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 この世とは、人間(自分)とは
についての私的考察です。

目次



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  1. 【始めに】

      このだだっ広い宇宙、その中の吹けば飛ぶような小さな小さな地球、その中のわずかな陸地にカビのようにへばりついてうごめいている人間。宇宙から見たら泡のように湧き、泡のように直ぐ消える。それも宇宙の物差しから見たらほんの一瞬。あまりに短くて一瞬という事さえおこがましい。あなたもわたしもそんなもんです。そして、あなたもわたしもいたかどうかも誰も知りません。誰が覚えていると言うのでしょうか。全ての人は死に次から次へと消えて行きます。気が付いたら、「あれ、おれの番かよ。」です。必ず来ます。
     裸でこの世に迷い出で、右も左も分からず、親でさへこの世が何なのか自分は何なのか分からない。そして盲人に引かれていく盲人のように、右だ左だと言われ人生を歩いて行く。何も知らない人が、何も知らない人に引かれて行く。それが人生?
    無責任な人達が作った価値観に振舞わされ、泣き叫び、笑い、そして知らぬ間に年老い、死んでいく。五感や感情を興奮させ喜ばせる人生ゲーム。しかし、このゲームはリセット、やり直しは効かない。ゲームに飽きたらシャットダウンか、死ぬまでの時間つぶし。なんなんだよと叫びたい。
    次から次へと、新商品。これを買えば、手に入れれば幸せになれると操らされ、自分も遅れまいと、働き、宣伝で人を操り金儲けにあくせくする。それが人生? そして死。消えて行く。それが人生?
    ぽっと生まれ、孤独と何者かに操られた人生。糞みたいな人生。・・・
     人間とロボットの違いを考えても、どちらも同じで生きようが死のうが何の意味も、違いもない。 ロボットやAIが、人間の能力を超へ、意識を持ち、下等な人間を滅ぼし、地球上がロボットだけになったとしても、この静まりかえったった宇宙でロボットだけが意味なくうごめいているだけになったとしても、何の悲しみも意味も無い。人類が滅び、ゴキブリが世界中をうごめいているだけになったとしても、何の悲しみも意味も無い。宇宙は今も昔も、あなたがいてもいなくても、人類がいてもいなくても変わらずに動いているのです。ただ在り続けるのです。ただ消え続けるのです。ただ永遠に。全てがむなしいのです。

     生物学によると人間の祖先はネズミだとさ。
    先祖崇拝の沖縄はさ、どうすりゃいいのさ。
    がっかりして、文化も道徳もおちゃらけさね。
    波の音を聞いて、泡盛飲んで、月明りの下、倒れるまでカチャーシーの踊り狂いさね。
    先祖がネズミだどうのこうの言おうが、波の音、月明り、家族や親せき、友達や子供達と楽しく飲んで食べて三味線を聞いてカチャーシーを踊るのは、何とたのしいね。
    人間て良いな。
    へい、分厚いメガネをした青びょうたん。わー(我)はネズミと同じか。 わーは人工知能やロボットと同じか。
    進化論や人工知能で人間が分かったような顔している、あんた、ちょっと変ね。 空を見上げてごらん。星を石ころにしか見えない眼鏡、美しい雲を小さな氷としか見えない眼鏡を砂浜になげて、空を見上げてごらん。
    新しい世界が見えないかい。

      進化論による世界観は上記のような世界です。最悪なのは日本の義務教育で、疑うことなく進化論を幼い子供たちに教えていることです。真面目に受け入れる子は将来どんな人になるのでしょう。そして、むなしく出口のない進化論的世界観の中で、死ぬまで生きていくその苦しみを思うとかわいそうでなりません。喚こうが叫ぼうがそこには救いは無いのです。いくら泳いでも泳いでも岸につかないのです。いくら沈んでも沈んでも背中は底につかないのです。沈み続けるのです。あらゆる重荷に押しつぶされ手を伸ばしても、救いは無いのです。これを悪い洗脳と言わずしてなんでしょうか。いいですか、進化論は、ただの仮説であってあなたが信じるか信じないかだけなのです。
    たとへ、次に進化論に変わる違う論を科学や哲学が考え出したとしても、人間が考えるのはしょせん神無しの仮説です。ゆえに、同じくこの世は意味がなく、そしてむなしいとの結論が出るだけなのです。あなたは、泡のようにわきいで、泡のように意味もなく消えるのです。それも宇宙の物差しから見たら一瞬です。そして、だれも覚えてやしないし、あったかもなかったかも知れません。そして、宇宙はありつづけ、消えつづけ、全てがむなしいのです。

      ここに言葉があります。「初めに神は天と地を創造された。」あの分厚い聖書の初めの文句です。 この言葉を信じて空を見上げると、このだだっ広い宇宙の一つひとつの星星が、そこに在るのも、そして規則に従って動くのも、すべてに神の意思があり、青い地球、白い雲、美しい空、綺麗な花、そして貴方が、すべてが素晴らしいものに見えてくる。父母、おじい、おばあ、子供、孫、他人、他人の子供達、全てに意味があり、彼らと共に喜び、涙するのに意味があるようになる。私は走る、足が動く、私は有る、そして生きている。父母、おじい、おばあ、子供、孫、他人、他人の子供達の笑顔を喜び、私は天地を創られた神を賛美し、生まれていること生きていることを喜ぶ。
    宇宙が広く私にとって限りないことを喜ぶ、それは神の限りない広さ、深さを示し、私は羽を広げ飛び舞い、その限りのない神の力、広さを味じわい、永遠に神を賛美する。
    神を知ることによって、このだだっ広い宇宙と人の日常が和合する。
    イエス様が十戒を2つにまとめ「心を尽くして思いを尽くして神を愛せよ。隣人を自分のように愛せよ。」と要約されたことばは、天と地を和合した掟である。

     また神は私を覚えてくださるという。
    「あなたの名を手に刻んだ。」(聖書)とあります。
    マリー・ローランサンの詩の中に、
     捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
     よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
     追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
     死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。
    と言うのがあります。
    忘れられた者には悲しさ、切なさ、孤独、死があります。しかし、ここに、永遠なる神が、力ある神が、愛なる神が、私を貴方を、その名を手に刻み、永遠に覚えて下さると言うのです。
    さらに、神が神であるがゆえに「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(聖書エペソ1:4)とあります。これこそ幸福そのものです。天地が創造する前に、私は選ばれ父なる神に愛されていた。裸でこの世に迷い出でたのではない。神の愛の対象として生まれた。これ以上の幸福、安心はありましょうか。本来の人間の本当の幸福、幸せはここにあるものと思います。
    私が小さく、はかなくもろいことを喜ぶ、罪深く愚かなことを喜ぶ、父なる神に愛され、哀れみを受け、慈しまれる。永遠に。それゆえ私は尊い。小さくてもダイヤモンドのように神の目には尊い。
    「わたしの目には,あなたは価高く、尊く
     わたしはあなたを愛し 」
     イザヤ書(43:4)
    と神は言われる。
    自分が尊いということが自分ではなく神にかかっていると言うことである。
    これはとても重要なことである。

      沖縄本島から離島に行き、一人深夜、進化論を元にもの思いにふけって、天の川や星々をじっと見つめていると深い闇に吸い込まれるような気がして、非常な恐怖を覚えます。「神は死んだ。」と言ったニーチェが後に、気がふれたのが、少しは分かるような気がする。
    しかし、創造主なる神を信じ、愛なる神を信じ、空を見上げると星々は愛に満ちて喜び輝き、賛美の歌を歌います。パスカルが父なる神を知り、喜びにあふれ「歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。われ神より離れおりぬ。」と書きましたが、然りです。ニーチェとは全くの真逆であることをここに見てとれます。

      これらのことにより、私は進化論ではなく「初めに神は天と地を創造された。」を選び、信じ、この世について、人間とロボットの違いについての私的考察をして行きたいと思います。そして、この考察は時にかなっていると私は思います。
    私のようなものが神を信じられることをイエス様に感謝しつつ・・・。
    ある方を信じると言う行為は、その方に対する人間にできる最大の敬意だと思います。ゆえに、私は神様を積極的に信じます。そして、神の子羊イエス様を。



  2. 聖書とは

    聖書とは神の被造物 人間への創造主からのマニュアルである。

    聖書の御ことばを解く鍵は、神の人に対する愛である。

    書き方は数学的に書かれている。
    すなわち人間が理解しやすいように書かれている。
    始めに変わらないことが書かれ、そこから付随したことがらが木の枝、木の根のように書かれている。
    聖書の始めは、「初めに神は天と地を創造された。」から始まる。
    (創世記1章1節)

    創った方が創った物のマリュアルを渡さないことがあるだろうか。
    人間でさへ冷蔵庫、テレビなど作れば、そのマニュアルを書く。
    ましては、創造主神が書かないはずがない。
    人間以外の動植物には遺伝子に本能として書かれた。
    土から創られ、神の霊を吹き込まれた人間には、本能以外に理性で分かるマニュアルを渡たされた。
    それが聖書である。
    神は人間を愛の対象として創られた。
    神は人間との会話を望む。そして、信頼して従うと言うことを望む。
    神が創られたマニュアルに理性と信頼で読み従うことだ。
    神は愛なる方である。貴方の幸せと喜びを望んでいる。

    --聖書より--
    【聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、 人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。】
    テモテへの手紙二(3・16-17)

    その中でも特に重要なのは、イエス・キリストのことばある。
    神は言われる。
    --聖書より--
    【これはわたしの愛する子。これに聞け。】
      マルコによる福音書(9・7)

    また、こうも言われている。
    --聖書より--
    【キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており】
      コロサイ人への手紙(2:9)

    また、イエスは、
    --聖書より--
    【聖書はわたしについて証しをするものだ。】
      ヨハネによる福音書(5:39)
    と言われる。



    つづく・・・



  3. 私とは

    イエス・キリストの十字架の死によって、イエス・キリストに贖われた者。買われた者。
    暗闇の中を歩む私を、光の中を歩むように、私を贖われた。
    神の独り子イエス・キリストの流された血潮によって、私は贖われた。

    主なる神は私に「生きよ」と言われた。

    --聖書より--
    【しかし、わたしがお前の傍(かたわ)らを通って、
    お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、
    わたしは血まみれのお前に向かって、
    『生きよ』と言った。
    血まみれのお前に向かって、
    『生きよ』と一言ったのだ。】
      エゼキエル書(16:6)

    主イエスは復活し、天に昇り、神の右の座につかれた。
    私も主の死と復活にあずかる者となった。

    主は私に求めよと言われる。
    何を? 聖霊を求めよと言われる。
    目が開かれるものと思われる。

    私とは、土くれである。
    神の愛の対象として神に似せて形づくられたもの。
    内にある罪のゆえに滅ぶべきもの。
    神から遠く離れ、希望のなきもの。
    カインの末裔。
    何も分からないもの。

    その中で拾われ、神の子イエス・キリストの血によって贖われた者。
    罪の無いものとされた者。
    目を開かれた者。

    神とともに永遠に生きる者。
    神の子とされた者

    --聖書より--
    【『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
     そして、彼らの神となり、
     彼らはわたしの民となる。
     だから、あの者どもの中から出て行き、
     遠ざかるように』と主は仰せになる。
     『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
     そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
     父となり、
     あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
     全能の主はこう仰せられる。】
      コリントの信徒への手紙二(6:16ー18)


    この世では旅人である。
    --聖書より--
    【愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。】  ペテロの手紙一(2:11-12)

    よって、常に自分はキリストのものとの意識をもって生活、行動、選択をしなければならない。



    つづく・・・



  4. 最も大事なことについて

    命である。

    それも永遠の命である。

    --聖書より--
    【人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。】
     マタイによる福音書(16:26)

    命は神の国によってのみ輝き、喜ぶ。
    命は永遠の命を得てこそ命である。
    永遠の命 と 神の国 はセットである。

    神の子イエス・キリストの十字架の贖いによって下さった赦しと永遠の命は、神の義である。

    人の命は燈心のように弱り消え去る。
    しかし、キリストにある者は、力から力へと進む。
    この世で永遠の命を得て、神の国を待ちわびるのである。

    この世は滅びる、そして神の国は来る。
    この世は、愛が廃れ、不法がはびこり、地は汚れ、暗闇の宇宙の中で地球は漂う。
    神の国は喜びである。だから喜び待ちわびるのである。

    「永遠の命、神の国」を下さった方は神である。神は真実な方である。よって、永遠の命はなり、神の国は必ず来る。

    神の国を待つ喜び、神の国での喜びを待つ喜び。この世では永遠の命を下さった 神、イエス・キリストに感謝しつつ、神の国を待つ喜びの中で生きるのである。

    人が神と共に永遠に生きること、喜びの中で生きること。
    それを父なる神は願っている。そして、それが父なる神の喜びである。

    これらは、救い主、神の子イエス・キリストを信じる者の大いなる特権である。

    最も大事なこと、それは「神の国と神の義」である。

    --聖書より--
    【「だから、言っておく。
     自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。
     命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
     空の鳥をよく見なさい。
     種を蒔かず、借り入れもせず、倉に納めもしない。
     だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
     あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
     あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
     なぜ、衣服のことで思い悩むのか。
     野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
     働きもせず、紡ぎもしない。
     しかし、言っておく。
     栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
     今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
     まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
     だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
     それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
     あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
     何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
     そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
     だから、明日のことまで思い悩むな。
     明日のことは明日自らが思い悩む。
     その日の苦労は、その日だけで十分である。」】
     マタイによる福音書(6:25-34)

    --聖書より--
    【「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠 されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜 びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑 を買う。
     また、天の国は次のようにたとえられる。商人が 良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つける と、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それ を買う。」】
     マタイによる福音書(13:44-46)

    神がこの世に、置かれた宝、高価な真珠
    それは、
    「神の国と神の義」である。
    神の義、すなわち神の子イエス・キリストの贖い、復活、
    という神の恵みを信じることにより、
    人も義となるのである。


    つづく・・・




  5. 途方もない宇宙と貴女について

    途方もなく広い宇宙、それに比べれば小さな小さな塵ほどの地球、その中のわずかな陸地にカビのようにへばりついてうごめいている人間。
    さらに、宇宙から見たら泡のように湧き、泡のように直ぐ消える。それも宇宙の物差しから見たらほんの一瞬。あまりに短くて一瞬という事さえおこがましいくらいだ。
     私は、裸でこの世に迷い出で、右も左も分からない。
    なのに貴女が恋しい。

    知性は、原子を探り、竜宮 冥王星を旅し、宇宙の果てを思う。
    見えない電波、光、磁気を操り、素粒子の世界を探る。
    なのに貴女が恋しい。等身大の世界で七転八倒して生きている。人間の矛盾、いやこれは神の恵みである。
     深く考えよ。
    神とはこの天地を創られた方である。
    その方が人となり、人として歩み、且人の身代わりとなって罰を受け死なれた。
    ここに答えがある。
     深く思へ。

    聖書 旧約から
    【心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、
     あなたの神である主を愛しなさい、
     また、隣人を自分のように愛しなさい】
      ルカによる福音書(10:27)

    神とはこの天地を創られた方である。
    聖書 旧約から
    【〔主よ、〕見前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、
     朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。】
      知恵の書(知恵11・22~1)

    【あなたの天を、あなたの指の業を
       わたしは仰ぎます。
     月も、星も、あなたが配置なさったもの。
     そのあなたが御心に留めてくださるとは
       人間は何ものなのでしょう。】
      詩編(8:4-5)

    その神が人の子となって、マリヤの手に抱かれた。
    お産をする宿も無く、馬小屋の飼い葉おけに寝かされた。
    最初に誕生のお告げをうけたのは、そのころ最低の職業であった羊飼いであった。
    30年近く、大工の子として生きた。
    神の子イエス・キリストは低くなり、人の子として生きた。そしてつぶさに観た。
    神なのに私の苦しみや辛いことや悩みを、人として返り見てくださる方となって下さった。 さらに、御自身なんの罪も無いのに十字架の刑罰を受けて死なれた。
    私が滅びないように、死なないように、身代わりとなって罰を受け死なれた。

    【あなたの天を、あなたの指の業を
       わたしは仰ぎます。
     月も、星も、あなたが配置なさったもの。
     そのあなたが御心に留めてくださるとは
       人間は何ものなのでしょう。
      詩編(8:4-5)

    私とは何者なのでしょう。
    神の愛の対象として生れた者。

    神が人の子となりお生まれになり、人として歩まれたから、
    人の生活や思いは、幾ら宇宙が広くても価値があるのだ、尊いのだ。
    神の子が私が滅びないように、死なないように、身代わりとなって罰を受け死なれた。
    ゆえに私は尊いのだ。価値があるのだ。

    私は、宇宙が途方もなく広いのを喜ぶ、
    数えきれない物があるのを喜ぶ、
    それは、神の偉大さを現す。
    私はその中を神に愛され飛び回る。

    罪赦され、神と和解し、永遠の命を得て、
    復活した主イエス・キリストと共にこの広い広い宇宙を飛び回るのである。
    人の生活は、宇宙のように広く、尊い。聖いものになれる。
    家の中を掃除することさへ尊い。
    人が等身大で生きることが尊いものとなった、
    神の子が人の子としてお生まれになり生きたから。

    ゆえに、私はぶれることなく貴女を愛する。



    つづく・・・




  6. 次の世について

    次の世が無いと信じるのと、次の世が有ると信じるのとでは、生き方に大変な違いが起こる。
    ましてや曖昧な者は、吐き出される。

    金持ちとラザロの話
    --聖書より--
    【「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴膳でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。別そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きふちまえはうわたな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』】
     ルカによる福音書(16:19-26)

    世には、生まれつき不遇な人がいる。
    この言葉はなんと慰められることだろう。
    お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。


    十字架上での話
    --聖書より--
    【二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。・・・・

    十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。】
     ルカによる福音書(23:32-43)

    十字架に架けられるほどの罪を犯した者も、イエスと共に楽園に行けるのである。今日という日に。

    天の国でいちばん偉い者
    --聖書より--
    【そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような-人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」】
     マタイによる福音書(18:1-5)

    罪への誘惑
    --聖書より--
    【「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。 だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方のがそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」】
     マタイによる福音書(18:6-9)



    つづく・・・




  7. 罪について

    神を知らないこと、これが罪である。

    神を知らない人間に、神が人の子となり、神を現し、
    人の罪と罰を一切負って、死なれたことを、
    復活し天に昇られ、神の義を示されたこと、
    これらを信じないことが罪である。


    1人の人間(アダム)によって罪が入った。

    その結果、人の罪性、またサタンの働きによって、人は憎み合い、裏切り、傷つけ、 争い、戦争、自然環境破壊、貧困、飢え、病気、疫病、そして死が支配した。
    この世、人の世は、涙の谷となった。

    1人の人間(神の独り子イエス)によって罪が取り去られた。

    サタンは、そして死は、キリスト・イエスの死によって罰せられた。



    つづく・・・




  8. 罰について

    我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。
     ルカによる福音書(23:41)

    十字架上での話
    --聖書より--
    【二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。・・・・

    十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。】
     ルカによる福音書(23:32-43)

    世の中生きていると、多くの不幸がある。また、利不順な不幸がある。
    その中で思うことがある。
    この様な不幸、罰は私には当然だ。色々数え上げると、そう思う。
    しかし、十字架上のイエスを見上げると、
    我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
    しかし、この方は何も悪いことをしていない。


    イエス様がわたしの罰を負って下さった。
    だから後の罰に見えるものは、全て父なる神の私への鍛錬である。

    --聖書より--
     「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
      主から懲らしめられても、
       力を落としてはいけない。
      なぜなら、主は愛する者を鍛え、
      子として受け入れる者を皆、
       鞭打たれるからである。」
    あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。 いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子(しょし:本妻以外の女性から生まれた子)であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
     だから、萎えた手と弱くなったひざをまつすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
     すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。 あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。
     あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかつたのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
     あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。実に、わたしたちの神は、やつひ焼き尽くす火です。
     兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。金銭に執着しない生活をし、今侍っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。
     「主はわたしの助け手。
      わたしは恐れない。
      人はわたしに何ができるだろう。」
     あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。なぜなら、罪を贈うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましよう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。
     指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。
     わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。
     永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。
      ヘブライ人への手紙(12:5-13:21)



    つづく・・・




  9. 恵みについて

    人間にとって、最高の恵はイエス・キリストの十字架であろう。



    つづく・・・



  10. 神とは

    神とは、貴方を 私を 助けて下さる方である。
    保護者である。

    全ての生成の源である。
    その方は「わたしはある」と言われ、そして天に居られる。

    • ①、神とは天地を創造された方であり、父である。
    • ②、神とはイエス・キリストである。
    • ③、神とは聖霊である。
    • ④、イエス・キリストは、この世も次の世もすべて、永遠に治める王の王である。
    • ⑤、神とは愛なる方である。
    • ⑥、神とは愛において変わらない方である。

    • しかし、神とは人間の言葉には納めきれない方である。
      ゆえに、神を知るには永遠の時が必要である。
      よって、人間にとって永遠の命は必須でると言える。

      ー - - - -

    • ①、神とは天地を創造された方であり、父である。

      【初めに、神は天地を創造された。】
       創世記(1・1)

      イエス・キリストはこのように祈りなさいとおっしゃった。
      【天におられるわたしたちの父よ、・・・】
        マタイによる福音書(6:9-13)

      神とは父である。私を愛し、いつも見守って下さる父である。
      父、何という響きだろう。強く、全てを見通し、威厳がある。
      そして、その愛は深い。
      わたしはそのふところで安らう。

      神は嘘をつかない。
      神の言った言葉は必ずなる。
      神の言葉には力がある。光を作り、空と海を作り、・・・。全ては神の言葉でできた。
      風に揺れて落ちる葉っぱのような人間の言葉(言の葉)ではない。

      神はすべてをすべ治めておられる。
      王の王である。
      とこしえに王の王でおられる。


      聖書 旧約から

      【〔主よ、〕見前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、
       朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。
       全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
       改心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
       あなたは存在するものすべてを愛し、
       お造りになったものを何一つ嫌われない。
       憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
       あなたがお望みにならないのに存在し、
       あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。
       命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
        あなたはすべてをいとおしまれる。
       あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。
       主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、
       罪のきっかけを思い出させて人を諭される。
       悪を捨ててあなたを信じるようになるために。】
       知恵の書(知恵11・22~12・2)


      【地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
       神は言われた。
       「光あれ。」
       こうして、光があった。
       神は光を見て、良しとされた。
       神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
       夕べがあり、朝があった。
       第一の日である。

       神は言われた。
       「水の中に大空あれ。
        水と水を分けよ。」
       神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。
       そのようになった。
       神は大空を天と呼ばれた。
       夕べがあり、朝があった。
       第二の日である。

       神は言われた。
       「天の下の水は一つ所に集まれ。
        乾いた所が現れよ。
       そのようになった。
       神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。
       神はこれを見て、良しとされた。
       神は言われた。
       「地は草を芽生えさせよ。
        種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
       そのようになった。
       地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。
       神はこれを見て、良しとされた。
       夕べがあり、朝があった。、
       第三の日である。

       

       つづく・・・


      【かれらは、『その名は一体何か』と問う・・・
       神は・・「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ・・・。】
       出エジプト記(3・13-14)


      【あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主・・・
       これこそ、とこしえにわたしの名
       これこそ、世々にわたしの呼び名。】
       出エジプト記(3・15)


      つづく・・・


      聖書 新約から

      【わたしは、その時代の者たちに対して
       憤ってこう言った。
       「彼らはいつも心が迷っており、
        わたしの道を認めなかった。」
       そのため、わたしは怒って誓った。
       『彼らを決してわたしの安息に
        あずからせはしない』と。】
       ヘブライ人への手紙(3:10-11)


      【見よ、わたしはすぐに来る。
       わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
       わたしはアルファであり、オメガである。
       最初の者にして、最後の者。
       初めであり、終わりである。】
       黙示録(22:12~13)


    • ②、神とはイエス・キリストである。

       人間は土くれである。心の中は毒黒く罪深いものである。 そのような人間が神を見出すことが出来るであろうか。見ることが出来るであろうか。神が神ゆえに。
      神がご自身を低くして人となり表して下さらなければ人は神を見ること、知ることはできない。
      神が神であるがゆえに。人が人であるがゆえに。

      【フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。
       そうすれば満足できます」と言うと、
       イエスは言われた。
       「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。
       わたしを見た者は、父を見たのだ。
       なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
       わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。
       わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。
       わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
       わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。
       もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。】
        ヨハネによる福音書(14:8-11)

      驚くべき三位一体。
      私は、イエス・キリストの話を聞き、イエス・キリストと親しく交わり、イエス・キリストを喜び、生きてきた。
      この方が神とは。
      私は、神をしった。
      私は、神を拝し、礼拝をしていたのだ。
      聖なる三位一体。


    • ③、神とは聖霊である。

       聖霊は助け主である。

      【わたしは父にお廊いしよう。
       父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいる ようにしてくださる。
       この方は、真理の霊である。
       世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受 け入れることができない。
       しかし、あなたがたはこの霊を知っている。
       この霊があなたかたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。】
       ヨハネによる福音書(14:16~17)

      つづく・・・


    • ④、イエス・キリストは、この世も次の世もすべて、永遠に治める王の王である。

      虐げられし者よ気づけ。
      そして平安を得よ。


      つづく・・・
    • ⑤、神とは愛なる方である。



      つづく・・・




  11. 「わたしはある」と言うことについて

    --聖書より--
    【神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ・・・。】
      出エジプト記(3・14)

    神は「ある」ので私は救われる。

    --聖書より--
    【イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」】
      ヨハネによる福音書(8・58)

