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神とは
主イエスがこう祈りなさいと教えて下さった「主の祈り」の冒頭
【天にいますわれらの父よ】
を口にして祈る時、
神を知れば知るほど、
これはとんでもないことだと知り、
そんな方、神を父と呼べる立場に、イエス様の贖いにより、許されて、入れて下さったことを覚え、
神を知れば知るほど、
私の心は震える。
神とは、私達のまことの父である。
ゆえに、私達は神のまことの子である。
マルチン・ルターの小教理問答書には、
【主の祈り
呼びかけ 天にいますわれらの父よ、
これはどんな意味ですか。
答え ー 神はこれによって、神がわたしたちのまことの父であり、わたしたちが神のまことの子であることを信じ、ちょうど愛する子どもたちが、その愛する父に求めるように、全き信頼と安心とをもって神にもとめることをおすすめになります。】
とあります。
--聖書より--
【 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。
この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。】
ヨハネ 1章 12節 ー 13節
ーーーーーー
神を父と言うのは比喩的である。
なぜなら神には性別がない。
父親には、家族全体に目を配り、家庭を守り、家族を育てる役割を担う と言うイメージがあるが、
神は神ゆえに、父と言うイメージだけに納めきれない。
神は、被造物である人間を超越しておられるのである。
ゆえに、神を父を言うのは、比喩的であり一つのイメージである。
イエス様が神を「アッバ、父よ」(アッバとはイエス様がおられた地域でのアラム語の「お父ちゃん」の意味)
と呼びなさいと言われたのは、
神をより身近に、親しく感じて呼びなさい、そのようになったのですよ、そのように呼ぶことを許される様になったのですよの意味がある。
父とは人間であり、男です。
しかし、神には性別はありません。
人間は、被造物であるから男と女で一つです。
子にとっては父親は父親としてのイメージがあり、母親には母親としてのイメージがある。
そして、父親には父親としての役割があり、母親には母親としての役割がある。
それで一つである。子にとってもそれで一つである。
しかし、人が神の性質を表現するには「父」と表現することが最も適しています。
だが、人間を超越しておられる神には母親としてのイメージもあるである。
なぜならば、聖書には、神を父親としても母親としても描かれているからです。
--聖書より--
【 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。
自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても
私はあなたを忘れない。】
イザヤ 49章 15節
また、イエス様が
--聖書より--
【 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。】
マタイ 23章 37節
母親が子に対する想いを神様の想いに置き換えて表現しています。
では、神を母よと聖書では呼ばないのか、
それには、当時、多産の神、豊穣の神、などの女神、多神教があったので、
遺跡などに女神の偶像があることで分かるように、新偶像礼拝につながる恐れがあるからです。たぶん。
聖書は、神の霊感によって著者に書かしたものです。神がそうさせたのです。
神がご自身を父を呼ぶのが相応しいとしたのです。
ですから、私達も神を父と呼ぶのです。
人間が神を一つの言葉で表現するには、限界がある。
神が三位一体であるように。
なのに、被造物である人間である私が、神を「アッバ、父よ」と親しく、身近に、呼びなさいと言われた神なるイエス様には、感謝であり、言い尽くせない恵みである。
ーーーーーー
父なる神は、子なる貴方を愛しておられます。
しかし、父なる神を信じなければ信頼しなければ、父にはどうにもならない。 なぜなら、貴方はロボットではない。自由意志のある個人である。選択権があたれられている個人である。
なぜならば、被造物の中で人間だけが神に似せて創られたからである。
神を信じないのは、神は信じるに値しない方としていることに気がつかなければならない。
その様な人が、神と真面な付き合いができるであろうか。
神は真実な方です。真面目な方です。安心して信じなさい。
よって、神の一人子 イエス・キリストの十字架の贖いが私の罪の贖いであると信じましょう。
それにより、貴方は神の前に義とされます。
義とされなければ、天国には行けないでしょう。神の身元に行けないでしょう。神の恵みを受けられないでしょう。
神を信じなければ受けられないでしょう。
貴方は神を不正な方、嘘つきと言うのですか。
神を信じ、神と誠を持って相対しましょう。神とお付き合いしましょう。
ーーーーーー
さらに大事なことは、父なる神の元にかえることが出来るのは、救われることが出来るのは、今しかない<。生きている今しかない。死んだら終わりである。答えるのは期限があるのである。
なぜなら貴方は被造物だからである。
終わりは、個人の終末(死)だけではない、世の終、終末もある。神が巻物を巻く日が確実に来るのである。
聖書にある予言は、そうなるかも知れないではなく、確実になるのである。神が言われるのだから。
--聖書より--
【 人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっている。】
ヘブライ 9章 27節
ゆえに、貴方は確実に死ぬ。
永遠に希望の無い、永遠に光を見ない暗闇の中に、行くのです。
神から離れるということは、死ぬということは、恐ろしいことなのです。
神を信じ、その救い主イエス・キリストの贖いを信じ、その救いの中にはいるのとはえらい違いです。
信仰と恵みの中に行きましょう。貴方の胸先三寸に有ります。
聖書では、死は罪の結果であると言っています。
--聖書より--
【 罪の支払う報酬は死です。】
ローマ 6章 23節
また続いて、こうも言っています。
--聖書より--
【 しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。】
ローマ 6章 23節
貴方が滅びないように父なる神がイエス・キリストを送られました。
--聖書より--【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
ヨハネ 3章 16節
罪にまみれた汚いままでは、神のもとには行けません。
聖くならなければ、聖い神のもとへは行けないのです。
父なる神が与えた貴方が聖くなる唯一の道、イエス・キリストの十字架による貴方の罪の贖いを信じ、
神の前に義とされ、
聖くされて、
まことの父なる神のふところに入るのです。
そうすれば、貴方はこの世で父なる神から溢れるばかりの恵みを受け、さらに遠の命を受けるのです。
父なる神は、この天地を創り所有している方なのですから、
そして気前の良い方なのですから。
--聖書より--
【 また、イエスは言われた。
「ある人に息子が二人いた。
弟のほうが父親に、『お父さん、私に財産の分け前をください』と言った。
それで、父親は二人に身代を分けてやった。
何日もたたないうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ち、そこで身を持ち崩して財産を無駄遣いしてしまった。
何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その地方に住む裕福な人のところへ身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、食べ物をくれる人は誰もいなかった。
そこで、彼は我に返って言った。『父のところには、あんなに大勢の雇い人がいて、有り余るほどのパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。
「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
そこで、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
しかし、父親は僕たちに言った。『急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。】
ルカ 15章 11節 ー 24節
父なる神は、貴方が父なる神の胸元に帰ってくるのを今も待っているのです。
父なる神は、既に赦している。
帰って来た息子を抱き「いいんだよ、いいんだよ」と言って背を撫で優しくたたかれる。
息子は父なる神の胸元で涙を流せば良い。
イエス・キリストの十字架の贖いを受け入れ、まことの父なる神に帰れ。そして平安を得よ。
--聖書より--
【 ほかにも、二人の犯罪人がイエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
〔その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。】
ルカ 23章 32節 ー 34節
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神とは、この世の天と地、見える物見えないもの全てを創られた唯一の方である。
--聖書より--
【 初めに神は天と地を創造された。】
創世記 1章 1節
「我思う、ゆえに我有り」ではないのである。
【初めに神有り】なのである。
神とは、「いる、方。」である。
--聖書より--【 神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」】
出エジプト 3章 14節
神様とはどの様なお方か、マルチン・ルターは下記のように記している。
小教理問答書より
「使徒信条 第一条 創造について
わたしは天地のつくりぬし、全能の父である神を信じます。
これはどんな意味ですか。
答え ー わたしは、神がわたしをすべての物とともにつくれれたことを信じます。
わたしは神がわたしに、からだと魂、目と耳と両手両足、理性とすべての感覚を与えられたこと、今もなお保たれることを信じます。
そのうえに神は、着物とはき物、食物と飲み物、家と屋敷、妻と子ども、田畑と家畜とすべての財産とを、からだと生活のために必要なすべてのものともども、毎日豊かにあたえ、あらゆる危害から保護し、またすべての悪から守り、防がれることを信じます。
そしてこれらすべては、まったく、わたしの功績とか値うちとかによるのではなく、純粋に、父としての、神の慈悲とあわれみによります。
これらすべてのことのゆえに、私は神に感謝し、神を賛美し、また奉仕し服従するのです。
これは確かにまことです。」
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神様は愛なる方である。
ここで気負付けなければならないのは、神の愛は人間の愛とは違うと言うことである。
特にクリスチャンでは無い日本人が思う愛とは違うのである。
日本人は、愛を人の情と勘違いしている。
その愛は、肉の愛であり、人情である。私には情があるとか言う人がいるがそれは人の愛であり、自己中心的であり、肉の愛である。
ゆえに、憎しみに変る場合がある。ストーカーや犯罪に走りえるものである。
そして、それが愛と勘違いし自分を是とし自分では止められないのである。
--聖書より--
【 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。】
ヨハネ 15章 13節
神の愛は、果てしなく広く、果てしなく高く、果てしなく深く、人間にはとても及ばないのである。
神は人間を超越しているからである。
聖書で神が言う愛は、人の情の様なものではなく、理性的なものである。
--聖書より--
【 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。 不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。】
一コリント 13章 4節 ー 7節
さらに人間に神の愛が分かるように、人間的な情が加味する。
--聖書より--【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
ヨハネ 3章 16節
神の愛は、人間思考を超越しています。
また愛についてこうも言われている。
--聖書より--
【 たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。】
一コリント 13章 2節
【 愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。 私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。 幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になったとき、幼子のような在り方はやめました。 私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。】
一コリント 13章 8節 ー 13節
と、愛の有る夫婦、愛の有る家庭、愛のある信仰の友、愛の有る教会、愛のある町、愛の有る職場、愛の有る国、愛の有る世界。
それらの愛は、正しい信仰から生まれるものである。
正しい信仰によって、神の愛を知ることである。
神のまことの愛に満たされてこそ、
愛の有る夫婦、愛の有る家庭、愛のある信仰の友、愛の有る教会、愛のある町、愛の有る職場、愛の有る国、愛の有る世界は、なるものである。
神の愛の極地は、御子イエス・キリストの十字架の贖いである。
--聖書より--【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
ヨハネ 3章 16節
罪にまみれいる者も、
経済的にいずまっている者も、
病にある者も、
歳よりも、
もう駄目だと思っても、天を見上げれば、青い空がある。
今は救いの日、神の愛の救いの光は貴方が息をしていればイエス・キリスト、
このお方を信じれば貴方は救われます。
--聖書より--
【 「天の国は、ある家の主人に似ている。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けとともに出かけて行った。
彼は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場で立っている人々がいたので、
『あなたがたもぶどう園に行きなさい。それなりの賃金を払うから』と言った。
それで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろに出て行って、同じようにした。
五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と言った。
彼らが、『誰も雇ってくれないのです』と答えたので、主人は、『あなたがたもぶどう園に行きなさい』と言った。
夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていたが、やはり一デナリオンずつであった。
それで、受け取ると、主人に不平を言った。
『最後に来たこの連中は、一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。』
主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。
自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。』
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」】
マタイ 20章 1節 ー 16節
ぶどう園の主人は、貴方に言われます
『あなたがたもぶどう園に行きなさい』と。
父なる神は、貴方に言われます
『私の元に帰ってきなさい』と。
神様は愛なる方である。
聖書の初めから終わりまで神は愛なる方であることが記述されている。
ゆえに、--聖書より-- として多すぎて書ききれない。
また、この世は、天の端から地の端まで、アルファからオメガまで、神の愛で満たされている。
神は義なる方である。
聖書の初めから終わりまで神は義なる方であることが記述されている。
また、この世は、天の端から地の端まで、アルファからオメガまで、神の義で満たされている。
貴方が義でなくても、イエス・キリストの十字架が貴方を義として下さるのです。
行いが悪くても、信仰により、義として下さるのです。
イエス・キリストの十字架は、神の愛と義が、火花を散らし、血を流し、交差しぶつあり会った所である。
神は愛なる方であるが、義なる方である。
神は慈悲深いお方であるが、義なる方である。
神は聖なる方であるから。
ーーーーーー
神様は、天と地、この世とあの世、全てを創られた方である。
そして、それらを昔もそして今も、全てを支配し維持している方である。
神様は、私達人間の最初の人、アダムとエバを創られた方である。
--聖書より--
【 神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。】
創世記 1章 27節
【 神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。】
創世記 2章 7節
【 そこで、神である主は人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、そのあばら骨の一つを取り、そこを肉で閉ざされた。
神である主は、人から取ったあばら骨で女を造り上げ、人のところへ連れて来られた。】
創世記 2章 21節 ー 22節
【 神の霊が私を造り全能者の息が私に命を与える。】
ヨブ記 33章 4節
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神様はねたむ神である。
つづく・・・
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イエス・キリストとは
多くの科学者は、哲学者は、宗教家は、真理を道を探している。
イエス・キリストは言う、私が真理である、道であると、キッパリと言う。
--聖書より--【 イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。】
ヨハネ 14章 6節
人よ、人生は短く限りがある、探す方向を間違えてはいけない。
イエスは言う、「私が道であり、真理であり、命である。」と。
ーーーーーー
イエス・キリストは神である。
ゆえに、イエス・キリストは、「いる、方。」である。
--聖書より--【 神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」】
出エジプト 3章 14節
--聖書より--【 御子は、見えない神のかたちであり
すべてのものが造られる前に
最初に生まれた方です。
天にあるものも地にあるものも
見えるものも見えないものも
王座も主権も
支配も権威も
万物は御子において造られたからです。
万物は御子によって、御子のために造られたのです。
御子は万物よりも先におられ
万物は御子にあって成り立っています。
また、御子はその体である教会の頭です。
御子は初めの者
死者の中から最初に生まれた方です。
それは、ご自身がすべてにおいて
第一の者となるためです。
神は、御心のままに
満ち溢れるものを
余すところなく御子の内に宿らせ
その十字架の血によって平和を造り
地にあるものも
天にあるものも
万物を御子によって
ご自分と和解させてくださったのです。
あなたがたも、かつては神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
しかし今や、神は御子の肉の体において、その死を通してあなたがたをご自分と和解させ、聖なる、傷のない、とがめるところのない者として御前に立たせてくださいました。
ですから、あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となったのです。】
コロサイ 1章 15節 ー 23節
【 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。 それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。 あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。】
ガラテヤ 4章 4節
イエス・キリストは神であり、人である。
イエス様のご自身についての御証
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」
ヨハネ 11章 25節
イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」
ヨハネ 14章 6節
イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。」
ヨハネ 14章 9節
イエスはこれらのことを話してから、天を見上げて言われた。
「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子に栄光を現してください。
あなたは、すべての人を支配する権能を子にお与えになったからです。こうして、子が、あなたから賜ったすべての者に、永遠の命を与えることができるのです。
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
父よ、世が造られる前に、私が御もとで持っていた栄光で、今、御前に私を輝かせてください。
世から選んで私に与えてくださった人々に、私は御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に与えてくださいました。彼らはあなたの言葉を守っています。
私に与えてくださったものはみな、あなたから出たものであることを、今、彼らは知っています。
なぜなら、私はあなたからいただいた言葉を彼らに与え、彼らはそれを受け入れて、私が御もとから出て来たことを本当に知り、あなたが私をお遣わしになったことを信じたからです。
彼らのためにお願いします。世のためではなく、私に与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。 私のものはすべてあなたのもの、あなたのものは私のものです。私は彼らによって栄光を受けました。
私は、もはや世にはいません。彼らは世におりますが、私は御もとに参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです。
私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした。聖書が実現するためです。
しかし今、私は御もとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ち溢れるようになるためです。 私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではないからです。 私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではありません。
真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの言葉は真理です。
私を世にお遣わしになったように、私も彼らを世に遣わしました。
彼らのために、私は自らを聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者とされるためです。
また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします。
父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。
あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。
父よ、私に与えてくださった人々を、私のいる所に、共にいるようにしてください。天地創造の前から私を愛して、与えてくださった私の栄光を、彼らに見させてください。
正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私をお遣わしになったことを知っています。私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」
ヨハネ 17章 1節 ー 26節
イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
マタイ 8章 20節
イエスは言われた。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」
シモン・ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です。」
すると、イエスはお答えになった。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である。
私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。
私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」
それから、イエスは、ご自分がメシアであることを誰にも話さないように、と弟子たちに命じられた。
マタイ 16章 15節 ー 20節
ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
「あなたがたはメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、
イエスは言われた。「では、どうしてダビデが、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのか。
『主は、私の主に言われた。「私の右に座れ私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』
このように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
これには誰一人、言葉を返すことができず、その日からは、もはや、あえて質問する者はなかった。
マタイ 22章 34節 ー 46節
イエスは黙っておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。だが、私は言っておく。あなたがたは間もなく人の子が力ある方の右に座り天の雲に乗って来るのを見る。」
マタイ 26章 63節 ー 64節
イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。私はそのために出て来たのである。」
そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
マルコ 1章 38節 ー 39節
イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを建て直す。では、人の子については、どのように書いてあるか。多くの苦しみを受け、蔑まれるとある。
マルコ 9章 12節
そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。
マルコ 14章 24節
しかし、イエスは黙り続け、何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。
イエスは言われた。
「私がそれである。あなたがたは、人の子が力ある方の右に座り天の雲に乗って来るのを見る。」
マルコ 14章 61節 ー 62節
イエス様は、神であるのに私を貴方を全人類を滅びから救う為に人となられた。
イエス様は、神であるのに私や貴方の全人類の代わりに罪人として十字架に架けられた。
イエス様は、神であるのに私や貴方の全人類の代わりに十字架上で死なれた、そして墓に葬られた。
イエス様は、死んで葬られて3日後に復活した。
イエス様は、死から復活して多くの人に会われ、後天に上り神より全ての権能をさずけられた。
イエス様は、天において信じる者の為に日夜執り成しの祈りをしておられる。
イエス様は、信じる者の為に天に住まいを用意していて下さっている。
--聖書より--
【 御子は、見えない神のかたちでありすべてのものが造られる前に
最初に生まれた方です。
天にあるものも地にあるものも
見えるものも見えないものも
王座も主権も
支配も権威も
万物は御子において造られたからです。
万物は御子によって、御子のために造られたのです。
御子は万物よりも先におられ
万物は御子にあって成り立っています。】
コロサイ 1章 15節 ー 17節
【 神は、かつて預言者たちを通して、折に触れ、さまざまなしかたで先祖たちに語られたが、
この終わりの時には、御子を通して私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者と定め、また、御子を通して世界を造られました。
御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。
そして、罪の清めを成し遂げて、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれました。
御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちにまさる名を受け継がれたからです。
神はかつて、天使たちの誰に向かって、こう言われたでしょうか。
「あなたは私の子
私は今日、あなたを生んだ。」
さらにまた、
「私は彼の父となり
彼は私の子となる。」
と言われました。
また、神はその長子を再び世界に送るにあたって、こう言われます。
「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ。」
また、天使たちに向かっては、こう言われます。
「神は、天使たちを風とし
自分に仕える者たちを燃える火とされる。」
一方、御子に向かっては、こう言われます。「神よ、あなたの王座は世々限りなく公平の笏があなたの王権の笏である。
あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神、あなたの神はあなたに喜びの油を注がれた。あなたを仲間から選び出して。」
また、こう言われます。「主よ、あなたは初めに地の基を据えられた。
天もあなたの手の業である。
天地は滅びるがあなたはいつまでもとどまられる。すべてのものは衣のように古び
あなたが外套のように巻くとこれらのものは、衣のように取り替えられる。しかし、あなたは変わることなくあなたの歳月は終わることがない。」
神は、かつて天使たちの誰に向かって、こう言われたでしょうか。
「私の右に座れ私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」
天使たちは皆、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に奉仕するために、遣わされたのではありませんか。】
へブライ 1章 1節 ー 14節
【キリストは天に昇り、天使たち、および、もろもろの権威や力を従えて、神の右におられます。】
一 ペテロ 3章 22節
【 事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。
その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。
それで、私たちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。かつては肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。
だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。
つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。
こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。】
二 コリント 5章 14節 ー 21節
王の中の王なのに、
馬小屋で生まれ、飼い葉桶の中に寝かせられた。
王の中の王なのに、
生まれて直ぐに、その地の権力者に命を狙われ、親と共にエジプトに逃れた。
王の中の王なのに、
育った故郷の人達に、崖から落されかけた。
王の中の王なのに、
ロバの子に乗って、エルサレムへ入場した。
--聖書より--
【 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように
イスラエルの王に。」
イエスは子ろばを見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
「シオンの娘よ、恐れるな。
見よ、あなたの王が来る。
ろばの子に乗って。」】
ヨハネ 8章 12節
復活しても、私達と同じような姿で現れた。
エマオの途上で、二人の弟子に現れた時は、普通の人で彼らは気が付かなかった。
--聖書より--
【 この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、
この一切の出来事について話し合っていた。
話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。
しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。】
ヨハネ 8章 12節
復活しても、私達と同じ物を私達と一緒に普通に食べた。
--聖書より--
【 私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ。」
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていると、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。】
ルカ 24章 36ー43節
【 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であると分かっていたからである。 イエスは来て、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。】
ヨハネ 21章 1ー14節
--聖書より--【 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており】
コロサイ人への手紙 2章9節
【 ある箇所で、こう証しされています。
「人とは何者なのか
あなたが心に留めてくださるとは。
また、人の子とは何者なのか
あなたが顧みてくださるとは。
あなたは彼を僅かの間
天使たちよりも劣る者とし
栄光と誉れの冠を授け
万物をその足元に従わせられました。」
「万物を彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、私たちはいまだに、万物がこの方に従っている状態を見ていません。
ただ、「僅かの間、天使より劣る者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と誉れの冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれたのです。
というのは、多くの子たちを栄光へと導くために、彼らの救いの導き手を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。
実際、聖とする方も、聖とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それゆえ、イエスは彼らをきょうだいと呼ぶことを恥としないで、
「私は、きょうだいたちに
あなたの名を告げ知らせ
集会の中であなたを賛美しよう」
と言い、また、
「私は神に信頼する」
と言い、さらにまた、
「見よ、私と
神が私に与えてくださった子たちがいます」
と言われます。
そこで、子たちは皆血と肉とを持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました。それは、ご自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にし、
死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放されるためでした。
確かに、イエスは天使たちを助けるのではなく、アブラハムの子孫を助けられるのです。
それで、イエスは、神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を宥めるために、あらゆる点できょうだいたちと同じようにならなければなりませんでした。
事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
だから、天の召しにあずかっている聖なるきょうだいたち、私たちが告白している使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
モーセが神の家全体にわたり忠実であったように、イエスは、ご自分を任命した方に忠実であられました。
家を建てた者が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。
どんな家でも誰かが建てるものですが、万物を建てられたのは神なのです。
モーセは後に語られることを証しするため、仕える者として神の家全体にわたり忠実でした。
しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められます。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるなら、私たちこそ神の家なのです。】
ヘブライ 2章 6ー 3章 6節
つづく・・・
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宗教改革とは
たとえで言えば、
家のリホームのようなものである。
土台は変らない。
家が良くなるので、土台も庭も近所の人達も喜ぶ。
空も海も森も山も 鳥も獣も喜ぶ。
父なる神も喜ぶ
つづく・・・
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永遠の命の素晴らしさ
この世と次の世が繋がる。この世の今の自分が次の世の自分に繋がるのだ、
これががどんな意味をもつか、生き方を全く変えさせるのかよく考えてみよ。
つづく・・・
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イエス・キリストを信じると、どんな得があるのか?
