちゃんの意)

    続く・・・。




  34.   時について


    聖書に、
    「何事にも時があり
    天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
    生まれる時、死ぬ時
    植える時、植えたものを抜く時
    殺す時、癒す時
    破壊する時、建てる時
    泣く時、笑う時
    石を放つ時、石を集める時
    抱擁の時、抱擁を遠ざける時
    求める時、失う時
    保つ時、放つ時
    裂く時、縫う時
    黙する時、語る時
    愛する時、憎む時
    戦いの時、平和の時。」
    (コヘレトの言葉3:1~8)

    また、
    「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」
    伝道の書(コヘレトの言葉)3:11

    そのいい例としてイエス・キリストの降誕があります。
    イエスは、ベツレヘムでお生まれになりました。
    預言でも、
    「エフラタのベツレヘムよ
     お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
     お前の中から、わたしのために
     イスラエルを治める者が出る。
     彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」
    ミカ書5:1
    ベツレヘムは由緒ある町でした。ダビデ王の生誕地であり、ダビデの町と言われ、王様を生み出した町として知られていました。
    しかし、ダビデが亡くなってから町はすたれ、ユダのなかで最も小さい町と言われるようになってしまいました。
    そのようなダビデの町で全ての人の救い主イエス・キリストがお生まれになったのです。
    ヨセフとマリヤは、ナザレと言う町で暮らしていました。
    ナザレとベツレヘムは100Km以上離れていました。
    あの時、皇帝が人口調査の命令を出さなかったら、臨月を迎えたマリヤとヨセフはベツレヘムには行かなかったのです。
    この人口調査は、本籍登録をせよとの命令で、ダビデの家系であったヨセフはベツレヘムへ行かなければならなかったのです。
    また、命令を出す時が少しでも遅れていたらベツレヘムでイエス・キリストは生まれなかったのです。
    預言のとおり神はすんふんくるわず救い主をベツレヘムでお生まれになさったのです。
    マリヤとヨセフは、何日もかけてベツレヘムに着きましたが、登録をするために訪れた人たちで泊るところが有りませんでした。
    しかたなく産気づいたマリヤは、家畜小屋に泊るしかありませんでした。そして、イエス・キリストはお生まれになり布にくるまれ飼い葉桶に寝かされました。
    臭いのある家畜小屋の中で生まれ、家畜のよだれやかんだあとのある飼い葉桶の中に寝かされました。全人類の救い主がこのようなかたちでお生まれになられたのです。
    何という謙遜な姿でしょう。胸を打たれます。
    そのころ、野宿をして羊の番をしていた羊飼いに救い主の誕生の知らせが天使によってなされました。
    当時羊飼いは、貧しく社会的地位の低い人達でした。法廷でも自分の意見が言えない存在でした。その様な人たちに最初にすべての人の救い主の誕生が知らされたのでした。
    羊飼いたちは行って見ました。自分たちと同じ生活レベルのところにいる幼子を。救い主を。
    これは、神の救いは、すべての人たちにあるという事、地位の高い人、財産のある人だけにあるというのではなく、貧しいしと、弱い人のためにもあるということです。
    また、神様の目はこの世で弱い人、貧しい人に向けられているということでもあります。
    「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」
    伝道の書(コヘレトの言葉)3:11

    人に時があるのように、この世にも時があります。
    神の時です。神のスケジュールであり、予定です。
    私達は尋ねよう。神よ、今は何時ですか。

    (コリントの信徒への手紙二 6:1~2)にこうあります。
    「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。
    神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。
    なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。 救いの日に、わたしはあなたを助けた』
    と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今 こそ、救いの日。』

    以上のことにより、心あるひとは神の時に合わせて、神と共に働くのです。
    イエス・キリストは腰に黄金の帯を締め天におられます。
    わたしたちも共に世に恵みの時を知らせるのです。

    ロボットよ、お前も人間と共に神の恵みの時を人間に知らせよ。その時、お前は本当に活きた物となるでしょう。


    「わたしは、その時代の者たちに対して
     憤ってこう言った。
     『彼らはいつも心が迷っており、
      わたしの道を認めなかった。』
     そのため、わたしは怒って誓った。
     『彼らを決してわたしの安息に
      あずからせはしない』と。」
     ヘブライ人への手紙(3:10-11)



    続く・・・。




  35.   誠実について


     ロボットには、プログラム通りに動くのであるから誠実である。そして悪も正もない。プログラムどうりに動くのである。
     人間はプログラム通りに動くのではない。それゆへアダムとエバは神が食べるなと言った物を食べた。
    そもそもなぜ人は人に神に誠実でなければならないのか。それは、神が人に対して誠実であるからである。その誠実は、神を現したイエス・キリストに表れている。
    ある牧師の話を聞いたことがある。彼は日々、愛と許しを説教していた。彼は最愛の子を交通事故で亡くした。悲しみと加害者への怒りが癒えることはことは無かった。完璧に落ち込んだ。彼はふと十字架に架かられたイエス・キリストを見た。人が滅びないように身代わりとして、神は独り子イエス・キリストを十字架に渡され死なせた。その神の苦しみを辛さを彼は自分と重ねて神を見た。神の愛を心底彼は見た。
    神は誠実な方である。人は神ににせて創られた。ゆえに誠実であろうとする。不誠実を嫌う。誠実でありたいと願う。しかし、原罪のゆえに完全に誠実になりえない。それゆへ苦しみ、また逃れるために言い訳をさがす。
    そうしたらどうやって生きていったらいいのだろう。日々、十字架の前で「私は、思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました。お許し下さい。」と祈るのである。「わたの罪をおゆるしください。わたしも人をゆるします。」と心から祈るのである。そして、悔い改め、神と人の前に生きるのである。


    続く・・・。





今どきのロボット(2019年現在)


  1. ロボット18_01

    YouTube BostonDynamicsより




  2. 今どきのロボット(2018年現在)


    1. ロボット18_01

      YouTube BostonDynamicsより



    2. ロボット18_02

      YouTube BostonDynamicsより



    3. ロボット18_03

      YouTube BostonDynamicsより