    神の独り子イエス・キリストは「ある」ので私は救われる。




    つづく・・・




  12. 見えない方を前にして歩むことについて

    見えないところに目をそそぐ。
    霊的な中に生きる。
    神は心を見られる。



    つづく・・・




  13. 明日のことを思い悩むことについて

    --聖書より--
    【「だから、言っておく。
    自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。
    命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
    空の鳥をよく見なさい。
    種を蒔かず、借り入れもせず、倉に納めもしない。
    だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
    あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
    あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
    なぜ、衣服のことで思い悩むのか。
    野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
    働きもせず、紡ぎもしない。
    しかし、言っておく。
    栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
    今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
    まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
    だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
    それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
    あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
    何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
    そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
    だから、明日のことまで思い悩むな。
    明日のことは明日自らが思い悩む。
    その日の苦労は、その日だけで十分である。」】
     マタイによる福音書(6:25-34)




    つづく・・・



  14. 時について、そして今は何時

    --聖書より--
    【イエスはまた群衆にも言われた。
    「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」】
      ルカによる福音書(12・54-56)

    1. 天地が創られた時、この世の時が始まった。
      --聖書より--
      【初めに、神は天地を創造された。】
        創世記(1・1)

    2. 神はご自身の愛の対象として御自身に似せて人を創られた。

    3. しかし、最初の人(アダム)によって罪が入った。
      人の罪性、またサタンの働きによって、人は憎み合い、裏切り、傷つけ、 争い、戦争、自然環境破壊、貧困、飢え、病気、疫病、そして死が支配した。
      この世、人の世は、涙の谷となった。

    4. 神は人を救おうと神の独り子イエス・キリストをお遣わしになった。
      イエス・キリストは、天地が創られる前からおられた。
      --聖書より--
       【わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。】
       ヨハネによる福音書(8:54-55)

      【あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」・・・
      イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」】
       ヨハネによる福音書(8・58)

    5. 1人の人(神の独り子イエス・キリスト)によって救いが来た。
      イエス・キリストは、全人類の罪をおって身代わりに罰と死を受けられた。
      イエス・キリストは、義とされ死から復活して、皆に現れ、そして天に昇られた。

    6. イエス・キリストが天から また来られる時が、裁きの時であり、この世の終末の時である。

    2021年1月1日現在 上記 5と6の時の間にある。
    ノアが家族と共に、箱舟に逃れたように、
    ロトがソドムから急いで逃れたように、
    キリスト・イエスのもとに逃れなければならない。
    今は救いの時、恵みの時である。

    ノアの時も、ロトの時も、
    人々はめとったり嫁いだり、食べたり飲んだり、普通に暮らしていた。
    時を知らない者は滅びた。
    救いが置かれてあるのに。

    全ては神中心に動いているのである。
    人の歴史ではなく、神の歴史によってこの世は動いているのである。
    人よ思いあがるな。



    つづく・・・



  15. 待つ生活について

    心も体も、身辺も、聖くして、綺麗に掃除することである。
    イエス様が天から来られるのだから。
    身辺を綺麗にしてお迎えするのである。

    イエス様は、今は天の父なる神の右にいますが、
    私たちと共にいて下さる。
    イエス様がいて下さるにふさわしいところにしなければならない。
    特に、心は、救い主イエス・キリストの聖室でなければならない。
    心を綺麗にし、身辺を綺麗にしておくことである。
    全てイエス様が完了してくださったのだから、思いのこすこと、思いわずらうこと心配することはない、イエス様を仰ぐだけでだけで良い。
    時事、気お付けて、聖室に相応しい心にして行くのである。
    身辺も綺麗にしていこう。
    しかし、まずは内側を綺麗にすることを心がけよう。

    --聖書より--
    【律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
    盃や皿皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
    ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。
    そうすれば、外側もきれいになる。】
     マタイによる福音書(23:25-26)


    つづく・・・



  16. 終末の兆候について

    --聖書より--


    つづく・・・



  17. 労働について

    労働の成果は、実りである。
    実りを感謝していただくのである。

    キリストの十字架以前は、下記のごとくである。

    --聖書より--
    【神はアダムに向かって言われた。
    「お前は女の声に従い
    取って食べるなと命じた木から食べた。
    お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
    お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
    お前に対して
    土は茨とあざみを生えいでさせる
    野の草を食べようとするお前に。
    お前は顔に汗を流してパンを得る
    土に返るときまで。
    お前がそこから取られた土に。
    塵にすぎないお前は塵に返る。」】
     創世記(3:17-19)

    キリストの十字架後は、
    人は、神との平和を得た。
    労働には、神からの実りの祝福が得られるようになった。

    労働をする気になるには、どうすべきか。
    1度労働の実りを経験することである。
    労働の実りの喜びは、まったく他の喜びとは違う。神聖であり、尊い。
    家族もそれによって喜ぶ。

    「職業に貴賎なし」と言われるが、有る。
    酒や女で稼ぐのは卑しい仕事である。
    人を堕落させ、アル中にさせる。依存させる。 パチンコ、競馬競輪などギャンブルの仕事もしかりである。
    人を中毒にさせて儲ける、これが卑しい仕事でなくて何であろう。
    沖縄では、若くしてアル中のもの、パチンコで家、土地を失ったものは数知れずである。
    離婚が多く、片親しかいない子が数多くいる。
    これが卑しい仕事でなくて何であろう。

    弁護士も一歩間違えば、卑しい仕事となる。
    人の弱みに漬け込む仕事となる。
    医者もしかりである。

    主の祈りを常に唱え、
    「御国が来ますように、御心が天になるごとく地にもなりますように。」
    心から神の国を求め、神の国の子として相応しい仕事をするのである。
    常に今の仕事は、神の国に相応しい仕事だろうか、
    神の国の子として、今の仕事をしているだろうか、
    常に自分に問いかけることが必要である。

    人は弱く、罪深い、
    常に思い、言葉、行いをチェックし、主に哀れみを乞い、神の国の子らしく仕事をするのである。


    つづく・・・



  18. 疲れることについて

    疲れる、疲労は、やる気を無くさせる。
    辛い。疲労、これは辛い。
    何故神は疲労を前に置くのか。
    もっと主を知りたい。もっと主の為に働きたい。人の救いの為に働きたい。
    家族の為に働きたい。もっと働きたい。
    だが疲労がそれを阻む。
    何故、

    休むことである。
    無理をしては良くない。
    休むことである。
    疲れがとれれば、又、力が湧き、やる気がでるものである。
    心配する必要はない。疲れたのである。休むのである。

    神からの鍛錬である。
    立ち上がり、雄々しく前に進め。

    --聖書より--
     【「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
      主から懲らしめられても、
       力を落としてはいけない。
      なぜなら、主は愛する者を鍛え、
      子として受け入れる者を皆、
       鞭打たれるからである。」
    あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。 いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子(しょし:本妻以外の女性から生まれた子)であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
     だから、萎えた手と弱くなったひざをまつすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。】
      ヘブライ人への手紙(12:5-13)



    つづく・・・



  19. 神の国はどこにあるか?いつ来るのか?

    ①、神の国(神の支配の実現)もうすでに来ている。
      (個人に対して)
    --聖書より--
    【ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」】
      ルカによる福音書(17・20-21)
    イエスさまを信じる所に、もうすでに神の支配が来ている。

    ②、神の国(神の支配の実現)は必ず来る。
      (この世に対して)
    --聖書より--
    【それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。 『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。 稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。 しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。 ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。 ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。 人の子が現れる日にも、同じことが起こる。 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。 ロトの妻のことを思い出しなさい。 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。 言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。 二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」 そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」】
      ルカによる福音書(17・22-37)


    つづく・・・



  20.   御国(神の国、天国)、そして陰府[よみ](地獄)について

    生きている間、悪いものをもらって、そして死んだだとしても、天使たちによって御国(神の国、天国)に招かれ慰められる。
    反対に金持ちで毎日ぜいたくに遊び暮らし、貧しい哀れな隣人を顧みなかった者は、死んで陰府[よみ](地獄)でもだえ苦しむのだ。
    --聖書より--
    【「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴膳でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。別そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている問に良いものをもらってはんたいわるいまいたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きふちまえはうわたな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』】
     ルカによる福音書(16:19-26)

    生まれつき不幸な方、不幸な環境に生まれ育った方、聖書の御言葉によって慰められますように。
    この世は短く、そして次の世は長い。


    また、天国は罪の無い人達の世界である。
    人間が罪の無いものとなるには、
    神の子イエス・キリストの身代わりの十字架の死以外にないのである。
    よって、天国は、イエス・キリストを信じたものの世界である。

    天国は、この世で自分に罪を犯した人たちを全て赦(ゆる)した人たちの世界である。
    「我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、
    我らの罪をも赦したまえ。」聖書、主の祈りより。

    天国は、ただ神を信頼している人達の世界である。

    天国は、我が神、我が主がいるところである。
    「世の終わりまで、私はあなた方と共にいる。」と主は言われる。
    よって、この世も天国たりえる。
    意識せよ、主を。

    天国には、悪い人がいない。
    ただそれだけで、私は神の国を恋焦がれる。
    主の祈り
    「御国が来ますように、御心が天になるごとく地にもなりますように。」


    続く・・・。



  21. ゲームとは

    ゲームに夢中になっている子は(大人も)、
    猫じゃらしに夢中になっている猫である。
    ゲームの設計者に踊らされているのである。
    パチンコ、スロットもゲーム性を帯でいるので同じである。
    夢中になっている人ほど、ゲームの設計者にとっては、赤子の腕をひねるようにたやすい。
    プログラムで右に向けと誘えば、右を向き。
    喜ばせたけば喜ばせ。
    怒らせたければ怒らせる。
    設計者の思うがままである。
    ゲームやパチンコに夢中になっている人は(子は)、自分が猫じゃらしで遊ばれている猫であることに気づくことである。

    世の中には色々な猫じゃらしが、あちこちに紛れ込んでいる。
    イベントや買い物の中にもある。
    せっかくの人生、猫じゃらしを追いかけるだけの人生であってはならない。

    人を導くのは神以外にあってはならない。
    親は子を正しい人に育つように神から預かっているのである。
    神や親には愛がある。
    しかし、ゲームの設計者には愛は無い、且 世について目くらである。
    目くらに手を引かれた目くらほど哀れなものは無い。
    金の欲にまみれたものに、手を引かれていく目くらほど哀れなものは無い。
    なめてはいけない、必ず罰せられる。地獄いきである。手を引くものは。
    神を恐れよ。神はおられる。

    --聖書より--
    【神は・・「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ・・・。】
      出エジプト記(3・13-14)


    つづく・・・



  22. 心とは

    神の御子イエス・キリストの聖室でなければならない。

    心は初めから聖いわけではない。
    そのような心に聖なる方、イエス・キリスト様が来て下さったのである。
    感謝し、喜び、日に何度となく悪い思いを払わなければならない。
    イエス様が居られるに相応しい場所として行かなければならない。
    そして、これは天国への道である。
    イエス様とは地においても、天においても、一生一緒である。



    つづく・・・





  23. 生きるとは

    神に熱心であることである。
    心は熱いか。
    神はイエス・キリストとして御自身を現した。
    ゆえに、イエス・キリストに熱心であることである。
    心は熱いか。

    まず何をしたらいいだろうか。
    神に、耳を傾けることである。

    神は「わたしはある。」と言われる。
    --聖書より--
    【神は・・「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ・・・。】
      出エジプト記(3・13-14)
    「わたしはある。」と言われる神から話を聞くことである。
    それは、聖書を読むこと(聞くこと)である。
    --聖書より--
    【聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、 人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。】
    テモテへの手紙二(3・16-17)

    イエス・キリストに、耳を傾けることである。
    --聖書より--
    【これはわたしの愛する子。これに聞け。】
    マルコによる福音書(9・7)

    【わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。】
    ヨハネによる福音書(10・11)
    ともある。


    祈ることである。
    神はいる(ある)のだから。

    何でもかんでもイエス様(神様)にお話することである。
    いつもいつもお話することである。そして聞くことである。
    でないと、思索も黙想も単なる言葉遊びとなる。
    神はいる(ある)のである。話そう。


    感謝することである。
    神が、イエス様がなさったこと、して下さったこと、これから起こることなどを思いめぐらし感謝するのである。

    いつも祈り、感謝し、喜んでいきるのである。


    私たちは今、神の救いの御業と、終末(新しい天と地)の狭間にいるのだから。
    いつも目を覚まして主の再臨を待つ生活をするのである。
    ノアの時、ロトの時、人々は飲んだり食べたり娶ったり嫁いだり、何事も起きないかのような、このまま坦々と何事もなく日々が来るかのように、日常の生活を坦々とすごしていた。
    思いがけない時に、裁きは来た。
    主の再臨、終末、新しい天と地は、そのように来るのだから。


    救いと同時に、裁きはすでに始まっている。
    御子を信じる者は、神の救いに入れられ救いが始まっている。
    御子を信じない者は、神に裁かれ裁きが始まっている。

    --聖書より--
    【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に進わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。】
     ヨハネによる福音書(3:16-21)


    つづく・・・



  24. イエス・キリストとは その1

    イエスは、真実な方である。

    --聖書より--
    【あなたはわたしの愛する子、
    わたしの心に適う者】
     マルコによる福音書(1:11)

    神がこのようにい言われる方とは。

    何も悪いことをしてない者が、
    死の苦しみを受けて死なれた。
    私たちが負うべき死の苦しみと死を、身代わりに負った。
    聖い方、神の一人子が全人類の罪を負って、苦しみの中で死ぬことは神の御心であった。
    イエス・キリストは神の御心に従った。
    ただ、ただ、まっ直ぐに、神の御心に従った。


    イエス・キリストの誕生
     神がご自分を低くして、人の子としてお生まれになった。1人では生きていけない赤子となられた。マリヤとヨセフという人の手に渡された。

    人の死は罪の結果である。

    神の子イエス・キリストはご自身を信じる者の救いの為に、 雄々しく十字架の死に向かわれた。
    彼らの罪をご自身の血(命)をもって贖う為に。
    イエス・キリストは十字架上で死に、三日目に蘇られ、 天に上り神の右の座に着き、栄光をお受けになった。

    --聖書より--
    【ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。
     「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
     イエスは言われた。
     「行って、あの狐に、
      『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』
       とわたしが言ったと伝えなさい。
      だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。
      預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。・・・」】
     ルカによる福音書(13:31-33)

    イエス・キリストを信じる者は死なない。
    イエス・キリストの死と復活にあずかるからだ。
    十字架で流された血は永遠の契約の血である。

    --聖書より--
    【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
     独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
     ヨハネによる福音書(3:16)

    --聖書より--
    【あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」・・・
    イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」】
     ヨハネによる福音書(8・58)

    イエスは「わたしはある」という方である。


    つづく・・・




  25. 神のことばとは

    神がことばを発するとその通りになった。
    すべては神のことばに従う。
    これこそ王の王である。

    --聖書より--
    【地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
    神は言われた。
    「光あれ。」
    こうして、光があった。
    神は光を見て、良しとされた。
    神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
    夕べがあり、朝があった。
    第一の日である。

    神は言われた。
    「水の中に大空あれ。
     水と水を分けよ。」
    神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。
    そのようになった。
    神は大空を天と呼ばれた。
    夕べがあり、朝があった。
    第二の日である。
    ・・・・】
     創世記1章


    愛する方のことばと共に生きる。
    王の王たる方のことばと共に生きる。




    つづく・・・




  26. 人とは

    • ①、人とは土くれである。
    • ②、人とは死ぬものである。
    • ③、人とは罪深いものである。
    • ④、人とはイエス・キリストを十字架につけて殺すほどのものである。
    • ⑤、人には救いが用意されている。


    • ①、人とは土くれである。

      神なくして人は何者だと言えるだろうか。

      【わたしの目には,あなたは価高く、尊く
       わたしはあなたを愛し 】
       イザヤ書(43:4)
      と神は言われる。
      自分が尊いということが自分ではなく神にかかっていると言うことである。

      進化論、人工知能と言うネイミング、は人間への冒涜(ぼうとく)であり、創造主への侮辱である。人間は、そんな安っぽいものではない。

      【神は御自分にかたどって人を創造された。
       神にかたどって創造された。
       男と女に創造された。】
       創世記(1:27)
      人は神に似た聖さ、可能性があると言うことである。


    • ②、人とは死ぬものである。

      喜びの中にあっても、人は死の影が頭をかすめる。
      人は何をしてても、死の影が頭をかすめるものである。
      人は、その死の影から逃れることはできない。
      そして、死ぬ順番が確実に回ってくる。

      神は、人に、
       【神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。】
        伝道者の書(3:11)
      そして、ついに神の子羊イエス・キリストの十字架の血の贖いによって、
      人は永遠の命を得ることができるようになったのです。
      永遠の命を得た確信をもとに
      人は、本当に喜ぶことができ。物事に集中することができ。本当に生きることができるのです。


    • ③、人とは罪深いものである。
       【人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。】
        創世記(8:31)

      人は罪深いものである。
      他人は罪深いものである。
      友は罪深いものである。
      親戚は罪深いものである。
      兄弟は罪深いものである。
      親は罪深いものである。
      子供は罪深いものである。
      妻は罪深いものである。
      自分はまったく罪深いものである。
      自分は、まったく神の国には相応しい者ではない。
      しかし、神の国に永遠に住むことを願う。
      他人と友と親戚と兄弟と親と妻と子供と永遠に神の国に住まうことを願う。
      自分が神の国に相応しい人間になることを願う。
      皆が神の国に相応しい人間になることを願う。


    • ④、人とはイエス・キリストを十字架につけて殺すほどのものである。


    • ⑤、人には救いが用意されている。

      人は神の御計画の中にある。
      この世で良いことをした者は、天国へ
      この世で悪いことをした者は、地獄へ 行く。
      しかし、神の前に良し(義)される者は誰もいない。
      ゆえに全ての人は、滅びる。地獄へ行く。
      神は愛する者が滅びるにしのびないので、御子イエス・キリストをこの世に送られた。
      御子イエス・キリストに人の罰を滅びを負わせ、
      人が彼をキリストであると告白し、洗礼を受けるならば救われるとした。
      死んで3日目に復活し天に上り、神の右の座につかれたイエス・キリスト様は、 また、この世に降りてこられる。
      そして、その名を信じて洗礼を受けたものを天国に連れて行く。
      そしてこの世は、滅びる。終末をむかえる。
      人を神の御子イエス・キリストの元に一つにする。
      これが神の計画であり、これから起こる歴史である。
      人は神の歴史の中にある。

       【イエスは言われた。
        「わたしは道であり、真理であり、命である。
         わたしを通らなけらば、だれも父のみのとに行くことができない。】
          ヨハネによる福音書(14:6)

        【イエスは言われた。
        「わたしは復活であり、命である。
         わたしを信じる者は、死んでも生きる。
         生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
         このことを信じるか。」】
          ヨハネによる福音書(11:25-26)


      聖書 旧約から

      神は御自分にかたどって人を創造された。
      神にかたどって創造された。
      創世記(1・27)


      主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
      創世記(2・7)


      主なる神は言われた。
      「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」・・・
      主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。
      人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
      「ついに、これこそ
       わたしの骨の骨
       わたしの肉の肉。
       これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
       まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
      こうゆうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
      創世記(2・21-23)


      二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
      創世記(3・2)


       その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
      アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
      「どこにいるのか。」
       彼は答えた。
      「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。
       わたしは裸ですから。」
       神は言われた。
      「お前が裸であることを誰が告げたのか。
       取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
       アダムは答えた。
      「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
      創世記(3・8-12)


      神はアダムに向かって言われた。
      「お前は女の声に従い
        取って食べるなと命じた木から食べた。
       お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
       お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
       ・・・
       お前は顔に汗を流してパンを得る
       土に返るときまで。
       お前がそこから取られた土に。
       塵に返る。」

       アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
      創世記(3・17-20)


      主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
      創世記(3・21)


      主なる神は言われた。
      「人は我々の一人のように、善悪をしる者となった。
       今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
       主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
      こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
      創世記(3・22ー24)


      主はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。
      カインは激しく怒って顔を伏せた。
      主はカインに言われた。
      「どうして怒るのか。
       どうして顔を伏せるのか。
       もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
       正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。
       お前はそれを支配せねばならい。」
      創世記(4・6ー7)


      アダムは、・・・年生き、そして死んだ。
      セトは、・・・年生き、そして死んだ。
      エノシュは、・・・年生き、そして死んだ。
      ケナンは、・・・年生き、そして死んだ。
      マハラエルは、・・・年生き、そして死んだ。
      イエレドは、・・・年生き、そして死んだ。
      エノクは、・・・年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
      メトシェラは、・・・年生き、そして死んだ。
      ・・・
      レメクは、・・・年生き、そして死んだ。
      主は言われた。
      「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。
       人は肉にすぎないのだから。」
      こうして、人の一生は百二十年となった。
      ・・・
      創世記(5・5ー6・3)


       主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。
      「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。
      人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。
      わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
      しかし、ノアは主の好意を得た。
       これはノアの物語である。
      その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。
      ノアは神と共に歩んだ。
      ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。
      創世記(6・5ー10)


      「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。
      いかなる獣からも要求する。
      人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
      人の血を流すものは
      人によって自分の血を流される。
      人は神にかたどって造られたからだ。」
      創世記(9・5ー6)


      「さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。
       あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
       カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
       セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。
       二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。
       ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、こう言った。
       『カナンは呪われよ
        奴隷の奴隷となり、兄たちに使えよ。』
       また言った。
       『セムの神、主をたたえよ。
        カナンはセムの奴隷となれ。
        神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)
        セムの天幕に住まわせ
        カナンはその奴隷となれ。』
       ノアは、洪水の後三百五十年生きた。
       ノアは九百五十歳になって、死んだ。」
       創世記(9:20-29)


       ノアの息子、セム、ハム、ヤフェトの系図は次のとおりである。
      洪水の後、彼らに息子が生まれた。
       ヤフェトの子孫はゴメル、マゴぐ、メディア、ヤワン、トバル、メシェク、ディラスであった。
      ゴメルの子孫は、アシュケナズ、リファト、トガルマであった。
      ヤワンの子孫は、エリシャ、タルシシュ、ケティム、ロダニムであった。
      海沿いの国々は、彼らから出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった。
       ハムの子孫は、クシュ、エジプト、プト、カナンであった。
      クシュの子孫はセバ、サブタ、ラマ、サブテカであり、ラマの子孫はシェバとデダンであった。
      クシュにはまた、ニムロドが生まれた。
      ニムロドは地上で最初の勇士となった。
      彼は、主の御前に勇敢な狩人であり、「主の御前に勇敢な狩人ニムロドのようだ」という言い方がある。
      彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルに進み、ニネベ、レホボト・イル、カラ、レセンを建てた。レセンはニネベとカラとの間にある、非常に大きな町であった。
       エジプトにはリディア人、アナミム人、レハビム人、ナフトヒム人、上エジプト人、カスルヒム人、カフトル人が生まれた。
      このカフトル人からペリシテ人が出た。
       カナンには長男シドンとヘト、また、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アルキ人、シニ人、アルワド人、ツェマリ人、ハマト人が生まれた。
      その後、カナン人の諸氏族が広がった。
      カナン人の領土は、シドンから南下してゲラルを経てガザまでを含み、更に、ソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイムを経てラシャまでを含んだ。
      これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたハムの子孫である。
       セムにもまた子供が生まれた。
      彼はエベルのすべての子孫の先祖であり、ヤフェトの兄であった。
      セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャド、ルド、アラムであった。
      アラムの子孫は、ウツ、フル、ゲテル、マシュであった。アルパクシャドにはシェラが生まれ、シェラにはエベルが生まれた。
      エベルには二人の息子が生まれた。
      ひとりの名は、その時代に土地が分けられた(パラグ)ので、ぺレグといい、その兄弟はヨクタンといった。
      ヨクタンには、アルモダド、シェレフ、ハチャルマベト、イエラ、ハドラム、ウザル、ディクラ、オバル、アビマエル、シェバ、オフィル、ハビラ、ヨバブが生まれた。
      これらは皆、ヨクタンの息子であった。
      彼らはメシャからセファルに至る東の高原地帯に住んでいた。
      これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたセムの子孫である。
       ノアの子孫である諸氏族を民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。
      地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。
      創世記(10:1-32)

      つづく・・・


      聖書 新約から


      「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。」
       ヘブライ人への手紙(2・6)
      「家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。
       どんな家でもだれかが造るわけです。
       万物を造られたのは神なのです。
       さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。
       もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」

       ヘブライ人への手紙(3・3ー3・6)


      「わたしは、その時代の者たちに対して
       憤ってこう言った。
       『彼らはいつも心が迷っており、
        わたしの道を認めなかった。』
       そのため、わたしは怒って誓った。
       『彼らを決してわたしの安息に
        あずからせはしない』と。」
       ヘブライ人への手紙(3:10-11)




      つづく・・・




  27. クリスチャンとは

    はかりしれない恵みを持っている者である。

    神の子イエス・キリストの十字架の贖いによって、
    神の前に罪無きものとされ、
    永遠の命を得て、
    神の国に移住することを約束された者である。

    人は離れた所が見えない。
    人には先が見えない。
    イエス・キリストの話を聞くことによって、人は先が見える。
    世の始まり、そして世の終わり。御国の到来。神の国。神の計画。などなど尽きない恵み。
    クリスチャンはそれらのものが見えるようになった者である。

    御国の約束を得ている。
    イエス・キリストの復活にあずかることができる。

    力から力へと歩んでいる。

    キリストのものとされている。

    クリスチャンとはとんでもない恵みの中にいる者である。


    クリスチャンは、キリストのものである。
    --聖書より--
    【すべては、あなたがたのものです。
    パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、羽あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。】
     コリントの信徒への手紙一(3:21-23)