①、何時かは死ぬものと思っていたが、死ななくなり、死から解放される。そして天国と永遠の命が得られる。
②、罪が赦され、神の怒りから解放され、救われる。
③、この世では、神から溢れるばかりの恵みを受け、天国を先取して味わい、将来は天国に行ける。
④、神の子とされる。
⑤、イエス・キリストと共に全ての被造物を相続する。
⑥、この世では、神の神殿となる。
⑦、神の愛を知って、愛が分かり、愛の中に生きることができる。
⑧、イエス・キリストに繋がっていると、幾つもの徳が得られ自分だけでなく隣人も平和になる。
⑨、イエス様が神と私の間の仲保者になってくれる。
⑩、この世でもあの世でも喜びがある。
⑪、どうしょうもない、惨めな自分が、新しく造り変えられる。
⑫、一人ではなくなる。イエス様と二人。
⑬、死を前にした時、イエス様が慰めてくださり、先に生が見えてくる。
⑭、神様の目には私が貴く尊く愛されていることを知る。
⑮、敵を赦すことができ、敵の為に祈ることができ、敵を愛することができる。
⑯、論理的な思考が出来るようになるので現代文明について行ける。
⑰、迷信から解放される。
⑱、不安でなくなる。
⑲、地獄に行くことが無くなり、天国に行くことが確実になる。感謝
⑳、イエス・キリストが生きている時も、死ぬ時も、本当の慰めとなって下さる。
㉑、復活されたイエス様が私と一緒に歩んで下さる。何時も。My friend.
㉒、私には私を決して見捨てない方がいる、それはイエス様。
㉓、艱難の中で休みが与えられる
㉔、神の子となる力が与えられる
㉕、神からあらゆる祝福を得、私達からあらゆる禍を取り除かれる
・
・
・
沢山ありすぎて書き記すのに多くの時間を要します。
それは、神のように高く、広く、深い。
その高さ、広さ、深さは神のごとく限りが無い。
まさに天国である。
そして大事なことは、これら全て神からの贈り物、プレゼントだと言うことです。
そして、これらの沢山の神からの贈り物、プレゼントを頂くのには、ただ神からの救い主、 イエス・キリストを信じるだけでいいのです。
信じると、神の前に自動的に義とされ(良しとされ)あらゆる神の恵みを受けるのです。
神は何故そうしてくださるのか、
それは、神は愛なるかたであり、
神の目には貴方は貴く尊いからです。
神は貴方を愛しているからです。
神は貴方が罪の為に滅びることを望みません。
--聖書より--
【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
ヨハネ 3章 16節
つづく・・・
-
イエス・キリストを信じないと、どうなるのか?
--聖書より--
【 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。】
マルコ 16章 16節
【 御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。】
ヨハネ 3章 18節
罪に定められるとは、神から滅びの宣言を言い渡されるということである。
それは、永遠の死であり、永遠の地獄であり、永遠に救いの無い、永遠に光の無い、神の言葉が無いところである。
「神がお遣わしになった者」を信じないのだから当然の報いである。
信じるとは、相手に対しての最大の真実のおもてなしである。
地獄は、聖書では ゲヘナ(Gehenna)と呼ばれてます。ヘブライ語では「ゲーヒンノーム」、ギリシャ語では「ゲエンナ」と表記されます。イスラム教では「ジャハンナム」と呼ばれています。
--聖書より--
【 右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。 右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに落ちないほうがましである。 】
マタイ 5章 29節 ー 30節
【 ゲヘナでは蛆が尽きることも、火が消えることもない。】
マルコ 9章 48節
【 体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。】
マタイ 10章 28節
主を畏れる人とは 「畏れ(おそれ)自分よりはるかに力のあるものを尊い、怖いと思う気持ちを表す言葉です。」
--聖書より--
【 主を畏れる人は、主の言葉に背かず
主を愛する人は、主の道を守る。
主を畏れる人は、御旨に適うことを求め
主を愛する人は、律法に満たされる。
主を畏れる人は、心を整え
主の御前で、その身を屈する。
「我々は人の手にではなく
主の御手に身を委ねよう。
主の憐れみはその偉大さに劣らず大きいのだから。」】
シラ 2章 15節 ー 18節
つづく・・・
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救われるには、どうしたらいいのか?
--聖書より--
【 看守は、明かりを持って来させ、駆け込んで来て、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
二人は言った。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
そして、看守とその家族一同に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。】
使徒 16章 29節 ー 34節
救われるには、主イエスを信じればいいのだが、自分が信じれば自動的に家族も救われると勘違いしてはいけない。
ギリシャ語の原文によると
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたは救われます。そして、あなたの家族も」
あなたの家族もあなたと同じ様に信じれば救われますと言っているのである。
聖書のどこにも「ある人が救われれば他の人も救われます」と言う箇所はありません。自分と同じように家族も救われて欲しいなら家族への伝道を大事にすることである。
つづく・・・
-
イエス・キリストを信じるとは?
イエス・キリストが話された話を信じるのである。
虚心坦懐(きょしんたんかい: 先入観やわだかまりがなく、ありのままを素直に受け入れること)に信じるのである。
そして、すべてをイエス・キリストに委ねるのである。
そして、その信仰に生きることである。
そうすれば、貴方は神の前に良しとされ、新しく生まれ変わり全てが新しくされ良いもので満たされるのです。
--聖書より--
【 イエスは言われた。
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」】
ヨハネ 11章 25節
【 イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」】
ヨハネ 14章 6節
【 イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではなく
神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』
と書いてある。」】
マタイ 4章 4節
と言われたイエス様を虚心坦懐に受け入れるのです。
そして、すべてをイエスに委ねるのです。
そして、その信仰に生きるのです。
マルチン・ルターは、信じることそして信仰 について以下のように述べています。
【 私たちが他人を信じるのは、その人が正しい人であり、真実な人だと信じるからである。
それは人間が他人に対してなしうる最大の尊敬である。
それとは逆に、他人を不誠実で、噓つきで、考えの浅い人だと感じるなら、それは他人に対してなしうる最大の侮辱である。
魂が神の言葉を固く信じるなら、そのとき魂は、神は真実で、正義であり、神は正しいと考えているのだから、それによって人間がなしうる最大の栄誉を神に帰している。
魂は神を正しいと認め、神を正しいと考え、神の名を誉め称え、神の御心にすべてを委ねているのだから、神の言葉がすべてにおいて正しく、真実であるのを疑っていないことになる。
それとは逆に、神を信じないという神は役に立たないものだと考え、噓つきで、思慮の浅いものだと考え、不信仰をもって可能なかぎり神を否定し、神に逆らい、あたかも自らが神より賢いかのようにふるまい、自らの心のうちに自分の好みに任せて偶像を作り上げる。
魂が神を真に信頼し、信仰をもって神を崇めるのを神が見るなら、神の側でもそのような魂を喜び、その魂を正しく、真実なものと認め、魂もこの信仰によって、正しく、真実なものとなる。】
また、
【 あらゆる神の言葉は聖なるものであり、真実であり、正義であり、平和であり、自由であり、恵みに満ちている。
正しい信仰によって、この〔神の〕言葉により頼むことで、人はその魂が〔神の〕言葉と完全に結びつけられ、〔神の〕言葉がもつすべての徳も魂のものとなる。
それゆえ、信仰を通して、また神の言葉によって、魂は聖なるもの、正義で、真実で、平和で、自由で、恵みに満ちたものとなり、真の神の子となる。それは『ヨハネによる福音書』1章12節に「彼はその名を信じる人々に神の子となる力を与えられた」と書いてあるとおりである。】
マルティン・ルター「キリスト者の自由について」より
また、イエス様がどの様な方であるかを知るために 古くから下記のような使徒信条が有りキリスト者はこれを信じています。
(カトリックとプロテスタントも同じです)
(使徒信条は、西暦325年にニケヤ公会議で定められました)
我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン(その通りですの意味)
しかし、ポイントとして重要なことは下記である。
・イエス・キリストは、神と等しくあられたが、私が罪のために滅びないように、人となり、私の身代わりとして、神の前に罰を受け十字架にかかり、死なれた。
・イエス・キリストは、死んで墓に葬られた。
・イエス・キリストは、3日目に死者の中から復活された。私達と共に生きる為に。
それはさて置き、救われるには、ただイエス様を信じるのである。そして、ただ恵みに生きるのである。
--聖書より--
【 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
イエスは答えて言われた。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」】
ヨハネ 6章 28節 ー 29節
つづく・・・
-
夫婦の一体とイエス・キリスト様との一体について
--聖書より--
【 天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、
二人は一体となる。だから、もはや二人ではなく、一体である。
従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」】
マルコ 10章 6節 ー 9節
家の財布も一つ。
気持ちも一つ。
会話も普通に心地よい。
生活の中で一体であることを体現、体感する。
イエス・キリスト様もこの一体の中に来てください。
いや、
貴方様の父と子の交わりの中に私達二人も入れて下さい。
--聖書より--
【 私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせるのは、あなたがたも、私たちとの交わりを持つようになるためです。
私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。】
ヨハネ 1章 3節
年ごとに
互いの信頼と愛が増してくる
それらが当たり前で意識しなくなる。
この幸せに、
感謝である。
妻といると御国(天国)にいる心地がする。
妻の私への笑顔は私を元気づかせ喜ばせてくれる。生きよと言われる。
私と妻とイエス様
小さな教会
--聖書より--
【 二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。】
マタイ 18章 20節
【 幸いな者
あなたに選ばれあなたに近づけられあなたの庭に住む人。
私たちはあなたの家
あなたの聖なる宮の恵みに満ち足ります。】
詩編 65章 5節
--聖書より--
【 一人より二人のほうが幸せだ。
共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。
たとえ一人が倒れてももう一人がその友を起こしてくれる。
一人は不幸だ。倒れても起こしてくれる友がいない。
また、二人で寝れば暖かいが
一人ではどうして暖まれよう。
たとえ一人が襲われても
二人でこれに立ち向かう。
三つ編みの糸はたやすくは切れない。 】
コヘレト 4章 9節 ー 12節
つづく・・・
-
まずは何はともあれ、死ぬという事実、プレッシャーから救われましょう
貴方は必ず死にます。
これは事実です。
3段論法で言えば、
すべての人間は死ぬ
貴方は人間である
貴方は死すべき定めにある
今生きている貴方は、死刑を宣告され、何時断頭台に呼ばれるのか、知れない状態にあるのです。
あ! 俺の番か、という今が現実が必ず目の前に来るのです。
そして貴方は死ぬのです。
もう一度言います。貴方は必ず死ぬのです。
私は歳相応に幾つもの死体を見てきました。
自殺だろうか、線路の隅に首が鼻からあごにかけて削られ転がっているのを見たことがあります。
苦痛にゆがんで硬直した死に顔などを見たことも数度あります。
最近では40代でアル中で死んだ男性の棺桶に収まった死体を見ました。その顔はどす黒くそして収縮して小さく、ミイラとしか言えないような顔でした。
世間でよく言う、安らかな死に顔は、ほんの数えるほどです。それも厚化粧した顔です。
安らかな死に顔とは、生き残った人の願望なのかもしれません。
以前、土の大部分は生き物の死骸だと聞いたことがあります。
植物、動物、昆虫、人・・・。
生き物は、被造物は、みな滅びます。死にます。そして土に帰る。自然の物質に帰ります。
貴方の体も土に帰ります。
--聖書より--
【 母の胎から出て来たように
人は裸で帰って行く。
彼が労苦してもその手に携えて行くものは何もない。】
コヘレト 5章 14節
【 確かに、すべて生きる者として選ばれていれば
誰にも希望がある。
生きている犬のほうが死んだ獅子より幸せである。
生きている者は死ぬことを知っている。
けれども、死者は何一つ知らずもはや報いを受けることもない。
彼らにまつわる記憶も失われる。
彼らの愛も憎しみも
妬みすらもすでに消え去っている。
太陽の下で行われるすべてのうちで
彼らにはとこしえに受ける分はない。】
コヘレト 9章 4節 ー 6節
死を前にした、この様な状態で、貴方は安心して生きられますか。
楽しい生活の中にあっても、遠くから太鼓の音がドーンと静かに聞こえてくるように、死と言う言葉が静かに聞こえて来ませんか。
人間は死ぬものだと、あきらめてはいませんか。
人を創られた神は、人間を愛しています。貴方を愛しています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。」 と神は言われます。イザヤ書43章4節
それゆへ神は人が死なない方法を人間に貴方に提供したのです。
それがイエス・キリストによる救いです。
イエス・キリストの救いの中に、死の無い世界があるのです。
本当はわらおもつかむ思いでイエス・キリストの枝につかまるべきなのです。
さあ、これからイエス・キリストの救いについて知っていきましょう。
聖書の創世記を見ると、神はこの世の全てのものを(光も空も海も生き物も)神のことばで創られました。創世記 1章 1節~25節
しかし、人は違う。
聖書にこうあります。
--聖書より--
【 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し
男と女に創造された。】
創世記 1章 26ー27節
【 神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。】
創世記 2章 7節
「我々のかたちに、我々の姿に人を造られた」「その鼻に命の息を吹き込まれた」とあります。 それは、我々人間には、神に似た、知、情、意が与えられているのです。
それゆへ人は、神と人格的に交わることが出来るのです。
神は神の救いの業 神の独り子による十字架の贖いを人が信じること、このことによって救われるということを選ばれました。
神は人類を貴方を救う為に、その独り子を十字架に付け殺しました。 この貴方に対する神の愛を、貴方が信じると言う行為で答えることによって、新たに生まれ変わり、神の交わりに入り救われます。
人が神を信じると言う行為がどんなに尊く価値あることか分かりましょう。
神の人間に対する愛の極みが見えるのは、神の独り子による十字架の贖いです。
--聖書より--
【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
ヨハネ 3章 16節
神は人間が不幸であることを、死んで滅びることを忍びないのです。
神はエイヤで救うことをしません。
同じ人格者として人と対しています。
ですから信じると言う行為で救うのです。
信じると言う行為で神は人と繋がりたいのです。
相手を信じると言う行為がいかに尊いものか知っていただきたい。
また、「我々のかたちに、我々の姿に人を造られた」「その鼻に命の息を吹き込まれた」とは、
人間に自由意志が与えられたと言うことです。
人間はプログラム通り動く、ロボットでは無い、AIでは無いと言うことです。
それゆへ人間とは、肉体(土)だけでは無い、心(魂)も有ると言うことです。
人間とは、肉体と心(魂)からなると言うことです。
ですから、人間は死んだら肉体は土に帰りますが、
心(魂)は、この世から出て、神の元に行くのです。
貴方の片腕、片足が切り落とされた場合、切り落とされた腕、足は貴方でしょうか。
残った体が貴方です。
心(魂)が有る方が貴方なのです。
ですから、死体は、心(魂)の抜け殻なのです。
そして心(魂)は、体から出て、神の元に行くのです。
--聖書より--
【 土から取られたあなたは土に帰るまで
額に汗して糧を得る。あなたは塵だから、塵に帰る。】
創世記 3章 19節
【 人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっている。】
ヘブライ 9章 27節
ですから、間違ってはいけません。
人は死んだら土に帰って、はい終わりではないのです。
心(魂)は土に帰らないのです。
心(魂)は、この世から出て、神の元に行くのです。
そして、どうなるのか。
神の裁きを受けるのです。
--聖書より--
【 人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっている。】
ヘブライ 9章 27節
貴方は死んだ後、貴方を創られた神の元に行き、神の裁き受けると言うことです。
そして、人は裁かれ永遠の光を見ることのない地獄に行くのです。
何故なら、誰が神の裁きに耐えられようか。
なんでこうなの、なんで人間は惨めなの。
神はその様に人間をつくられたのか。
創世記によると人間は、創られた最初はそうではなかったようです。
--聖書より--
【 神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。
第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。
神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。】
創世記 1章 31節 ー 2章 3節
しかし、人祖アダムとエバは、後神に対して罪を犯しました。
悪魔の言葉にのって罪を犯しました。
NOと言えばよかったのに罪を犯しました。
与えられた自由を神に従うことに使うのではなく、従わないこと、悪魔にしたがうことに使ったのです。 その結果、人祖アダムとエバは原罪(罪性)をはらみ、原罪(罪性)を持つものとないりました。原罪(罪性)を持った人間は、エデンの園を追い出され、生まれた兄弟は兄弟殺しをしました。人間の最初の殺人です。
そして、今に至るまで世界のどこかでいつも戦争、争いがあり、隣人内でも家庭内でも争いが耐えません。
この世は涙の谷か。そして死ぬのか。作り上げたこと、成したこと全てを残し、死ぬのか。
そして、居なかったように忘れ去られるのか。
しかし、そのような惨めな定めの人間に神は、この世に救い主イエス・キリストを遣わされました。
彼は全ての人の、罪と罰、そして死を、身代わりにお受けしました。
見よ、イエス・キリストの十字架上で息を引き取る前の最後のことばを。
--聖書より--
【 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。】
マタイ 27章 46節
このことばは、本来、私達が地獄で言うことばなのです。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
私は言おう。何度でも言おう。
イエス・キリストは私達、全ての人の、罪と罰、そして死を、身代わりにお受けたのです。
そして更に大事なのは、イエス・キリストは死んだ後、三日目に蘇られたと言うことです。
神から良しとされた。義とされた。と言うことです。
このイエス・キリストの贖いを信ずるものは、裁かれないのです。死なないのです。死んでもイエスの様に死から復活するのです。永遠の命に入れられるのです。
これ以外に、人が目の前に迫っている恐ろしい死と言う事実から救われる方法は無いのです。
罪人らの交わりである、悲惨な交わり人生から、隣人愛と平安のまじわりへと。
貴方自身もこの世で生まれ変わり罪性の無い者へと変えられるのです。
涙の無い天国に相応しい者として変えられるのです。
新しい人生が始まるのです。
--聖書より--
【 イエスは言われた。
「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」】
ヨハネ 11章25-26節
私を信じてほしいと言うイエス・キリストの思いを、信じようとしない弟子に現れたイエスを以下に見てほしい。
--聖書より--
【 そこで、ほかの弟子たちが、「私たちは主を見た」と言うと、トマスは言った。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」
八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。
「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」】
マタイ 27章 46節
貴方の愛する人も必ず死にます。
必ずです。
キリスト・イエスにあるなら、復活してまた会えるのです。
また会えるのです。
そして、また一緒に生活できるのです。
これこそ希望と言う名に値するものです。
つづく・・・
-
まずは何はともあれ、自分を人を世界を不幸にする貴方の中にあるどうしようもない罪性から救われましょう
身近な所から見ていきましょう。
酒、タバコ、ギャンブル、情欲、欲望、妬み、嫉妬、憎しみ、嘘、
愚痴、イライラ、短気、見栄、盗み、・・・
それらが、家庭も自分も人も地獄に巻き込むことと知りながら、 不幸に巻き込むことと知りながら、知っていながら、してしまう。 そんな自分の性格を、拭っても、拭っても、取れない。
他人を不幸にしてしまう。自分の体も壊してしまう。自分を不幸にしてしまう。妻や子や親を不幸にしてしまう。社会的信用もなくなくしてしまう。
分かっていながら改めることができない。
分かっているが、またしてしまう。出かけてしまう。
それが、罪性です。生まれながらの罪性です。それが罪の根源です。
貴方から出る全ての悪の出どころは貴方自身の中にある原罪です。
原罪は、貴方を不幸にし家庭を不幸にし隣人を不幸にし世界を不幸にしているのです。
貴方は死んだほうが良いのです。
天国は良い人達がいるところです。
ゆえに、貴方は天国には行けません。地獄が相応しい寝床なのです。
そんな貴方にも救いは有ります。