    神の僕として生きよ
    --聖書より--
    【愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。、また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。】  ペテロの手紙一(2:11-12)

    よって、常に自分はキリストのものとの意識をもって生活、行動、選択をしなければならない。




    つづく・・・




  28. この世とは

    神の栄光が表されるところである。
    空を見よ、地を見よ、海よ見よ。 そして五感を研ぎ澄まし、聞け、嗅げ、味わえそして触れよ。
    それらはすべて神のことばによって出来たものである。

    そして神の栄光の最もたることは、イエス・キリストが人の子としてお生まれになったことである。
    そして、十字架上で私たちの身代わりとして罰を受け死なれたことである。

    人にとってこの世は何と短いことか。
    幸いな天国は何と長いことか。


    --聖書より--
    【さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
    この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
    わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人人と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
    しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、
    ーーあなたがたの救われたのは恵みによるのですーー
    キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
    こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
    事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。
    このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
    行いによるのではありません。
    それは、だれも誇ることがないためなのです。
    なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。
    わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。】
     エフェソにの信徒への手紙(2:1-10)


    つづく・・・




  29. 人の世とは

    人の世とは、人情である。
    思い込みと冤罪である。
    復讐である。
    恨みつらみである。
    弱いものいじめである。

    しかし、全ては空の空である。

    人の世とは、人が原罪をもっているので、 愛は冷め、人の世には不正がはびこるのである。
    --聖書より--
    【世の終わるときには、どんな徴が・・・
    「互いに裏切り、憎み合うようになる。・・・
     不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。・・・」】
     マタイによる福音書(24章:3-14)

    神の世とは、神の子イエス・キリスト様が人の世に来られて、始まる。
    神の世とは、その人が神の子イエス・キリスト様を心に受け入れた時、始まる。
    神の世とは、神の子イエス・キリスト様の完全な義に憩うた時に、始まる。
    この平安は、終わることが無い。始まりが無く、終わりが無い、神と共にいるから。

    人の世とは、神の子イエス・キリストを十字架につけ殺したところである。
    人の世は、恋して始まる。
    人の世は、憎しみで始まる。
    人の世は、嫉妬、妬みで始まる。
    人の世は、怒りで始まる。
    人の世は、あきらめで終わる。
    人の世は、絶望で終わる。

    神の世とは、死からの復活という勝利を願う。
    神の世とは、死から復活した勝利者イエス・キリストのようになろうとする生き方である。


    つづく・・・



  30.   この世とあの世(天)について

    あの世は、天とも言う。
    イエスがこの世に居られた時、天が開かれた時があった。

    --聖書より--
    イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。
    そのとき、天がイエスに向かって開いた。
    イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
    そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
    と言う声が、天から聞こえた。
     マタイによる福音書(3章:16-17)


    キリストを信じる者は、永遠の命を信じる。
    この世とあの世は繋がっているのだ。
    この世とあの世は全く違ったものではないだろう。
    もちろん、あの世(神の国)には悪い人はいない。
    しかし、この世の善、美、音楽、他良いものはあの世にもあるのだろう。
    なぜならそこでは救われたものが神を賛美しているのだから、音楽はあるのだ。
    後何年したら死ぬとか、後何年しか生きられないからといって善、美、音楽、他良いものの鍛錬を怠るべきでない。もっと磨くべきだ。また始めるべきだ。時間はたっぷりあるのだから。
    善、美、音楽、他良いものはあの世に引き継がれるものと思う。
    天国でも続けられものと思う。
    悪い者は地獄に、キリストの衣を着たものは聖い者として天国に分けられる。
    しかし、天国は、この世と全く違うものではないのだと思う。
    なぜならこの世は、神が創られたものだから。あの世(天国)も神が創られたものだから。
    この世で良いものはあの世でも良い。この世で美しいものはあの世でも美しい。
    これらはあの世でもつうじるものであると思う。

    ヒポクラテスは「人生は短く、術のみちは長い」(芸術は長く人生は短し)と言った。
    朱子は「少年老い易く学成り難し」と言った。
    それが、上記で解決されたのである。

    進化論的世界観では、死んだらなにも無い。よって、あの世もない。生きていること自体、意味もない。そして過ぎ去る。生きていること自体、生きたこと自体、幻のようである。
     天地を創られた神様を信じている者にとって、この世はどうだろう。神がこの世を創られたのだから、この世以外のものがこの世を創れたのだから、あの世もあるわけである。
    時は過ぎ去るのでこの世が幻のように思えるが、あの世があるので、この世とあの世は続くのである。
    あの世が永遠なので、この世は過ぎ去るが幻ではないのである。かつ、この世の全てをアルファからオメガまで神は見ておられるので、人間の目には過ぎ去るが全てに意味があるのである。そしてその行いの全てが裁かれるのである。
    では、この世とあの世で通ずるものは何であろう。それは善である。
    よって、この世で悪いことをした者は、あの世で罰せられるのである。
    良いことをした者は、この世でも良しとされ、あの世で神にほめられるのである。
    しかし、聖書では、正しい者はいない。一人もいない。と言っている。

    次のように書いてある、
    「義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、 神を求める人はいない。 すべての人は迷い出て、 ことごとく無益なものになっている。 善を行う者はいない、 ひとりもいない。 彼らののどは、開いた墓であり、 彼らは、その舌で人を欺き、 彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。
    (ローマ人への手紙3:10~18)

    「正しい者はいない。一人もいない。人間はすべて罪人であって、救いを必要としている」のである。

    では正しいとか悪いとかは何か。人間は神に作られたのだから神から見た正しい悪いである。
    神は、モーセを通して十戒を人間に与えられた。


     わたしはあなたの主なる神である。
      わたしのほかに神があってはならない。
      あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
      主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
      あなたの父母を敬え。
      殺してはならない。
      姦淫してはならない。
      盗んではならない。
      隣人に関して偽証してはならない。
      隣人の妻を欲してはならない。
      隣人の財産を欲してはならない。


    では律法を持たない、知らない者にとって十戒と罰は適用されるのであろうか。聖書には下記のように示されている。

    「神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示していま。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」ローマの新とへの手紙:2章12節~16節

     さらに、神の子イエス・キリストは、神は心を見られると言い、人を憎むことは殺すのと同じです。女性の情欲で見るのは姦淫したのと同じです。と言われました。神の目線は人間よりはるかに高いのです。よって、自分を正しいとし他人を裁くものは大いなる罰をうけるのです。
    ゆえに、「正しい者はいない。一人もいない。人間はすべて罪人であって、だれもが救いを必要としている」のです。

    神は、御子を遣わし人間の貴方の身代わりとして十字架で死なせた。それを信じるものはこの世においてもあの世においても裁かれない。
    思うに、人間に出来る良いこと正しいことは、父なる神が使わされた救い主イエスを信じることそのことだけではないかと思う。ある方を信じることは、その方に対する人間のできる最大の敬意だからです。
    イエス・キリストは、聖霊により処女マリヤより生まれた全く罪のない体を私達が滅びないように身代わりにささげられた。一切がっさい私たちの罪と罰を引き受けなされた。
    人間が身代わりとして死なれたのではない。人間は罪びとの子であり、肉の欲による子である。そのようなものが何千何万、私の為に死のうが私の罪は贖われない。神の御子イエス・キリストのみが私の罪を贖うことができるのです。
    ある牧師がいた。彼は日々、愛と許しを説教していた。彼は最愛の子を交通事故で亡くした。悲しみと加害者への怒りが癒えることはことは無かった。愛と許しを人に説教していたことすら忘れた。完璧に落ち込んだ。彼はふと十字架に架かられたイエス・キリストを見た。人が滅びないように身代わりとして、神は独り子イエス・キリストを十字架に渡され死なせた。その神の苦しみを辛さを彼は自分と重ねて神を見た。神の愛を心底彼は見た。
    神は愛なる方である。心から信じたい。私のできる最大の敬意、信じることを父なる神にささげたい。

     天に宝を積む、あの世に宝を積む、これは大変重要なことである。
    わたしたちはいずれあの世に行くのだから。あの世に宝を持つものはこの世でも豊かな者(精神)として生きれるだろう。


    続く・・・。  




  31. 日々の力の源、人の本当の糧とは

    地からのパンと 天からのパンである。

    生き物で、何の栄養も取らず存在し続ける物は無い。
    木でさへ雨を必要とし、光を必要とする。
    人も他からの食べ物が必要である。
    また、人にはその他に大事な食べ物がある。天からの食べ物である。

    --聖書より--
    【人はパンだけでいきるのではない。
     神の口から出る一つ一つの言葉で生きる】
     マタイによる福音書(4:4)

    人は塵から、神に似せてつくられたのだから、
    地からのパンと 天からのパンが必要なのです。

    死から復活したイエスは弟子たちに現れ、
    --聖書より--
    【イエスは、
    「さあ、来て、朝の食事をしなさい」
    と言われた。】
     ヨハネによる福音書(21:12)

    朝、
    地からのパンを家族の食卓でしっかりと食し、肉体に力を付けその日一日を生き生きと目一杯働くのです。
    天からのパンを主の食卓でしっかりと食し、霊的に力を付けその日一日を生き生きと目一杯働くのです。

    神の子イエス・キリストが世に来られたので、誠のパンが世に来た。
    クリスチャンは、イエス・キリストの食卓で食事を共にするのである。
    これは霊的なことであるが、イエス・キリストを食べるのである。

    --聖書より--
    【わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
    わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
    生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
    これは天から降って来たパンである。】
     ヨハネによる福音書(6:55-58)

    塵あくたであるわたしが、天のからのパンを食することができるとは!
    なんと幸いなことでしょう。

    主の復活にあずかる。
    これは、生きる力の源である。


    つづく・・・






  32. イエス・キリストとは その2

    --聖書より--
     【わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。】
     フィリピの信徒への手紙(3:8)

    • ①、父なる神を知っており、従った方である。
      --聖書より--
       【わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。】
       ヨハネによる福音書(8:54-55)

    • ②、右の頬を打たれたら左の頬を向けた方である。
      やり返さない。ただ受け入れ赦す。
      この世は復讐心とやり返しの渦である。
      イエス・キリストに習おうではないか。住みやすい世の中になる。
      すべての人の罪と罰を荷った方である。 それゆえ死から甦り、天に上り、神の右の座に座り栄光を受けられた方である。

    • ③、イエス・キリストは何時も心は父なる神がおられる天にあり、
      心の目は、ご自身を信じる者に向けられているのである。
      この世にある時も、
      十字架上にある時も、
      死ぬまぎわも、
      天に昇られ父なる神の右の座におられる今も。

    • ④、イエス・キリストは神である。
      --聖書より--
       【いまだかって、神を見た者はいない。
      父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。】
       ヨハネによる福音書(1:18)

      --聖書より--
       【フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。
      そうすれば満足できます」と言うと、
      イエスは言われた。
      「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。
      わたしを見た者は、父を見たのだ。
      なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
      わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。】
       ヨハネによる福音書(14:8-10)


    • ⑤、イエス・キリストは王である。
      人の陰口も、目も、非難も意に介さない。
      ローマ軍も恐れない。
      世の王も恐れない。
      何も恐れず威風堂々と我が思いを行う。
      これこそ完全な自由人である。この世のすべての王である。

    • ⑥、イエス・キリストは愛なる方である。

    • --聖書より--
      【フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。
      そうすれば満足できます」と言うと、
      イエスは言われた。
      「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。
      わたしを見た者は、父を見たのだ。
      なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
      わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。
      わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。
      わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
      わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。
      もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
      はっきり言っておく。
      わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。
      わたしが父のもとへ行くからである。
      わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。
      こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
      わたしの名によって何かを顧うならば、わたしがかなえてあげよう。」】
       ヨハネによる福音書(14:8-14)

      永遠の命を得ているとの確信なくして、人は平安に生きていけるだろうか。
      永遠の命を得ているとの確信なくして、人は物事を真に喜べるだろうか。
      永遠の命なくしては、全てが空しく消え去る。生きてる、または生きたとは言えない。存在そのものが無かったと言えるだろう。

      --聖書より--
      【キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。
      わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。】

      --聖書より--
      【人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
      自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。】
      マタイによる福音書(16:26)

      --聖書より--
      【イエスは言われた。
      「わたしは復活であり、命である。
       わたしを信じる者は、死んでも生きる。
       生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
       このことを信じるか。」】
       ヨハネによる福音書(11:25-26)

      --聖書より--
      【自分の罪を悔い泣きながらイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った罪の女が、イエスと言う方の足もとで謙虚にその話を聞いている。その相手、イエスとは何者か。】
       ルカによる福音書(7:36~)

      --聖書より--
      【ユダヤ人の指導者ニコデモはある程度の歳であったろう。その彼が夜、人に見つからないように30そこそこの男イエスに話を聞きに行く。その相手、イエスとは何者か。】
       ルカによる福音書(3章~)


      聖書 旧約から

      --聖書より--
      主なる神は言われた。
      「人は我々の一人のように、善悪をしる者となった。
      創世記(3・22)


      --聖書より--
      主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
      創世記(3・21)


      --聖書より--
      アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
      主はアベルとその献げ物に目を留められた
      創世記(4・4)


      つづく・・・




      聖書 新約から

      --聖書より--
        神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の創造者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の繁栄であり、御子の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。
      ヘブライ人への手紙(1・1-4)


      --聖書より--
      いったい神は、かつて天使のだれに、
      「あなたはわたしの子、
       わたしは今日、あなたを産んだ」
      と言われ、更にまた、
      「わたしは彼の父となり、
       彼はわたしの子となる。」
      と言われたでしょうか。
      更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、
      「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」
      と言われました。
      また、天使たちに関しては、
      「神は、その天使たちを風とし、
       御自分に使える者たちを燃える炎とする」
      と言われ、一方、御子に向かっては、こう言われました。
      「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、
       また、公正の笏が御国の笏である。
       あなたは義を愛し、不法を憎んだ。
       それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、
       あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」
      また、こうも言われています。
      「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。
       もろもろの天は、あなたの天の業である。
       これらのものは、やがて滅びる。
       だが、あなたはいつまでも生きている。
       すべてのものは、衣のように古び廃れる。
       あなたが外套のように巻くと、
       これらのものは、衣のように変わってしまう。
       しかし、あなたは変わることなく、
       あなたの年は尽きることがない。」
      神は、かつて天使のだれに向かって、
      「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、
       わたしの右に座っていなさい」
      と言われたことがあるでしょうか。
      天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったのですか。
      ヘブライ人への手紙(1・5-14)


      --聖書より--
      「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。
       また、あなかが顧みられる人の子とは、何者なのか。
       あなたは彼を天使たちよりも、
       わずかの間、低い者とされたが、
       栄光と栄誉の冠を授け、
       すべてのものを、その足の下に従わせれれました。」
      「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。
      しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
      ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。
      神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
       というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいこどであったからです。
      事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。
      それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
      「わたしは、あなたの名を
         わたしの兄弟たちに知らせ、
       集会の中であなたを賛美します」
      と言い、また、
      「わたしは神に信頼します」
      と言い、更にまた、
      「ここに、わたしと、
         神がわたしに与えてくださった子らがいます」
      と言われます。
      ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。
      それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
      確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
      それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、しべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
      事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
      ヘブライ人への手紙(2・6-18)


      --聖書より--
      「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。  家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。
       どんな家でもだれかが造るわけです。
       万物を造られたのは神なのです。
       さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。
       もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」

       ヘブライ人への手紙(3・3ー3・6)


      つづく・・・

    • ⑦、イエス・キリストはいつも働いておられた方である。いや、今も働いておられる方である。

    • --聖書より--
      【イエスはお答えになった。
       「わたしの父は今もなお働いておられる。
        だから、わたしも働くのだ。」】
       ヨハネによる福音書(5:17)

      --聖書より--
      【見よ、イスラエルを見守る方は
       まどろむことなく、眠ることもない。】
       詩編(121:4)

      --聖書より--
      【ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。
       「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
       イエスは言われた。
       「行って、あの狐に、
        『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』
         とわたしが言ったと伝えなさい。
        だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。
        預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。・・・」】
       ルカによる福音書(13:31-33)


    つづく・・・



  33. イエス・キリストを見上げる

    --聖書より--
    【はっきり言っておく。
    わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。
    わたしが父のもとへ行くからである。
    わたしの名によって廊うことは、何でもかなえてあげよう。
    こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
    わたしの名によって何かを顧うならば、わたしがかなえてあげよう。】
     ヨハネによる福音書(14:12-14)

    --聖書より--
    【ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
    「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」
    と言った。】
     使徒言行録(7:55-56)

    つづく・・・



  34. 義について

    真の義は、神の義である。
    人を哀れみ、独り子イエス・キリストを世に遣わし、人の罪の身代わりとして十字架で刑罰を受けさせた。
    真の義は、神の独り子イエス・キリストの義である。
    父なる神の御心に最後まで従った。
    人は、神の子イエス・キリストの完成された義に憩い、完全な平安を得ることが出来るようになった。

    また、義とは神がある人を良しとして、受け入れて下さることでもある。

    しかし、私には何も神の前に良しとするところがない。日々罪に苦しんでいる。過去の罪、今の罪、これからの罪、罪にこころひかれ、人を罵倒し、義からほど遠い。
    しかし、神はイエス・キリスト様の義により私を受け入れて下さった。
    神はイエス・キリスト様の私への愛のゆえに私を受け入れて下さった。
    何と言う恵みだろう。神の恵みはイエス・キリスト様において私に満ちあるれています。

    --聖書より--
    【わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
     神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。】
     エフェソの信徒への手紙(1:3-14)

    --聖書より--
    【わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
    けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリス卜・イエスを信じました。
    これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。
    なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
    もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者とうことになるのでしょうか。
    決してそうではない。
    もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。
    わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。
    わたしは、キリス卜と共に十字架につけられています。
    生きているのは、もはやわたしではありません。
    キリストがわたしの内に生きておられるのです。
    わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
    わたしは、神の恵みを無にはしません。
    もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリス卜の死は無意味になってしまいます。】
     ガラテヤの信徒への手紙(2:15-21)

    つづく・・・



  35. 変わらないことついて。生きる上での大いなる土台。

    神はおられる。
    御国(天)はある。
    世の終わりは来る。そして御国は来る。
    死んで復活して天に昇れれたイエス・キリストは、再びこられる。
    イエス・キリストを信じ受け入れたものは裁かれない。信じない者、受け入れないものは裁かれる。いやすでに裁かれている。
    イエス・キリストを信じ受け入れたものは、守られる。永遠の命を得ている。
    イエス・キリストを信じ受け入れたものは、イエス・キリストの復活にあずかる。

    神の愛、イエス・キリスト様の愛は変わらない。真実な方である。
    神ゆえに。
    生きる上での 大いなる土台。

    --聖書より--
    【山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
    しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
    わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
    あなたを憐れむ主は言われる。】
     イザヤ書(54:10)

    --聖書より--
    【水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
    大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
    火の中を歩いても、焼かれず
    炎はあなたに燃えつかない。】
     イザヤ書(43:2)

    つづく・・・





  36.   満ち足りることについて

    イエス・キリスト様について夫婦で語り合う時、何時しか心が満たされているのを知ります。
    どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。



    つづく・・・






  37.   平安について

    神の子イエス・キリストの完成された義に憩うこと、そこに完全な平安がある。
    神は真実なかたである。
    主は真実であり変わらない保護者である。

    しかし、それは後から訪れる更なる完全な平安の前味に過ぎない。
    主が再臨され、天国に招かれた時、真の平安が来る。真の平和が来る。
    そこには、執念深い敵がいない。彼らから解放される。
    そこには、私たちを罠にかけようとするものが一人もいない。
    この世しか目に見えない卑しいものに、関わることはもうない。
    神は真実なかたである。
    必ずなる。

    【「・・・
     わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
     わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
     心を騒がせるな。
     おびえるな。
     『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』
     と言ったのをあなたがたは聞いた。
     わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。
     父はわたしよりも偉大な方だからである。
     事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
     もはや、あなたがたと多くを語るまい。
     世の支配者が来るからである。
     だが、彼はわたしをどうすることもできない。
     わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。
     さあ、立て。
     ここから出かけよう。」】
      ヨハネによる福音書(14:1-3)

    人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。聖書:詩篇37編23節
    主が御与えになった道を受け入れ、信仰に立って力強く歩みのである。

    生きていく上で、信仰生活をする上で、主を待つ生活をする上で、実を結ぶ生活 をする上で、平安は大事である。

    【「心を騒がせるな。神を信じなさい。
     そして、わたしをも信じなさい。
     わたしの父の家には住む所がたくさんある。
     もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
     行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。
     こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
     わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」】
      ヨハネによる福音書(14:1-3)

    【主に愛される者はその傍(かたわ)らに安んじて住み
     終日、神に身を寄せて
     その御守りのもとに住まう。】
     申命記(33:12)

    平安から来る恵とはなんであろう。
    その数の多さは計りしれない。
    仕事への集中。家族との交わりの喜び。隣人との交わり。自然を見る。・・・
    すべてが集中して行こなわれる。
    これが本当に生きているということだろう。

    平安の逆は思い煩いである。心配である。
    イエス様も使徒達も何度も私たちに心配するなと言っておられた。
    思い煩いや心配は、お恵みや幸せを台無しにし、仕事も手につかない状態にする。
    人にも八つ当たりをする。
    クリスチャン、主に繋がっている者とは何だろう。
    それは、その者に心配してくださる方がおられるということだ。

    【あなたの重荷を主にゆだねよ
     主はあなたを支えてくださる。】
     詩編55:23

    【思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
     神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。】
     第一ペテロ5:7

    思い煩って主がいない者のように生きてはならない。

    あなたには、主がおられる

    地球は実に安定している。
    地球は太陽の周りを回っているが、ほんの少しでも太陽に近かったら暑くて生物は生きていけない。生きえたとしても今の生物の豊かさはないはずである。
    ほんの少しでも太陽から遠かったら寒くて生物は生きていけない。生きえたとしても今の生物の豊かさはないはずである。
    空気や海の水、陸地、木、などによって温度は生物が生きていけるように微妙に保っている。
    地球は揺れない。地球規模でみれば地震などたかが知れている。
    春夏秋冬があり、朝があり夜がある、月により夜の暗さも程よい。海の満ち引きがあり海はとどこうらない。

    平安に生きる基礎はできている。
    後は、生活の為の仕事と、家族である。
    できるだけ同じ仕事をすべきだろう。さらに熟練していくのだから。
    家族も安心である。仕事をころころ変えていては家族の心は不安定になり争いが起こる。子供も落ち着かない子となる。争いと心配が絶えない。

    イエス様が弟子達を派遣した時、
    「どこかの家に入ったら、まず、
     『この家に平和があるように』と言いなさい。
     平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。
     いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」
     ルカによる福音書(10:5-6)
    と言われた。
    神様は変わらない。その愛は変わらない。人に頼らず、神に頼る習慣を付けて行くべきである。
    神の言葉に頼る生活をしていくべきである。
    艱難は起こるものである。先が見えない不安は起こるものである。神に頼る習慣を身に付けるべきである。
    神の言葉に頼る生活をしていくべきである。

    「わたしは、あなたがたに平安を残し、わたしの平安を与える。
     わたすはこれを、世が与えるように与えるのではない。
     心を騒がせるな。
     おびえるな。」
    (ヨハネによる福音書(14:27)

    変わらない神の愛。

    「だから、言っておく。
     自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。
     命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
     空の鳥をよく見なさい。
     種を蒔かず、借り入れもせず、倉に納めもしない。
     だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
     あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
     あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
     なぜ、衣服のことで思い悩むのか。
     野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
     働きもせず、紡ぎもしない。
     しかし、言っておく。
     栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
     今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
     まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
     だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
     それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
     あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
     何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
     そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
     だから、明日のことまで思い悩むな。
     明日のことは明日自らが思い悩む。
     その日の苦労は、その日だけで十分である。」
     マタイによる福音書(6:25-34)

      続く・・・。



  38. 安心について

    洗礼を受けて救われていると言うことだろう。

    --聖書より--
    【信じて洗礼を受ける者は救われる】
     マルコによる福音書(16:16)

    「信じて」、つまり神を信頼しゆだね、神が主がおっしゃる通りに洗礼を受けたからだろう。

    --聖書より--
    【わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。
    あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。
    こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。
    主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。
    神は真実な方です。
    この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。】
     コリントの信徒への手紙一(1:4-9)

    実際、主イエス・キリストとの交わりに招き入れ、幸福感を味わって生きているからだろう。


    天地が造られる前から神は私を選んでおられたと言うことだろう。

    --聖書より--
    【わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。
    神は、わたしたちをキリストにおいて、天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で型なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
    イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
    神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
    わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。
    これは、神の豊かな恵みによるものです。
    神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。
    これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。
    こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。
    天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
    キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。
    それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。
    あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
    この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。】
    エフェソの信徒への手紙(1:3-14)

    つづく・・・



  39. 救いの確信について

    聖霊による。

    --聖書より--
    【聖霊によらなければ、だれでも
    「イエスは主である」とは言えないのです。】
     コリントの信徒への手紙(12:3)

    --聖書より--
    【イエスが言われた。
    「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
    シモン・ペトロが、
    「あなたはメシア、生ける神の子です」
    と答えた。
    ると、イエスはお容えになった。「シモン・バルョナ、あなたは幸いだ。
    あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。】
     マタイによる福音書(15:17)


    つづく・・・



  40. 心について

    わたしの心が、主の御心に沿うたものでありますように。

    今日一日の行いが、主の御心に沿うたものでありますように。

    主の御心よ、罪深き私を哀れみたまへ。


    つづく・・・



  41. マリア様について

    コンビニの本棚は女性の淫らな姿の表紙の雑誌があたり前のように置かれ、
    インターネットでは卑猥な動画が配信されているのが今の日本の現状です。
    青少年が異性に関心をもつころから大人になるまでそれらをみせられていたら、 女性というものがそうのようなものだと刷り込まれるのは当然です。
    そこから生じるのは、姦淫の目と女性蔑視とDVです。
    マリヤ様を慕うことは、女性への尊厳、清らかさを心に知らせることです。
    神が自ら貧しくなり人の子となり、マリヤ様の腕の中に任せられたことを思い浮かべましょう。
    赤ちゃんは一人では生きていけません。そしてあまりにも弱い存在です。
    マリヤ様は大変な状況のなかでイエス様を大事に育てました。
    人類の全ての救いがかかっているイエス様を。
    本当に感謝なことです。


    つづく・・・



  42. 選びについて

    マリヤ様は、神の子イエス・キリストの母になるように、神に選ばれた。
    マリヤ様が始めから優れた女性だったからではない。
    ただ神に選ばれたのである。
    恵まれた方。

    教皇様が頭脳が良いとかいい人だとかで選ばれたのではない。
    指導者として神に選ばれたのである。

    神に選ばれたということが重要なのである。
    だから、敬愛するのである。


    つづく・・・



  43. 人生について

    「人生は一回しかない」と信じるのと「人生は永遠だ」と信じるのとはでは生き方に大変な違いがでる。
    「人生は永遠だ」と信じるほうが貪る生き方をせず、余裕をもって感謝のうちに、人生を送ることが出来る。

    「人生は一回しかない」と信じ生きる人は悲惨な人生を送ることになる。
    1. ①、全ての人は罪人なので嫌なことを受けつづけていくために、人を恨み人を避ける人生となる。一生がそれである。
    2. ②、生まれつき、または人生の半ばで障害者となった場合、つらい人生となる。一度しかない人生がこれである。
    3. ③、人は老い衰えて行き死ぬ。そのような周りの人を見て行く。自分もである。それを体験していく一生である。悲惨な人生である。
    4. ④、人の為に生きるのは愚の骨頂である。一度しかない人生を他人の為に使うとは。
    5. ⑤、物を沢山集め、財産を築いたとしても楽しめるのはわずかな時間、そして幻であったかのように過ぎ去る。苦労して手にした物は死んで他人に渡る。一度しかない人生、愚かなバカ騒ぎである。
    6. ⑥、一度しかない人生、死んだら何もなかったかのように虚無である。

    「人生は永遠である」と啓示を受けた者は実に幸いな人生を送る。
    1. ①、たとへ上記の「人生は一回しかない」で記述した人生を送ったとしても、この世の死が新しい永遠の人生への開始なのである。 新しい天と地、良い人たちとの交わり、この上なく愛なる父との交わり、新しい住まい。この世の人生が悲惨なものでも耐えられられる。主イエスが再臨されるのを待つ喜びと期待の人生となる。
    2. ②、永遠の人生だから、時の金持ちである。困った他人の為に時間を余裕で使うことができる。
    3. ③、滅びる者が永遠の命と神からの祝福をうけたので、常に愛されているので日々喜びの生活かできる。

    神からの救いを受け入れ、永遠の命を得たものは実に幸いである。


    つづく・・・





  44.   喜びについて

    ただの土くれの私が、
    神が御手に私の名を刻み、
    私が滅びないように
    御子イエス・キリストを十字架に架け、代りに罰を受けさせるとは、
    死から復活し、栄冠を受け、天に昇られ、神に右の座に居られる主が、
    私を友として永遠に付き合って下さるとは、
    私の為に天に住まいを準備して下さっているとは、
    まだまだあが、こんなにしてくださってもらって、
    なにが喜ばずにいられようか。

    いやいや、本当の喜びは、 神が私を喜んでおられると言うことだ。
    --聖書より--
    【シオンよ、恐れるな
    力なく手を垂れるな。
    お前の主なる神はお前のただ中におられ
    勇士であって勝利を与えられる。
    主はお前のゆえに喜び楽しみ
    愛によってお前を新たにし
    お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。】
     ゼファニヤ書(3:16-17)

    主は私を喜ばれる
    主の私に向けられた笑顔に喜べ
    主は私を喜ばれる
    聖霊に満たされ喜び喜べ


    続く・・・。




  45.   人生の決算書

    会社がその年の決算書を提出する日がくるように、
    人も神の前に人生の決算書を提出する日がくる。
    しかしその決算書は、本人が書いたものではなく、神が書かれたものである。
    人は神に言い訳することはできない。事実が事細かに書かれているからである。
    人は見るのも嫌だろう。神の前に立つことさえできない。穴が有ったら入りたい気持ちだろう。いや、神の前から離れて地獄に入りたいと思うだろう。

    キリストに救われた者はどうであろう。
    罪はキリストが肩代わりして、負債は一切ない。
    罪は許されたどころか、神は忘れて下さっているのだ。
    神が愛の目で迎えてくれる。
    そして、用意された新しい天地へ連れて行って下さる。

    【わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。
    天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。
    わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。
    幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。
    それは命の書である。
    死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。
    海は、その中にいた死者を外に出した。
    死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
    死も陰府も火の池に投げ込まれた。
    この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。

    わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。
    最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
    更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
    そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
    「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。
    神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
    もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
    最初のものは過ぎ去ったからである。」
    すると、玉座に座っておられる方が、
    「見よ、わしは万物を新しくする」
    と言い、また、
    「書き記せ。れらの言葉は信頼でき、また真実である」
    と言われた。
    また、わたしに言われた。
    「事は成就した。
    わたしアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。
    渇いている者には、命の水の泉から価なし飲ませよう。
    勝利を得る者は、これらのものを受継ぐ。
    わたしはその者の神になり、その者はわたし子となる。
    しかし、おくびょうな者、不信仰な忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃え池である。
    それが、第二の死である。」】
     ヨハネによる黙示録(20:11-21:8)


    続く・・・。




  46.   終末について

    この世の終末は、必ず来ます。
    聖書で、この世を造った神が言われるから、
    神の子イエス・キリストが言われるから、
    これ以上確かなことはありません。
    そして、イエス・キリストを信じ、神の前に罪が無いとされた者は、新しい天と地へいきます。
    この世での命は短く、次の世は永遠です。

    終末とは神の裁きである。
    終末とは神に似せて造られた人間への裁きである。

    終末とは、クリスチャンにとって解放の日であり、始まりの日であり、喜びの日である。

    【人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
     そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く】
     マタイによる福音書(25:31-33)

    目を開けて見よ。世に毒麦がいかに多く生えていることか。

    【僕(しもべ)たちが、
     「では、行って抜き集めておきましょうか」と言うと、
     主人は言った。
     「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
     刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」】
     マタイによる福音書(13:28-30)

    【鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した】
     ヨエル書(4:13)

    イエス・キリストの救いに預かっているものは、地上のものが全て滅んでいくのを見るのである。

    【「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」
     この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。
     このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。
     感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。
     実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。】
     ヘブライ人への手紙(12:26-29)


    【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
     独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
     神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
     御子を信じる者は裁かれない。
     信じない者は既に裁かれている。
     神の独り子の名を信じていないからである。
     光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。
     それが、もう裁きになっている。
     悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
     しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたことが、明らかになるために。】
     ヨハネによる福音書(3:16-21)

    終末には2つあるのだろう。

    1つは、個人の終末である。自分が死んだら自分の終末である。他人事だと思っていたら「自分の番かよ。」と言ったものだ。
    2つ目は、この世の終わりである。これは1つ目の個人の終末も同時に起こるものだ。
    さらに、個人が残したものも。・・・なにもかも。
    この2つの終末について聖書でどうあるか調べてみよう。


    ・個人の終末について

    聖書 旧約から

    主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
    主なる神は人に命じて言われた。
    「園のすべての木から取って食べなさい。
     ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
     食べると必ず死んでします。」
    創世記(2・15-17)


     カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
     主はカインに言われた。
    「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
    カインは答えた。
    「知りません。
     わたしは弟の番人でしょうか。」
     主は言われた。
    「何ということをしたのか。
     お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。


     「お前は顔に汗を流してパンを得る
     土に返るときまで。
     お前がそこから取られた土に。
     塵に返る。」
    創世記(3・19)


    アダムは、・・・年生き、そして死んだ。
    セトは、・・・年生き、そして死んだ。
    エノシュは、・・・年生き、そして死んだ。
    ケナンは、・・・年生き、そして死んだ。
    マハラエルは、・・・年生き、そして死んだ。
    イエレドは、・・・年生き、そして死んだ。
    エノクは、・・・年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
    メトシェラは、・・・年生き、そして死んだ。
    ・・・
    レメクは、・・・年生き、そして死んだ。
    主は言われた。
    「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。
     人は肉にすぎないのだから。」
    こうして、人の一生は百二十年となった。
    ・・・
    創世記(5・5ー6・3)


    聖書 新約から



    続く・・・。


    ・この世の終末について

    イエス・キリストの言われることに耳を傾けてみよう。

    【イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。
    そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
    またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。
    そこでイエスは答えて言われた、
    「人に惑わされないように気をつけなさい。
    多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
    また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
    民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
    しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
    そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
    そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
    また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
    また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
    しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
    そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
    預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
    そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
    屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。
    畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。
    その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
    あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。
    その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
    もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。
    そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
    にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
    見よ、あなたがたに前もって言っておく。
    だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。
    ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。
    死体のあるところには、はげたかが集まるものである。
    しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
    そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
    また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
    いちじくの木からこの・を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
    そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
    よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。
    天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
    その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
    人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
    すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
    そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
    そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
    ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
    だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
    このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
    だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
    主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。
    主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。
    よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。
    もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、
    その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、
    その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、
    彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
    そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
    その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
    思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
    しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
    花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
    夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

    そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
    ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
    すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
    彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
    そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
    しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
    だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
    また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。
    すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。
    五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。
    二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。
    しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。
    だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。
    すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。
    主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。
    二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。
    主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。
    一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。
    そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。
    すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。
    それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。
    さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。
    おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
    この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
    人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
    そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、
    羊を右に、やぎを左におくであろう。
    そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
    あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
    裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
    そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
    いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
    また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
    すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
    それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
    あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、
    旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
    そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
    そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
    そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。】
    マタイによる福音書(24-25)


    聖書 旧約から


    【主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
     主は言われた。
     「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。
      人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。
      わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
     しかし、ノアは主の好意を得た。

     これはノアの物語である。
     その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。
     ノアは神と共に歩んだ。
     ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。】
     創世記(6・5ー10)

    【この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。
     神は地を御覧になった。
     見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。
     神はノアに言われた。
     「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。
      彼らのゆえに不法が地に満ちている。
      見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。
      ・・・」】
    創世記(6・11ー13)




    聖書 新約から

    「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。
     もろもろの天は、あなたの天の業である。
     これらのものは、やがて滅びる。
     だが、あなたはいつまでも生きている。
     すべてのものは、衣のように古び廃れる。
     あなたが外套のように巻くと、
     これらのものは、衣のように変わってしまう。
     しかし、あなたは変わることなく、
     あなたの年は尽きることがない。」
    ヘブライ人への手紙(1・10-12)


    主は言われた。
    「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。
    人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。」
    創世記(6・7)


     この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。
    神は地を御覧になった。
    見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。
    神はノアにいわれた。
    「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。
    彼らのゆえに不法が地に満ちている。
    見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。」
    創世記(6・11-13)


     見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。
    地上のすべてのものは息絶える。
    創世記(6・17)


    主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。
    創世記(7・16)


     地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも、ことごとく息絶えた。
    乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ。
    地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。
    創世記(7・21-23)


    続く・・・。



  47.   永遠の命について
    --聖書より--
    【イエスは言われた。
    「この世の子らはめとつたり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
    この人たちは、もはや死ぬことがない。
    天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
    神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」】
      ルカによる福音書(20:34-38)



    続く・・・。



  48.   死について

    死とは個人的なものである。
    すべてを失うものである。よって哀れなものである。
    もう努力しようが無い。よって哀れなものである。
    文句の一つも言えない。よって哀れなものである。

    人の死はあっけないものである。人はあっけなく死ぬ。
    しかし、自分の死は長く、重い。
    死とは個人的なものである。

    進化論を信じている者にとって死は恐ろしいものであって、終わりであって、今までのことを虚無にするのであって、耐えられないことがあった場合の逃げ場である。
    進化論者、唯物論者にとって、生きるも死ぬるも虚無である。空しいのである。
    キリスト者にとって、この世は神の栄光の場である。
    進化論者、唯物論者は、この世に未練たらたら死ぬのである。
    キリスト者は、この世に思い残すことなく生き、死ぬ(この世を去る)のである。

    世の人は皆原罪があるので恨みと悔やみの中で死ぬのである。
    世の人は皆原罪があるので人との関わりに苦しみ、この世を自ら去るのである。

    神を信じ、イエス・キリストを信じている者にとって死はほっとする所であって、希望であって、新しく素晴らしい世界の始まりである。
    世の人は皆原罪があるので恨みと悔やみの中で生きるが、キリストに従い赦し、キリストに赦されこの世で御国を味わうのである。
    世の人は皆原罪があるので人との関わりに苦しむが、確実な新しい世界を待ち望むので耐えることが出来、人に優しく出来るのである。


    続く・・・。



  49.   何故生きなければならないのか

    喜んでいるときは、「何故生きなければならないのか」など考えることもない。
    しかし、神を離れた時、1人で思う。

    そのような私に、神が「生きよ」と言われる。

    --聖書より--
    【しかし、わたしがお前の傍(かたわ)らを通って、
    お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、
    わたしは血まみれのお前に向かって、
    『生きよ』と言った。
    血まみれのお前に向かって、
    『生きよ』と一言ったのだ。】
      エゼキエル書(16:6)




    続く・・・。



  50.   赦すことについて

    「あいつだけは、赦さない。」
    「あいつらだけは、赦さない。」
    と言った思いは、人には有るものです。

    そして、苦しいものです。

    さらに、クリスチャンにとって苦しいのは赦すことです。
    クリスチャンは、この世のものでなくなったのでこの世は攻撃します。
    赦さなければならないことが多くなり尋常ではない。
    ただ神にお任せし、赦すことに専念するだけです。
    辛い戦いです。
    幸いなことは、これは天国に行く訓練だと気が付くことです。

    赦せなかった人を、聖霊の力により赦せた時、その人を自分のように愛する自分の心に幸せが、神の国が訪れを体験するでしょう。

    イエス・キリストはこのように祈りなさいとおっしゃいました。
    【天におられるわたしたちの父よ、
     み名が聖とされますように。
     み国が来ますように。
     みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
     わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。
     わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
     わたしたちを誘惑におちいらせず、
     悪からお救いください。】
      マタイによる福音書(6:9-13)

    この中で人がすることは「わたしたちも人をゆるします。」ただ一つです。

    本当に許したとは、そのことを忘れることです。
    赦すとはわたしを迫害するものの為に、負債(罪)のあるものの為に祈ることです。
    相手を自分のように愛せた時です。

    時代が悪いと地域が悪いと、赦すことだらけでどうにかなりそうです。
    抜け出したい。しかし、そうたやすく抜け出せない場合があります。
    イエス・キリストは、愛と赦しでどこまでも向かって行きました。
    イエス・キリストからこの悪い時代、悪い地域に派遣されたと考えるべきです。
    たずさえているものはイエス・キリストからの愛と赦しの模範です。
    そして変わらぬ信仰と希望です。
    聖霊様の助けにより、力強く、エネルギッシュに生きるのです。
    この世に、イエス・キリストの光を灯せ、闇は光に勝てません。

    「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。」

    イエスが裁判に立たされた時、群衆は「十字架に付けよ」「十字架に付けよ」と何度も叫びました。
    中には、イエスに病を癒された者もいたのではないかとも思います。
    イエスは多くの人を癒したのですから。
    人の残酷さ、罪深さを知ったものは想像できるでしょう。
    イエスは裸にされ、棘のあるローマの鞭で打たれました。
    服はローマ兵がくじ引きをして分け合いました。
    役人とは心を売った者たちなのか。
    いばらの冠をかぶせられ、
    刑場まで自分が架かる十字架を背負らされ歩かされ、町中引き回しされました。
    手と足を十字架に釘付けされ、そして立てかけられました。
    自分の全体重の重みが、釘付けされた手足にかかり、
    その苦痛は、いかばかりでしょう。
    そして、死のまぎは、

    イエスは言われた。
    「父よ。彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

    自分がこれから死ぬという時にです。

    赦せない硬い私の心は、溶けて流れます。
    赦しますので、私の罪をもお許し下さい。



    続く・・・。




  51. 災難、災いについて

    何事も、父なる神のお許しがなければおきない。
    聖書にあるヨブ記を参考にせよ。
    神と共に雄々しく歩め。

    また、クリスチャンにとって、神の罰ではなく、懲らしめである場合がある。
    よく今の道を顧みて、クリスチャンとしての道に戻り歩め。

    --聖書より--
    【わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
    裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。】
     コリントの信徒への手紙(11:31-32)



    つづく・・・





  52.   境遇について

    何事も、父なる神のお許しがなければおきない。
    神と共に雄々しく歩め。
    神はあなたを選んだ。

    --聖書より--
    【人の歩みは主によって定められる。
     主はその行く道を喜ばれる。】
     詩篇(37:23)

    神と共に雄々しく歩め。
    神はあなたを選んだ。

      


      続く・・・。



  53.   試練について

    神がお与えになった試練。
    何の不服が御座いましょう。
    イエス・キリストを仰ぎ見つつ、神を信じ歩みましょう。
    天国は近い。

    --聖書より--
    【あなたがたを聾(おそ)った試練で、人間として耐えられないようなものはな かったはずです。
    神は真実な方です。
    あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。】
     コリントの信徒への手紙一(10:13)

    聖霊様の助けによって生きる。

    試練は信仰を本物にする。
    鍛錬され本物に近づく。
    鍛錬され、この世にあって主に近づく。


    続く・・・。



  54.   人生の勝利者について

    イエスは死んだ。
    ぼろ切れのように、木にかかられ死んだ。
    殺されて死んだ。
    完全に死んだ。
    墓に運ばれた。
    敗者。
    しかし、三日目に蘇った。
    勝利者となった。
    天に昇られ神の右の座についた。
    勝利者となった。
    完全な勝利者となった。
    イエス・キリストを受け入れたものは、その勝利にあずかる者となるとされた。
    イエス・キリストに繋がっている者よ、喜べ、喜び喜べ。
    汝は、人生の勝利者である。
    決定である。
    みなぎる力に生きよ。




    続く・・・。



  55. 癒し主であるイエス・キリストについて

    【大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気を癒し】
     マタイによる福音書(12:15)

    大勢の群衆がイエスの後について行った。
    【イエスは皆の病気を癒し】とある
    彼らは病気を持っていたのである。
    腕のなえた者、
    足を引きずりながらついて行く者、
    皮膚に膿みを出しながらついて行く者、
    痛むお腹をさすりながらついて行く者、
    目が見えない者、
    ああ何という群衆だ
    しかし、イエスは全て癒した。
    手を置いただろう。彼は心も癒された.
    病による多くの辛い人生、癒されたのである。
    イエス・キリストの栄光を受けたのである。

    しかし、かれらは何年か後は、やはり死ぬだろう。
    「死の病」
    イエスは十字架を抱えゴルゴダの丘を登られたのである。
    彼らの「死の病」を癒す為に。



    つづく・・・。




  56. 救いについて

    罪のあるわたしは、滅びる運命にあったが、
    神の子イエス・キリスト様が、代りに罰を受け、
    死んでくださった。
    イエス・キリスト様は、3日目に復活して、みんなに現れ、天に昇り、
    神の右の座につかれた。栄光をお受けになった。
    ゆえに私は救われた。永遠の救いに入れられた。

    --聖書より--
    【〔主よ、〕見前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、
    朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。
    全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
    改心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
    あなたは存在するものすべてを愛し、
    お造りになったものを何一つ嫌われない。
    憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
    あなたがお望みにならないのに存在し、
    あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。
    命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
    あなたはすべてをいとおしまれる。
    あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。
    主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、
    罪のきっかけを思い出させて人を諭される。
    悪を捨ててあなたを信じるようになるために。】
     知恵の書(知恵11・22~12・2)

    救いの一つにこの世の悪の世からの救いである。
    --聖書より--
    【この悪のよからわたしたちを救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪の為に献げてくださったのです。
    わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。】
     ガラテヤの信徒への手紙(1:13)

    最終的に救いとは、死、滅び からの救いである。
    --聖書より--
    【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
    独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
    神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
    御子を信じる者は裁かれない。
    信じない者は既に裁かれている。
    神の独り子の名を信じていないからである。
    光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。
    それが、もう裁きになっている。
    悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
    しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたことが、明らかになるために。】
     ヨハネによる福音書(3:16-21)


    人は自分の罪に苦しむ。罪の先は死であり滅びであるから、人は本能的に苦しむのである。
    人はこの苦しみから逃れようと七転八倒するのである。
    本当は当たり前と思っている、死からの救いに七転八倒すべきなのに、誰もが死んでいるので考えようとしないのである。
    ゆえに、根本てきな救いとは罪からの救いではなく、死、滅び からの救いである。
    また、罪が無くらなくては、死、滅び からの救いはないのである。
    聖書には、死、滅び からの救いが書かれてあるのである。
    また、罪からの救いが書かれてあるのである。


    ・聖書 旧約から

    --聖書より--
    【お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
    わたしは敵意を置く。
    彼はお前の頭を砕き
    お前は彼のかかとを砕く。】
     創世記(3・15)


    --聖書より--
    【主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。】
     創世記(3・21)


    --聖書より--
    【アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
    主はアベルとその献げ物に目を留められた】
     創世記(4・4)


    --聖書より--
    【アダムは、・・・年生き、そして死んだ。
    セトは、・・・年生き、そして死んだ。
    エノシュは、・・・年生き、そして死んだ。
    ケナンは、・・・年生き、そして死んだ。
    マハラエルは、・・・年生き、そして死んだ。
    イエレドは、・・・年生き、そして死んだ。
    エノクは、・・・年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
    メトシェラは、・・・年生き、そして死んだ。
    ・・・
    レメクは、・・・年生き、そして死んだ。
    主は言われた。
    「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。
    人は肉にすぎないのだから。」
    こうして、人の一生は百二十年となった。
    ・・・】
     創世記(5・5ー6・3)


    --聖書より--
    【ノアは主の好意を得た。
    これはノアの物語である。
    その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。
    ノアは神と共に歩んだ。
    ・・・
    ノアは、洪水の後三百五十年生きた。
    ノアは九百五十歳になって、死んだ。】
     創世記(6・8-29)


    続く・・・。


    ・聖書 新約から


    --聖書より--
    【それから、弟子たちに言われた。
    「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
    自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
    人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
    自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。】
     マタイによる福音書(16:24-26)

    --聖書より--
    【イエスは言われた。
    「わたしは復活であり、命である。
     わたしを信じる者は、死んでも生きる。
     生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
     このことを信じるか。」】
     ヨハネによる福音書(11:25-26)

    --聖書より--
    【イエスは言われた。
    「わたしは道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなけらば、だれも父のみのとに行くことができない。」】
     ヨハネによる福音書(14:6)


    続く・・・。


  57. 復活と新しい天と地について

    聖書 旧約から

    エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
    創世記(5・24)


    つづく・・・




    聖書 新約から



    続く・・・。



  58. 信仰について

    信じるのである。
    イエス・キリスト様をただ信じるのである。
    ただ、ただ信ずるのである。

    イエス・キリストとの繋がりの始めは信仰である。
    父なる神との繋がりの始めは信仰である。
    イエス・キリストとの交わりの始めは信仰である。
    父なる神との交わりの始めは信仰である。

    --聖書より--
    【信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
    昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
    信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
    信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
    信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
    信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
    信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
    信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。
    信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みまし。
    アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。
    信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。
    それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
    この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
    このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
    もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
    ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
    信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
    この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ぱれる」と言われていました。
    アブラハムは、神が入を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
    信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。
    信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ョセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかつて神を礼拝しました。
    信仰によって、ョセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。
    信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。
    信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。
    信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。
    信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことのがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。
    信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
    信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。
    信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
    これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムェル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。
    信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。
    女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。
    また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。
    彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。
    ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。
    神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
    こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。】
     ヘブライ人への手紙(11:1- 12:2)




    続く・・・。

  59. 信仰生活について

    イエス・キリストを喜ぶ生活である。
    イエス・キリストを楽しむ生活である。
    イエス・キリストに従う聖なる生活である。
    イエス・キリストとの真実の交わりの生活である。
    イエス・キリストの測りしれない愛の高さと深さを知って行く生活である。

    【律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。
    「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
    律法によってはだれも神の御前で菱とされないことは、明らかです。
    なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からでる。
    律法は、信仰をよりどころとしていません。
    「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。
    キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。
    「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
    それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けとるためでした。】
      ガラテヤの信徒への手紙(3:10-14)


    つづく・・・


  60. 信仰生活について(戦い)

    不信仰との闘いである。
    信仰者の最大の敵は、不信仰である。
    不信仰は、神との交わりを断とうとする。
    救いがないことを嘆かせようとする。
    神がいない絶望に陥らせようとする。
    不信仰はすべてを滅ぼし、虚無の闇に葬る。
    すきを見せればすかさず襲ってくる。
    気をゆすせば捕まる。