貴方を神は愛し、ご自分の御子をこの世に送って下さり、貴方の罪を一切彼に負わせ十字架で死なせました。
それを信じるならば、貴方は救われ、この世では新しく作り変えられ、死んでも世の終わりにイエス様の様に(イエス様は死んだ後、三日後に墓から蘇られました)復活して新しい天と地、天国に行けるのです。地獄には決して行きません。
罪とは 後で・・・
聖書では具体的に、 後で・・・
十戒について 後で・・・
イエス様の解釈 後で・・・
パウロの解釈 養育係 後で・・・
聖書では、死は罪の結果であると言っています。
--聖書より--
【 罪の支払う報酬は死です。】
ローマ 6章 23節
また続いて、こうも言っています。
--聖書より--
【 しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。】
ローマ 6章 23節
人間の罪性について、キリスト教ではそれを原罪と言っています。
原罪を聖書では次のように説明しています。
--聖書より--
【 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。
私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。】
ローマ 16章 18節 ー 21節
また、この様な状態の人を聖書で罪の奴隷とまで言っています。
--聖書より--
【 イエスはお答えになった。「よくよく言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。】
ヨハネ 8章 34節
原罪は、自分の努力や修行などでは取れません。
ではどうしたらいいのでしょうか。
そんな人間を救う為に、神はこんなことをして下さいました。
ご自分の独り子を、世に遣わし、全人類の代わりに罰を受けさせ、全人類のかわりに十字架で死んで下さいました。
その方がイエス・キリストです。
イエス・キリストを自分の唯一の救い主と信じれば、
十字架でのイエス・キリストの死は貴方の死となります。
そして、イエス・キリストは、死んで3日の後、死から復活しました。
貴方もイエス・キリストと共に新しい命に生まれ変るのです。
罪の無い原罪の無い人として新しく生まれ変わるのです。
--聖書より--
【 だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。】
二 コリント 5章 17節
罪人と正しい人の違いを聖書では、下記の様に書いてあります。
--聖書より--
【 悪しき者は追う者もいないのに逃げるが
正しき者は若獅子のように自信に満ちている。】
箴言 28章 1節
罪を赦された者の幸いを聖書では、下記の様に書いてあります。
--聖書より--
【 「不法を赦され、罪を覆われた人は
幸いである。
主に罪をとがめられない人は
幸いである。」】
ローマ 4章 7節 ー 8節
イエス・キリストについては、下記の様に聖書に書いてあります。
--聖書より--
【 神は、御子を万物の相続者と定め、また、御子を通して世界を造られました。
御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。
そして、罪の清めを成し遂げて、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれました。】
へブライ 1章 2節 ー 3節
イエス・キリストを信じた貴方は、罪の無い者として新しく生まれ変わり、イエス・キリストと共に万物の被造物の相続者になるのです。
つづく・・・
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義とされるとは
--Google生成AIより--
「義とされる」とは、正しいと宣言されること、神と正しい関係を持つことです。
「義とされる」は法廷用語で、「正しい者」とされる、無罪と判決される、という意味でした。律法を守る善い行ないによって神に義と認められるということは、ユダヤ教にとって、当然の常識でした。
聖書では、義とされるは、神が罪人を義人と宣言されることを意味します。神は、罪人の罪をイエスの義で清算することによって、それをなさいます。
聖書では、人は救い主を信じる信仰を通して、救い主の恵みにより義とされます。
この信仰は、悔い改めと、福音の律法と儀式に対する従順とによって示されます。
イエス・キリストを信じたとき、神はあなたを即座に、無償で義とされているのです。義とは、徐々に手に入るものではなく、主イエス・キリストを信じ、主の復活を信じたその瞬間に、賜物として義とされるのです。
義と聖書
イエス・キリストを信じたとき、神はあなたを即座に、無償で義とされているのです(「神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマの信徒への手紙第3章24節))。 今、あなたは義とされています! 義とは、徐々に手に入るものではなく、主イエス・キリストを信じ、主の復活を信じたその瞬間に、賜物として義とされるのです。
--ChatGPTより--
「義」とは、倫理や道徳的な観点から、正しい行為や振る舞いを指す言葉です。何が「義」とされるかは、文化や社会、個人によって異なることがあります。義に関する価値観は、文化や宗教、個人の信念に基づいて形成され、異なる価値観や倫理観を持つ人々によって異なる場合があります。
一般的な例として、以下のようなことが「義」とされることがあります:
1.正直さ:嘘をつかず、他の人に対して誠実であることが義とされることがあります。
2.善行:他の人を助けたり、慈善活動に参加したりすることが義とされることがあります。
3.公正さ:他の人に対して公平であること、差別をしないことが義とされることがあります。
4.忠誠心:家族や友人、国や信念に対する忠誠心が義とされることがあります。
5.社会的責任:社会全体に対する責任感を持ち、環境への配慮や地域社会への貢献が義とされることがあります。
「義」という概念は多義的で、異なる文化や宗教、個人によって異なる解釈がされることがあります。そのため、個人が何を「義」と考えるかは、その人の個人的な価値観や倫理観に影響されます。
--ルターは--
神のみ前に人が「義(「よし!」)とされる」のは、
「福音のうちには神の義が啓示されている」(ローマ1・17)というみことばを中心に、
「神の義」は人間の一切の関与なしに、ただキリストゆえに「与えられる(!)義」である
と聖書より発見した。
--聖書より--
【 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。
神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。】
ローマ 10章 4節
つづく・・・
-
罪と十戒と永遠の罰 死について
--聖書より--
【 キリストは律法の終わりであり、キリストは全ての戒めの終わりであり完成者となられた。
信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです。】
ローマ 10章 4節
ルターより
聖書には多くの律法や戒め、行い、主義主張、救いのための手段が定められているが、信仰のみが〔人間を〕義とし、いかなる行いもなしで、受け取ることができないほどの富が与えられるのはなぜだろうか。この点について、〔ここでは〕信仰だけがいかなる行いもなしで〔人間を〕義となし、人間を自由にし、救うということを明確に認識し、そのことを真面目に心に刻みつけておいていただきたい。 戒めは守られねばならず、もし守られないなら永遠の罰を受けることになる。 なる。〔しかし、人間はそれを守れないということを知るのだから〕戒めによって私たちが自分の無力さを知り、感じ、戒めを守るにはどうしたらよいのかという不安をもつことで謙遜にされ、自らは無だと感じ、義となるために必要なものが自らのうちにないことを見出す。そのとき、別の言葉、すなわち神の契約あるいは約束が私たちにもたらされる。あなたがすべての戒めを守り、戒めがあなたがたに要求しているように、悪への欲望と罪から解放されたい、という思いをもつなら、キリストを信じるべきである。キリストにおいて、私はあなたがたにすべての恵みと義と平安を約束している。あなたがそれを信じるなら得るし、信じないなら得ることはない。たくさんの戒めがあるが、それらは何の役にも立たず、それでもさまざまに要求するが、それをすべて行ったところで〔救いのためには〕何もできなかったことが、信仰によって、いとも容易になしうるようになる。
つづく・・・
-
イエス・キリストを信じた貴方は死と罪から解放されました
貴方は信仰によって義とされました。
よって、貴方の未来に死は無くなったのです。
罪の奴隷から解放されたのです。自由になったのです。
ではこれからどうしましょう。
ルターは、 「言葉とキリストを自らのうちに形あるものとなし、信仰の鍛錬を続けて強めることこそ、あらゆるキリスト者がなすべきただ一つの行いであり訓練であるはずである。
なぜなら、それ以外のどんな行いも人をキリスト者にはしないからである。」 と言っています。
イエス様は、ご自分の血で貴方を贖ったのです。
貴方はイエス様のものです。
イエス様が貴方の為に死んで下さったのです、これからは自分の為ではなく何々の為ではなく、イエス様の代わりに生きましょう。
イエス様は、死から復活して天に昇られました。
ですから何時も貴方と共にいます。
「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しましょう」
「隣人を自分のように愛し、福音を伝えましょう」
下記の祈りを一つずつ唱えアーメン(その通りです)と心から唱え歩みましょう。
『天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように
天におけるように地の上にも。
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。』
マタイ 6章7-13節
神に愛されている生活
神に守られた生活
隣人愛の生活
聖い生活
喜びの生活
感謝の生活
祈りの生活
新しく貴方の心の中に生まれた神の国の生活を始めましょう
--聖書より--
【 このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、
忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。
この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。
しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。このアダムは来るべき方の雛型です。
しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。
この賜物は、一人の犯した罪の結果とは異なります。裁きの場合は、一つの過ちであっても、罪に定められますが、恵みの場合は、多くの過ちがあっても、義と認められるからです。
一人の過ちによって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストを通して、命にあって支配するでしょう。
そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
律法が入り込んで来たのは、過ちが増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。
こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。
では、何と言うべきでしょうか。恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。
決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。
私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。
私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。
私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。
死んだ者は罪から解放されているからです。
私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。
ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。
罪があなたがたを支配することはありません。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるからです。 】
ローマ 5章 1節ー
つづく・・・
-
この世での身体的な不安や恐れについて
「私がイエス様のものであること
イエス様は、神様のもの
私が神様のものだから、神様は私を大事にして下さる
私の目には貴方は貴い(イザヤ書)と神は言われる
私は神に愛されている
十字架を見上げよ
神は、決して私を見捨てないと」
神が言われる。
また、神がお許しにならなければ何事も起きない。
しかし、この様な論理を生活の中でいつも唱えているわけにはいかない。
よって、最終的には、イエス様の言葉を信じることである。
イエス様をただ信じることにある。
全ての私の安心、平安、喜び、力はここにある。
ゆえに、他のことに平安や安らぎを求め、絶対だとした場合、ふっと不安に陥るのでは無いかと思う。
そして、救われていると言う確信を求めたりするのではないかと思う。
言い知れない不安は、不安定なものの上に乗って生きていることから起こる。
また、木や石などの意志のない答えない助けることができない物にすがって生きていることから起こる。
物は全て時とともに変る、壊れていく。
神以外のものは、全て時とともに変る、壊れていく。
神は変わらない、神の貴方に対する愛は変らない。
永遠に変わらないもの、祈りに答えるかた、神 こそ頼るべき方である。
言葉とは、言の葉っぱと書く。
風に揺らぎ、どこそこへ飛んで行ってしまう。
人の言葉とはあてにならない。葉っぱのようなものだ。
しかし、神のことばは光を造り、森羅万象を創る。
予言もなる。
人の心は変わる、しかし神の心は変わらない。
神は愛なるかたである。
その様なかたの愛のふところに包まれて生きている幸いを覚えるところに平安がある。
--聖書より--
【 賛歌。ダビデの詩。
主は私の羊飼い。
私は乏しいことがない。
主は私を緑の野に伏させ
憩いの汀(みぎわ)に伴われる。
主は私の魂を生き返らせ
御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。
たとえ死の陰の谷を歩むとも
私は災いを恐れない。
あなたは私と共におられ
あなたの鞭と杖が私を慰める。
私を苦しめる者の前で
あなたは私に食卓を整えられる。
私の頭に油を注ぎ私の杯を満たされる。
命あるかぎり
恵みと慈しみが私を追う。
私は主の家に住もう日の続くかぎり。 】
詩編 23篇
--聖書より--
【 よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。】
マタイ 5章18節
--聖書より--
【 地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。」
神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
神は言われた。「天の下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ。」そのようになった。
神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神は見て良しとされた。
神は言われた。「地は草木を生えさせよ。種をつける草と、種のある実を結ぶ果樹を、それぞれの種類に従って地上に生えさせよ。」そのようになった。
地は草木を生じさせ、種をつける草をそれぞれの種類に従って、種のある実をつける木をそれぞれの種類に従って生じさせた。神は見て良しとされた。
夕べがあり、朝があった。第三の日である。
神は言われた。「天の大空に、昼と夜を分ける光るものがあり、季節や日や年のしるしとなれ。
天の大空に光るものがあって、地上を照らせ。」そのようになった。
神は二つの大きな光るものを造られた。昼を治める大きな光るものと、夜を治める小さな光るものである。また星を造られた。
神は地上を照らすため、それらを天の大空に置かれた。
昼と夜を治めるため、光と闇を分けるためである。神は見て良しとされた。
夕べがあり、朝があった。第四の日である。
神は言われた。「水は群がる生き物で満ち溢れ、鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
神は大きな海の怪獣を創造された。水に群がりうごめくあらゆる生き物をそれぞれの種類に従って、また、翼のあるあらゆる鳥をそれぞれの種類に従って創造された。神は見て良しとされた。
神はそれらを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地に増えよ。」
夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神は言われた。「地は生き物をそれぞれの種類に従って、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれの種類に従って生み出せ。」そのようになった。
神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て良しとされた。
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し
男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」
神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。
また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。」そのようになった。
神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。
第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。
神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。
これが天と地が創造された次第である。】
創世記 1章2節-2章4節
つづく・・・
-
罪とは
人間には良心があると幼きころより刷り込まれて育ったが、歳をへるごとに、人との付き合いが増すごとに、良心が無い人もいることを知らされてきた。
良心に反することをすると心が痛む、耐えられないほど痛む。
それがあたりまえで、人間は皆同じだと思っていたが、違うことを知らされる。
自分が恐ろしいところに生きていることを知らされる。
残念だが、申し訳なく思うが、今の私の思いだ。
400年奴隷であったユダヤ人に神がモーセを通して十戒を与えた意味が重なる。
十戒の無い人には、良心が無い人には、自分がしていることが罪であることを知らない。分からない。
自動車を造った人は、マニュアルを書く。
ガソリンタンクには、ガソリンを入れるんだよ。水を入れたら壊れる。
その他マニュアルに反することをしたら自動車は走らない。壊れる。
人間も同じである。
人間を創った方は神である。
聖書は人間を創った神が、人間の生き方を示したマニュアルを人間に渡したそれが聖書である。
ゆえに、聖書(人間のマニュアル)に反したことをすれば人間は不幸になる。滅びる。
それが、罪である。
しかし、聖書に従えば幸せになる。滅びない。喜びの日々があり、希望がある。
つづく・・・
-
神は貴方の罪を赦したのではない。イエスが貴方の罪を負ったのである。
キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
つづく・・・
-
十字架のイエス
彼は、鞭打たれ、十字架に釘付けされ、刺され、血を流し、死にゆく姿を人類の前にさらされた。
彼は、ご自分の死んだ姿を十字架に釘付けされ、人類の前にさらされた。
犯罪人の中の一人として。
彼は、死の間際、
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
と叫ばれた。
本来、私達が私が死の間際に言うべきことばをイエス・キリストが代わりに言われた。
よって私は言わない。ただただ感謝のみである。
そしてイエス・キリストは、死んで三日後に復活された。
これにより人類に(私に 貴方に)、死からの滅びからの抜け出る道が現れた。
光が現れた。
感謝である。
つづく・・・
-
神と人の間の仲保者として最も相応しい方 イエス
イエス様は神である。
ゆえに神のことを一番良く知っておられる。
イエス様は人である。
ゆえに人のことを良く知っておられる。
ゆえに
イエス様は、神と人の間の仲保者として最も相応しい方である。
注:ちゅうほ‐しゃ【仲保者】とは
神と人との間の宥和(ゆうわ)媒介をする人。
(日本国語大辞典より)
つづく・・・
-
愛が無ければ
愛の無い「夫婦」は地獄です。
愛の無い「親子」は地獄です。
愛の無い「兄弟」は地獄です。
愛の無い「家族」は地獄です。
神の愛を知らない「人」は地獄です。
愛が有る「夫婦」は天国を知ります。
愛の有る「親子」は天国を知ります。
愛の有る「兄弟」は天国を知ります。
愛の有る「家族」は天国を知ります。
神の愛を知る「人」は天国を知ります。
--聖書より--
【 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。
また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。
不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。
私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。
幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になったとき、幼子のような在り方はやめました。
私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。】
一 コリント 13章 1節 ー 13節
つづく・・・
-
この世とは
この世とは、神が創造し、支配し、すべ納めているところ。
--聖書より--
【 初めに神は天と地を創造された。】
創世記 1章 1節
また、この様にも言われています。
--聖書より--
(注:御子とはイエス・キリストのこと)
【 御子は、見えない神のかたちであり
すべてのものが造られる前に
最初に生まれた方です。
天にあるものも地にあるものも
見えるものも見えないものも
王座も主権も
支配も権威も
万物は御子において造られたからです。
万物は御子によって、御子のために造られたのです。
御子は万物よりも先におられ
万物は御子にあって成り立っています。
また、御子はその体である教会の頭です。
御子は初めの者
死者の中から最初に生まれた方です。
それは、ご自身がすべてにおいて
第一の者となるためです。
神は、御心のままに
満ち溢れるものを
余すところなく御子の内に宿らせ
その十字架の血によって平和を造り地にあるものも
天にあるものも
万物を御子によってご自分と和解させてくださったのです。