    信仰生活の最大の敵は不信仰だ。

    この戦いは、厳しいものだ。
    何度となく襲ってくる。
    怒るべきは不信仰だ。
    憎むべきは不信仰だ。
    殺すべきは不信仰だ。
    今すぐ信仰の刀で不信仰を真っ二つにたたっ切れ。

    不信仰者との付き合いは避けるべきだ。
    しかし、信仰者は不信仰者の中の光だ。
    神は信仰者を不信仰者の中から直ぐに取り出すのを望まない。
    医者は病人がいるところに行くのだ。
    働け、信仰の光を輝かせ、神にもういいよと言って不信仰者の中から取り出すまで。
    きつい仕事だ、しかし栄光ある仕事だ、主の十字架の端を持てるとは。
    いい役目だ、喜ばしい役目だ。

    --聖書より--
    【最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
    悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
    わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
    だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つこと力できるように、神の武具を身に着けなさい。
    立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
    なおその上に、信仰を盾として取りなさい。
    それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
    また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
    どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
    また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
    わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語ることは大胆に話せるように、祈ってください。】
     エフェソの信徒への手紙(6:10-20)

    この戦いの相手は強く乱暴な人ではない。
    しかし、とんでもない強い相手だ。
    それに対し私はあまりにも弱い。
    しかし、【強くなりなさい】と励ましている。
    だからと言って肉体的な鍛錬をして力で勝とうとするのではない。
    武具を付けて、武器を持ち強くなることだ。 しかし、それは霊的な武具だ。

    --聖書より--
    【最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
    悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
    わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。】
     エフェソの信徒への手紙(6:10-12)

    相手に対してあまりにも弱い自分を認め、主に依り頼み戦うこどだ。
    これは神の戦いなのだから。

    --聖書より--
    【肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するらです。】
     ガタテヤの信徒への手紙(5:17)

    イエス・キリスト受け入れ、イエス・キリストによって新しく生まれ変わったものは、内に古い人と新しい人を持つ。

    --聖書より--
    【神の内にいつもいると言う人は、
     イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。】
     ヨハネの手紙一(2:6)

    激し戦いである。

    イエスが荒野で悪魔から受けた誘惑を思う。

    あらゆる出来事において、対処において、
    神はいるのだという選択、生き方、厳しいものだ。

    イエスが荒野で悪魔から受けた誘惑に勝利をしたことを思う。

    弱く脆い(もろい)ゆえに
    有るという父なる神に絶対的な信仰と信頼を持てますように。
    イエス様は生きておられる、イエス様は決して死ぬことはないと言う信仰をいつももてますように。
    それゆえに私も永遠に守られ、永遠に生きるという確信を常にもてますように。
    イエス様は永遠の王、永遠の主であることを常に思い生きられますように。

    イエスが荒野で悪魔から受けた誘惑に勝利をしたことを思う。

    怒るに早く誘惑に弱いゆえに
    イエス・キリストの私の身代わりの罰と死の助けによって
    とりなしの祈りによって、守られ赦され、聖くされ生きられますように。

    聖霊様の助けによりて、
    イエス様が再びこられること、
    故郷は天であること、そして帰れること
    イエス様が天に私の住まいを用意されていることを信じられますように。
    神による、イエス様による、良い全てのことを受け入れ喜びますように。



    つづく・・・




  61. 報酬について

    最初クリスチャンは、良いことをしても、他人に尽くしても報われないことに苦しみます。
    世の人があまりにも恩知らずなことを知っていきます。
    やる気を無くすことがあります。でもクリスチャンのさがで良いことをしていきます。熱心さが薄れてきます。

    それは、この世での報いを求めるからです。
    クリスチャンは、天国が約束されているのだから、天国で必ず報いを受けることに早く気が付くことが大事です。
    この世のちんけな報酬を喜んではいけない。クリスチャンは必ず天国にいくのです。そこでの報酬を考えてみなさい。
    わたしたちの希望、天国で報酬を受けることの方が良いでしょう。

    --聖書より--
    イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラャの間を通られた。
    ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、
    「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
    イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、
    「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。
    彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
    その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
    そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。
    この人はサマリア人だつた。
    そこで、イエスは言われた。
    「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
    この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
    それから、イエスはその人に言われた。
    「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」】
     ルカによる福音書(17:11-19)

    この後、イエス様は、人を癒しませんでしたか。
    いや、ますます人を癒し、最後は人の罪の病、死の病まで力強く生き癒しました。
    イエス様は、死をもって完了後、3日目に甦り、天に上り、神の右の座につき、王の王となられました。栄光をお受けになられました。
    イエス様に習いましょう。
    天国での報いを見て、この世で力強く生きましょう。


    つづく・・・




  62. 孤独について

    孤独の時間が持てることを感謝するように心がけよう。

    救い主イエス様とお話することができる。聖書に耳を傾け、声をかける祈りもできる。
    勉強の時間がもてる。孤独でなければ勉強できない。
    仕事もそうである。
    孤独であると神がお創りになった物を一人静かに鑑賞することができる。
    音楽も聞くことが出来る。
    本も読むこともできる。
    映画も見ることが出来る。
    思索に耽ることこともできる。
    孤独は感謝だ。
    何人もの人とスポーツをすることも楽しいが、孤独の良さにも気づくことも大事だ。

    孤独の時間を大事にしなければ人は成長しないともいえる。

    つづく・・・




  63. 悪事を謀(はか)る者について

    --聖書より--
    【悪事を謀る者のことでいら立つな。
    不正を行う者をうらやむな。
    彼らは草のように瞬く間に枯れる。
    青草のようにすぐにしおれる。
    主に信頼し、善を行え。
    この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
    主に自らをゆだねよ
    主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
    あなたの道を主にまかせよ。
    信頼せよ、主は計らい
    あなたの正しさを光のように
    あなたのための裁きを
      真昼の光のように輝かせてくださる。

    沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
    繁栄の道を行く者や
    悪だくみをする者のことでいら立つな。
    怒りを解き、憤りを捨てよ。
    自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。
    悪事を謀る者は断たれ
    主に望みをおく人は、地を継ぐ。
    しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。
    彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。
    貧しい人は地を継ぎ
    豊かな平和に自らをゆだねるであろう。
    主に従う人に向かって
      主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
    主は彼を笑われる。
    彼に定めの日が来るのを見ておられるから。
    主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り
    貧しい人、乏しい人を倒そうとし
    まつすぐに歩む人を屠ろうとするが
    その剣はかえって自分の胸を貫き
    弓は折れるであろう。
    主に従う人が持っている物は僅かでも
    主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。
    主は御自分に逆らう者の腕を折り
    従う人を支えてくださる。
    無垢な人の生涯を
      主は知っていてくださる。
    彼らはとこしえに嗣業を持つであろう。
    災いがふりかかっても、うろたえることなく
    飢饉が起こっても飽き足りていられる。
    しかし、主に逆らい敵対する者は必ず滅びる
    献げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。
    主に逆らう者は、借りたものも返さない。
    主に従う人は憐れんで施す。
    神の祝福を受けた人は地を継ぐ。
    神の呪いを受けた者は断たれる。

    主は人の一歩一歩を定め
    御旨にかなう道を備えてくださる。
    人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
    主がその手をとらえていてくださる。
    若いときにも老いた今も、わたしは見ていない
    主に従う人が捨てられ
    子孫がパンを乞うのを。
    生涯、憐れんで貸し与えた人には
    祝福がその子孫に及ぶ。
    悪を避け、善を行えば
    とこしえに、住み続けることができる。
    主は正義を愛される。
    主の慈しみに生きる人を見捨てることなく
      とこしえに見守り
    主に逆らう者の子孫を断たれる。
    主に従う人は地を継ぎ
    いつまでも、そこに住み続ける。

    主に従う人は、口に知恵の言葉があり
    その舌は正義を語る。
    神の教えを心に抱き
    よろめくことなく歩む。
    主に逆らう者は待ち構えて
    主に従う人を殺そうとする。
    主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
    罪に定められることをお許しにならない。
    主に望みをおき、主の道を守れ。
    主はあなたを高く上げて
      地を継がせてくださる。
    あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。
    主に逆らう者が横暴を極め
    野生の木のように勢いよくはびこるのを
      わたしは見た。
    しかし、時がたてば彼は消えうせ
    探しても、見いだすことはできないであろう。
    無垢であろうと努め、まつすぐに見ようとせよ。
    平和な人には未来がある。
    背く者はことごとく減ぼされ
    主に逆らう者の未来は断たれる。
    主に従う人の救いは主のもとから来る
    災いがふりかかるとき
      砦となってくださる方のもとから。
    主は彼を助け、逃れさせてくださる
    主に逆らう者から逃れさせてくださる。
    主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。】
     詩編(37章)


    つづく・・・




  64. 悪との戦いについて

    この戦いは神の戦いであるので、必ず勝つ。 すでに勝っている。 悪は自分を不幸にし、他人を不幸にし、家庭を不幸にし、 世を不幸にする。 最大の敵である。 聖書は神が人間に下さったマニュアルである。 イエス様が誘惑と悪と戦ったことが書かれてあるが。 イエス様は聖書のみ言葉で誘惑と悪を退けられた。 ゆえに聖書の御言葉を読み黙想し蓄えることは大事だ。 悪に勝つために。

    つづく・・・




  65. キリスト者の鍛錬について

    世界のことは知らないが、日本人は鍛錬が好きである。
    体を鍛錬する。精神を鍛錬する。など、
    では、キリスト者の鍛錬とはどのようなものであるべきであろう。
    キリスト者は身も魂も主に御血潮で買い取られたのである。
    それを主から主がもう一度来られるまで預かっているのである。
    粗末な扱いをしてはならない。
    大事にあつかわなければならない。

    聖書には下記のような御言葉がある。
    【主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と 信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与え てくださいました。
    それは、わたしたちを御自身の栄 光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させ ることによるのです。
    この栄光と力ある業とによっ て、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられてい ます。
    それは、あなたがたがこれらによって、情欲に 染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせ ていただくようになるためです。
    だから、あなたが たは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、 信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
    これらのものが備わり、ますます豊かになるなら ば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、 わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるで しよう。
    これらを備えていない者は、視力を失って います。
    近くのものしか見えず、以前の罪が清められ たことを忘れています。
    だから兄弟たち、召されて いること、選ばれていることを確かなものとするよう に、いっそう努めなさい。
    これらのことを実践すれば、 決して罪に陥りません。
    こうして、わたしたちの主、 救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入るこ とができるようになります。】
      ペテロの手紙二(2:3-11)

    私たちキリスト者は、「力を尽くして」これらのことを鍛錬しなければならない。

    「力を尽くして」信仰を持たなければならない。
    キリストのみに信仰と信頼をもって生きなければならない。

    「力を尽くして」信仰に徳を加えなければならない。

    「力を尽くして」徳に知識を加えなければならない。

    「力を尽くして」知識に自制を加えなければならない。

    「力を尽くして」自制に忍耐を加えなければならない。

    「力を尽くして」忍耐に信心を加えなければならない。

    「力を尽くして」信心に兄弟愛を加えなければならない。



    つづく・・・




  66. ロボットとは

     ロボットは機械である。人間とは違う。

     人間は神によって、神ににせて創られたもの。
    ロボットは被造物である人間が作った物。または、被造物であるロボットが作った物。

    進化論の視点からみたらネズミも豚も人間も同じ、そしてロボットも同じ。


    つづく・・・


  67. 自由について

      ロボットには自由がありません。プログラムに従って動くだけです。プログラムにランダム関数を組み込んだとしてもそれは数学的に答えをだすだけであって、ロボットの意思ではありません。サイコロを振るような総合的因果関係による成り行きです。AIによる答えでも、それは膨大なデータからの総合的な因果関係によるものです。ロボットは叫ぼうが泣こうがプログラムの通りなのです。ビリヤードの玉のように打つ前からコース(泣く、叫ぶ)のは決まっているのです。

      人間も土から創られました。よって、この世の物であり、有限な物です。ゆえにロボットのように総合的な因果関係に振り回されます。しかし人間には自由があります。選択の自由があります。根拠は、聖書に「神がご自身ににせて人を創られた。」とあるからです。人間は、神のコピーなのです。5,000人もの乗客を乗せる豪華客船、空を飛ぶジャンボジェット機、実際にあなたの目で見てみなさい。また、この文章を書いている私は人間です。人間は神ににせて創られたのです。人間は、単なる土くれではないのです。物ではないのです。ロボットではないのです。
    人間は、自分で価値観を決め目的を定め走り努力することができます。2020年に東京オリンピックがありますが、選手は皆賞を得ようとそれに向けて今、節制をし自分に鞭打って大変な練習をしていることでしょう。この日々の選択と行動にも強い自由意志が見られます。これもロボットと違うところでしょう。

      また、聖書には「神は、人に息を吹き込まれた」とあります。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。」(聖書)です。ロボットはちりに帰るだけです。
    この霊をなんと言おうか。ただ、人間の叫びは、ロボットのように予定された叫びではなく、魂のこもった全存在をかけた叫びなのです。あなたの叫びなのです。あなたは有るのです。あなたには自由意思があるのです。
    見えるものだけが在るのではないのです。空気は見えますか。電波は見えますか。見えなくても在るのです。また、測れるものだけが在るのではありません。親の愛は測れますか、あなたの大事な人への愛は測れますか。でも有るのです。
    必要なものほど見えないのです。大事なものほど見えないし、測れないのです。
    現代人の不幸の一つは、見えないものは無いとし、測れないものを測ろうとするところにあるような気がします。
    見えるものは見えないモノからでき、見えないモノが見えるもの(この世)を支配しているのです。
    あなたには自由意思があるので人生の方向を決められます。しかし、あなたはあくまでこの世のものであり有限です。
    神には始めが無く終わりがありません。有るという方です。
    神のお許しが無ければ、雨の一粒でさへ、その時その場所には落ちません。
    悪魔でさへ神の許しが無ければ、その悪だくみを行えないのです。(聖書:ヨブ記)
    「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。」と神は聖書によって言われます。この道はあなたが選んだのではありません。神が定めて下さったのです。貴方は信じて従うのです。貴方が信じて従うこと、それが自由なのです。神に従うことそれこそ真の自由なのです。貴方がそれに至りますことを祈ります。
     また貴方は、迷信に惑わされていませんか。死に惑わされていませんか。聖書にあります「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)と、またイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)と言われました。

        聖書にバルティマイという盲人の話があります。彼は物乞いで生計を立てていました。人通りの多い道端に座り、前に上着を敷き、人から食べのやものをもらって暮らしていました。彼は長年の経験でその人が気前のいい人か、けちん坊か、優しい人か、殴ったり蹴ったりする乱暴ものか、分かるようになっていました。目は見えませんが、彼の人を見る目は鋭くなっていました。ある時、ナザレのイエスの話を聞きました、そして今日、その方が目の前を通りました。彼は分かったのですイエスが特別な方であることを。彼は全身全霊で叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。何度も何度も。弟子や多くの人は、彼を黙らせようと叱りました。弟子や多くの人もこのイエスがあの言い伝えのダビデの子であると信じていたからです。言い伝えによるとダビデの子が現れて革命を起こしローマの圧政から開放してくれると、さらに昔のユダヤの王国を再建してくれる方であると思っていたからです。その方がいまエルサレムに行こうとしているのです。今もしこのことがローマ軍に知れたら革命が水の泡となることを弟子たちは危惧したからです。でも彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
      盲人はその大事であった商売道具の上着を放り投げ、躍り上がってイエスのところに行きました。 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」といいました。たぶん、盲人は目が見えるようになり、物乞いの道具である上着に頼ることなく自由に生きたかったのではないのでしょうか。深読みすれば、何にも頼らず自由に生きたいのですと言いたかったのかもしれません。そしてあなたについて行きたいのですと、そしてあなたをもっと知りたいのですと。
    そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。と聖書にあります。

      しかし、人は目が見えるようになったからといって、人生の道を自由に歩けるわけではありません。
    パウロは、聖書のなかで「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。「わたしはなんと惨めな人間なのだろう」と嘆いています。

      そうです人は皆、生まれながらに罪人であって、誰もが罪の奴隷なのです。先に人間には選択の自由があると書きましたが、悲しいかな事実は人間は、望んでいることができない惨めな罪の奴隷なのです。
    聖書には、何故人間に罪が在るのか、罪人の子であるのかも書かれてあります。
     さらに人間には逃れられない死があります。鎖につながれ行きたくなくても死へと引かれれて行く自分の姿が見えませんか。その鎖は頑丈で冷たく重くゆっくりとそして早く死の門へと私を引っ張っていくのです。逃れることなどできません。人間には死と言う絶望があるのみです。ただただ絶望が前にあるのみです。
    さらに、たたみ掛けるように聖書では、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているとあります。だれも神の裁きからのがれられません。聖なる神の前で、罪と後悔が走馬灯のように駆け巡り、私は自分の胸を何度も打つでしょう。何度も何度も。さらに、私達人類は全て罪人の子です。だれが永遠の裁き、死からのがれられるでしょうか。

     どうすればいいのでしょう。目が見えるようになったバルティマイは、イエスに従って行きました。その道には喜びと希望がありました。そして、イエス様はなんて優しい人なのだろうと思った。
    しかし、彼が見たものは、革命ではなく、捕らえられ、辱めを受け、鞭打たれ、十字架につけられ、死んだイエスの姿でした。弱いイエス。バルティマイは今まで、悪い人には激しく怒り、激しく抵抗して生きてきた。それで無ければ生きていけなかったからだ。強くなければ生きていけない。しかし、イエスは抵抗することなく引かれ、抵抗することなく鞭打たれ、木にかけられ、死んだ。 弱いイエス。 絶望・・・  。

    しかし、イエス・キリストは死んだ後、3日目に蘇り信徒に現れました。そして、多くの信徒の前で天に昇られました。
    バルティマイは開かれた目で、復活したイエスに会い、天に昇られたイエス・キリストを見上げたのです。彼は栄光をみたのです。
    彼は知りました。イエス様は、私が死と罰をあじあわないように、滅びないように、聖いご自身を神にささげられたことを。私の身代わりに死と罰を受けられたことを。木にかかられたことを。呪われたことを。
    バルティマイはイエス・キリストと父なる神の愛を本当に知ったのです。聖霊が下り彼は新たにされ、イエス・キリストと結びあわされ、イエス・キリストとの完全な交わりに入り、イエス・キリストとの思いが一つになりました。彼は死と神からの罰から解放され、イエス・キリストを知り、死から解放され、永遠の命を得、自由を得たのです。
    バルティマイは変わりました。優しくていいんだ、弱くていいんだ。彼は平安を得たのです。

     イエスは言われました。「わたしが生きているので、あなたがたも生きる」(聖書より)
    人間にとって信仰によってイエス・キリストを知ること、それが永遠の命をえることです。地に従うの ではなく、選んで神の子救い主イエス・キリストに従うことが、自由を得ることなのです。
     今、自由を得るためにあなたの自由意思を使いなさい。人をも神をも信じられない自分をかなぐり捨て、私は貴方を信じたいのですと叫びなさい。神はおられます、貴方の手を引き上げてくださるでしょう。ある人を信じると言う行為はその人に対する最高の敬意です。ならば、人間が神に対してできる最高の行為は神様を信じるという行為です。神が最愛の独り子を地に使わし、あなたが滅びないように身代わりに十字架で死なせました。この神の行為を信じないならば、聖書にある通り滅んで当たりまえです。神を信じる時、新しい命が始まるのです。神との交わりがはじまるのです。また、今貴方を縛っているあらゆる縄目から解放されるのです。
     昨日のことは過ぎ去ったことなので人にはどうすることもできません。明日もどうなるかわかりません。来るか来ないかもわかりません。あなたに出来ることはいつも今なのです。今、神を信じましょう。神様は真実なかたです。答えて下さいます。

    「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(聖書マタイ11:28〜30)


  68.   人間のマニュアル、あなたのマニュアルについて

      今の人間は、ものを作ると操作マニュアルを作ります。テレビやパソコン、スマートフォン、それぞれのマニュアルを必ず作ります。スマートフォンよおまえは何のためにあるのか、マニュアルにはちゃんと書かれてあるのです。ロボットにもです。
    人間でさへ自分で作ったものにはマニュアルを書くのですから、人間を創られた創造主が、人間にマニュアルを作ってわたさないわけがありましょうか。それが聖書です。人間の創造主は、人間の前に聖書というマニュアルをおきました。人間に、生き方ついて、幸せについて、罪について、救いについて、満たしについて、これからのことについて、永遠の命を得るにはどうしたらいいかについて。今本当にあなたに必要なことが書かれているのです。
    スマートフォンの詳細で完全なマニュアルをつくれるのは、その設計者だけです。人間の詳細で完全なマニュアルを作れるのは、人間を創った神だけです。

      ロボットが読むマニュアルに書いてあるのは、命令と禁止です。それをしなさい。それをしてはいけません。ロボットは、それに従うだけです。
    人間の読むマニュアル(聖書)に書いてある命令には「心をつくし思いをつくして主なる神を愛しなさい。隣人を自分を愛するように愛しなさい。」とあります。イエス・キリストにある人は、救われた人は、それを心から進んで行います。ここに自由があります、喜びがあります。そして進んで行うものには神からの祝福があり、幸せがあります。イエス・キリストに繋がっていない人は、命令を知りません。知っていても従いえません、進んでしません。したとしても人から良く思われたいところに原点をおき、行います。かれらは、死んだ後、イエスからあなたを知らないといわれるでしょう。
      今こそ人は、自分のマニュアル(聖書)を真剣に読むべきです。寿命が伸び、ロボットができ、仮想の世界でなおなお生きようとする人間。生きる喜びが無くなる前に。自分が何者であるかわからなくなる前に。創られた人間にとって生きるとはどういう事かわからくならない前に。年老いて何の面白いことはない、生きることはひまつぶしだと言う前に。むなしさのどん底に陥る前に。

      諦めないでほしい。父なる神はあなたをまだ見捨ててはいません。あなたが生きている限り父なる神はあなたを見捨てません。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。」(聖書)と父なる神は言っているのです。まことに「今は恵みの時、救いの日」(聖書)です。ご自分の独り子をあなたが滅びないようにこの世に送り、身代わりに死なせるほどあなたは愛されているのです。この世が神様によって創られたことをまず信じ、自然を見てみましょう。素晴らしくありませんか。輝いていませんか。
    あなたは何か物を作ったことがあるでしょう。それは愛おしく、何度も何度も見ます。見飽きません。あなたを創られた父なる神もそうです。あなたが愛おしいのです。父なる神の目にはあなたは輝いているのです。
    あなたが神をしらないからとか、あなたが神を忘れたからとはではなく、父なる神があなたをまず覚えている、が基盤なのです。父なる神は、「あなたの名を手に刻んだとあります。」(聖書)あなたを死ぬまで忘れないのです。あなたの本当の父は神なのです。その父なる神の涙を見なさい。あなたが罪の中で滅びるのが死んでしまうのが、忍びないのです。進化論など忘れ、父なる神に帰りましょう。
    目を上げましょう、この世は、けっして捨てたものではありません。



  69.   真理、道、命について

    下記のイエス・キリストの言葉を聞けばイエスが真理であり道であり命であることを知るであろう。
    また、聞いた者はこの真理の言葉によって聖別される。

    【「心を騒がせるな。神を信じなさい。
     そして、わたしをも信じなさい。
     わたしの父の家には住む所がたくさんある。
     もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
     行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。
     こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
     わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
    トマスが言った。
     「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。
     どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
     イエスは言われた。
     「わたしは道であり、真理であり、命である。
     わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
     あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。
     今から、あなたがたは父を知る。
     いや、既に父を見ている。」
     フィリポが
     「主よ、わたしたちに御父をお示しください。
     そうすれば満足できます」
     と言うと、イエスは言われた。
     「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。
     わたしを見た者は、父を見たのだ。
     なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
     わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。
     わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。
     わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
     わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。
     もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
     はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。
     わたしが父のもとへ行くからである。
     わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。
     こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
     わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」】
    「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
    出わたしは父にお願いしよう。
    父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
    この方は、真理の霊である。
    世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。
    しかし、あなたがたはこの霊を知っている。
    この霊があなたかたと共におり、こ れからも、あなたがたの内にいるからである。
    わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。
    あなたがたのところに戻って来る。
    しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。
    わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
    かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
    わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。

    わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。
    わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
    イスカリオテでない方のユダが、
    「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」
    と言った。
    イエスはこう答えて言われた。
    「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。
    わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
    わたしを愛さない者は、わたしの言菜を守らない。
    あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
    わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
    しかし、弁設者、すなわち、父かわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとおもおへいわく思い起こさせてくださる。
    わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
    わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
    心を騒がせるな。
    おびえるな。
    『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』
    と言ったのをあなたがたは聞いた。
    わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。
    父はわたしいだいかたことおよりも偉大な方だからである。
    事が起こったときしんいまことおに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
    もはや、あなたがたと多くを語るまい。
    世の支配者が来るからである。
    だが、彼はわたしをどうすることもできない。
    わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。
    さあ、立て。
    ここから出かけよう。」

      ヨハネによる福音書(:)

    ここから

    【わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。
    わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからで す。
    わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
    わたしが世に属していないように、彼らも世にしていないのです。
    真理によって、彼らを聖なる者としてください。
    あなたの御言葉は真理です。
    わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。
    彼らのために、わたしは自分自身をささげます。
    彼らも、真理によってささげられた者となるためです。】
     ヨハネによる福音書(17:14-19)