しかし今や、神は御子の肉の体において、その死を通してあなたがたをご自分と和解させ、聖なる、傷のない、とがめるところのない者として御前に立たせてくださいました。】
コロサイ 1章 15節 ー 22節
この世に偶然は無い。
--聖書より--
【 二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。】
マタイ 28章 20節
ハイデンベルク信仰問答より
問27
神の摂理とは、何である、と思いますか。
答
それは、神の全能なる、今働く力であります。その力によって、神は、天と地と、そのすべての被造物をも、み手をもってするごとくに、保ちまた支配して下さり、木の葉も草も、雨もひでりも、実り豊かな年も実らぬ年も、食べることも、飲むことも、健康も病気も、富も貧しさも、すべてのものが、偶然からではなく、父としてのみ手によって、われわれに、来るのであります。
問28
神の創造と摂理を知ると、どのような利益が、われわれにあるのでしょうか。
答
われわれは、あらゆる不遇の中にも、忍耐深く、幸福の中には、感謝し、未来のことについては、われらの依り頼むべき父に、よく信頼するようになり、もはや、いかなる被造物にも、われわれを、神の愛から、離れさせることはできないようになるのであります。それは、すべての被造物は、全くみ手の中にあるのですから、みこころによろないでは、ゆるぐことも動くこともできないからであります。
御子の十字架での全人類の罪の贖いの後、
神は、その権能を御子に譲渡した。
--聖書より--
【 この終わりの時には、御子を通して私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者と定め、また、御子を通して世界を造られました。】
へブライ 1章 2節
今は、御子イエス・キリストが全世界(この世)を支配し統治しておられる。
復活したイエスは弟子達に会い言われた。
--聖書より--
【 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】
マタイ 28章 20節
世の終わりは来る。
--聖書より--
【 そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。
それから、終わりが来る。】
マタイ 24章 14節
新しい天と地が来る。
--聖書より--
【 また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。】
黙示録 21章 1節
【 玉座におられる方が言われた。「見よ、私は万物を新しくする。」また言われた。
「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である。」
「事は成った。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。・・・」】
黙示録 21章 5節 ー 6節
つづく・・・
-
死後の世界
今私にとって聖書で分かることは、
次の世(黄泉[よみ])は、天国(楽園)と地獄の二重構造で出来ているということです。
そして、イエス・キリストに救われた人は、上の天国(祝福の場所)へ、
イエス・キリストを信じない者、不信者は、下の地獄に行くと言うことです。
地獄に居る者は天国を見ることはできるが行けない、行き来ができません。
--聖書より--
【 「ある金持ちがいた。紫の布や上質の亜麻布を着て、毎日、派手な生活を楽しんでいた。
この金持ちの門前に、ラザロと言う出来物だらけの貧しい人が横たわり、
その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼の出来物をなめていた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、アブラハムとその懐にいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。この炎の中で苦しくてたまりません。』
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 そればかりか、私たちとお前たちの間には大きな淵が設けられ、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。私の父親の家にラザロを遣わしてください。 私には兄弟が五人いますので、こんな苦しい場所に来ることのないように、彼らによく言い聞かせてください。』
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死者の中から誰かが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないならば、たとえ誰かが死者の中から復活しても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」】
ルカ 16章 19節 ー 31節
貴方が地獄に行かないように神は御子をこの世に遣わしました。
--聖書より--
【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
ヨハネ 3章 16節
天国は、イエス・キリストによって罪が許され、覆われた人達がいるところである。
--聖書より--
【 「不法を赦され、罪を覆われた人は
幸いである。
主に罪をとがめられない人は
幸いである。」】
ローマ 4章 7節 ー 8節
つづく・・・
-
イエス・キリストにありては、体は老いても心は日々新たにされる
つづく・・・
-
摂理について
ハイデンベルク信仰問答より
問27
神の摂理とは、何である、と思いますか。
答
それは、神の全能なる、今働く力であります。その力によって、神は、天と地と、そのすべての被造物をも、み手をもってするごとくに、保ちまた支配して下さり、木の葉も草も、雨もひでりも、実り豊かな年も実らぬ年も、食べることも、飲むことも、健康も病気も、富も貧しさも、すべてのものが、偶然からではなく、父としてのみ手によって、われわれに、来るのであります。
問28
神の創造と摂理を知ると、どのような利益が、われわれにあるのでしょうか。
答
われわれは、あらゆる不遇の中にも、忍耐深く、幸福の中には、感謝し、未来のことについては、われらの依り頼むべき父に、よく信頼するようになり、もはや、いかなる被造物にも、われわれを、神の愛から、離れさせることはできないようになるのであります。それは、すべての被造物は、全くみ手の中にあるのですから、みこころによろないでは、ゆるぐことも動くこともできないからであります。
今を受け入れ、
主の掟、
--聖書より--
【 心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。】に喜んで従い、
マルコ 12章 30節
【 隣人を自分のように愛しなさい。】
マルコ 12章 31節
父なる神の前に黙して今を歩むことが、信仰者の父なる神への応答なのかもしれません。
--聖書より--
【 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。】
一コリント 10章 13節
ここで、聖歌を一つ紹介します。
「主と共に歩む」 聖歌588
主と共に歩む その楽しさよ
主の踏み給いし 御跡みあとをたどる
ひと足ひと足 主にすがりて
絶えず絶えず 我は進まん
赤子に等しき か弱き我は
ただ主にすがりて いのちに歩まん
ひと足ひと足 主にすがりて
絶えず絶えず 我は進まん
花咲く野原も 血に染む谷も
導かるるまま 主と共に行かん
ひと足ひと足 主にすがりて
絶えず絶えず 我は進まん
エノクの如ごとくに 我をも上に
移させたもうまで 日々主と歩まん
ひと足ひと足 主にすがりて
絶えず絶えず 我は進まん
つづく・・・
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沖縄の人に必要なのは神の愛を知りその喜びに支配されることである
何度か沖縄の人に親切にしてあげたことがあるが、
2人の人から何故そんなにしてくれるんだとポツンと言われたことがある。
私は彼らの言っていることが分からなかった。
十数年沖縄にいて分かったのは彼らは他人から愛された事が無いのである。
昔から差別が多く、隣村同士で、島同士で、近所同士で、親戚同士で差別し陰口をたたき低く見る。相手が繁栄したり幸せだと嫉妬の塊となる。恩を忘れる。
愛が無いのである。
葬式の時、一張羅の靴を履いて行ったら帰る時は、穴の開いたボロボロの靴がおいてあった。葬式にである。 また、死人をさへ自分の見栄や会社の利益の為に利用するのもいる、呆れるしかない。
神を知らないのである。神の罰を知らないのである。神の愛、神の国を知らないのである。互いに愛しあう幸福な世界を知らないのである。
彼らは愛されること愛することを知らないのである。
夫婦が一体であるとの聖書の言葉を知らない。
離婚が多い。よって、親に愛されたことが無い人が多い。
また、親が離婚してなくても、父親が子を虐待することが多い。
座らせて棒で殴ったり、手にろうそくのロウをたらしたり、ロープで縛って柱にくくりつけたり。
言葉でお前はダメな奴だ(方言が有るらしいのだが忘れた)とか早く死ねとか。自分の子に言う親がいる。
これは何人もの人から聞いた話だ。事実である。
人間には原罪があるので他県でもあるだろうが、移住するにはかくごしておいた方が良い。そして、差別も。
移住したら、自然に親しみ、人とは距離をとるのがベストのような気がする。
沖縄に福音が広まり、夫婦が一体であること、自分を愛するように隣人を愛することが浸透することを願う。
初めに神に愛されることだ。
神の愛は、親の愛よりも限りなく大きい。
--聖書より--
【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
ヨハネ 3章 16節
つづく・・・
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沖縄の福音伝道には、病の癒しと悪霊を追い出す賜物が必要である
沖縄においての福音伝道には病の癒しと悪霊を追い出す賜物が必要であると思う。
幼少のころより、シャーマニズムと迷信の中で育っているので、理性的、論理的な説明が通じない。
本当の生きている神を信じて迷信から解放され、新しい人となってから、理性的、論理的な説明が分かるものと思う。
彼らには、病が治るとか、精神病が治るとか言った、奇跡が必要なのである。
--聖書より--
【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
ヨハネ 3章 16節
主よ貴方の福音伝道の為に私に病の癒しと悪霊を追い出す賜物を下さい。
沖縄では常にシャーマニズムと迷信との戦いである。
教養のある人の様に思えても、ふとしたところでシャーマニズムが顔を出す。
そのたびに驚く。
取りつかれているとしか思えない。
一般人はなおである。
沖縄は、昔、海洋貿易の時代、ハブ的な位置にあった。
それゆえ、周りの国から色々な宗教の影響をうけ、更に土着の宗教もありチャンプルの状態にある。
更に悪いことに元の宗教を個人及び団体の利益のために常に変形、アレンジされている。
知識の無い人はそれを信じてしまう。騙されてしまう。
新興宗教かと思えるほど狂信的である。哀れである。
キリスト教の神が本物かどうか、彼らの神が本物かどうか。生きている神か、死んだ神かは、
彼ら個人とその家庭がどうかを見れば解る。
良い木は良い実を生らせる。悪い木は悪い実を生らせる。良い木か悪い木かその実で分かる。
愛する沖縄の人よ、目を覚ましてほしいい。
迷信から少しでも解放され自由になってもらいたいので、下記を記述します。
①、仏について
仏とは、仏教を学んでよく修行を積んで仏教で言う悟った人のことであり、死んだ人のことではありません。
②、仏壇について
仏壇は本来 位牌を置く壇(だん=祭祀(さいし)その他の儀式を行うため、一段高くしつらえた場所)ではありません。
また、位牌は死んだ人の名前を書くものではなく、日ごろ、仕事で忙しい仏教信者が、その忙しい合間をぬって3~10日間くらい修行をした時にその人に与えられる修了書(戒めをよく守りましたということで与えられる戒名であったと言われてます。
③、線香について
線香の始まりは死臭を消すために用いられたと言われてます。
④、お盆について
現在は「お盆」と呼ばれまが、これは盂蘭盆会(うらぼんえ)と言われているもので、正式な仏教の教えではなく、昔の中国の僧侶が書いたものであると言われています。
それによると、ある日釈迦の弟子の一人である目連(もくれん)が神通力を帯びて死んだ母をみると、なんと、母は地獄の餓鬼道( 六道の一。餓鬼の世界。常に飢えと渇きに苦しむ亡者の世界)に落ちて倒懸(とうけん=逆さまに吊るされる罰)を受けていたというのです。驚いた目連がどうしたら助けられるかと、師である釈迦に聞くと、雨安居(うあんご=今のお盆の時期)に釈迦の弟子たちに食事をあげて(お盆のときに仏壇に供えるごちそうのように)供養すれば助かるという。それで、日蓮がそのようにすると母親は救われたという。それがお盆の始まりです。
このことから、お盆をする人は、知らずに、亡くなった自分の祖先が地獄へ落ちて、およそ360日は逆さまに吊り下げられて苦しんでいて、お盆ん3日間だけ地獄の釜の蓋が開いて、仏壇に供えているご馳走を食べに来て、その後は再び「鬼おくり、灯籠流し、盆踊り、など」によって地獄へ送り返されて来年のお盆まで倒懸の苦しみの中にいると言いうことを信じていることになるのです。
悲しくもあり、恐ろしいことでもあります。
沖縄の宗教に狂信的な年配の婦人が多くいる。
子や兄弟家族に厳しく迷信的な作法や行事を強く強要する。
その時の子供のプイと親に反抗的な態度をとる場面を多く見た。 友達との約束が有るのに、親も知っているのに行事を優先にし行くのを許さない。子供の気持ちを見ようとしない。将来は知るべしである。
子供を不幸にし家庭を不幸にしているのは親であり狂信的な母親である。
沖縄では離婚も多い。
また、論理的でないので彼らは精神を患う。学校で教えているのは論理的なものである。コンピュータ、AIの時代に迷信が優先する。 論理的で知的な教育を受けている子供達は自分の中で矛盾を抱えることになる。 親に優しい子は精神を心を患うのである。
また、東京などの都会で働くときにどうなるかは知っての通りである。
沖縄の子が成績がわるいのは、出来ないのは、親が知的でないからではなく、迷信の中にいるからである。
沖縄でプログラミング塾を8年ほどやり親や子や若い人達と接していて分かったことである。
精神病の90%は、キリスト教になると治ると言われるのは、キリスト教は理論的で矛盾がないからだ。
仏壇も先祖崇拝も本来生きている者の為に有ったはずであったと私は思う。
しかし今は、言い伝えに従い、従わないと自分に家族に不幸が起こると信じ、恐れ、仏壇の為に今生きている人がいるようになった。
イエス様も、
「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。」
マルコ 14章 27節
と言って祭司をいさめた。
沖縄の宗教は、非論理的であるので現代の社会に耐えられない。
しかし、キリスト教は聖書は、「初めに神は天と地を造られた。」から始まりロジック的に展開し現代にいたる。
よって論理的である現代の社会に耐えられる。
東京で日曜学校を手伝っていたので、クリスチャンの子を多く見て良く知っている。彼らは、論理的なことが良く分かり成績も良い。ことばもはっきりしている。クリスチャンの親も。
沖縄だけでなく、八百万(やおよろず)の神(木や石で作られた様々な偶像の神、また、狐、蛇、なまず、などの動物の神、さらに、死んだ人間も神として)を崇めている日本人が、
「いる」と言われる神、初めから、そして今も、後も、生きておられる神、 天地、人、あらゆる生き物を創られ、すべ治めている神こそが唯一の神であることを明確に宣言することが重要です。
また、イエス・キリスト、このただ一人のお方のみが唯一の神であり救い主であであることの明確な宣言が重要である。
私達人間の祖先の最終的なルーツは、アダムとエバであり、われわれは皆その祖先であることの宣言が重要である。
ゆえに、仏壇に名が連なっていない人も、皆親戚です。全人類が皆親類なのです。同じ血が流れているのです。
差別の多い沖縄の人達に強く言いたい。
よって、親戚だけでなく、皆大事にしなければならない身内の一人なのである。
沖縄、そして日本、悪霊に取りつかれている人が多くいる。
精神を患っている人が多くいる。
迷信に囚われていては当たり前である。
それらから解放され精神が心が自由になってほしいと切に思う。
沖縄のプロテスタントの教会に行くと、イエス・キリストを信じて新しく生まれ変わった人達を何人も見ることが出来る。
迷信から解放されたのである。
理性的である。
--聖書より--
【 だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。】
二 コリント 5章 17節
--聖書より--
【 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
イエスが陸に上がると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男に出会われた。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。
イエスを見ると、叫んでひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」
イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は長い間、汚れた霊に取りつかれていたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを壊し、悪霊によって荒れ野に追いやられていたのである。
イエスが、「名は何と言うのか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。
悪霊どもは、自分たちに底なしの淵に行けとお命じにならないようにと、イエスに願った。
ところで、辺りの山でたくさんの豚の群れが飼ってあった。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。
悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、溺れ死んだ。
この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。
そこで、人々はその出来事を見ようと出かけて行った。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足元に座っているのを見て、恐ろしくなった。
成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。
ゲラサ地方の人々は皆、恐怖に捕らわれ、自分たちのところから出て行ってもらいたいとイエスに願った。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。
悪霊どもを追い出してもらった人が、お供をしたいと願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。
「自分の家に帰って、神があなたにしてくださったことを、ことごとく話して聞かせなさい。」そこで、彼は立ち去り、イエスがしてくださったことを、ことごとく町中に言い広めた。】
ルカ 8章 26節 ー 29節
人には良心があると育ってきたが、無い人が多くなってきたような気がする。
何が悪いことなのか良心が教え、戒める。
しかし、現代では、特に沖縄に住んで、良心が無いのではないだろうかと思うことに出会い、話を聞く。
ユダヤ人は、400年間エジブトで奴隷であった。
良心も品位も無い人々となっていたような気がする。
その様な彼らに神は、十戒を与えた。
私は思う。日本に、沖縄に今十戒が必要である。
また、それを要約した、イエス様の、
2つの戒め、
「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」
「隣人を自分のように愛しなさい。」
が特に必要である。
「隣人を自分を愛するように愛する」は重要である。
全ての行為に愛が無ければ、空しい。
--聖書より--
【 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。
また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。
不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。
私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。
幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になったとき、幼子のような在り方はやめました。
私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。】
一 コリント 13章 1節 ー 13節
つづく・・・
-
祈りについて
--聖書より--
【 耳を植えた方が聞かないとでも言うのか。
目を造られた方が見ないとでも言うのか。】
詩編 94章 9節
【 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】
マタイ 28章 18-20節
つづく・・・
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平安であることことについて
--聖書より--
【 野菜を食べて愛し合うのは
肥えた牛を食べて憎み合うことにまさる。】
箴言 15章 17節
--聖書より--
【 このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。】
ローマ 5章 1節
つづく・・・
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身も心もボロボロになり倒れるばかりの状態の時、多くの人から非難や悪口を言われ酷い目にあい死ぬばかりの状態の時、もう終わりだと思うような行き詰まった時、悪い奴の手のひらに乗ってしまった時、立て続けに激しい試練に会い、心がなえ、立ち上がれ無い時、慰めや励ましが必要である
①、イエス様に全てをゆだねよ、イエス様が戦ってくださる。
そして、休め。
詩篇 23
ダビデの歌
主はわたしの牧者であって、
わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしのこうべに油をそそがれる。
わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
ここで聖歌を一つ紹介、一緒に歌いましょう。
「歌いつつ歩まん」 聖歌498
主にすがるわれに 悩みはなし
十字架の御許(みもと)に 荷を下ろせば
歌いつつ歩まん
ハレルヤ! ハレルヤ!
歌いつつ歩まん この世の旅路(たびじ)を
恐れは変わりて 祈りとなり
嘆(なげ)きは変わりて 歌となりぬ
歌いつつ歩まん
ハレルヤ! ハレルヤ!
歌いつつ歩まん この世の旅路(たびじ)を
主はいと優しく われと語り
乏(とぼ)しき時には 満たし給う
歌いつつ歩まん
ハレルヤ! ハレルヤ!
歌いつつ歩まん この世の旅路(たびじ)を
主の御約束(みやくそく)に 変わりはなし
御許に行(ゆ)くまで 支え給わん
歌いつつ歩まん
ハレルヤ! ハレルヤ!
歌いつつ歩まん この世の旅路(たびじ)を
②、イエス様が成された奇跡を、一つ一つ思い起こす。
水をぶどう酒に変えた奇跡
--聖書より--
【 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
イエスとその弟子たちも婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなってしまったとき、母がイエスに、「ぶどう酒がありません」と言った。
イエスは母に言われた。「女よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」
母は召し使いたちに、「この方が言いつけるとおりにしてください」と言った。
そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
イエスは、「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
世話役が水をなめてみると、ぶどう酒に変わっていた。それがどこから来たものなのか、分からなかったので――水を汲んだ召し使いたちは知っていたが――、世話役は花婿を呼んで、言った。
「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。】
ヨハネ 2章 1節 ー 26節
単純に水がぶどう酒に変ったことに驚き、喜びましょう。
役人の息子を癒やす
--聖書より--
【 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。
この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子を癒やしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。
イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。
王の役人は、「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」と言った。
イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
そこで、息子が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「昨日の午後一時に熱が下がりました」と言った。
それが、イエスが「あなたの息子は生きている」と言われたのと同じ時刻であったことを、父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。
これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、第二のしるしである。】
ヨハネ 4章 46節 ー 54節
しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない役人に、しるしを示された。
そして、彼もその家族もこぞって信じた。
③、聖書の中でイエス様の優しい場面を一つ一つ思い起こす。
--聖書より--
【 イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。 】
ヨハネ 6章 35節
【 私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。
私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。】
ヨハネ 6章 35節
そして
④、また倒れそうになったら
「十字架の道行」の一つ一つを黙想をしよう。
神である方が私を貴方を滅びから救う為に人となられ、
下記のような人生を受けいれられたのです。
黙想しつつ吟味しましょう。
+1、ピラトはイエスに死を宣告する。
+2、イエスは十字架を受け入れる。
+3、イエスは初めて倒れる。
群衆はイエスを嘲ったり罵倒したであろう。
その中を十字架を負って前に歩まれたのである。
倒れても立ち上がり前に歩まれたのである。
私の人類の全ての罪を負って歩まれたのである。
+4、イエスは聖母マリアに会う。
+5、キレネのシモンは十字架を担うのを助ける。
+6、ヴェロニカはイエスの顔を拭く。
+7、イエスは再び倒れる。
+8、イエスはエルサレムの婦人たちと会う。
+9、イエスは三度倒れる。
+10、イエスは服をはぎ取られる。
+11、イエスは十字架に釘付けにされる。
+12、イエスは十字架上で死去される。
+13、イエスは十字架から降ろされる。
+14、イエスは墓に葬られる。
そして復活。
勝利勝利。
「十字架の道行」の一つ一つを黙想し、心をそれらで一杯にしよう。
そして、そのイエスが今 貴方と共にいるのです。
--聖書より--
【 それで、イエスは、神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を宥めるために、あらゆる点できょうだいたちと同じようにならなければなりませんでした。
事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。】
ヘブライ 2章 17節 ー 18節
⑤、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」これはイエス様の命令です。
--聖書より--
【 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである
その人たちは慰められる。
へりくだった人々は、幸いである
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである
その人たちは満たされる。
・・・ 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と言われている。
しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい。
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
あなたを徴用して一ミリオン行けと命じる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。
しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
あなたがたが自分のきょうだいにだけ挨拶したところで、どれだけ優れたことをしたことになろうか。異邦人でも、同じことをしているではないか。
だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」】
マタイ 5章 1節 ー 48節
【 「しかし、聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの頰を打つ者には、ほかの頰をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り戻そうとしてはならない。
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
また、自分によくしてくれる人によくしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」
「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。
与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。人々は升に詰め込み、揺すり、溢れるほどよく量って、懐に入れてくれる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」
イエスはまた、たとえを話された。「盲人に盲人の手引きができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
弟子は師を超えるものではない。しかし、誰でも、十分に訓練を受ければ、その師のようになれる。
きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。
自分の目にある梁は見ないで、きょうだいに向かって、『きょうだいよ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。偽善者よ、まず、自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目にあるおが屑を取り除くことができる。」
「悪い実のなる良い木はなく、また、良い実のなる悪い木もない。
木はそれぞれ、その実で分かる。茨からいちじくは採れず、野ばらからぶどうを摘むこともない。
善い人はその心の良い倉から良い物を出し、悪い人は悪い倉から悪い物を出す。およそ心から溢れ出ることを、口は語るのである。」
「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。
私のもとに来て、私の言葉を聞いて行う者が皆、どんな人に似ているかを示そう。
それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる人に似ている。洪水になって水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、びくともしなかった。
しかし、聞いても行わなかった者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」】
ルカ 6章 27節 ー 49節
そして
⑥、「明日のことを思い煩うな」これはイエス様の命令です。
「明日のことを思い煩うな」。
自分の心に沈黙を命令せよ。
思い煩いを主にお祈りし、任せ、任せたら、
沈黙せよ、心よ沈黙せよ。
--聖書より--
【 だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」】
ヨハネ 16章 24節
続いて、「その日の苦労は、その日だけで十分である。」とある。
神の国の為に、働けと言うことである。
明日のことを心配しないで寝てろとか、酒をかっくらえでは無いのである。
働けである。これもイエス様の命令です。
では、何の為に働くのか、何をすればいいのか。
神の国の為に働くのである。
イエス様が貴方の代わりに死んで下さったのである。
だから、イエス様の代わりに働くのである。
--聖書より--【 その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。 】
二 コリント 5章 15節
そして
⑦、「いつも喜んでいなさい」、「絶えず祈りなさい」、「どんなことにも感謝しなさい」
これはイエス様の命令です。
--聖書より--
【 きょうだいたち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを導き、戒めている人々を重んじ、
彼らの働きを思って、心から愛し敬いなさい。互いに平和に過ごしなさい。
きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。
誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて
神があなたがたに望んでおられることです。
霊の火を消してはいけません。
預言を軽んじてはいけません。
すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。
あらゆる悪から遠ざかりなさい。
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように。
あなたがたをお招きになった方は、真実な方で、必ずそのとおりにしてくださいます。 】
一テサロニケ 5章 12節 ー 24節
私が神の子とされた、神様をアバ(お父ちゃんの意)父よと呼べる幸いを思お。
そして
⑧、神への賛美を歌う
讃美歌を一つ紹介します。
「なやむよびとのために」 聖歌530
悩む世人のために 咲き出し花あり
その香今や世界の 隅々に及べり
香り妙なる シャロンの野花よ
来り開けや この心の中に
花はまずガリラヤの 海辺に咲き出でて
囚人を解き放ち 病めるをば癒しぬ
香り妙なる シャロンの野花よ
来り開けや この心の中に
心無き国人に 踏まれ散らされしが
その根より萌え出でて 今や世界に満つ
香り妙なる シャロンの野花よ
来り開けや この心の中に
そして
⑨、聖書を読む
詩編がお勧めです。
御言葉を読み聖霊に満たされましょう。
聖霊に満たされ力ずよくしていただきましょう。
--聖書より--
【 私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。
誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
誰が罪に定めることができましょう。
死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。】
ローマ 8章 32節 ー 34節
貴方は一人で戦っているのではありません。
イエス様が神が共に戦っているのです。
それを知りましょう。
そして最後に
⑩、神の摂理を知る
神の摂理に出会った時、貴方は、このことを知るために今まで苦しんでいたことを知るでしょう。
ハイデンベルク信仰問答より
問27
神の摂理とは、何である、と思いますか。
答
それは、神の全能なる、今働く力であります。その力によって、神は、天と地と、そのすべての被造物をも、み手をもってするごとくに、保ちまた支配して下さり、木の葉も草も、雨もひでりも、実り豊かな年も実らぬ年も、食べることも、飲むことも、健康も病気も、富も貧しさも、すべてのものが、偶然からではなく、父としてのみ手によって、われわれに、来るのであります。
問28
神の創造と摂理を知ると、どのような利益が、われわれにあるのでしょうか。
答
われわれは、あらゆる不遇の中にも、忍耐深く、幸福の中には、感謝し、未来のことについては、われらの依り頼むべき父に、よく信頼するようになり、もはや、いかなる被造物にも、われわれを、神の愛から、離れさせることはできないようになるのであります。それは、すべての被造物は、全くみ手の中にあるのですから、みこころによろないでは、ゆるぐことも動くこともできないからであります。
今ある苦しみ、艱難に、神を信頼して耐えることこそ、信仰者の神への応答なのです。
そして日々の
⑪、悪魔に対する対応
摂理を身に着けても、悪魔は日々囁いてきます。
そして、悪い思いを抱かせようとします。
それに対する対応は、イエス様にならうことです。
イエス様が荒野で悪魔に試みられました。
それに対して聖書の御ことばで撃退しました。
その後天使がイエス様を守られました。
私達も聖書を読み御ことばを貯えましょう。
主に命令に従いましょう。
そして、悪魔を撃退しましょう。
主の平安が訪れるでしょう。
隣人に対して、争いを避け平和を平安を作りましょう。
敵の為に祈りましょう。主の命令です。
マルコ 9章 49節
人は皆、火で塩気を付けられねばならない。
マルコ 9章 50節
塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
追加
⑫、悪魔に対する対応2
イエス・キリスト(神)が心に住んでいる者は、神の神殿です。
悪魔に言いなさい。 「私は神の神殿です。近寄るな。去れ。」と --聖書より--
【 あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。
神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。】
一コリント 3章 16ー17節
⑬、神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさりません
神は真実な方です。信じましょう。
神は愛なる方です。信じましょう。
--聖書より--
【 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。】
一コリント 10章 13節
⑭、信仰が増し加わりますように祈ろう
最後に、
⑮、自分で戦おうとするな、イエス様の戦いである。
--聖書より--
【 あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。
私はすでに世に勝っている。】
ヨハネ 16章 33節
つづく・・・
-
イエス様が与える復活と永遠の命のすごさ素晴らしさ
死なないんですよ。
元気な体で蘇るんですよ。
愛する妻とまた会えて、ずうと暮せるんですよ。
つづく・・・
-
あの世とは、天国とは、地獄(ゲヘナ)とは
死んだ人の魂(心)は、あの世(黄泉[よみ])に行きます。
あの世(黄泉[よみ])は、天国(楽園)と地獄(ゲヘナ)の二重構造で出来ています。
そして、イエス・キリストに救われた魂は、上の天国(祝福の場所)に行きます。
不信者の魂は、下の地獄に行きます。
地獄の魂(心)は天国を見ることはできるが行けない、行き来ができない。
--聖書より--
【 ほかにも、二人の犯罪人がイエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
・・・・・・
はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。 同じ刑罰を受けているのに。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。
するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。】
ルカ 23章 32節 ー 43節
【 「ある金持ちがいた。紫の布や上質の亜麻布を着て、毎日、派手な生活を楽しんでいた。
この金持ちの門前に、ラザロと言う出来物だらけの貧しい人が横たわり、
その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼の出来物をなめていた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、アブラハムとその懐にいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。この炎の中で苦しくてたまりません。』
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 そればかりか、私たちとお前たちの間には大きな淵が設けられ、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。私の父親の家にラザロを遣わしてください。 私には兄弟が五人いますので、こんな苦しい場所に来ることのないように、彼らによく言い聞かせてください。』
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死者の中から誰かが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないならば、たとえ誰かが死者の中から復活しても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」】
ルカ 16章 19節 ー 31節
地獄(ゲヘナ)について --聖書より--
【 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。両手がそろったままゲヘナの消えない火の中に落ちるよりは、片手になって命に入るほうがよい。
もし、片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。両足がそろったままゲヘナへ投げ込まれるよりは、片足になって命に入るほうがよい。
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両目がそろったままゲヘナに投げ込まれるよりは、一つの目になって神の国に入るほうがよい。
ゲヘナでは蛆が尽きることも、火が消えることもない。】
マルコ 9章 43節 ー 48節
つづく・・・
-
私とはそして貴方とは何なのか
私は何処から来たのか。
私は生きていて、どうすればいいのか、死ぬまでただ生きていればいいのか、生きることの中に何か目的はあるのか。
--聖書より--
【 神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し
男と女に創造された。】
創世記 1章 27節
【 神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。】
創世記 2章 7節
「神は人を自分のかたちに創造された。」
「その鼻に命の息を吹き込まれた」とあります。
それゆへ、全ての人には尊厳があるのであるのです。
それゆへ、我々人間には、神に似た、知、情、意が与えられているのです。
それゆへ人は、神と人格的に交わることが出来るのです。
それゆへ、他の生き物と全く違うのです。
つづく・・・
-
生きるとは(どのように生きればいいのか)
人間を創られたのは神です。
ゆえに、どのように生きたらいいか知っているのは、貴方ではなく貴方の造り主である神です。
自動車が空を飛びたい、宇宙を駆け回りたい、海の中を自由に潜りたい、と言っても出来ません。もし、自動車が何なのかどのように生きたらいいか分からなくなったら、自分の作り主、自動車メーカに電話することができたら、メーカーは答えるでしょう。貴方は道を走るように設計され作られたんですよと。道を走ることにかけては、飛行機よりも船よりも、潜水艦よりも抜きんでていますよ。貴方は、最高ですよと。
自動車とは何なのか、動かし方は、などは、マニュアルに全て書かれてます。人間でさへそうするのですから、人間を造った神が人間の生き方のマニュアルを書いて渡さない訳がありません。
それが聖書です。
--聖書より--
【 心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。】
マルコ 12章 30節
【 隣人を自分のように愛しなさい。】
マルコ 12章 31節
そして、神を喜ぶことです。
神の愛と、救いを喜ぶことです。
神が貴方の為に遣わされたイエス様を喜ぶことです。
--聖書より--【 いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。】
一 テサロニケ 5章16-18節
さらにクリスチャンの場合は、イエス・キリストのために生きることが加わります。
--聖書より--【 その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。 】
二 コリント 5章 15節
魂も肉体もイエス・キリストのものになるということであります。
それでは、自分の人生がないではないかと言う人がいるかもしてません。
しかし、イエス・キリストの為に生きてごらんなさい。
それが貴方の人生であること知るでしょう。
喜びの人生であることを歳をとっても知るでしょう。
なぜならば、魂も肉体もイエス・キリストのものであり、キリストのものは神のものだからです。
さあ、かしこばらず自然体で神の御心に従って歩みましょう。
何の為に生きているのか分からないほど辛いことはありません。
福音を述べ伝え、一緒に暗闇の世に光をともしていきましょう。
つづく・・・
-
次から次へと来る嫌な書類、手続きについて
私は、思索することが好きだ。 また、勉強したいことも沢山ある。 だから、国や市やその他から来る、書類、手続きの処理が嫌だ。 いつの間にかそれらが溜まってしまいえらいことになることが多々ある。 そんな時、思うのはイエス様は多分、皆に神の国のことを話したり、病人を癒したりするのが好きだったろうなと思う。 しかし、「この盃を
--聖書より--
【 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 】
マタイ 26章 36節 ー 節
つづく・・・
-
本当に幸せになりたいなら
貴方の罪性を無くすることです。
貴方の罪性が人を不幸にし、貴方自身を不幸へ地獄へ向かわせるのです。
どうしたら、自分の罪性を無くすることができるのでしょう。
・・・
つづく・・・
-
本当の幸せとは
--聖書より--
【 「不法を赦され、罪を覆われた人は
幸いである。
主に罪をとがめられない人は
幸いである。」】
ローマ 4章 7節 ー 8節
つづく・・・
-
私の願い、祈り
【 み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように 】
これは主がこの様に祈りなさいと教えて下さった祈りの中の一部です。
私の願い祈りはこれに尽きる。
夫婦間、隣人との間、親戚との間、地域の人たちとの間、他県の人達との間、国と国との間、教会、神様との間、
私の願いと祈りは、
全てこれに尽きる。
主イエスがこう祈りなさいと教えて下さった祈りはすごい。
私の願い、祈りはこれである。
他は何も無し。
カトリック 主の祈り
【 天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
アーメン。】
--聖書より--(聖書教会共同訳)【 祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。
彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
だから、こう祈りなさい。
『天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように
天におけるように地の上にも。
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。』
マタイ 6章7-13節
ルカ 11章1-4節 では、
【 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、
「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。
そこで、イエスは言われた。
「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。
私たちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
私たちを試みに遭わせないでください。』」】
つづく・・・
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私の生きる力、働く力は何処からくるのか
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私がイエス様のものであること
イエス様は、神様のもの
私が神様のものだから、神様は私を大事にしてくれる
私の目には貴方は貴い(イザヤ書)と言われる
私は神に愛されている -
イエス様が何時も働いていることにある
牧師、クリスチャンが伝道のために御国の為に何時も働いていることにある
私も働くのだ - イエス様に愛されていることにある
- イエス様を愛していることにある
- イエス様を喜ぶことに尽きる
- 御名が崇められることに尽きる
-
私の力は、神がただ死ぬさだめにあった私を死から輝く永遠の命へ救い出して下さったイエス・キリストへの永久の感謝にある。
-
私の力は主が下さった聖霊にある。
私の力は、神がただ死ぬさだめにあった私を死から輝く命へ救い出して下さったイエス・キリストへの永久の感謝にある。
私の力は、主(イエス)が私の代わりに十字架で私の罪を負って罰を受けられたことにある、私の代わりに十字架で私の罪を負って死なれたことにある。
私の力は、イエスが死から復活したことにある。私もその様になることにある。
私は生まれる前から神に愛されていることにある。
私が神をアッバ父よと呼べることにある。
イエス・キリスト、父なる神、聖霊なる神は、私の永遠の喜びである。
--聖書より--【 主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。】
フィリピ 4章 4節
私には目的が無い、しかし神にはある。
主(神)は私の代わりに死なれた。よって、私は主の代わりに生きる。
私に目的が出来た。主(神)の御心を行うことである。
年老いても。
--聖書より--【 その方はすべての人のために死んでくださいました。
生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。 】
二 コリント 5章 15節
【 こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。 私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。分を越えて思い上がることなく、神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に従って、慎み深く思うべきです。 一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、 私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。 私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に、教える人は教えに、 勧める人は勧めに専念しなさい。分け与える人は惜しみなく分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。 愛には偽りがあってはなりません。悪を退け、善に親しみ、 兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し、 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈り、 聖なる者たちに必要なものを分かち、旅人をもてなすよう努めなさい。 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と思ってはなりません。 誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。】
ローマ 12章 1節 ー 節
-
元気が無い時、何をしたらいいか分からなくなった時
主のことば
--聖書より--
【 心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。】
マルコ 12章 30節
をやってみる。
これで元気、やる気が蘇るのだから
--聖書より--
【 隣人を自分のように愛しなさい。】
マルコ 12章 31節
を実行したらどうなるのだろう。
新しい世界。
-
私がイエス様のものであること
-
先の見えない辛いことや病気になった時
最後は天国に行くんだ。
これは決まっている。
よく、朝の来ない夜は無いと言う。
イエスに繋がっている者には、天国の来ない人生は無い。
信仰、それは信頼である。
神(イエス様)は愛なる方である。
神(イエス様)は貴方を愛しておられる。
神(イエス様)にお任せし平安を得よ。
ガリラヤ湖で嵐の中の船上で安らかに眠るイエス様を思え。 信仰が増し加わることを祈れ。
思い煩いよ、心労よ去れ。主は守られる。
平安よ来たれ。
ー ー ー
自分ではどうすることもで出来ないこと、それが悩みを生む。
自分ではどうすることも出来ないのに、自分で何とかしようと考えるところにある。
神(イエス様)に任せることを学ぶ時とせよ。
信仰、それは信頼である。
神(イエス様)は愛なる方である。
神(イエス様)は貴方を愛しておられる。
信仰が増し加わることを祈りましょう。
--聖書より--
【 主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。
何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、 あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。】
フィリピ 4章 4ー7節
つづく・・・
-
私は何を信じているのか
イエス様を信じている。
若き日より聖書から伝道者からイエス様について聞き、イエス様の御ことばを親しく聞き、いつの間にか信じている。
イエス様を見たことがないのに身近に親しく信じている。
羊は飼い主の声が分かるものだ。
故郷がどこか分かるものだ。
--聖書より--【 イエスはトマスに言われた。
「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」】
ヨハネ 20章 29節