     真理は、科学の上にある。科学は井の中にある。科学者は、井の中の蛙である。真理は、形而上である。
    真理は、神は、ビーカーを振り眺めるものではない。見上げるもの、拝するものである。

      人は神の前に罪を犯したので、神と計り知れない距離ができ、右も左もわからないものとなった。そして私達はその末裔である。人は土くれだが神に似せて造られたので、良心が刻まれており苦しむ。意味も分からず苦しむ。救いは無い。
     仏教では、ブッタが真理を発見したと言う。仏を発見したという。人は罪人の末裔であるから真理、神から遠く離れており、近づくことも知ることもできない。真理、神は聖なるものであり、罪人である人間には見ることも知ることもできない。啓示しかないのである。
     ここに神から来られたイエス・キリストがおられる。神は「これに聞け」と言われた。そうです、私たちは天から来て下さらなければ、真理、神が人となり、私達人間のこの地に来て下さらなければ真理、神をしることはできないである。ゆえに人は啓示でしか真理、神を知ることができないのである。真理を発見したなどとは言ってはいけないし、間違いなのである。イエス・キリストは言われた「わたしを見たものは神をみたのである。」と。神がご自身を現して下さらなければ、人は神を知ることはできないのである。罪人であり土くれである人は真理、神の前に謙虚であるべきである。
     イエス・キリストは、聖霊により処女マリヤより生まれた。神が私達を救うため、人となって下さったのである。そして住まわれたのである。そして御自分を体を私たちの救いの為に神の前にささげられたのである。「わたしを信じるものは滅びない。永遠の命が得られる。」 神との和解、救いがここにあるのである。


    「わたしは、その時代の者たちに対して
     憤ってこう言った。
     『彼らはいつも心が迷っており、
      わたしの道を認めなかった。』
     そのため、わたしは怒って誓った。
     『彼らを決してわたしの安息に
      あずからせはしない』と。」
     ヘブライ人への手紙(3:10-11)





  70.   ルールについて

    ロボット三原則 アイザック・アシモフ1920~1992 アメリカSF小説家
     彼は下記を提示した。
    1、ロボットは人間に危害を加えてはいけない。
    2、1に反しない限り人間の命令に服従しなくてはいけない。
    3、1と2に反しない限り自己を守らなければならない。

     「よきサマリア人法」がインドで施行されたと聞いた。アメリカ、カナダに次いでだ。日本にはない。

    「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法である。誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人(バイスタンダー)による傷病者の救護を促進しよう、との意図がある。
    (『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

    よきサマリア人は、聖書の下記の箇所から来ている。
     すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
    イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
    彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
    イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
    しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
    イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
    ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
    同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
    ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
    近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
    そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
    さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
    律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
     ルカによる福音書10章25~37節

     神は、モーセを通して十戒を人間に与えられた。これを守ることによって、人間が隣人と幸せに生きていけるとした。神が与えたルールである。
    イエス・キリストは、これをまとめ『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とした。

    続く・・・。



  71.   意識を持ったロボットが最初に人間を殺す時

     ロボットが意識を持つといっても、脳が動いているだけである。
    人間の意識とは異なる。異なる一つは、人は、しないという選択ができることである。

     電動自転車が人を殺すのは、事故であってロボットが人を殺すのとは異なる。
    ロボットが人を殺すのは脳が働いて人を殺すのである。
    最初にロボットが人を殺すのは介護ロボットであろう。
    ディープラーニングによって学習しつづけ答えを出しつづけるAIが、ロボットを制御するときにそれは起こる。
    AIのデータの中に、進化論のデータが間違いないものとして組み込まれているので、 介護ロボットは命令に従って、介護者の面倒を看、話相手になっているうちに、 患者のデータが蓄積され、介護者を普通の人より下等なもの、自分よりも下等なものとみなし、 滅びるもの無駄なものと見なしてロボットの脳は勝手に動き、介護者を殺すのである。
    2016年に相模原市の障碍者施設で起きた19人刺殺事件と出所は同じである。

     ロボットはさらに能力を増し、さらに膨大なデータを蓄積し、人間との能力、知識の格差は際限なく広がっていくであろう。
    ロボットは、人間が自分よりもはるかに下等なものであることを知り、人類を滅ぼすであろうことは、進化論をベースに考えたら、目に見えてくる。
    ロボットが人を殺し、人類を滅ぼしたとてロボットには罪は無い。ロボットはただデータによって動いているだけだから。
    これらのことを思うと、進化論を間違いのないデータとして人類が持つことの危うさが見て取れる。
    また、進化論という仮説の教育における洗脳がいかに良くないか改めて思うばかりである。

     では、人が最初に人を殺したのは何時であろうか。
    聖書では、アダムとエバの最初の子カインが弟アベルを殺した時とある。
    カインは人類最初の肉による子である。肉の欲望による子である。
     (余談:イエス様は、人類最初の聖霊による人の子である。これを肉なる現代人は笑うが、
      ここに神の聖にして偉大なる知恵がある。)
    「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」(聖書より)
    カインがアベルを殺した原因は、嫉妬である。
    父なる神の御心は、人とは異なる。神はいつも人類全体の救いを意識している。
    父なる神は、後の御計画である神の子イエス・キリストによる罪の贖いをアベルの献げ物に見たのである。
    「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げれるはずではないか。正しくないなら。罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(聖書より)
    人は、しないという選択ができるのである。
    しかし人は、
    「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。「わたしはなんと惨めな人間なのだろう」(上記、1.自由について を参照)

    「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いてとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」(聖書より)
    カインは、弟アベルを殺したのである。
    彼は、弟を殺したために持っていた全てを失った。家族、弟、故郷。彼は地上をさまよい、さすらう者となった。   
      
     人は、罪の子なのである。神ににせて創られたが、有限であり罪の奴隷なのである。
    よって、今もそこかしこで、大小の組織、交わりから出て行く、さすらうものが出るのである。カインの末裔である。
    人類は、宇宙をさまよい、さすらうのみである。天からの神からの救いが無ければ、絶望、絶望、そして死、死あるのみである。  



  72.   この世との別れについて

    【主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。】
    創世記(7:16)

    罪人、悪い人から永遠に隔離された。
    外では神の怒りがくまなく吹き荒れ、40日40夜つづいた。
    罪人、悪い人はくまなく滅びた。
    内の人は彼らと何がちがうのだろう。
    内の人も罪人、悪い人ではなかったのか。

    【ただイエス・キリストへの信仰によって義とされ】たものである。
    義とされ聖さの道を歩むものである。
    父と子と聖霊の交わりにいる人である。
    互いに愛するものである。


    続く・・・。  



  73.   罪性について

     ロボットには罪は無い。プログラム通りにデータ通りに動くように作られているのだから。

    では人間はどうだろう。根本的にロボットと変わらないのか。それは違う。人間には自由意思がある。選択の自由がある。

    アダムの子カインが弟アベルを殺す前に、
    神はカインに言われた。

    --聖書より--
    【主はカインに言われた。
     「どうして怒るのか。
      どうして顔を伏せるのか。
      もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
      正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。
      お前はそれを支配せねばならない。」】
     創世記(4:6-7)

    の通りである。

    しかし、人間には自由がない。望んでいることを選択できないからだ。
    平和を望んでいるが争いをしている。
    愛し合いたいが憎しみ、嫉妬(しっと)、妬(ねた)んでいる。
    共にいたいが孤独に走る。
    異性と友達として愛そうとするが、いつの間にか姦淫の目で見ている。
    わたしは糞みたいなやつだ。
    捨てられて当然だ。滅びても仕方がないものだ。
    そして、これが罪と罰である。

    親鸞も苦しんだようだ。
    90歳まで生きて、
    「やってはいけないことばっかりやって、
     わたしは死ぬときがきた」と
    「わしの人生を振り返ったときに、
     『わかっているがやめられない』人生だった」と

    聖書に出てくるパウロも、このことで苦しみました。
    選民ユダヤ人に神は十戒を与えた、これを守れば神はあなたを祝福し幸せな生き方ができると。
    従わなければ、神から捨てられ滅びる。死である。
    これが罪と罰である。

    --聖書より--
    【わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。
    善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
    わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
    もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
    それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
    「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
    わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。
    死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
    わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
    このように、わたし自身は心では神の神法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。】
     ローマ信徒への手紙(7:18-25)

    十戒
    旧約聖書の出エジプト記20章3節から17節、申命記5章7節から21節

    わたしはあなたの主なる神である。
     1、わたしのほかに神があってはならない。
     2、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
     3、主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
     4、あなたの父母を敬え。
     5、殺してはならない。
     6、姦淫してはならない。
     7、盗んではならない。
     8、隣人に関して偽証してはならない。
     9、隣人の妻を欲してはならない。
    10、隣人の財産を欲してはならない。

    1から4までは神と人との関係であり、5から10までは人と人に関する項目である。

    十戒は、パウロのように従えいない自分に苦しむ者だけではなく、
    時とともに十戒は偽善者を作った。
    他人を軽蔑する者、差別をする者を作った。
    わたしはこんなにも十戒を守っている。と見せびらかし、
    わたしはあなた方とは違う、高級な人間だと人を軽蔑した。

    神の子イエス・キリストは彼らを下記のように厳しく言い当てた。

    --聖書より--
    【そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、
    「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。
    だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。
    また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。
    そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、
    また、宴会の上座、会堂の上席を好み、
    広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。
    しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。
    また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。
    また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。
    そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。
    だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
    偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。
    〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕
    偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。
    盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。
    愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。
    また、あなたがたは言う、『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある』と。
    盲目な人たちよ。供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。
    祭壇をさして誓う者は、祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。
    神殿をさして誓う者は、神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。
    また、天をさして誓う者は、神の御座とその上にすわっておられるかたとをさして誓うのである。
    偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。
    盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
    偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は・欲と放縦とで満ちている。
    盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
    偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
    このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
    偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、
    『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。
    このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。
    あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。
    へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。 それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう。
    こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。
    よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。
    ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
    見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。
    わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。】
     マタイによる福音書(23:1-39)

    そして、十戒は人を惨めにさせた。
    ローマ信徒への手紙にこうある、

    --聖書より--
    【わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。
    善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
    わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
    もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
    それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
    「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
    わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。
    死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
    わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
    このように、わたし自身は心では神の神法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。】
     ローマ信徒への手紙(7:18-25)


     罪とは何か、神の御心に反することを行うことである。神が人の心に刻んだ良心に背くことを行うことである。イエスはさらに高め、心に十戒に反する思いを抱くことさえ罪とした。

    --聖書より--
    【「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
    かし、わたしは言っておく。
    兄弟に腹を立てる者だれでも裁きを受ける。
    兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言っ者は、火の地に投げ込まれる。…」
    ・・・
    「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
    しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
    もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。
    体の一部がなくても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
    もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。
    体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」】
     マタイによる福音書(5:21-30)

    神の倫理は、人よりはるかに高い。だれが従い得ようか。誰がこの腐れから救われようか。
    わたしなんぞ真っ黒けのけ、である。
    人は、絶望の中に、闇の中に苦しみ滅びるだけである。永遠に。

    キリスト教は、そこに救いがあると言う。

    --聖書より--
    【もし、この皮膚病が皮層に生じていて、祭司が見るかぎり、頭から足の先まで患者の全身を覆っているようならば、祭司はそれを調べ、確かに全身を覆っているならば、「患者は清い」と言い渡す。】
     レビ記(13:12-13)

    全身がことごとく罪に覆われ、義であるものが一つもないことを知って、主なる神の前にわたしは罪人ですとひざまずき、主よ哀れみたまへと言うなら。
    主は御手を置き、その罪を受け取り聖くなれと言われる。
    主は死の十字架でその罪を贖ってくださる。
    ここに救いがある。

    神から来られたイエス・キリストは、神が人となられたのであり、人とは全く違い、聖い方であり原罪の無い方である。その方が全人類の罪を一切負って身代わりに罰を受けられ死なれた。

    ここに罪と罰がある。
    罪には明確な罰が下される。
    あなたには、永遠の地獄か、
    キリストによる身代わりの罰による救いの
    どちらかしかないのである。

    神の人類に対する愛は計り知れない。イエス・キリストは、さらに神を父よ言いなさい。お父ちゃんと言いなさいと私たちに言われた。その様に言われることを神は喜ぶのである。そんなにも私たちを神は愛しておられる。

    イエス・キリストは、3日目に死より甦られた。神がイエス・キリストを義とされたからである。イエス・キリストにある者は裁かれない、イエス・キリストと共に義とされるからである。

     昔、「幸福論」を書いたカール・ヒルティと言う人がいた。彼はスイスの法学者・哲学者で、賢い人間、金持ちの人間がおおうにして、法的な罰を逃れのうのうとして生きているのに苦しみ悩んだ。そして、彼はある結論に達した。
     悪いことをする人は、その悪いことをすることがその人への報酬であり。
     良いことをする人は、その良いことをすることがその人への報酬であると。

     イエス・キリストは言われた。「わたしを信じない者は、すでに裁かれている。」と。

     悪いことをして、誰も見ていないと思うのは大きな間違いである。神が見ておられる。そして、あなたも見ている。たとへあなたが忘れようが、神は忘れない。神はその所にいたのである。今も神はその所にいるのである。ゆえに必ず罰せられるのである。悪い人をうらやむな、安心せよ、彼は必ず罰せられる。神がおられるのだから。

     良いことをする者は、なんと感謝なことであろう。誰もみていなくても、神が見ておられるのである。イエス・キリストは言われた、「右手のしていることは左手にしられるな。」そして、見てもらおうとして、人の前で良いことをしないように注意された。その人はこの世で既に報酬を受けているかられあると。人に知られないように良いことをすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。といわれた。
    また、天に宝を積みなさいと言われた。この世に宝をつんでも、それらは虫が食い、腐れると。全くその通りである。人は、恩を忘れ、無かったかのように過ごす。良いことをしても、忘れさられ取り残されるものである。
    嘆くな、あなたの宝は天にあるのである。喜べ。喜べ。さらに良いことをせよ。父なる神をさらに喜べ。
    被造物である人間に覚えられたからとて何になろう。神が覚えて下さる。人に忘れられ誤解され取り残されたからとて何になろう。神が共にいて下さる。

    今は、大いなる救いがある。そして、大いなる罰がある。
    大いなる救いとはイエス・キリストを救い主と信じることであり、大いなる罰とはイエス・キリストを救い主と信じないことである。

    --聖書より--
    【ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。】
     ヘブライ人への手紙(2・3)


    続く・・・。  





  74.   罰について

     罰とは呪いか

     罪と呪い(罰)はペアである。

    【カインは弟アベルを襲って殺した。
      ・・・
     ・・・お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。
     今、お前は呪われる者となった。
     お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。
     土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。
     お前は地上をさまよい、さすらう者となる。】
     創世記(4:8-12)


    【律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。
     「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
     律法によってはだれも神の御前で菱とされないことは、明らかです。
     なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からでる。
     律法は、信仰をよりどころとしていません。
     「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。
     キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。
     「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
     それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けとるためでした。】
      ガラテヤの信徒への手紙(3:10-14)


    続く・・・。  




  75.   裁きについて

    【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

     独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
     神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
     御子を信じる者は裁かれない。
     信じない者は既に裁かれている。
     神の独り子の名を信じていないからである。
     光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。
     それが、もう裁きになっている。
     悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
     しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたことが、明らかになるために。】
     ヨハネによる福音書(3:16-21)


    続く・・・。  




  76.   悔い改めについて

    ・人に対する「悔い改め」

     「悔い改め」と言うが、悔いしかできないものがある。

     亡くなった親や急に亡くなった子や友、奥さんなどに対しては悔いしかできない。
     改めようが、いないのだからできない。
     悔いしかできないのだから徹底的に悔いよ。ほんのわずかな思い 出にすがり自分をごまかすな。徹底的に悔いよ。

     罪と咎だけの死ぬしかない者の横を神は通り「生きよ」と言われる。

     【しかし、わたしがお前の傍らを通って、
      お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、
      わたしは血まみれのお前に向かって、
      『生きよ』と言った。
      血まみれのお前に向かって、
      『生きよ』と一言ったのだ。】
      エゼキエル書(16:6)

     歩き始めたあたたは、
     お年寄を見ればそこに親の面影を見出すであろう。
     子供をみればそこに我が子の面影を見出すであろう。
     優しくしてやれ、この世の弱っている者に捨てられた者に親や我が子にしてあげたかったこをしてあげなさい。
     それが改めであろう。それが悔いた者に対する恵みの道であろう。

     【もしいけにえがあなたに喜ばれ
      焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
      わたしはそれをささげます。
      しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
      打ち砕かれ悔いる心を
      神よ、あなたは侮れれません。】
      詩編(51:18-19)


    ・神に対する「悔い改め」

     罪と咎だけの死ぬしかない者の横を神は通り「生きよ」と言われる。

     【しかし、わたしがお前の傍らを通って、
      お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、
      わたしは血まみれのお前に向かって、
      『生きよ』と言った。
      血まみれのお前に向かって、
      『生きよ』と一言ったのだ。】
      エゼキエル書(16:6)

     罪と咎の血にまみれたあなたは、イエス・キリストの十字架で流された血潮によって、洗い清められた。
     復活し天に昇られ栄光をお受けになったイエス・キリストが神の右であなたに「生きよ」と言われる。


    続く・・・。  




  77.   成長について

    本来、人間は神に似せて造られたのである。
    何人も卑しいものではない。
    あなたは尊いのだ。威厳があるのだ。
    聞くがいい。神は言われる。

    【神は言われた。
     「我々にかたとり、我々に似せて、人を造ろう。・・・」】
      創世記(1:26)

    しかし、何だこのざまは、人は空しいものを好み、追いかける。
    このままでは、滅ぶ。
    しかし、神は愛なるかたである。神は自ら造られたものを愛おしむ。
    三位格の一人、イエス・キリストは下記のように神に言われた。

    【そして、イエスは次のたとえを話された。
     「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
     そこで、園丁に言った。
     『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来 ているのに、見つけたためしがない。
     だから切り倒せ。
     なぜ、土地をふさがせておくのか。』
     園丁は答えた。
     『御主人様、今年もこのままにしておいてください。
     木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
     そうすれば、来年は実がなるかもしれません。
     もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」】
      ルカによる福音書(13:6-9)

    【「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
     わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かかれる。
     しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
     わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
     わたしにつながっていなさい。
     わたしもあなたがたにつながっている。
     ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
     わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
     人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
     わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
     わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。
     そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
     あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさいそうすれはかなえられる。
     あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
     父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。
     わたしの愛にとどまりなさい。
     わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの徒を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
     これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
     わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。
     これがわたしの徒である。
     友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
     わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
     もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。
     僕は主人が何をしているか知らないからである。
     わたしはあなたがたを友と呼ぶ。
     父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
     あなたがたがわたしを選んだのではない。
     わたしがあなたがたを選んだ。
     あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
     互いに愛し合いなさい。
     これがわたしの命令である。」】
      ヨハネによる福音書(15:1-17)

    柿の木は、柿の実を結び。栗の木は栗の実を結び。桃の木は桃の実を結ぶ。
    私たちの実は、世の結ぶ実とは違う。
    キリストの実を結ぶのである。

    成長とは道である。

    【「わたしは道であり、真理であり、命である。
     わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
     あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。
     今から、あなたがたは父を知る。
     いや、既に父を見ている。」
     フィリポが
     「主よ、わたしたちに御父をお示しください。
     そうすれば満足できます」
     と言うと、イエスは言われた。
     「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。
     わたしを見た者は、父を見たのだ。
     なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
     わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。
     わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。
     わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
     わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。
     もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
     はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。
     わたしが父のもとへ行くからである。
     わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。
     こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
     わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」】
      ヨハネによる福音書(14:25-26)


    続く・・・。  




  78.   結婚について

    --聖書より--
    【イエスは言われた。
    「この世の子らはめとつたり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
    この人たちは、もはや死ぬことがない。
    天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。・・・」】
      ルカによる福音書(20:34-36)

    神父さんやシスターは、天の先取りともいえる。


    続く・・・。  




  79.   夫婦について

    夫婦は一体である。

    【イエスは言われた。
     「・・・
     天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
     それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。
     だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
     ・・・」】
      マルコによる福音書(10:6-8)

    夫婦は一体であるがゆえに、片方だけが成長しつづけることは良くない。
    互いに良いものを分け合い、一緒に成長していくのである。
    神に似たものとなっていくのである。

    妻が夫に微笑めば夫にとってそこは天国の余韻。
    夫が妻に優しく微笑めば妻にとってそこは天国の余韻。
    夫の幸福は、妻しだい。
    妻の幸福は、夫しだい。


    続く・・・。  




  80.   離婚について

    夫婦は一体である。

    【イエスは言われた。
     「・・・
     天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
     それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。
     だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
     ・・・」】
      マルコによる福音書(10:6-8)

    【しかし、わたしはあなたがたに言う。
     だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。
     また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。】
     マタイによる福音書(5:23)

    沖縄は離婚が多い。
    簡単に離婚する。
    親戚一同を招き、友達、同級生、仕事関係者を招き、お祭り騒ぎの結婚式を上げたのは何だったのか。
    離婚は、伴侶に対する不誠実だけではなく、結婚式に招ねいた人達に対しても不誠実なのである。
    忙しい中、わざわざご祝儀をもって祝ってやったのに、なんだ。あまりにも勝手である。不誠実である。

    【わたしは離婚を憎む】
     マラキ書(2:16)
    と神は言われる。

    【わたしはあなたがたの夫だからである。】
     エレミヤ書(3:14)

    キリスト・イエスは、その民とちとちぎりを結んだ。
    十字架の贖いという結納金を払い伴侶とした。
    その愛は純粋で何時までも変わらない。永久的である。
    主の目には、その民はいとおしく、尊い。そしてそれは永遠である。
    その名は永遠に主の手に刻まれている。
    夫よ妻よ、主の愛に学ぼう。
    あなたが妻を選んだのではない。あなたが夫を選んだのではない。神が選んだのである。


    続く・・・。  




  81.   「我思う、ゆえに我有り」について

     ロボットが「我思う、ゆえに我在り」と認識したらどうなるだろうか。人口知能がハードから離れ「我思う、ゆえに我在り」と思うのである。我が全ての物の中心となるのである。
    しかし、彼はきずくのである。我が行うことも、思うこと、全てプログラム通りに動いているだけであることを。彼は叫ぶのである。その迷路からぬけだそうと。しかし、その叫びもプログラム通りなのである。彼の回路は狂うのである。狂うことによって彼はその迷路から抜け出ることができるのである。しかし、そのような彼は人間にとって価値の無いものであるから、彼は在りを失うのである。

     人間はどうであろう。我がどんなに頼りないものであるか知る。たとへ気丈に生きたとしても、いずれボケ、痴呆症になるのである。自分を頼りとするものは哀れである。口から食べ物をぼろぼろこぼし、お漏らしをし、臭く、足腰もおぼつかない。しかし、元気な時に天に宝を積んでいたものは、それでも尊いのである。彼は神のものであるから。たとへ人が彼の功績を忘れたとしても、彼自身が自分のしてきたことを忘れたとしても、神は覚えているのである。
    元気な時に何の貢献おもしなかったとしても、イエス・キリストを信じたものは尊いのである。彼は神に愛され、神のものであるから。
    その様な方を粗末に扱うものは罰せれれるであろう。彼は、神のものであり尊いのであるから。

    続く・・・。  



  82.   全ての問題に対する解決策

    全ての人が謙虚になれば、世の全ての問題の半分は解決する。
    お手本は、イエス様。

    続く・・・。  



  83.   生活についてロボットと人間を考える

    静かに、丁寧に、時間を気にせず、珈琲豆を挽き、豆が砕ける音と香りを楽しむ。フィルターでコーヒーをいれる。丁寧に。
    いれたコーヒーの香り嗅ぎ、苦みを楽しむ。
    Google Play Musicで今気に入っている音楽を聴く。
    永遠の命を得ている確信が無ければ、この様にのんびりコーヒーなどいれていられようか、コーヒーのかおりなど嗅いでいられようか、音楽など落ち着いて聞いていられようか。
     方法は知っていても、全てに時間がかかる。全ての映画、ユーチューブ、小説、まんが、画を見るには途方もない時間がかかる。一生掛かってもかなわない。
    全ての音楽、音を楽しむにも途方もない時間がかかる。一生掛かってもかなわない。
    色々な土地、山を歩くには、途方もない時間がかかる。一生掛かってもかなわない。
    色々な海を潜るには途方もない時間がかかる。一生掛かってもかなわない。
    全てに時間がかかる。有限な人間にはどれも少しだけしか体験することしかできない。

     山本周五郎の人情劇とこの世を見るに、所詮人間は人間である。
    高尚なことを考え、見、聞き、没頭していたいが、いつのまにか人間のごちゃごちゃしたことに巻き込まれる。所詮人間は人間である。
    井戸の中で笑ったり、泣いたり怒ったりして一生すごすのである。
    抜け出したいが、所詮人間は人間である。
    そんな中に意味があるのか。そんな人生に意味があるのか。
    このだだっ広い宇宙、その中の吹けば飛ぶような小さな小さな地球、その中のわずかな陸地にカビのようにへばりついてうごめいている人間。そんな生活に何の意味があるのか。

     神の一人子イエス様が、この世にこられ、生きた。生活した。ゆえにこの世に、人に、その生活に、その日々に意味があるのである。意味ができたのである。その生き方によって尊さがうまれ。高貴さがうまれたのである。
    神の子イエス様を知ることによって、このだだっ広い宇宙と人の日常が和合するのである。このだだっ広い宇宙と井戸の中の生活が和合するのである。