イエス様は、ダビデの子孫で、死者の中から復活され、天に上り、神の右の座につかれた。
今イエス様は天にいる。イエス様は私の目の前にいる。いつも優しい笑顔で力づよい顔のイエス様が見える。
イエス様は、神である。私は神をアッバ父よ(アッバは、イエスの時代のお父ちゃん)と呼ぶことを許されている。
イエス様は、天と地の一切の権能を授かっている。そして何時も働いておられる。
天地 全ては、神が創られた。
天地が創られたその時イエス様はおられた。
そして、神は、何時も働いておられ、維持しておられる。
しかし、何時か神はそれらを巻物のように巻かれる。終末を信じる。
イエス様は、世の終わりまで、いつも私と共にいて下さる。
そして私を新しい天と地に連れて行って下さる。
イエス様は、キリスト(救い主)である。
イエス・キリストによって私は永遠の命を得た。よって永遠に私は生きる。死なない。復活を信じる。
イエス・キリストによって、私の罪は洗われ、雪よりも白くなった。
私は神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地に行く。 義の宿る天国が私の故郷である。そこにはイエス様が私の住まいを用意している。
よって、私は既に勝利者である。
神は何時も働いおられる。
神は愛なる方である。神は私を愛している。
摂理を信じている。
私は神を信頼している。よって、神(イエス・キリスト)にあって平安である。
イエス様は神であることを信じている。
三位一体を信じている。
【父(=父なる神・主権)、子(=神の子・子なるイエス・キリスト)、霊(=聖霊・聖神)
の三つが「一体(=唯一神・唯一の神)」である】
イエス様は、天と地の一切の権能を授かっていることを信じる。
イエス様は、神であることを信じる。
カトリックと普通(と言っていいのか大体のと言っていいのか?)のプロテスタントでは、
下記の「使徒信条」が唱えられています。
(使徒信条は、西暦325年にニケヤ公会議で定められました)
我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン(その通りですの意味)
つづく・・・
-
人は死の病を治してこそ楽しんで日々を生きることができる
だれでも、病気になった経験は有るはずです。
ものによっては、このまま治らないのではないかと思うものもあります。
死の病こそ一生ついてまわる病です。
自分は何時かは死ぬんだと思っていて、日々を楽しんで喜んで生きることができるでしょうか。
できたとしても、生活の中でふと鐘の音が遠くから微かに聞こえるように死というものが脳裏をかすめるはずです。
人は病気を治してこそ日々を楽しく生きれるように、死の病を解決してこそ日々を楽しく生きることができるのです。
イエス様は、貴方に言われます。
--聖書より--【 イエスは言われた。聖書には、そのイエス様のことが書かれています。
「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」】
ヨハネ 11章 25-26節
さあ、読んでみましょう。
--聖書より--【 あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。】
ヨハネ 5章 39節
つづく・・・
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人は平安の中にこそ幸いに生きることができる
ゆえに、
--聖書より--【 平和を造る人々は、幸いであるその人たちは神の子と呼ばれる。】
マタイ 5章 9節
つづく・・・
-
イエスは私達を救う為に貧しくなられた
イエスは神であったが人となられた。
十字架に架かり死んだイエス様の姿は、貧しさの極みである。
つづく・・・
-
お金を貯めるより信仰を貯めよ
信仰と言う資産は、
生きる意味や喜びを与え、
たとえ年を取って寝たっきりになっても復活して若い時のように走り回れる希望を与える。
死んでも復活の希望がある。
お金はこの世を生きる為の物である。
あの世では使えないものである。
お金は人に取られることも有り、死んだら他人の物になる。
つづく・・・
-
その頃、人々は主の名を呼び始めた
--聖書より--
【 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。その頃、人々は主の名を呼び始めた。】
創世記 4章26節
つづく・・・
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神を知っていくことの魅力
果てが無いことの様に思える。 宇宙と違い空しくない。次から次へと新しい発見があり神を知る喜びがある。やはり神は神である。
つづく・・・
-
この世とは
--聖書より--
【 初めに神は天と地を創造された。】
創世記 1章1節
この世は、神が創られたもの、神が創られたところです。
ゆえに神を知ることはこの世を知ることでもある。
神とは「いる」という方です。
--聖書より--
【 私はいる、という者である。】
出エジプト 3章 14節
神には、神の価値観があり、計画があります。
つづく・・・
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人とは
--聖書より--
【 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し
男と女に創造された。】
創世記 1章 26ー27節
--聖書より--
【 神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。】
創世記 2章 7節
--聖書より--
【 土から取られたあなたは土に帰るまで 額に汗して糧を得る。あなたは塵だから、塵に帰る。。】
創世記 3章 19節
--聖書より--
【 人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっている。】
ヘブライ 9章 27節
以前、土の大部分は生き物の死骸だと聞いたことがある。
植物、動物、昆虫、人・・・。
生き物は、被造物は、みな滅びる。
しかし、金は滅びない。それ故だろうか、人は金を尊ぶ。
世の終わりには、金さえ滅びる。
永遠に滅びないのは、神である。それに結ばれているキリスト者である。
キリスト者の命は、イエス・キリストの内にある。
イエス・キリスト(神)が心に住んでいる者は、神の神殿である。
--聖書より--
【 あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。
神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。】
一コリント 3章 16ー17節
つづく・・・
-
知恵の初めと終着
知恵の初め
--聖書より--【 主を畏れることは知識の初め。】
箴言 1章7節
イエス様がこう祈りなさいと、教えて下さった最初のことばも興味深い。
【『天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。】
マタイ 6章9節
知恵の終着
--聖書より--【 私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。
キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。】
フィリピ 3章8節
つづく・・・
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死と罪について
どの国にも、どの町にも墓地が有り、墓地には、墓が累々とある。
長く生きれば生きるほど、死別に死別の悲哀を味あう。
誰でも死ぬのである。
人は死んだらどうなるのでしょうか。
--聖書より--
【 人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっている。】
ヘブライ 9章 27節
人は死んだ後、裁かれるとある。
悪をなしたものは、地獄へ、
正しい人は、天国へ、
行くのである。
神は義なる方である。ゆえに、これほどの道理は無い。
人の心には、罪と言うドスが有る。
そのドスは、貴方の周りの人を傷つけ、
貴方自身をも傷つける。
誰が全てを見ておられる神の裁きに、耐えようか。
神の前に自分は正しいと言える人はい。
--聖書より--
【 愚か者は心の中で言う「神などいない」と。
彼らは堕落し、忌むべきことをした。
善を行う者はいない。
主は天から人の子らを見下ろし
神を求める悟りある者はいないかと探られる。
すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。
善を行う者はいない。一人もいない。】
詩編 14章 1ー3節
【 私は自分の背きを知っています。
罪は絶えず私の前にあります。
あなたに、ただあなたに私は罪を犯しました。
あなたの前に悪事を行いました。
あなたの言われることは正しく
あなたの裁きに誤りはありません。
私は過ちの内に生まれ
母は罪の内に私を身ごもりました。】
詩編 51章 5ー7節
【 次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者はいない。
神を探し求める者はいない。
皆迷い出て、誰も彼も無益な者になった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。
彼らの喉は開いた墓であり
彼らは舌で人を欺き
その唇の裏には蛇の毒がある。
口は呪いと苦味に満ち
足は血を流そうと急ぎ
その道には破壊と悲惨がある。
彼らの目には神への畏れがない。」】
ローマ 3章 10ー18節
【 人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっています 】 ローマ 3章 23節
【 さて、あなたがたは、過ちと罪とのために死んだ者であって、
かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいたのです。
私たちも皆、以前はこういう者たちの中にいて、肉の欲のままに生き、肉とその思いとの欲することを行い、ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。】
エフェソ 2章 1ー3節
初期キリスト教の使徒パウロは、死と罪とについて下記のように言っています。
--聖書より--
【 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。】
ローマ 5章 12節
この一人の人とは、人間の始祖アダムのことです。アダムが神がするなと言ったことをしたので、罪が世に入ったのです。その罪が今の人に至るまですべての人に受け継がれ、それによりすべての人が罪を犯し、その結果、すべての人が死ぬのです。
人は、善を知る者として神のかたちに創られましたが、
内にある罪は、弱いものをいたわるのではなく虐め。隣人を愛するのではなく呪い。与えるのではなく奪い。貪る。隣人を生かすのではなく、殺す。平和ではなく争い略奪。罪は、人類に何千年、何万年となく戦争をさせました。そして、今も。
罪は、樹木を刈り尽くし、生き物を追いやり殺し、絶滅させ、家に家を建てつなれ、海はゴミ捨て場と化しました。
そして、人は「きれいになったでしょう」と口を拭うのです。
罪が人を人類をその様にさせているのです。
この世が創られた時は良かった。神は全てを良しと言われた。
--聖書より--
【 初めに神は天と地を創造された。
地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。」
神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
神は言われた。「天の下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ。」そのようになった。
神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神は見て良しとされた。
神は言われた。「地は草木を生えさせよ。種をつける草と、種のある実を結ぶ果樹を、それぞれの種類に従って地上に生えさせよ。」そのようになった。
地は草木を生じさせ、種をつける草をそれぞれの種類に従って、種のある実をつける木をそれぞれの種類に従って生じさせた。神は見て良しとされた。 夕べがあり、朝があった。第三の日である。
神は言われた。「天の大空に、昼と夜を分ける光るものがあり、季節や日や年のしるしとなれ。
天の大空に光るものがあって、地上を照らせ。」そのようになった。
神は二つの大きな光るものを造られた。昼を治める大きな光るものと、夜を治める小さな光るものである。また星を造られた。
神は地上を照らすため、それらを天の大空に置かれた。
昼と夜を治めるため、光と闇を分けるためである。神は見て良しとされた。 夕べがあり、朝があった。第四の日である。
神は言われた。「水は群がる生き物で満ち溢れ、鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
神は大きな海の怪獣を創造された。水に群がりうごめくあらゆる生き物をそれぞれの種類に従って、また、翼のあるあらゆる鳥をそれぞれの種類に従って創造された。神は見て良しとされた。
神はそれらを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地に増えよ。」
夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神は言われた。「地は生き物をそれぞれの種類に従って、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれの種類に従って生み出せ。」そのようになった。 神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て良しとされた。
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し
男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」
神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。
また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。」そのようになった。
神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。
第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。
神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。】
創世記 1章1節ー2章3節
また、大事なことは、人は、死んだ後 神の裁きが有ると言うことです。
人は死で終わりではないのです。
神は生きておられます。貴方のした罪を決して忘れません。
神の目に焼き付いています。
神は罪のゆえに貴方を必ず罰します。そして、地獄に落します。
しかし、貴方を創られた神は、愛する貴方が滅びるのを忍びないのです。
ゆえに神は、恵みと義の賜物である神の独り子イエス・キリストを世に遣わしました。
彼を信じる者が、罰せられず死なないように。
神は正しい方です、罪人は必ず罰せられ死ななければなりません。
貴方を愛する神は、貴方の罪と死を御子に負わせ罰し葬りました。そして、御子は3日目に死から復活しました。
御子を信ずるならば、御子の十字架と死は貴方のこととなり、御子と共に復活し、罪のない新しい人として生まれ変わるのです。
罪と死から解放され、永遠の命を頂くには、ただイエス・キリストを私の救い主と信じるだけでいいのです。
信じるだけで、これは神ゆえになせる御業です。人の目には驚くべきことです。
イエス・キリストの十字架の血潮によっり罪が洗いきよめられ、天使のようにきよい者とされ、
イエス・キリストの義の衣を着せられ、何の欠点もない非の打ち所がない者となるのです。
天国に住むに相応しい者とされるのです。
貴方は、神が御独り子を十字架に架けて死なせるほど神に愛されています。
--聖書より--
【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
ヨハネ 3章 16節
【 ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。
しかし、神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、
過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――、
キリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました。
それは、キリスト・イエスにおいて私たちが賜った慈しみにより、神の限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に現すためでした。あなたがたは恵みにより、 信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。
私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。】
エフェソ 2章 3ー10節
神の救いの御業について、パウロは次のように言っています。
--聖書より--
【 しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。
この賜物は、一人の犯した罪の結果とは異なります。裁きの場合は、一つの過ちであっても、罪に定められますが、恵みの場合は、多くの過ちがあっても、義と認められるからです。
一人の過ちによって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストを通して、命にあって支配するでしょう。
そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
律法が入り込んで来たのは、過ちが増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。
こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。】
ローマ 5章 15-21節
また、罪については、律法とからめて下記のように言ってます。
(補足:律法とは、
神が奴隷から解放した選民ユダヤ人に、モーセを通して渡された、法律、戒め、である、十戒をいいます。)
--聖書より--
【 確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。
しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。】
ローマ 5章 13節
【 では、何と言うべきでしょうか。律法は罪なのか。決してそうではない。
だが、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が「貪るな」と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。
しかし、罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こしました。律法がなければ罪は死んでいたのです。
私は、かつては律法なしに生きていました。しかし、戒めが来たとき、罪が生き返り、
私は死にました。命に導くはずの戒めが、私にとっては死に導くものとなりました。
罪が戒めによって機会を捉え、私を欺き、その戒めによって私を殺したのです。
実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです。
それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによって私に死をもたらしました。こうして、罪は戒めによってますます罪深いものとなりました。
私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。
私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
内なる人としては神の律法を喜んでいますが、
私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。】
ローマ 7章 7-24節
罪と死からの救いをパウロは下記の様に言っています。
--聖書より--
【 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。
キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思います。
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。
なぜなら、肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです。
肉の内にある者は、神に喜ばれることができません。
しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。
イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう。 それで、きょうだいたち、私たちは、肉に従って生きるという義務を、肉に対して負ってはいません。
肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。
子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、 共に栄光をも受けるからです。
思うに、今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません。
被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。
それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。
実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。
被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。 私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。
まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。
霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。
人の心を見極める方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って聖なる者のために執り成してくださるからです。
神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。
神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。】
ローマ 7章25節-8章30節
つづく・・・
-
十戒と主の御ことばについて
十戒は、第一部と第二部にわかれています。
初めは神に対する私どもの姿勢が教えられており、後のほうは一緒に生きて行く人間の仲間たちに対する私どもの態度について教えられています。
--聖書より--
【 】
ローマ 7章25節-8章30節
--下記ウィキペディアより--
正教会・聖公会・プロテスタント(ルーテル教会を除く)の場合
- ① 主が唯一の神であること
- ② 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
- ③ 神の名をみだりに唱えてはならないこと
- ④ 安息日を守ること
- ⑤ 父母を敬うこと
- ⑥ 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
- ⑦ 姦淫をしてはいけないこと
- ⑧ 盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
- ⑨ 隣人について偽証してはいけないこと
- ⑩ 隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと
わたしはあなたの主なる神である。
- ① わたしのほかに神があってはならない。
- ② あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
- ③ 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
- ④ あなたの父母を敬え。
- ⑤ 殺してはならない。
- ⑥ 姦淫してはならない。
- ⑦ 盗んではならない。
- ⑧ 隣人に関して偽証してはならない。
- ⑨ 隣人の妻を欲してはならない。
- ⑩ 隣人の財産を欲してはならない。
原罪を持つ人間には、到底なしえないことであります。
しかし、イエスは私どもににおいて十戒が成就する、完成すると言われた。
つづく・・・
-
死ぬということは怖く、そして恐ろしいことなのです
--聖書より--
【 人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっている。】
ヘブライ 9章 27節
裁きは、良い人は天国へ、
悪い人は、地獄へ 行く。
分けられるのである。
死んだら裁きがある。だから死は怖いのだ。
神が裁くのだから、それは正しい裁きである。
貴方が生まれてから死ぬまで、何をしたか。何を思ったか。全て見ておられる。
神の目から逃れられることは出来ない。
しかし、キリストの救いを受け入れた人は、この裁きをパスする。
なぜならば、キリスト・イエスがその人の代わりに裁きと死をを受けたからです。
そして、復活して今生きておられるイエス・キリストの元、天国に行く。
キリストに繋がっている者は、日々復活したイエス・キリストと一緒であるから、
天国は身近である。
キリストに繋がっているものは、イエス様と同じ様に復活するので、
復活したイエス様を見ると、自分がどうなるかが分かる。
弟子の中の二人が、イエス様が十字架に架かられ死んでしまったので落胆して故郷のエマオに行く途中、復活したイエス様が現れ同行した。彼らはイエス様は死んだとばかり思っていたので、一緒に歩ている人がイエス様だとは考えもしなかったので、気づかなかった。家でイエス様がパンを祝福して裂いて二人にお渡しになった時、二人の目が開きイエスだと分かった。
ここで解る通り、復活したイエス様は、普通の人と変わらない姿っだったことが見て取れる。
さらに、弟子たちの前でムシャムシャ焼き魚を食べられた。
私達の今の生活、姿と何ら変わらない。
また、ペテロやトマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち、その他二人の弟子たちが、やはり落胆し、お腹が空いたのか、元の職業である漁をして、ティベリアス湖畔で網をうった。3年ぶりだったせいか何も取れず夜明けとなった。
イエス様が岸に現れ、彼らを呼び、炭火を起こし、パンと焼いた魚で朝の食事に招いた。
まったく、死から復活しても、十字架に架かって死ぬ前のイエス様となんら変ってなかったことを知る。
しかし、弟子たちが集まっている真ん中に、スーと現れた。
他の箇所でも、戸にみな鍵がかけてあるのに、スーと皆の真ん中に立たれた。
復活したら、自動車も飛行機もいらずスーと何処へでも行けるようだ。
十字架の傷口は有っても痛くないようだ。そして、元気に動く。
復活したら傷も障害も持病も癒され、元気に動ごけるようだ。
よって、イエス様によって罪赦されイエスの復活に預かっている者は、イエスと同じように、復活したら、
前と姿かたちは変わらない姿となるらしい。復活しても違和感がない。
更に今悪い体の箇所も治り、凄い能力が付くらしい。
また、復活したイエス様と何時も一緒にいると、復活が身近で、死が無い。
この世と復活した世とがスーとつながっている。
よって、死は単なる通る箇所であり、復活したら全てが過去になる。主にある者は、主が前を歩まれるので、死をそんなに怖がらなくていいのである。
復活したら、時代を超え、主にある人達とあえる。勿論今の主にある信仰の友とも。
復活したら、イエス様を呼んで皆で美しい野外の青空のしたでパーティーだ。
更に天国に行ったら悪い奴が居なというのが素晴らしい。
こんな嬉しいことはない。
イエス様に繋がっている者の死と復活のしだいはこうです。
死んだら眠りに入り、イエス様が再臨された時、イエス様に「起きなさい」と言われ復活し目覚めるのである。この世での生と復活の間は、普段の寝る時と起きる時と同じように、人には無いように感じるのである。
--聖書より--
会堂長の一人娘が死んで、【 人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた。「泣かなくてもよい。娘は死んだのではない。眠っているのだ。」
人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスを嘲笑った。
イエスは娘の手を取って、「子よ、起きなさい」と呼びかけられた。
すると、霊が戻って、娘はすぐに起き上がった。】
ルカ 8章 52ー55節
イエス様に繋がっていない者のはそうではない。
死んだら眠りに入り、イエス様が再臨された時、神に起こされ裁かれ、
永遠の地獄に入るのである。
ですから、私は声を大にして言いたい。
今は、その様な目に合わない、救いの時なのです。救われるチャンスの時なのです。
財産を沢山持っていてもだめなのです。元気でもだめなのです。今更良いことをしてもだめなのです。
ただ、イエス様を神から来られた救い主と信じ、私が滅びない為に代わりに罰を受け死なれたと信じることだけなのです。
イエス様を信じるだけでいいのです。救われるにはだだ天から来られたイエス・キリストを信じるほかはないのです。
--聖書より--
【 この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、
この一切の出来事について話し合っていた。
話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。
しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。それで、二人は暗い顔をして立ち止まった。
その一人のクレオパと言う人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。
「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡し、十字架につけてしまったのです。
私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たちが朝早く墓へ行きますと、
遺体が見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 それで、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、
メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」
すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。
二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。】
ルカ 24章 13ー35節
【 こう話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
彼らは恐れおののき、霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。「なぜ、取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか。
私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ。」
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていると、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。】
ルカ 24章 36ー43節
【 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。】