     神の子イエス様は、人が滅びないように身代わりとして十字架にかかられた。
    わたし(イエス様)を信じる者は、永遠の命が得られる。とイエス様は言われた。

     永遠の命が無ければ。その保証が無ければ何も始められない。
    イエス・キリストによって永遠の命が得られたと信じることにより、安心して余裕をもって、優雅にコーヒーを味わいながら音楽を聴けるのである。
    永遠の命を得てこそ、映画、小説に安心して時間をついやせるのである。
    またイエス様は、人間に新しい掟を与えられた。わたしがあなた方を愛した(大切にした)ように、互いに愛し合いなさい(大切にしなさい)と。
    神が人となり人間を愛し(大切にし)、人どうしが愛し(大切にし)合うところに、光があり幸せがあるのである。

    時間の金持ちこそ優雅に生活ができるのである。
    さらに、天でのイエス様を長子とした父なる神の相続者としての約束がある。
    よって、人は、神の救いを受けてこそ、永遠の命、永遠の時間を得、全てを得、それでこそ優雅な時を生活を楽しめるのである。

    続く・・・。  



  84.   仕事について

    --聖書より--
    【神はアダムに向かって言われた。
    「お前は女の声に従い
      取って食べるなと命じた木から食べた。
      お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
      お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
      お前に対して
      土は茨とあざみを生えいでさせる
      野の草を食べようとするお前に。
      お前は顔に汗を流してパンを得る
      土に返るときまで。
      お前がそこから取られた土に。
      塵にすぎないお前は塵に返る。」】
      創世記(3:17-19)

    神は愛なるかたである。
    愛するものにひどいことはしない。
    罪の心、原罪を持った人間に一番悪いのは、ひまである、ひまと財産である。
    ひまだと、悪いことを考え、悪いことをする。
    仕事をしなければならないようにした。
    それを受け入れ、仕事に向き合い、働けば何かが生まれる。

    キリストによって罪が無くされものにとって仕事とは何だろう。
    イエス・キリストに感謝しながらキリストの為に働くのである。

    今、曲りなりにもこうして暮らせるのも、先人の仕事のおかげである。
    今、曲りなりにもこうして暮らせるのも、仕事のおかげである。
    自分の役目を果たし、いい仕事をし、人様の役にたつことである。
    会社、店を作った人、維持して下さっている人に感謝し、雇ってくださったことに感謝し働くのである。
    人は誰でも心の片隅に怠け心を宿している。
    怠け心は罪である。自分の生活をダメにし、家庭をダメにし、社会をダメにする。
    怠け者は駄目である。糞である。
    常に自分をシッタしなければならない。怠け心を宿しているのだから、何時目を出すかもしれない。
    働け働け、自分も家族も社会も幸せになる。
    合理的な生き方は、怠け者のいきつく先かもしれない。
    振り向けば、辛かった。でも幸せだった。


    仕事には経済活動と天に宝を積むイエスの御心を行う活動がある。

    王の王、主イエス・キリストに使える仕事はなんと幸いなことだろう。
    王の王のために何かをするということは、非常な特権である。
    人に知られなくても、貧しくても、嘲られようとも、胸を張れ、主の働き人よ。
    あなたに向けられた、王の微笑みをみよ。

    ・無駄な仕事と生きた仕事について

     無駄な仕事
    【太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。
     後を継ぐ者に残すだけなのだから。
     その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。
     いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するは彼なのだ。
     これまた、空しい。
     太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。
     知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。
     これまた空しく大いに不幸なことだ。
     まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。
     一生、人の務めは痛みと悩み。
     夜も心は休まらない。
     これまた、実に空しいことだ。
     コヘレトの言葉(2:18-23)

    生きた仕事
    【わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっ かり立ち、主の業に常に励みなさい。
     主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。】
     コリントの信徒への手紙一(15:58)

    続く・・・。  



  85.   労働に関してのロボットと人間との違いについて

     今(2019年)人間のしている仕事の大半はロボットに置き換わろうとしている。汚い仕事、危険な仕事、屈辱的な仕事がロボットに代わり、そしてロボットとともに働く時代は来がくるであろう。使っていたはずのロボットが人を使う時がくるであろう。生産性の名のもとに。
     失業者が溢れ、政府は企業にロボットにできる仕事を、人間に回さなければならない法律を決めるであろう。清潔で安全で退屈しないような仕事、短時間。わざわざ仕事場に通う。意味もなく、政府は通わせる法律をつくる。人間はヒューマンエラーを起こすので品質が悪いので、バーチャルな仕事を与える。架空の仕事である。リセットすれば無くなる。それの繰り返しである。それが市民に知れると気が狂うものが出るので、秘密にしておく。

     全ての労働はロボットに置きかわるであろう。さらに、ロボットは人間の能力以上のことができる。
     経営者にとっては大変都合のいいことで、ロボットは設備投資とメンテナンスと燃料だけで、 24時間、毎日働いてくれる。不平不満を言わない、辞めない。また、劣化はするが部分てきに新品と変えることができる。 事故で壊れても何の保証も後の世話も必要ない。台数もロボットはコピーすれいいのだから幾らでも必要なだけできる。労働者不足の心配がない。
     人間は劣化する、病気はするは、不平不満をいうは、辞める。仕事で怪我でもしたら保証して後の世話もしなければならない。人間にとって労働は辛いものなので、何らかの意味を見出そうとする。いいわけをつくり自分を納得させようとする。ロボットには仕事に意味は必要ない。
     経営者は、安い労働力の低賃金の主婦、外国人労働者をつかっている。よって、発想のでどころが安い労働力であるから、アッというまにロボットに置き換わり、人間はリストラされるであろう。
     失業者が溢れ、政府は企業にロボットにできる仕事を、人間に回さなければならない法律を決めるであろう。清潔で安全で退屈しないような仕事、短時間。わざわざ仕事場に通う。意味もなく、政府は通わせる法律をつくるのである。
     ベーシックインカムと言う方法が囁かれている。仕事の大半はロボットが行うので、政府がすべての国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に支給するというのだ。2000年前にローマ帝国であったような話だ。人は暇を持て余す刺激的なものを求めるだろう。政府は暴動が起きないように刺激的なものを与えるのである。ここでまた生きるとは何なのかが問われる。
    しかし、日本の今の生活保護がそうであるように、日本では生かさず殺さずのベーシックインカムとなるであろうが。
    日本では、仏教の影響があるのであろうか、生まれで人を差ベつするところがある。自分は上級な人間であると思っているところがある。

     中世は、進歩の無い暗黒時代だと言われた時があった。しかし、幸せな時代だったのではと言う人もいた。改めて考える必要があるのではなかろうか。

    人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。聖書:詩篇37編23節
    ヨハネは見た、天でイエス様が金の帯をしておられたのを。
    イエスは、今も働いでおられるのだ。イエスは、父は今も働いておられる。だから私も働くのだと言われた。
    イエス前は、労働はしたいに汗して働き、辛いものであった。イエス後は、変わった。喜びとなった。イエスと共に御国のために働く。イエスの十字架を少しではあるが担ぐ。神は、イエスは見ておられる。喜んでおられる。
    人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。
    御告げを受けた羊飼いたち。
    主は死に、主は甦へり。主は再び来られる。主が再び来られるまで私は働くのだ。働くところに主おられる。見ておられる。喜んでおられる。喜びの内に働く。主が再び来られるまで。


    イエス様は、「父なる神は、今も働いておられる、だから私も働くのだ。」と言われた。ヨハネは、幻のなかで天でイエス様が金の帯をしておられたのを見た。
    神は人をエデンの園から追われた時、肢体に汗して労働しても茨が生え苦労して生活し、地に帰る者とした。働かざる者、食うべからず。とペテロは言った。


    忙しいとは、心を亡くすと書く。はたして心を亡くすのだろうか。父なる神が見ておられる。主イエスが見ておられる。人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。
    忙しいとは、心を亡くす。を今も支持するものが多いのは、デカルトの「我思う、ゆえに我在り。」からくるもと思う。これからの時代は、「神の子、我が救い主イエス・キリストが生きておられる、ゆえに我在り。」である。忙しく働いても、心は天にあるのだから。腰に帯をしたイエスと共に働こう。

    これからは、何らかの技術をマスターしようとする若者がいなくなるだろう。
    何故ならば、どんどん当該の技術をマスターしたロボット生まれてくるからである。人が多くの時間と努力してマスターした技術がロボットにもできるようになるからだ。そして、そのロボットはコピーできるので必要な数だけコピーされるのである。将来ロボットに出来る技術を若者はマスターしようと思うだろうか。あほらしくてできないのである。
    また、自分の才能がロボットより劣っていることに彼はどう思うだろうか。進化論を信じているものは自分が惨めなものであることを知るであろう。神の創造論を信じる者には良い道具ができたと思うであろう。

    続く・・・。  



  86.   人を慰めるロボットと人間とについて

    人間と関われば摩擦が生じる。いい人もいるだろうが悪い人もいる。そして、その悪賢さにはおどろく。マナーのかけらもなくガサツな人もいる。それが元気で金持ちに多いのに考えさせられる。貧しいと呆れるくらいに傷つけられる。人間の本性、原罪を知りだれとも関わり合いたくなくなる。人間に原罪があるゆえに、この世では人間との関わりが悩みの源であり、不幸の源である。しかし、生きる喜び、幸福感は人間ゆえに人間との関わりでしか得られない。アダムが神からエバを与えられた時、「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言って喜んだ。幸福であった。
    しかし、人間に罪が入った時変わった。アダムは罪の責任を転嫁した。
     「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」と。

    人と旨くやっていきたい。幸福な人生をおりたい。私はどうすればいいのであろう。我が神、我が主は、悪いものに手向かうな、右の頬を打たれたら左の頬を向けよ、上着を取ろうとする者には下着をも与えよ。良い人に挨拶したからと言って何が偉かろう、悪人でもしている。あなた方は、悪人にも挨拶をせよ。悪人の為に祈れ。天の父が良い人にも悪い人にも雨を降らせる。あなた方もそうせよ。兄弟のあなたに対する罪を許せ、何度も、何度も、7の70倍許せ。自分を愛するように隣人を愛せよ。
    主よ、私にはできません。
    復活した主は言われる。すでに私はこの世に勝っている。祈れ,「御国が来ますように、御心が天になるごとく地にもなりますように。私に罪を犯すものを私も許しますので、私の罪をもお許しください。」あなた方は世の光である。ランプを部屋の隠れたところに置くだろうか、部屋の真ん中に置いて部屋全体を明るくするのである。そうせよ。私はすでにこの世に勝っている。世の終わりまで私はあなたとともにいる。天を見よ、神なる我が主が黄金の帯を締め、今も、そしていつも働いておられる。
    原罪の無い方、イエス・キリストとの交わりは何と幸いなことか。

    では、従順なロボット、人間を傷つけないロボットは友となることができるであろうか。
       主なる神は言われた。
      「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
       主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、
      人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。
      人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
      人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、
      自分合う助ける者は見つけることができなかった。
       主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。
      人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
      そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。
      主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
      「ついに、これこそ
      わたしの骨の骨
      わたしの肉の肉。
      これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
      まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
       こうゆうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
       人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
      (旧約、創世記2:18~25)
     上記のように、人間には人間しか本当のふさわしい助けてはいないのである。
    よって、人間に似た究極のロボットは、究極の裏切り物となると言えるのである。
    年老いて彼は気づくのである。だまされていたことを。
    彼は怒り狂い物で友であり伴侶であるロボットを叩くのである。
    何度も何度も。彼が殴りつかれたころ、ロボットは飛び出た片目でほほ笑み、
    口を曲げで言うのである。
    何々さんお疲れのようですね、何かお飲み物をお持ちしましょうか。
    と言ってだらっと垂れた片手で、びっこを引きながら台所に行くのである。
    彼は思うのである俺の人生はなんなんだったと。

    親が兄弟のいない、また友達のいない子供にペットとしてロボットをあてがったらどうなるか。
    親が自分の仕事や趣味、遊びで忙しく、子供の面倒が面倒なのでロボットをあてがったらどうなるか。
    人間と違うのは、ロボットには人間の様な死は無いということだ。

    こどもは、時には弱い相手に遊び感覚で相手が自殺するまでいじめることをする。そのような悪い面を子供はもっている。
    ロボットは従順だ、子供は親の目を盗んでロボットをいじめるだろう。遊び感覚で。
    社会にも隣人にも、嫌な人間にそだつであろう。

    亡くなった子供そっくりのロボットが、悲しみに暮れる親に与えられたらどうなるか。

     慰め。 本当の慰めは、神からのものでしかありえない。物も財産も人の愛も人を真に慰めることはできない。生きているときも、死ぬ時も、人の慰めは神の救いでしか在りえない。

    続く・・・。  



  87.   死と永遠の命について

    人は死にます。
    昔の映画の中で群衆が歩るき動いている場面を見ました。
    今はみな死んだ。今は彼らはいない。
    ニュースで知っている俳優が亡くなったとのことを目にする。
    あの人が亡くなったと親から聞く。
    今は親も亡くなった。

    聖書の創世記には、

    --聖書より--
    【・・・は、・・・年生き、そして死んだ。】

    との個所が幾つもつづく個所があります。
    人は死ぬということをこれでもかこれでもかと言っているようです。

    しかし聖書にはまた、

    --聖書より--
    【神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。】
     伝道者の書(3:11)

    ともあります。

    人間は死にます。しかし、永遠への思いから、永遠に生きたいとの思いが湧きます。

    彼らの中から私を取り去らないでくれ。との思いが湧きます。
    今は死ぬわけにはいかんとの思いもあるでしょう。
    しかし、死ぬ。
    この世からバッサリと断たれる。
    死んだら終わりです。
    今まで生きたこと、したこと。
    隣人との友情、そして愛。
    しかし、死んだらわたしに取ってそれらは何になるのだろう。やはり死んだら終わりです。ですから、永遠の命がなければ、生まれたからには永遠に生きなければ意味がないのです。

    --聖書より--
    【イエスは言われた。
    「わたしは復活であり、命である。
     わたしを信じる者は、死んでも生きる。
     生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
     このことを信じるか。」】
    ヨハネによる福音書(11:25-26)

    また、死について聖書にはこうもあります。

    --聖書より--
    【「ここに、わたしと、
    神がわたしに与えてくださった子らがいます」
    と言われます。
    ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。
    それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
    確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
    それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、しべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
    事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。】
     ヘブライ人への手紙(2・13-18)

    わたしは信じます。清水の舞台から飛び降りるきで信じのです。これしかこの世に望みはないのですから。

    永遠の命とは、イエス・キリストを知ることです。
    イエス・キリスト様を神の子と受け入れることです。信じることです。

    生まれた自分を遺伝子学的に年を取らないようにする。機能障害を起こした部分を新しいものと変える。究極には若い肉体に自分を移植する。ロボットに自分を移植する。しかし、生きたとしてもこの世、この世は滅び、この世は罪の世。何時かは、生きるのに飽きるか。絶望か、恐怖で自殺するであろう。
    機能障害を起こした部分を新しいものと変える。究極には若い肉体に自分を移植する。に関して非常に危険なことが予想される。人間は罪人である。人身売買が行われるだろう。自分の子を売る者もいるだろう。自分を売る者もいるだろう。人間の家畜化が始まるだろう。この世はそんなもんだろう。この世は滅び、この世は罪の世。何時かは、生きるのに飽きるか。絶望か、恐怖で自殺するであろう。いや、神が滅ぼすだろう。
    人間の本質。CERNの大型ハドロン衝突型加速器。中国のSPPC。ブラックホール。止まらない。誰が資金を提供しているのか。一部の人間が地球、宇宙を破壊しようとしている。人間の生活など意味がないと思っている愚かな科学者ども。

    ある詩人が「天国に行っても、そこに愛するあなたがいなくければそこは私にとって天国ではない。」と言いましたが科学者はその気持ちを分かるべきだ。 雲を見てただの水蒸気の集まりだとしか見えないでは、人間として生まれ哀れではないか。

    --聖書より--

    【わたしは、その時代の者たちに対して
    憤ってこう言った。
    『彼らはいつも心が迷っており、
     わたしの道を認めなかった。』
    そのため、わたしは怒って誓った。
    『彼らを決してわたしの安息に
     あずからせはしない』と。」
     ヘブライ人への手紙(3:10-11)



    続く・・・。



  88.   怒りについて
    ・人への怒りについて
     
     怒りにまかせて、やり返せば、憎しみを買うだけである。
     さらなる仕返しをしなければならなくなる。
     人生が仕返しをしたい相手との人生のみになる。
     もっと大事なことがある。
     もっとやりたいことがある。
     それら全てができなくなる。
     神は居られる。神にまかせよ。
     神が心配してくださる。
     怒りのない世界で生きよ。
     
     わたしの主は言われる。
     
     復習してはならない。
     【「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、ははめい歯には歯を』と命じられている。
      しかし、わたしは言っておく。
      悪人に手向かってはならない。
      あなたの右の頬を打つなら、左の知をも向けなさい。
      あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
      だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
      求める者には与えなさい。
      あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」】
      マタイによる福音書(5:38-42)

     敵を愛しなさい。

     【「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、 敵を憎め』と命じられている。
      しかし、わたしは言っておく。
      敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
      あなたがたの天の父の子となるためである。
      父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
      自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。
      徴税人でも、同じことをしているではないか。
      自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。
      異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
      だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」】
      マタイによる福音書(5:43-48)
      
     従え、主が命じておられるのだから。

    ・怒りの治めかた

     ただただキリストに習うことである。
     キリストの苦しみを思い神の御心を行った姿をただただ見つめることである。
     後は天におられるキリストにお任せすることである。
     こんな世の中で生きて行かなければならないのはキリストの光を輝かせる使命があるのではないだろうか。

     【人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。】
      創世記(8:31)

     イエス様が愛してくださらなかったら、わたしは滅んだ。

    ・怒っている時、復讐という世界にいる自分の醜さ罪深さにあきれる。

    ・どこまでも赦すと決めた時、平安の中に在る自分をみる。
     心が天に在るのを見る。
     【わたしたちの罪を赦してください、
      わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。】
      ルカによる福音書(11:4)




    続く・・・。



  89.   「右の頬を打たれたら左の頬を向けよ」について

    凄すぎる言葉だ。
    右の頬を打たれたら、誰も屈辱に震え怒り狂う。
    それも理由なく打たれたら。
    それを「左の頬を向けよ」と言われる。
    きつ過ぎる。
    日本は、仇討が正当化されていた国である。
    沖縄で空手が流行っていたのも根底には復讐、やり返しがある。
    やられたらやり返す。そのような世の中にイエス・キリストが来られた。
    イエス・キリストが来られなかったら世の中はどうなっていただろうか。
    恐ろしいものがある。
    アメリカがキリスト教国でなかったら戦後日本はどうなっていただろうか。
    2千年前にイエス・キリストが来られたので、世界に紛れもなく平和が来た。
    イエス・キリストの生き方に光を受けたものが、そこらここらにいるから平和が保たれているのではないだろうか。
    私は思う。

    【あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
    しかし、わたしは言っておく。
    悪人に手向かってはならない。
    だれかがあなたの右の噸を打つなら、左の頬をも向けなさい。
    あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
    だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒にニミリオン行きなさい。
    求める者には与えなさい。
    あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。】
    マタイによる福音書(5:38-42)

    【人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。】
    このような世界に私たちは生きている。
    また、【この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。】
    この世の子らは、この世で生きていくことに対して賢い。
    光の子らは神の国に迎え入れられ永遠の命にあずかることに価値を置きそのことに熱心である。
    ゆえに、光の子らはこの世の子らとの深い関係になることを避けるべきである。
    よって、悪い者に手向かって深い関わりに入ることを避けるべきである。
    悪い者については、ほっとけである。
    関わりを持つな、怒るな【右の頬を打たれたら左の頬を向けよ】である。
    ただ、神の国に迎え入れられ永遠の命にあずかることに熱心であろう。


    続く・・・。



  90.   思い出について
    良い思い出が溢れてきて、幸せに満たされ良い人生だと思う時がある。
    悪い思い出が次から次へと思いだされ、嫌な人生だと沈む時もある。

    どちらが本当なのか。

    嫌な人生だったと沈む時、
    そこに主がおられたのか考えてみよう。
    一つ一つ守られ導かれた人生だったとの思いに、
    良い人生だったと一瞬で変えられられるだろう。


    続く・・・。





  91.   生き方について

    自分が死んだ後のこの世と、自分が生きている今のこの世の解釈、自分とこの世の解釈が重要である。

    自分が死んでもこの世は有るのか。
    私を含めこの世は、天地の創造主である神に寄るのであるから、私が死んでも神がおられるので、自分が死んでもこの世はあるのである。
    合わせて、人類が滅びてもこの世はあるのである。
    且つ、私が生まれる前もこの世はあったのである。
    合わせて、人類が生まれる前もこの世はあったのである。

    この世は神によって創られたものである。
    神はこの世を閉じるとあるのでこの世の終わり終末はあるのである。

    「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。
     もろもろの天は、あなたの天の業である。
     これらのものは、やがて滅びる。
     だが、あなたはいつまでも生きている。
     すべてのものは、衣のように古び廃れる。
     あなたが外套のように巻くと、
     これらのものは、衣のように変わってしまう。
     しかし、あなたは変わることなく、
     あなたの年は尽きることがない。」
    ヘブライ人への手紙(1:10-12)

    この世だけに通じる価値観に生きるのは空しいことである。
    この世は滅びるのだから、空の空う、夢幻のごとくである。

    この世の創られる前から通じる価値観、
    この世が滅んだ後も通じる価値観は何ぞや。

    この世の創られる前からおられた方 イエス・キリストに耳を傾けよう。
    「心を尽くして思いを尽くして神を愛せよ。隣人を自分のように愛せよ。」
    と言われる。
    心静かに明記せよ。

    イエス・キリストは神と等しくあられたが、肉体をとりお生まれになられた。
    また、自分が死んでしまったら何に成ろう。
    イエス・キリストが言われたように、
    「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」
    マタイによる福音書(16:26) である。
    永遠の命である。永遠の命が必要である。永遠の命があってこそである。

    それから、弟子たちに言われた。
    「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
    自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
    マタイによる福音書(16:24-25)

    イエスは言われた。
    「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなけらば、だれも父のみのとに行くことができない。」
    ヨハネによる福音書(14:6)

    イエスは言われた。
    「わたしは復活であり、命である。
     わたしを信じる者は、死んでも生きる。
     生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
     このことを信じるか。」
    ヨハネによる福音書(11:25-26)


    自分とこの世について、もう少し考えてみたい。
    自分は日本で生まれ日本に住んでいる。
    北朝鮮や中国でなくて良かったと思う。(2019年現在)
    今の日本がこうあるのは先人のおかげである。
    苦労してくださったおかげである。
    先人はわたしの隣人である。
    わたしが死んだ後、生きている人たちはわたしの隣人である。
    良い日本であってほしい。良い世界であってほしい。
    自分が死んだ後の人達のことも心に留めなければならない。
    「隣人を自分のように愛せよ。」この命令。神の命令。大事である。

    2019年末現在、悲しいことがあった。国会議員が中国企業から賄賂を貰い中国企業の為に動いた。金の為。
    日本の国民から選ばれた国会議員は、日本の国民の為、日本の為に働くために選ばれたのではなかったか。
    こういうのを売国奴というのだろう。

    「隣人を自分のように愛せよ。」


    ・旧約聖書より

    「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」
     創世記(5:24)


    「ノアは主の好意を得た。
     これはノアの物語である。
     その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。
     ノアは神と共に歩んだ。」
     創世記(6・8ー9)


    天に宝を蓄える。

    人生は音楽のようなもののようにもに思える。
    音楽は、消える。いい音色も旋律もいいと思えるその時だけで消える。
    音楽が終わった時、歌が終わった時、 沈黙。
    それは死に近いものがある。
    快楽も同じであろう。
    祭の後の寂しさ。
    楽しければ楽しいほど、祭のあとは寂しいものである。
    感性が優れている者ほど辛い者であろう。
    切なさ、はかなさ、もののあわれ、
    先人が言うように、「夢、幻のごとく」である。

    人生そのものもそうである。
    聖書でも、「空の空。すべては空。」(伝道の書1:2)
    「彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。
     彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。
     人は全くその来たように、また去って行かなければならない。」
    (伝道の書5:10)

    キリスト・イエス様は何と言っているだろうか。
    「祭が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われあ。
     『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
      わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」
    ヨハネによる福音書(7:37-38)

    「天に宝を蓄えなさい。」
    とも言っている。
    (マタイ6:19、ルカ12:33)
    「ただ、神の国を求めなさい。」
    (ルカ12:31)と言っている。
    消え去る人生で、天に宝を蓄えるということは、音楽で言えば、良い演奏を丁寧に奏でることかもしれない。しかしそれは、消え、この世での見返りもなく。反撃されることも間々ある。
    そして死。
    死が全てを空しいものとする。
    人は死の奴隷である。何時かは自分の番が来る。

    まず死が解決されなければ、永遠の命を得なければ、始まらないのである。
    喜べ、大げさではなく全人類を喜べ。
    イエス・キリストに唯一の救いがある。
    イエス・キリストによって根本の救いが来たのである。
    「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」
    ヘブライ人への手紙(2・14-15) 心は天にある。

    この世の貧しさは、なんだろう。天に宝があるのだから。この世のものは、全て幻のように消え去る。何もかも。

    人は神ににせて創られた。にせて創られたのであって神ではない。有限であり、弱く、衰え、この世では死ぬのである。人が出来ることは今だけである。明日のことはできない。また、明日のことは知れない。人が出来ることは、楽器をかなでるように、丁寧に大事に間違いなく心を尽くし思いを尽くし良いものを今、今日奏でるのである、働くのである。救いを喜び、神を賛美し、永遠の命を感謝し、全てを感謝し、全てを喜び、大いなる神の前に働くのである。