ヨハネ 20章 19ー20節
【 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「私たちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」
八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」】
ヨハネ 20章 24ー29節
【 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身を現された。その次第はこうである。
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子が一緒にいた。
シモン・ペトロが、「私は漁に出る」と言うと、彼らは、「私たちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何も捕れなかった。
すでに夜が明けた頃、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
イエスが、「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と言われると、彼らは、「捕れません」と答えた。
イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚が載せてあり、パンもあった。
イエスが、「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 そこで、シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多く捕れたのに、網は破れていなかった。
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であると分かっていたからである。 イエスは来て、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。】
ヨハネ 21章 1ー14節
しかし、神からの救い主イエス・キリストを信じない者は、死を恐れよ。
罪人のままで死ぬのだから。
神がいるので、悪いことをしたら必ず罰せられる。
これが神の前における鉄則である。
キリストに繋がっている者は裁かれない。
イエス様を信ぜず、粋がっているものは哀れである。
聖職者の衣を着、救われた当時の自分を忘れ、イエスの誉れよりも自分の誉れを追い、信者を裁き優越感に浸り、弱いもの貧しいものをいたぶる者は言語道断である。
一般の人より多く罰せられるであろう。
地獄がまっている。
神を誉め讃えます。アーメン。
地獄とはとんでもないところだと早く気が付てください。
--聖書より--
【 誰を恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。】 ルカ 12章 5節
【「しかし、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるほうがましである。
人をつまずかせるこの世に災いあれ。つまずきは必ず来るが、つまずきをもたらす者には災いがある。
もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になって命に入るほうがよい。
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。両目がそろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりは、一つの目になって命に入るほうがよい。」】
マタイ 18章 6ー9節
【「ある金持ちがいた。紫の布や上質の亜麻布を着て、毎日、派手な生活を楽しんでいた。
この金持ちの門前に、ラザロと言う出来物だらけの貧しい人が横たわり、
その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼の出来物をなめていた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、アブラハムとその懐にいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。この炎の中で苦しくてたまりません。』
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
そればかりか、私たちとお前たちの間には大きな淵が設けられ、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。私の父親の家にラザロを遣わしてください。
私には兄弟が五人いますので、こんな苦しい場所に来ることのないように、彼らによく言い聞かせてください。』
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死者の中から誰かが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないならば、たとえ誰かが死者の中から復活しても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」】
ルカ 16章 19ー31節
【 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。
海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。
死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。】
黙示録 20章 12ー15節
つづく・・・
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イエス・キリストを信じれば(信頼すれば)死ぬということは怖くなく、そして恐ろしいことではなくなるのです
イエス様を見上げると、死はない。
つづく・・・
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罪人が義人となる福音について
--聖書より--
【 私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、
その真実に基づいて神から与えられる義があります。】
フィリピ 3章 9節
--聖書より--
【 この福音は、神が聖書の中で預言者を通してあらかじめ約束されたものであり、
御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
聖なる霊によれば死者の中からの復活によって力ある神の子と定められました。この方が、私たちの主イエス・キリストです。】
ローマ 1章 2-4節
--聖書より--
【 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。
神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。】
ローマ 1章 16-17節
救われるには初めに自分がいかに罪深いものか知ることです。
「健康な者には医者は要らない」の通りです。
親に犯した罪、兄弟に犯した罪、妻に犯した罪、子に犯した罪、隣人に犯した罪、天地を創られた聖なる神に対する罪、・・・
どうしょうもない、罪深い自分を見つめることです。
このままだと、罪人として死に、地獄に行くことを恐れることです。
そんな、貴方の為にイエス様は、貴方の代わりとなって十字架で罰を受け死なれたのです。
神は御独り子を貴方の為にそうさせたのです。神が貴方を愛しているからです。
イエス様は聖霊によってお生まれになった方です。原罪がありません。そして、十字架に架かって死なれるまで何の罪をも犯しませんでした。それだからこそ、貴方の罪を担えるのです。
イエス様と一緒に十字架に架かった二人の一人が十字架上で証した通りです。
--聖書より--
【 はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。 同じ刑罰を受けているのに。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。
するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。
すでに昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、三時に及んだ。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。】
ルカ 23章 29ー46節
自分がいかに罪深いのかを自覚そたら、イエスに「貴方を信じます。私は救われたいのです。救って下さい。」と言うことです。
イエスの十字架と死は、私の十字架と死だと受け入れることです。
貴方は、イエスと共に罪に死んだのです。イエスが貴方の身代わりとなって死んだのです。
貴方の罪はそれで無くなったのです。神の御前に義人となったのです。
人に後ろ指を刺されようが、神は貴方には何の罪も無い、義人だと見てくれるのです。
イエス様は、死んで三日の後、死から復活なさいました。
貴方がもし死んでもイエス様のように復活します。
そして御国に行きます。
ハレルヤ 神を誉め讃えましょう。
つづく・・・
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イエスを信じたらどうなるか
死から復活して天に昇られたイエス様に祈れる。
お話ができる。
イエス様が身近になる。
つまり、イエス様との交わりに入る。
イエス様は死から復活したので、もう死なない。
死なないイエス様と交わりにはいるので、信じた人も死なない。
イエス様と永遠に生きる。
--聖書より--
【 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。】
二コリント 13章 13節
【 あなたは、すべての人を支配する権能を子にお与えになったからです。
こうして、子が、あなたから賜ったすべての者に、永遠の命を与えることができるのです。
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。】
ヨハネ 17章 3節
【 父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。
あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
父よ、私に与えてくださった人々を、私のいる所に、共にいるようにしてください。天地創造の前から私を愛して、与えてくださった私の栄光を、彼らに見させてください。
正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私をお遣わしになったことを知っています。
私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。】
ヨハネ 17章 21ー26節
【 私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせるのは、あなたがたも、私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためです。】
一ヨハネ 1章 3ー4節
イエス様を信じた人へのお勧め
--聖書より--
【 あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。
あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。
あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。
これらのことのために、神の怒りが不従順の子らの上に下るのです。
あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました。
しかし今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、冒瀆、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
互いに噓をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。 そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。
また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。また、感謝する人になりなさい。
キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。
そして、言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。
妻たちよ、主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはなりません。
子どもたちよ、何事につけ両親に従いなさい。それが主に喜ばれることです。
父親たち、子どもたちをいらだたせてはなりません。いじけるといけないからです。
・・・
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
あなたがたは、相続にあずかるという報いを主から受けることを知っています。主キリストに仕えなさい。
不正を働く者はその不正の報いを受けるでしょう。そこに分け隔てはありません。
・・・
たゆまず祈りなさい。感謝のうちに、目を覚まして祈りなさい。
・・・
時をよく用い、外部の人に対して知恵をもって振る舞いなさい。
いつも、塩味の効いた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどのように答えるべきか、分かるでしょう。】
コロサイ 3章1節 ー 4章9節
つづく・・・
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イエスを信じたらどう生きるか
神を喜んで生きるのである。
--聖書より--
【 私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。
キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。
キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。
私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。
私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。
きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたが何か別の考え方をしているなら、神はそのことも明らかにしてくださいます。
いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう。
きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架の敵として歩んでいる者が多いのです。
彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです。
ですから、私が愛し、慕っているきょうだいたち、私の喜びであり、冠である愛する人たち、このように、主にあってしっかりと立ちなさい。
私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい。
なお、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです。
主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。
何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、 あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。
なお、きょうだいたち、すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたと共におられます。】
フィリピ 3章8節 ー 4章9節
神を喜んで生きる。
主の祈りをとなえ生きる。
父なる神、御子イエス、聖霊なる神を聖とし、歩む。
「心を尽くし、思いを尽くし、主なる神を愛せよ。隣人を自分を愛するように愛せよ。」
に従い歩む。
罪を避け、聖なる主を見上げ、主に告白して悔い改め、聖く成って行くこと。 イエス様を信じていない人とはあまり付き合わない。
偽信者を避ける。
日曜日を聖なる日とする。
主と助けてであり信仰の友(妻)といることを神に感謝すること。
キリストの名によって二人三人集まるところにキリストは居られる。キリストに有って妻といる所にはイエス様は居られる。神様イエス様聖霊様について喜んで語り合う。
大事なことは、イエスと共にいること、そこに私はいる。私の現存の全てがそこにある。
「我思う。ゆえに我有り」ではない。
聖く生きる
--聖書より--
【 神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。淫らな行いを避け、おのおの気をつけて、自分の体を聖なるものとして尊く保ちなさい。
神を知らない異邦人のように情欲に溺れてはなりません。
このようなことで、きょうだいを踏みつけたり、欺いたりしてはなりません。私たちが以前、あなたがたに告げ、また厳しく命じたように、主はこれらすべてのことについて正しく裁かれるからです。
神は私たちを汚れた生き方へではなく、聖なる生き方へと招かれました。
ですから、これらの命令を拒む者は、人を拒むのではなく、ご自分の聖霊をあなたがたに与えてくださる神を拒むことになるのです。
兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように神から教えられているからです。
現にあなたがたは、マケドニア全土に住むすべてのきょうだいに対して、それを実行しています。しかし、きょうだいたち、なおいっそう励むように勧めます。そして、私たちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自らの手で働くよう熱心に努めなさい。
そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、誰にも頼らずに済むでしょう。
きょうだいたち、眠りに就いた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出してくださいます。
イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出してくださいます。
すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。
きょうだいたち、その時と時期がいつなのかは、あなたがたに書く必要はありません。
主の日は、盗人が夜来るように来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。
人々が「平和だ。安全だ」と言っているときに、ちょうど妊婦に産みの苦しみが訪れるように、突如として滅びが襲って来るのです。決して逃れることはできません。
しかし、きょうだいたち、あなたがたは闇の中にいるのではありません。ですから、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
あなたがたは皆、光の子、昼の子だからです。私たちは、夜にも闇にも属していません。
ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔います。
しかし、私たちは昼に属していますから、信仰と愛の胸当てを着け、救いの希望の兜をかぶり、身を慎んでいましょう。
なぜなら、神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。
主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。
ですから、あなたがたは、今そうしているように、互いに励まし合い、互いを造り上げるようにしなさい。
主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。
きょうだいたち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを導き、戒めている人々を重んじ、彼らの働きを思って、心から愛し敬いなさい。互いに平和に過ごしなさい。
きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。
誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて
神があなたがたに望んでおられることです。
霊の火を消してはいけません。
預言を軽んじてはいけません。
すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。
あらゆる悪から遠ざかりなさい。
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように。
あなたがたをお招きになった方は、真実な方で、必ずそのとおりにしてくださいます。
きょうだいたち、私たちのためにも祈ってください。
すべてのきょうだいたちに、聖なる口づけをもって挨拶をしなさい。
私は主によって命じます。この手紙をすべてのきょうだいたちに読み聞かせなさい。
私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にありますように。】
一テサロニケ 4章3節 ー 5章28節
つづく・・・
-
母親、父親について
年を経て、
幸せそうな母親の顔しか思い出せない。
これは私が生まれて、初めて見た母親の顔だろうか。
父親もそうだ。
優しく力強い愛なるイエス様、アッバ父(神様に対してお父ちゃんの意)の顔しか見えない。
救われた時から、天地が造られる前から。
つづく・・・
-
神はいつも働いておられる
--聖書より--
【 イエスはお答えになった。
「私の父は今もなお働いておられる。
だから、私も働くのだ。」】
ヨハネ 5章 17節
つづく・・・
-
復活したイエス様は、何故天に昇られたか
イエス様は、天に昇られる時に、
--聖書より--
【 全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。】と御命じになった。
マルコ 16章 15節
イエス様は、天に居られるので、地球の何処からでも見上げることが出来る。
つづく・・・
-
天国について
天国は、イエス様が居られるので身近に感じる。
天国は、飛行機で行けない。船でも行けない。歩いても行けない。
でも、イエス様が居られるので身近だ。
天国には、墓が無い。よって、死別の悲哀が無い。
天国には、愛の無い人は居ない。
悪い人は居ない。主イエス・キリストによって新たに生まれ御霊に生きる人だけ居る。
意地の悪い人、嫉妬深い人は居ない。虐める人は居ない。偽善者は居ない。
・・・・・
つづく・・・
-
主の祈りについて
十代から主の祈りを唱え続けて、もう70歳になるが、いまだに主の祈りはすごいと思う。 常に新鮮に私の心をつかむ。
主の祈りは、その一つ一つを信じますと言って祈るものでることを知った。
それゆえに、
--聖書より--【 いつも喜んでいなさい。が成り立つ。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。】
一テサロニケ 5章16-18節
主が教えて下さった主の祈り。
「天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。」
御名が聖であることを信じます。
「御国が来ますように。」
御国が来ることを信じます。
「御心が行われますように
天におけるように地の上にも。」
地の上になることを信じます。
「私たちに日ごとの糧を今日お与えください。」
信じます。
「私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。」
私が赦すことができることを信じます。
「私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。」
神様が誘惑から、悪から守られることは、とても重要です。
誘惑と悪は外からと内から来る。
神様(イエス様)に守って頂くしかない。
強く祈ります。アーメン
全てアーメン。
カトリック 主の祈り
【 天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
アーメン。】
--聖書より--(聖書教会共同訳)【 祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。
彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
だから、こう祈りなさい。
『天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように
天におけるように地の上にも。
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。』
マタイ 6章7-13節
ルカ 11章1-4節 では、
【 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、
「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。
そこで、イエスは言われた。
「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。
私たちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
私たちを試みに遭わせないでください。』」】
つづく・・・
-
死なないことの喜び
生きていることの喜びを知った者が言えるのであろう。
この世だけで生きている者には無い。
この世は、茨とあざみが生え、全ての人は悪いことをたくらみ、愛が無い。そして土に帰る。
本当の喜びは、天から来たものによるのであろう。
イエス・キリストは天から来たものである。
よって、イエス・キリストを知らない者は、本当の喜びを知らないと言える。
つづく・・・
-
永遠の命を得ていなかったら
のんびりと音楽を鑑賞することができるだろうか。
コーヒーを丁寧に淹れられるだろうか。
老人のつまらない話など聞いてあげられるだろうか。
永遠の命を得てこそ、人は本当のセレブな生き方ができるのである。
つづく・・・
-
人の本当の成長とは、成長して行くとは
子供は成長して行く。そして成長は止まり年老いていく。そして死ぬ。
学問は、技術は、勤勉に継続していけば成長して行く。しかし、年をとればそれは止まり、忘れて行き、そして死ぬ。
神を知って行くことは、相手が神なので果てがない。汲めど尽きない。
イエス・キリストを知って行くことは神を知って行くことである。
更にイエス・キリストから永遠の命が与えられる。
永遠の喜びを知るのである。
神を知って行くこと、神に近づいて行くことが本当の成長していくことである。
つづく・・・
-
私とは何者なのでしょうか
--聖書より--
【 あなたの指の業である天をあなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。
人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。
人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。
あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ
栄光と誉れの冠を授け
御手の業を治めさせ
あらゆるものをその足元に置かれた。
羊も牛もことごとく、また野の獣
空の鳥、海の魚
潮路をよぎるものまでも。】
詩編 8章 1ー9節
私とは何者なのでしょうか
私が滅びないように、神の御独り子を十字架に架け血をながされ死なせるとは。
私とは何者なのでしょうか
--聖書より--
【 どんな家でも誰かが建てるものですが、万物を建てられたのは神なのです。
モーセは後に語られることを証しするため、仕える者として神の家全体にわたり忠実でした。
しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められます。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるなら、私たちこそ神の家なのです。】
ヘブライ 3章 4ー6節
つづく・・・
-
人のおもな目的は
イエス様について、聖書では
【 万物の存在の目標であり源である方 】とあります。 深いことばだと思います。時間を掛けて味わいたい御ことばだと思います。
ヘブライ 2章10節
また、ウエストミンスタ―小教理問答書 では、
「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」
ウィキペディアより、
ウェストミンスター小教理問答、は、1640年代にイングランドとスコットランドの神学者によって書かれた小教理問答である。ウェストミンスター会議は、この教理問答と、ウェストミンスター信仰告白、ウェストミンスター大教理問答を作成した。これらの3文書は、プロテスタントの偉大な教理の宣言であるとみなされている。
この文を記述することができる根拠は、何処にあるのだろう。
人間を創った神が、人間にお渡しになった人間ついてのマニュアル、聖書に書かれているから、と言うことです。
--聖書より--
【 初めに神は天と地を創造された。】
創世記 1章1節
【 神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。】
創世記 1章 27節
人間を創った神が、創った人間に、マニュアルを渡さないことがあるでしょうか。
人間でさへパソコン、携帯などを作れば、その使い方、マニュアルを書いて使う人に渡します。
まして、人間の創造主神が、人間とは何なのか、どのように生きたらいいのか、その他仕様を書いて、人間に渡さないことがあるでしょうか。
人間以外の生物には、生き方は、本能として書かれています。
人間は、本能以外に「神のかたちに創造された」ので理性で、神と向き合って、自分とは何なのか、どのようにいきるのか、生きているこの世はどんなところなのか、死んだら何処に行くのか、その他必要なことを人間のマニュアル聖書でもって知るのです。人間だからです。
もう一度いいます。神がですよ、人間を創った神が、創った人間に、マニュアルを渡さないことがあるでしょうか。
そういうわけで、これから聖書を基に、この世とは、私とは、などなどひも解いていきましょう。
「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし」
とはどう言うことでしょう。
残念ながら、「神の栄光をあらわし」と言っても、人間には、原罪があるので神の栄光をあらわすことはできません。
原罪があるので、人は光のない出口のない暗闇の中で、神の栄光とは何なのかすら知らず、
生まれたらいいが、ただ七転八倒して生き、そして死ぬのです。
原罪について
ウキペディアによると、
「原罪とは、アダムとイヴから受け継がれた罪のこと。」
とあります。
また、パウロは、原罪を持つ人間の惨めさを下記のように言っています。
--聖書より--
【 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。】
ローマ 5章 12節
パウロは、人は罪があるので、人は死ぬのだ。と言っています。
また、罪については、律法とからめて下記のように言ってます。
(補足:律法とは、
神が奴隷から解放した選民ユダヤ人に、モーセを通して渡された、法律、戒め、である、十戒をいいます。)
--聖書より--
【 確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。
しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。】
ローマ 5章 13節
--聖書より--
【 では、何と言うべきでしょうか。律法は罪なのか。決してそうではない。