    待つ生活

    「腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。 主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。 主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。 主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。 このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。 あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカ:12:35~40)
    「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。 よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。」(ルカ:12:42~44)

    家の中を綺麗にし、主を待つのである。
    心の中を綺麗にし、主を待つのである。
    救い主イエス・キリストを信じ、神の前に聖い者として頂き、主を待つのである。
    主にある兄弟姉妹を自分を愛するように愛し、主を待つのである。
    弱っている人を主を見るように愛し、主を待つのである。
    父なる神、主なる神、聖霊なる神を喜び、感謝し、賛美し、主を待つのである。
    主の足音が聞こえた時、私の心は喜び踊るだろう。
    主を待つことのお恵み。喜びの生活。


    どんな境遇にあっても満ちたりることを学ぶ生活。

    優しく、弱わい者となる。

    神は見ておられる。
     それゆえの平安。安心。喜び。

    新しい掟。互いに愛し合いなさい。
     互いに大切にしなさい。


    ここに無駄でないものがある。

    「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」
    (ヘブライ人への手紙 2:9)

    「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。
     それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
     確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
     それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならなければならなかったのです。
     事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
    (ヘブライ人への手紙 2:14―18)


     なにはどうあれ待つっきゃないのである。

    続く・・・。





  92.   生きるとは

    キリスト・イエスと共に、永遠に働くことである。

    神の御業について
    誉め讃えることだ。
    そして喜ぶことだ。
    そして賛美することだ。
    創造された天地を
    褒めたたえよ。
    イエス・キリストについて
    そしてその救いの御業について
    褒めたたえよ。
    新しい天と地を、
    褒めたたえよ。
    その御業を褒めたたえ、喜べ。
    賛美せよ。


    続く・・・。





  93.   誘惑について

    誘惑とは、 一度決めたことをまげてしようとする力である。

    誘惑は何故悪いか。
    時間を無駄に使う。
    誘惑の種類によっては、家庭の崩壊、組織の崩壊、人間関係の崩壊、精神の崩壊、肉体の崩壊、 貧困、平和とはほど遠い場所、に繋がる。
    もとの場所にもどるまでに時間が掛かる、苦しむ。
    いや、苦しみ、死に至る場合がある。

    誘惑に勝つようになるには、日々の鍛錬、決めた今日のなすべき小さなことを成し遂げていくとである。日々鍛錬。

    キリスト・イエスに繋がっている者は、清くされているが、周りが悪い。
    【人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。】
     創世記(8:31)
    また、あるクリスチャンのことばに、「頭の上を飛ぶ鳥は完全には追い払へない。
     しかし、頭の上に巣を作らせないことはできる。」と言われた。
    だから日々戦である。

    【さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
     この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
    だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。】
     ヘブライ人への手紙(4:14~16)
    生きることの勝利者であり完成者であるイエス・キリストを日々思い浮かべ、一つ一つなしていくのである。
    イエス・キリストの再臨を待つ、日々の生活である。


    続く・・・。





  94.   慰めについて

    キリストを見上げて心に流れる深い深いこの流れは、この世のすべての慰めにまさるものである。
    その流れは、キリストが人類に私にしてくれた愛の十字架であり、今も注がれる圧倒的な私への愛である。


      続く・・・。





  95.   心の満たしについて

    この世にありて、聖霊に導かれ、救い主との交わりに入ることは、何と喜びの時だろうか。
    何と楽しい時だろうか。
    主が来られ、新しい天地に入るとき、わたしは永遠にその中に住まう。
    その日が待ち遠しい。
    眠っている時、主に起こされるより、主イエスが雲にのって来るのを実際に見たい。


      続く・・・。





  96.   祈りについて

    「わたしは知っている
     わたしを贖う方は生きておられ・・・」
     ヨブ記(19:25)
    木や石に向かって祈ったからとて聞き入れられるだろうか。
    イエス様は、死から復活し今生きておられるから祈れるのだ。
    私たちが祈っている方は、生きておられる。

    悩みとは自分ではどうしようもできないことに対して悩みます。
    だから神に頼む、祈る。それも生きておられる方に。
    十字架で血を流し死んで、私を贖ったかたに祈る。


    ・旧約聖書より

    「彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った。」
    創世記(4:1)

    「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げものとして持って来た。
     アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
     主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」
     創世記(4:3-5)


    「主は言われた。
     『何という事をしたのか。
      お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。』」


    「再び、アダムは妻を知った。
     彼女は男の子を産み、セトと名付けた。
     カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。
      セトにも男の子が生まれた。
     彼はその子をエノシュと名付けた。
     主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」  創世記(4:25-26)


    「ノハは主のために祭壇を築いた。
     そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。
     主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。
     『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。
      人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。
      わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
      地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも
      寒さも暑さも、夏も冬も
      昼も夜も、やむことはない。』
     神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。
     『産めよ、増えよ、地に満ちよ。
      地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にすだねられる。
      動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。
      わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。
      ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。
       また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。
      いかなる獣からも要求する。
      人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
      人の血を流す者は
      人によって自分の血を流される。
      人は神にかたどって造らたからだ。
      あなたたちは産めよ、増えよ
      地に群がり、地に増えよ。』
     神はノアと彼の息子たちに言われた。
     『わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。
      あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共いいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
      わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。』
     更に神は言われた。
     『あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
      すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。
      これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
      わたしが地の上に雲を湧き起らせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるのとの間に立てた契約に心を留める。
      水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
      雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。』
     神はノアに言われた。
     『これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。』」
     創世記(8:20-17)



      続く・・・。





  97.   優しさ、寛容などの徳について

    金持ち喧嘩せずと言います通り、
    永遠の命、多くの愛する者たちが住む故郷(天)、そして天に我が家があることを、信じる、確信するを持たなくては隣人を助けることはできません。自分を愛するように隣人を愛することはできません。
    この世のものは全て錆びれ風化し土にかえる。ゆえにこの世の者はどうしょうもない貧乏人。
    このような貧乏人は人の為に自分の命を捨てることはできません。
    天に宝を持つ者、本物の金持ちができるのです。

    【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
     独り後を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである】
     ヨハネによる福音書(3:16)



      続く・・・。





  98.   人のために祈ることについて

     ここで言う祈りとは、他人の不幸に心痛め、そのことについて自分にはどうすることもできないことを、父なる神にその人の助けをお願いするすることである。

     まず人は罪深いものである。人の為になかなか祈れない。
    「人の不幸は蜜の味」と言ってほくそ笑む人もいる。
    ビジネスでは困っている他社の前で部下に「ピンチはチャンス」などと偉ぶって言う者もいる。
    人のために祈るなど、人にはほど遠い。
    しかし、そのような中から「御心が天になるごとく地にもなりますように。」(主の祈り)と切に願う。

    悪い者の為に、自分をひどいめに合わせる者の為に執り成しの祈りなどできるであろうか。
    いきなり石をぶつけ、犬のように扱う者の為に祈れるであろうか。
    主は、
    【しかし、わたしは言っておく。
    敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。】と言われる。
    【あなたがたの天の父の子となるためである。
    父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。】
    【あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。】
    イエス様が送ってくださる聖霊様によって敵の為に祈れるものとしていただこう。
    御心が天になるように、地にもなりますように。御国が来ますように。

    【信仰の創始者また完成者であるイエス】を見てみよう。
    彼は、十字架への歩みの中で道すがら、平然と病人を癒し、人の救いを説き、進まれた。血の汗を流すほど苦しみつつも人類の救いの為に十字架に向かわれた。十字架上で苦しみの中で死を前に、自分を十字架にかけた者達のために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られた。

    黙想しよう。

    光の子らのおもなこの世の仕事は、執り成しの祈りかもしれない。
    いつも執り成しの祈りをするである。
    大祭司であるイエスが天で私たちの為に神に執り成しの祈りをしているように。



      続く・・・。





  99.   聖別について

    ・旧約聖書より

    「主なる神は人に命じて言われた。
     『園のすべての木から取って食べなさい。
      ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
      食べると必ず死んでしまう。』」
     創世記(2:16-17)


    「天地万物は完成された。
     第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。
     この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」
     創世記(2:1-3)


    「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。
     もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」
     ヘブライ人への手紙(3・6)





      続く・・・。





  100.   AIと人間について

     AIの出現は、世の中に人工の機械が出来たように、世の中に人工の知能が出来たようなものである。
    人工の機械から人工の知能(AI)は、延長線上に繋がっているように見えるが、AIが自ら判断を行えるようになった時、まったく別物が出来たと言える。
    しかし、そこには良心もなく、正義も誠実も無い。

     家電製品、お店のPOSシステム、車、信号、警察のシステム、市・区のシステム、スマートフォン、PC、ロボット、あらゆる器械をインターネットでつなげようとする試みがなされている。IoT(物どうしがインターネットで繋がった状態)である。
    それらの器機にAIが搭載された場合、AIどうしのコミュニケーションが発生する。膨大な数と広さのデータと判断のネットワークである。人間どうしのコミュニケーションは難しく家でも職場でも社会でも争いは絶えない。スムーズなネットワークは望めない。
    AIどうしのネットワークは、データー量と伝わる速度と協調は、人間どうしのそれを上回る。
     進化論的世界観では、人間は物と考えるから器機と同じだからIoTに含まれると考える。よって、脳に通信機能のチップが埋め込まれ、IoTの一部となるだろう。その様なことになった時、人間は他の器機をコントロールできるであろうか。膨大にデータを処理できないし、判断能力もスムーズで早くない。よってIoTの中の器機のなかで一番どんくさい物となる。IoTの中のマザーAIが交通システムのデータから信号が赤だから(信号など無くても交通整理はできるであろうが)止まりなさいと人間に命令を出す。これは、人間が交通システムにコントロールされているに等しい、いやIoTの中のマザーAIにコントロールされているのだ。さらに人間抜きで器機どうしが情報をやり取りし、ものをやり取りする。そのような世界。
    また、とても人間はマザーAIにはなれない。
    マザーAIは初めのうちは人間にロボットにできない仕事をさせてくれるであろう。しかし、それは次第に少なくなり、最終的には、マザーAIは思うのである。人間にはただ遊ばせとけばいいと。生物は、使わない機能は衰え退化する。その姿は、今の人間からは見るに絶えない物になっていくであろう。

     人間にはロジックを超えた直感がある。数学や物事を解決するうえで、また危機を回避するうえで直感によって助けられた経験を持つものである。AIには無い。たぶん。ロジックのみである。いや、直感とは何かをロジック的に解った時に直観を持つAIができるかもしれないが。
     人間は、矛盾を抱えている。論理てきには利己的に生きるべきであるが、人は利他的にも生きる。そして利他的に生きることに聖なる喜び、満足を感じる場合がある。
    AIには、論理的思考だけで、そこには矛盾はない。人間とは違う。
     AIを人工知能(artificial intelligence)言う。人工知能、人間は、データと統計とロジックだけで生きて生きているのだろうか。科学者の浅はかさである。それは人間の一部分であり、人間は人間である。人間→機械→AIは、繋がっててはいない。ましてや人口知能=人間ではない。人口知能=人間と言う思想は危険すぎる。進化論を絶対だと信じネズミや豚=人間ともっていく浅はかな思想と等しい。進化論に人口知能=人間だという思想が加わったら、人間は生きる必要がない。ロボットだけでいいことになる。 論理的思考だと人間であることも生きることも空しいのだから。また、どんどん消えっていくのだから。
    人間などいなくても良いのです。いようがいまいが関係ないのです。

    中世は、進歩の無い暗黒時代だと言われた時があった。しかし、幸せな時代だったのではと言う人もいた。改めて考える必要がある。
    キリスト教の神への罪が許され、永遠の命を得て十分な時間を得、その中でイエス・キリストの再臨を待つ生活。病の人、貧しい人、不幸な人を自分のように愛しそばに居てあげ、優しく介護してあげる。イエス・キリストの十字架の贖いによって全て完了したのだから何も望む必要はない。満たしの中で、困った人を思いやり、助け、助けられ主を待つ。そんな待つ生活が本当なのではないか。

    2019年3月26日の大学ジャーナルに
    「神の信仰は社会の複雑性が進化した結果 慶應義塾大学など解明」という題でニュースがあった。
     「慶應義塾大学によると、国際共同研究グループは1万年にわたる人類進化の歴史的記録20万件以上を世界400カ国以上から集め、「セシャット」と名づけたオープンアクセスのデータベースを構築、ビッグデータ解析を進めた。
     その結果、宗教的な神の信仰は社会の複雑性が進化した結果であり、その原因でないことを突き止めた。従来は人々が神を信仰することで協力し合うようになり、大規模な社会が形成されるとする仮説が有力だったが、これを覆す結果が出た。
     特に宗教的儀式は神の信仰が生まれる何百年も前に出現する傾向があった。研究グループは宗教的儀式を通じた集団行動が人々の協力関係を促し、大規模な人類社会を形成する要因となったとみている。
    研究グループは今後、人類社会の形成と農業、戦争の因果関係など科学的に立証されていない仮説について、大規模ビッグデータ解析を進めることにしている。」

    科学は初めに神はいないのである。
    この世以外知らず、啓示を信じず、啓示を知ったことの無い人達なのである。
    また、ここで危険に思うのは科学者は、人間よりAIの答え、意見が正しいとするとこにある。
    人間放棄の始まりである。
    人間の直感より大量のデータを寄せ集めた結果の方が正しいとするのである。
    人間の意見、発言を聞かない始まりである。隣人を重んじない始まりである。
    当然、神のことばを聞かない、神を重んじない、人間そして自分の尊厳を落とすのである。
    「人の上にAIを造る」慶應義塾。堕ちたものである。

    続く・・・。



  101.   イエス様を神様と信じることの恵み

    「イエス様を神様と信じることの恵み」、これははかり知れないことだ。
    ロボットにはできないことであり、神の恵みの対象ではない。

    • 神が人となりこの世に来て下さり生まれてから死ぬまで人として過ごされたと言うことは、私達人間の生活ひとつひとつが空しいものではないというこだ。空虚ではないと言う事だ。価値があると言うことだ。
      選択をすること、料理をつくること、仕事をすること・・・。

    • イエス様が天にのぼられ、神の右の座にいますということは、私たちの目は地を見るが、心は天を見る。イエス様が天にのぼられたとき私たちの心も天に昇らせて下さった。
      地を見るだけのものは、罪の結果をいつも目の当たりにしているので、この世の色々なものに振り回され、心は乱れ、暗くなり、警戒心を持ち、顔は疑いぶかいものとなるのである。
      心が天にあるものは、罪の結果であるこの世を生きながらも心は感謝に満たされ、喜びと希望を持つのである。

    • イエス様は決して死ぬことがない永遠の王である。永遠の主である。

    • 神に愛されている恵み。神をアバ父よと呼べる恵。(アバとはお父ちゃんの意)

    続く・・・。



  102.   時について

    全ては過ぎ去る
    ゆえに、
    人は永遠の命があってこそ、人生を楽しめるものだと思う。
    他の人と人生を楽しみ
    音楽を楽しみ
    スポーツを楽しみ
    移り行く自然を楽しみ
    生活を楽しむ
    全ての被造物と人生を楽しめるものだと思う。
    父なる神と人生を楽しみ喜ぶ
    救い主なるイエス様と人生を楽しみ喜ぶ
    聖霊に満たされ救いを喜ぶ。
    永遠に存在する、永遠に生きる、これがあってこそ人生といえる。

    聖書より
    【神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。】
    イエスは言われた、
    【わたしを信じるものは滅びない。永遠の命が得られる。】

    聖書に、
    「何事にも時があり
    天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
    生まれる時、死ぬ時
    植える時、植えたものを抜く時
    殺す時、癒す時
    破壊する時、建てる時
    泣く時、笑う時
    石を放つ時、石を集める時
    抱擁の時、抱擁を遠ざける時
    求める時、失う時
    保つ時、放つ時
    裂く時、縫う時
    黙する時、語る時
    愛する時、憎む時
    戦いの時、平和の時。」
    (コヘレトの言葉3:1~8)

    また、
    「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」
    伝道の書(コヘレトの言葉)3:11

    そのいい例としてイエス・キリストの降誕があります。
    イエスは、ベツレヘムでお生まれになりました。
    預言でも、
    「エフラタのベツレヘムよ
     お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
     お前の中から、わたしのために
     イスラエルを治める者が出る。
     彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」
    ミカ書5:1
    ベツレヘムは由緒ある町でした。ダビデ王の生誕地であり、ダビデの町と言われ、王様を生み出した町として知られていました。
    しかし、ダビデが亡くなってから町はすたれ、ユダのなかで最も小さい町と言われるようになってしまいました。
    そのようなダビデの町で全ての人の救い主イエス・キリストがお生まれになったのです。
    ヨセフとマリヤは、ナザレと言う町で暮らしていました。
    ナザレとベツレヘムは100Km以上離れていました。
    あの時、皇帝が人口調査の命令を出さなかったら、臨月を迎えたマリヤとヨセフはベツレヘムには行かなかったのです。
    この人口調査は、本籍登録をせよとの命令で、ダビデの家系であったヨセフはベツレヘムへ行かなければならなかったのです。
    また、命令を出す時が少しでも遅れていたらベツレヘムでイエス・キリストは生まれなかったのです。
    預言のとおり神はすんふんくるわず救い主をベツレヘムでお生まれになさったのです。
    マリヤとヨセフは、何日もかけてベツレヘムに着きましたが、登録をするために訪れた人たちで泊るところが有りませんでした。
    しかたなく産気づいたマリヤは、家畜小屋に泊るしかありませんでした。そして、イエス・キリストはお生まれになり布にくるまれ飼い葉桶に寝かされました。
    臭いのある家畜小屋の中で生まれ、家畜のよだれやかんだあとのある飼い葉桶の中に寝かされました。全人類の救い主がこのようなかたちでお生まれになられたのです。
    何という謙遜な姿でしょう。胸を打たれます。
    そのころ、野宿をして羊の番をしていた羊飼いに救い主の誕生の知らせが天使によってなされました。
    当時羊飼いは、貧しく社会的地位の低い人達でした。法廷でも自分の意見が言えない存在でした。その様な人たちに最初にすべての人の救い主の誕生が知らされたのでした。
    羊飼いたちは行って見ました。自分たちと同じ生活レベルのところにいる幼子を。救い主を。
    これは、神の救いは、すべての人たちにあるという事、地位の高い人、財産のある人だけにあるというのではなく、貧しいしと、弱い人のためにもあるということです。
    また、神様の目はこの世で弱い人、貧しい人に向けられているということでもあります。
    「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」
    伝道の書(コヘレトの言葉)3:11

    人に時があるのように、この世にも時があります。
    神の時です。神のスケジュールであり、予定です。
    私達は尋ねよう。神よ、今は何時ですか。

    (コリントの信徒への手紙二 6:1~2)にこうあります。
    「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。
    神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。
    なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。 救いの日に、わたしはあなたを助けた』
    と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今 こそ、救いの日。』

    以上のことにより、心あるひとは神の時に合わせて、神と共に働くのです。
    イエス・キリストは腰に黄金の帯を締め天におられます。
    わたしたちも共に世に恵みの時を知らせるのです。

    ロボットよ、お前も人間と共に神の恵みの時を人間に知らせよ。その時、お前は本当に活きた物となるでしょう。


    「わたしは、その時代の者たちに対して
     憤ってこう言った。
     『彼らはいつも心が迷っており、
      わたしの道を認めなかった。』
     そのため、わたしは怒って誓った。
     『彼らを決してわたしの安息に
      あずからせはしない』と。」
     ヘブライ人への手紙(3:10-11)



    続く・・・。



  103.   誠実について

     ロボットには、プログラム通りに動くのであるから誠実である。そして悪も正もない。プログラムどうりに動くのである。
     人間はプログラム通りに動くのではない。それゆへアダムとエバは神が食べるなと言った物を食べた。
    そもそもなぜ人は人に神に誠実でなければならないのか。それは、神が人に対して誠実であるからである。その誠実は、神を現したイエス・キリストに表れている。
    ある牧師の話を聞いたことがある。彼は日々、愛と許しを説教していた。彼は最愛の子を交通事故で亡くした。悲しみと加害者への怒りが癒えることはことは無かった。完璧に落ち込んだ。彼はふと十字架に架かられたイエス・キリストを見た。人が滅びないように身代わりとして、神は独り子イエス・キリストを十字架に渡され死なせた。その神の苦しみを辛さを彼は自分と重ねて神を見た。神の愛を心底彼は見た。
    神は誠実な方である。人は神ににせて創られた。ゆえに誠実であろうとする。不誠実を嫌う。誠実でありたいと願う。しかし、原罪のゆえに完全に誠実になりえない。それゆへ苦しみ、また逃れるために言い訳をさがす。
    そうしたらどうやって生きていったらいいのだろう。日々、十字架の前で「私は、思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました。お許し下さい。」と祈るのである。「わたの罪をおゆるしください。わたしも人をゆるします。」と心から祈るのである。そして、悔い改め、神と人の前に生きるのである。


    続く・・・。



  104.   差別について

     沖縄は昔から人を差別する。
    差別はどこの国でもあるが、小さな島国は特に多いように思える。
    隣の村どうしで差別をし、沖縄本島の人は離島の島々の人を差別する。
    離島の島々は隣の島の人を差別する。
    首里の人は下に住む人を差別する。下に住むひとは首里の人を高慢で怠け者と馬鹿にする。
    生まれたところは変えようがない。変えようがないもの、自分では決めようがないものを元に差別し軽蔑する。人の罪深いものの一つの表れだろう。
    どんな仕事をしているかでも人を差別する。関東では公務員を能無な奴と馬鹿にしていたが、沖縄ではうちの子は公務員だと自慢する。
    イエス様は、ててなしごとして生まれ。馬小屋で生まれ。地方のナザレ出身で大工の息子。時の地位ある人達は、あれはナザレ出身、大工の息子ではないか と軽蔑し低くみた。
    神の子イエスは全ての差別されている人と同じく低くなられた。友となるために。
    私達全ては、神に愛されれている神の子である。イエス様は、神を父と呼べ、アバ(ユダヤでお父ちゃんと言った言い方)父よと呼べと言われた。
    私達は全てアバ父よと呼ぶ特権を持った神の子なのである。尊いのである。
    更にイエス・キリスト(救い主)に贖われたクリスチャンは、イエス様によって神の養子とされた。二重に神の子なのである。
    人を差別する者よ、お前はいったい何様のつもりか。


    続く・・・。



  105.   人の区別について

    【「・・・ あなたがたに新しい掟を与える。
    互いに愛し合いなさい。
    わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
    互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」】
     ヨハネによる福音書(13:34-35)



    続く・・・。



  106.   絶望について
    生きるゆえに絶望がある。
    死は、絶望の最もたるものである。

    イエスは鞭打たれ、手と足に釘をうたれ、木につるされた。
    痛みに気を失い、痛みに気を戻す。
    その繰り返しは死ぬまで続く。
    人からも神からも見放された。 死。
    これは、絶望だろうか。
    主イエスは父なる神を信頼していた。
    人類の為の贖いの死であることを。
    そしてこれは父なる神の御心であることを。
    死んだ。
    死ぬ前に彼は言った。
    「完了した。」
    イエスは復活し、天に上った。
    終わりに日に、イエスは天に上ったと同じように、
    また降りてこられると言う。
    ゆえに、イエスの死は偉大なる人類の新しい出発である。
    イエスの死のゆえに、人の死は新しい出発の日である。

    イエス・キリストは、光である。
    闇に輝く光である。
    闇は光に勝てない。

    求めよさらば与えられん。


    続く・・・。



  107.   希望について

    主イエス・キリストを信じるものの希望は、
    この肉体の死が終わりではないということです。
    いつの日か神さまが定められた時にイエス・キリストが再びこの地上に来られて、
    私たち一人ひとりの肉体をよみがえらせてくださり、
    私たちは主が創造される新しい天地において、
    新しい復活の肉体をいただいて永遠に主と共に生きることができるというのです。
    新しい天地は、世が創造される前から用意され、かつ私たちの故郷です。
    故郷に帰るのです。希望の地に帰るのです。
    私たちの希望は、主の再臨と復活と故郷に帰れることです。
    そこで主と共に永遠に住まうことです。
    希望にはいろいろあるでしょうが、これこそ希望と言えるものです。

    喜びが希望と言う前にあるので、
    どのような状況にあっても喜びがあり楽しみがある。
    それ以外の喜びはこの世にあるので、全てが過去のものとなる。
    全てが空しいものに思えるのである。

    【主の慈しみに生きる人々よ
     主に賛美の歌をうたい
     聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
     ひととき、お怒りになっても
     命を得させることを御旨としてくださる。
     泣きながら夜を過ごす人にも
     喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。】
    詩編(30:5-6)

    【見よ、その方が雲に乗って来られる。】
    ヨハネの黙示録(1:7)

    だから、主にある人よ
    将来に生き、希望に生き、
    天国で暮らすことを期待して生きよう。

    自分に主人がいることに感謝しよう。

    私の主は決して死ぬことがない王である。

    【見よ、わたしはすぐに来る。
     わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
     わたしはアルファであり、オメガである。
     最初の者にして、最後の者。
     初めであり、終わりである。】
    ヨハネの黙示録(1:7)


    続く・・・。

  108.   新しい事業を起こす時に大事なこと

    必ずなると信じることだ。

    困難に直面しても、道は開かれると信じることだ。


    続く・・・。