だが、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が「貪るな」と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。
しかし、罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こしました。律法がなければ罪は死んでいたのです。
私は、かつては律法なしに生きていました。しかし、戒めが来たとき、罪が生き返り、
私は死にました。命に導くはずの戒めが、私にとっては死に導くものとなりました。
罪が戒めによって機会を捉え、私を欺き、その戒めによって私を殺したのです。
実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです。
それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによって私に死をもたらしました。こうして、罪は戒めによってますます罪深いものとなりました。
私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。
私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
内なる人としては神の律法を喜んでいますが、
私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。
私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。】
ローマ 7章 7-25節
原罪を持つ人間そのままではあらわせない。
まず、イエス様を神の子救い主と信じてみる。
それからのことは、下記の様に、聖書では表現しています。
--聖書より--
【 また、イエスは言われた。
「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、
夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
地はおのずから実を結ばせるのであり、初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる。
実が熟すと、すぐに鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
また、イエスは言われた。
「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
それは、からし種のようなものである。地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」】
マルコ 4章 26-32節
【 また、別のたとえをお話しになった。
「天の国は、パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの小麦粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ。」】
マタイ 13章 33節
補足:サトンとは、当時の容量の単位。1サトンは12.8L、3サトンは37.6L。随分多くの小麦粉ですね。その中にパン種を少しいれるだけでとてつもないおおきさになるとの意味です。
ただイエス様を信じればいいのです。
まったく神のなせる業です。
せっかく天からの信仰をこの土の器に頂いたのだから、
大事にしなければなりません。
良く実をむすぶ為に、イエス様は下記の様な注意をたとえで話されました。
--聖書より--
【 イエスはたとえを用いて多くのことを語られた。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。
しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
ほかの種は茨の上に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった。
ほかの種は良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。
耳のある者は聞きなさい。」】
マタイ 13章 3-9節
【「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、
自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を塞いで実を結ばない人である。
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、実に、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」】
マタイ 13章 18-23節
信仰を大事にして、生きていきましょう。
神の国が自分の内にどんどん広がり、喜びと希望が溢れ、他の人も憩う者ともなるでしょう。
次に、
永遠に神を喜ぶこと とはどう言うことでしょう。
イエス様を喜ぶと言うことです。
--聖書より--
【 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。
すると、雲の中から、
「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」
と言う声がした。】
マタイ 17章 5節
神様がイエス様を
「これは私の愛する子、私の心に適う者。」
と喜んでおられます。
「心に適う」はヘブル語で、「喜ぶ」という意味でもあります。
ですから、神を喜ぶとは、神が喜んでおられるイエス様を神と一緒に喜ぶことです。
では、イエス様とはどんな方でしょうか。
イエス様はご自身んについては、聖書が証していると言われました。
--聖書より--
【 聖書は私について証しをするものだ。】とイエス様は、言われました。
ヨハネ 5章 39節
ですから、聖書を読んで、イエス様の歩まれた道をイエス様と一緒に訪ね、知って、神様と一緒にイエス様を喜んで行きましょう。
イエス様は、死から復活したので永遠に生きておられる方です。
イエス様を信じた私達もその復活に預かり永遠に生きれるのです。
ですから、永遠に神様(イエス様)を喜ぶことが出来るのです。
また、喜ぶとは楽しむと言うことでもあります。
皆で楽しめたらどんなに喜べるでしょう。
しかし、今は終末が近いのでしょうか、年老いた貧乏人の私が行く教会がない。
終末のしるし
--聖書より--
【 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
イエスは言われた。「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
その時、人々は、あなたがたを苦しみに遭わせ、殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての民に憎まれる。
その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」】
マタイ 24章 1-14節
つづく・・・
-
光について
光は、ほんのちょっとの隙間があるだけで、暗い部屋を明るくする。
イエス様もほんのちょっと受け入れるだけで、貴方の心は明るくなる。
さらに、貴方は周りを明るくする。
--聖書より--
【 イエスは再び言われた。
「私は世の光である。
私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」】
ヨハネ 8章 12節
つづく・・・
-
聖書とは人間のマニュアルでもある
--聖書より--
【 神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。】
創世記 1章 27節
人間を創った神が、創った人間に、マニュアルを渡さないことがあるでしょうか。
人間でさへパソコン、携帯などを作れば、その使い方、マニュアルを書いて使う人に渡します。
まして、人間の創造主神が書いて、人間に渡さないはずがありません。
携帯をより良く使うには、その能力を最大限発揮させるには、その携帯のマニュアルを読むことです。そして従うことです。
同じように、人間もより良く生きるには、自分の能力を最大限発揮させるには、人間のマニュアルである聖書を読むことです。そして従うことです。
また、マニュアルにはしてはいけないことが書かれてあります。 例えば、携帯を金槌がわりにつかってはいけませんね、必ず壊れます。
人間のマニュアルである聖書にも、してはいけないことが書かれてあります。それをすると不幸になるから、死ぬから、などが書かれてあります。
はっきり言います、貴方は人間です。間違いなく人間です。
だから、人間を創った神が、人間に渡されたマニュアル、聖書を読みましょう。
今、生きる意味が分からなかったり、生きる力がなかったら、自分のマニュアル聖書をまずよみましょう。
もしも、貴方が今不幸であったら、七転八倒するほどどうしたら良いか分からなかったら、涙を流しながらで良いんです、聖書を読みましょう。神は生きておられます。貴方を創った神は、貴方を愛おしいほど愛しています。神は生きておられます。良い方向に導いて下さいます。さあ、貴方を創った神を見上げましょう。幸福になりましょう。
自分を創ったかたの話を聞きましょう。
聖書は、人間のマニュアルなのだから、必ず答えが与えられます。
幸せになりましょう。
貴方は幸せになるために生まれたのです。
自分を創った神に感謝し、喜んで生きるために、神は貴方を御創りになったのです。
神は、貴方の名を手に刻むほど愛しています。
--聖書より--
【 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。
自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。
たとえ、女たちが忘れても
私はあなたを忘れない。
見よ、私はあなたを手のひらに刻みつけた。】
イザヤ 49章15-16節
聖書は、66巻からなります。
約1500年にわたって書き継がれてきたものです。
書いた人の数は、約40人です。
王様や祭司、政府の高官、漁師、羊飼い、医者・・・様々な職業の人によって書かれたものです。
しかし、聖書は、初めから終わりまで不思議な統一性があります。
何故かというと、彼ら著者の背景に本物の著者がいるからです。
それが神です。
神がそれら40人の著者を導き、彼らの個性を生かし、各書を執筆させたのです。
それゆえ、聖書には統一性と一貫性があるのです。
こんなのが他に有りますか。
【 聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。
こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。】
二 テモテ 3章16-17節
書き方は数学的に書かれています。
すなわち人間が理解しやすいように書かれているのです。
始めに変わらないことが書かれ、そこから付随したことがらが、出来事が木の枝、木の根のように順序よく書かれています。フラクタル、樹形です。
聖書は樹形の構造をもって書かれています。
聖書の始めは、
【 初めに神は天と地を創造された。】
創世記 1章1節
から始まります。
人間の罪と不幸の始まり。
原罪を持つ人間の悲惨な人の世の話。 そこからの救い主がお生まれになるまでの話。
救いの時の話。
世の終わりの話。
新しい天と地の話。
救い主、イエス様の誕生までのことも、
初めの人アダムからアブラハム、ダビデ、イエス、系図でもって順序良く書かれています。
そして、私達日本人もクリスチャンとして新しく生まれ変わるなら、信仰による神の民としてその系図の中に組み込まれます。
よって、アダムから現代の私たちまでの系図を聖書を追って読むことによって、私が誰なのか、何処から来たのか、何処へ行くのかがわかるのです。
人の人生も、 人の生まれ。
人の原罪による暗闇の人生。
人の救い。
人の光と希望の人生。
人の死。
人の復活。
人の新しい天と地への移動。
と順序良く書かれています。
実に聖書は、貴方のことが書かれているのです。
この系図には、当然多くの登場人物が現れます。信仰の系図に照らせば、彼らは貴方のお祖父さん、御婆さんです。
ですから良いとこも悪いところも貴方ににています。
お祖父さん、あんたもやっちまったか。です。
また、今艱難にあるなら、にたような艱難にあった貴方のお祖父さんがいたことを知るでしょう。
そして、それらを、私のお祖父さんは、どのように解決したかが分かり、参考になります。
また神は、貴方の多くのお祖父さん御婆さんを、愛し、守り導いて下さったことを知るでしょう。あなたもそうなるでしょう。
ですから、聖書を読み、愛なる神を信じて生きると、楽天家になるのです。
神が創られた世界は、素晴らしい。美しい。そして多くのお祖父さんや御婆さんに囲まれて、愛されて、貴方は幸せもんだ。
人生は、素晴らしい。
以前こんな話を聞いたことがあります。
ある人が、亡くなる前にベットで召使に本を持ってくるように頼みました。
彼は本を沢山持っていたのでしょう。
召使が「どの本をお持ちしましょうか?」と尋ねました。
主人は「本といったら聖書だろう。」と答えました。
そうです。聖書は、本の中の本なのです。
つづく・・・
-
神様の勝手でしょ
神は祝福したいものを祝福する。
それを神は不公平だとか、その様なユダヤ教、キリスト教の神は本当の神ではない。
神は平等だ。
と言う人がいるが、神を知らない人の言葉である。
神はしたいことをする。誰からも束縛されない。神だから。
神様の勝手でしょ。である。
神に不平を言う貴方は何者か。
--聖書より--
【 土から取られたあなたは土に帰るまで 額に汗して糧を得る。あなたは塵だから、塵に帰る。。】
創世記 3章 19節
神はこの世が創られる時いた。いや、この世が創られる前からいた。
つづく・・・
-
神に選ばれた者(クリスチャン)のこの世での旅人としての生き方
この世では、よそ者である。
旅人であるから住む所を移動する。
よって、住んでいる家に労力をつぎ込まない。
イエス様がいる所が永遠の都である。神の国である。
新しい場所に住むことになってもイエス様がいれば、都であり神の国である。以前と変わらない。
この世の人も天地の権能を与えられたイエス様から見たらよそ者である。
--聖書より--
【 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】
マタイ 28章 18-20節
つづく・・・
-
主は備えたもう
歳を取ってからの引っ越しは、辛いものだ。
体力的に辛い。
金銭的に辛い。
親しい人達との別れ。
慣れ親しんだ町との別れ。
見知らぬところへの不安。
生活の不安。
その他問題が山積み。
しかし、準備していくと道が整えられているのに驚く。
妻と二人で主に感謝のお祈りを幾度しただろうか。
主は備えたもう。まったくその通りだ。
アドナイ・イルエ (主、備えたもう)である。
何時か天国への引っ越しが有るだろう。
心配しなくて良い。主は備えたもう。
天国に主が私達の住まいを用意して下さっているのだから。
--聖書より--
【 「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。
私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。
行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。
私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」】
ヨハネ 14章 1-4節
つづく・・・
-
福音の枝葉
-
だれでも渇いているなら
お盆の夜、公園の方から、遠くエイサーが聞こえた。
コロナ禍の中、何年ぶりだろう。
しばらく聞いていた。
エイサーは消えた。
家の前を家族ずれが通った。
「イヤ サッサー」と幼い女の子の声が聞こえた。
それもまた遠くへ消えて行った。
--聖書より--
【 祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。
「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。
私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。】
ヨハネ 7章 37-39節
ここに一人の女がいた。
彼女には、飽きられたのだろうか、捨てられたのだろうか、
飽きたのだろうか、捨てたのだろうか、
4人の男がいた。
今は5人目の男といる。
涼しい朝や夕暮れをさけ、人気のない暑い日中井戸に水を汲みに来た。
イエス様は旅に疲れ喉が渇き、彼女に水を飲ませてくれないかと言った。
--聖書より--
【 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際していなかったからである。
イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。」
女は言った。「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。
あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。 しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」
イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
女は答えて、「私には夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』というのは、もっともだ。
あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたの言ったことは本当だ。」
女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」
女は言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」
イエスは言われた。「あなたと話をしているこの私が、それである。」】
ヨハネ 4章 9-26節
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イエス・キリストを信じるとどうなるか
--聖書より--
【 あなたがたの信仰によって、キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように。
あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、
すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。】
エフェソ 3章 17-19節
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大いなる梯子
イエス様は、今天に居られる。
と同時に私と共に居られる。
これは、ヤコブの梯子どころではない。
大いなる梯子である。
私は人生の嵐の中で、安心して枕して眠る。
--聖書より--
【 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】
マタイ 28章 18-20節
--聖書より--
【 ヤコブはベエル・シェバをたって、ハランへと向かった。
ある場所にさしかかったとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。彼はそこにあった石を取って頭の下に置き、その場所に身を横たえて眠り、
夢を見た。すると、先端が天にまで達する階段が地に据えられていて、神の使いたちが昇り降りしていた。
すると、主がそばに立って言われた。「私は主、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神である。今あなたが身を横たえているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
あなたの子孫は地の塵のようになって、西へ東へ、北へ南へと広がってゆく。そして地上のすべての氏族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない。」
ヤコブは眠りから覚めて言った。「本当に、主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。」】
創世記 28章 10-15節
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神はいると信じるとこの世が解る
神は見えない、触れない、科学的に証明することは出来ない。
神は信じることでしか知ることが出来ない方である。
それは、神だからである。
神がいることを信じないで知らなければ、この世は解らない。
神がいることを信じて知れば、この世が解る。
--聖書より--
【 主を畏れることは知識の初め。】
箴言 1章 7節
【 モーセは神に言った。
「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、
『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。
すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。
私は何と彼らに言いましょう。」
神はモーセに言われた。
「私はいる、という者である。」
そして言われた。
「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」】
出エジプト 3章 13ー14節
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イエス様は真実な方
--聖書より--
章 節
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イエスにある生き方
イエス様を喜ぶこと。
イエス様を誇りに思うこと。
イエス様に泥を塗るような行為をしないこと。
--聖書より--
章 節
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イエス様を愛する
--聖書より--
【「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
羊を右に、山羊を左に置く。
そうして、王は右側にいる人たちに言う。
『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。
そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。
裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。
『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。
『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。
『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその使いたちに用意してある永遠の火に入れ。
あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせず、喉が渇いていたときに飲ませず、
よそ者であったときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、世話をしてくれなかったからだ。』
すると、彼らも答える。
『主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、よその人であったり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お仕えしなかったでしょうか。』
そこで、王は答える。
『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。』
こうして、この人たちは永遠の懲らしめを受け、正しい人たちは永遠の命に入るであろう。」】
マタイ 25章 31ー46節
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クリスチャンとは
--聖書より--
【 イエスはこれらのことを話してから、天を見上げて言われた。
「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子に栄光を現してください。
あなたは、すべての人を支配する権能を子にお与えになったからです。こうして、子が、あなたから賜ったすべての者に、永遠の命を与えることができるのです。
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
父よ、世が造られる前に、私が御もとで持っていた栄光で、今、御前に私を輝かせてください。
世から選んで私に与えてくださった人々に、私は御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に与えてくださいました。彼らはあなたの言葉を守っています。
私に与えてくださったものはみな、あなたから出たものであることを、今、彼らは知っています。
なぜなら、私はあなたからいただいた言葉を彼らに与え、彼らはそれを受け入れて、私が御もとから出て来たことを本当に知り、あなたが私をお遣わしになったことを信じたからです。
彼らのためにお願いします。世のためではなく、私に与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
私のものはすべてあなたのもの、あなたのものは私のものです。私は彼らによって栄光を受けました。
私は、もはや世にはいません。彼らは世におりますが、私は御もとに参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです。
私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした。聖書が実現するためです。
しかし今、私は御もとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ち溢れるようになるためです。
私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではないからです。
私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではありません。
真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの言葉は真理です。
私を世にお遣わしになったように、私も彼らを世に遣わしました。
彼らのために、私は自らを聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者とされるためです。
また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします。
父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。
あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。
父よ、私に与えてくださった人々を、私のいる所に、共にいるようにしてください。天地創造の前から私を愛して、与えてくださった私の栄光を、彼らに見させてください。
正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私をお遣わしになったことを知っています。
私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」】
ヨハネ 17章 1ー26節
クリスチャンは、この邪悪な時代に有って、イエス・キリストを心に抱き、光の子として歩むのである。
そして、暗闇に誠の光を証するものである。
イエス・キリストを喜び、イエス・キリストを誇りとし、イエス・キリストの為に生きるのである。
つづく・・・
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だれでも渇いているなら
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この世とは2
--聖書より--
【 初めに神は天と地を創造された。】
創世記 1章1節
この世は、神が創られたもの、神が創られたところです。
重要なことは、この世には始まりがあると言うことです。
また、人類にも始まりがあると言うことです。
それは、それらが創られる以前には無かったということです。
更に重要なことは、神はそれらが創られる以前にもいて、今もいる方であると言うことです。
神は、始まりも無く終わりも無い、「ある」と言う方だと言いうことです。
この世には、
始まりがあり、終わりがあるとのことです。
始まりは、聖書の最初の巻、創世記に記述されています。
終わりは、聖書の最後の巻、黙示録に記述されています。
その間の巻を含め全66巻がこの世の歴史です。人の世の歴史です。
科学的な宇宙の概念は、専門外ですので正しくないかもしれませんが、
知るうる範囲では、こうです。
銀河間は、遠くへ行けば行くほど広がって行くことが知られています。さらに、遠くの銀河ほど速く地球から遠のいていることが観測されています。
そこから、宇宙は膨張していると考えます。
時間を逆に戻すと、銀河は収縮していくので、宇宙の始まりは、大きさがゼロ、重力の大きさは無限大の小さな一つの点になります。
その点を特異点と言います。またの名をビックバンと言います。
さらにその特異点は、ブラックホールの中心にもあることが知られています。
そして、宇宙の空間の中には、ブラックホールは無数にがあります。
・・・・・
これからも宇宙に関しては、色々な発見や理論が出てくるでしょう。
永遠に人間が探求しても果ては有りません。
何故なら神が御創りになったからです。
ですから、数学や物理の学問も果てが無いのです。神が御創りになったものを対象にしているからです。
人は、神のかたちに似せて創られたが、能力にも、命にも限りがある。神には限りがない。
神が創られた物にも人の目には、はてしないものだ。
--聖書より--
【 あなたは海の源まで行ったことがあるか。
深い淵の奥底を歩いたことがあるか。
死の門があなたに姿を現したか。
死の陰の門をあなたは見たことがあるか。
あなたは地の広がりを悟ったのか。そのすべてを知っているなら、言ってみよ。
・・・・・】
ヨブ記 38章 4節~
この世のはての探求は、止めた方がよいと思う。
--聖書より--
【 私は言った。
「ここまでは来てもよいが、越えてはならない。
あなたの高ぶる波はここで止められる」と。】
ヨブ記 38章 11節
また、下記の創世記の箇所もそのことを言っているのではないだろうか。
--聖書より--
【 神である主は、人に命じられた。 「園のどの木からでも取って食べなさい。 ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」】 創世記 2章 16ー17節
もっと大事なものを探求した方が良いと思う。
また、神はその様な探求をしなくてもいいように、神のもとから御子イエス・キリストを遣わされたのだ。
そしてイエスは、大事なことは
--聖書より--
【 心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、
また、隣人を自分のように愛しなさい 】
ルカによる福音書 10章 27節
と言われた。
若い時はそう長くはない。この世での人生も長くはない。
空しいことに費やすべきでない。
--聖書より--
【 さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアと言う姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。
マルタは、いろいろともてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。
「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。
しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。
それを取り上げてはならない。」】
ルカ 10章 38-42節
また、科学者が論じているこの世は、光や電磁波も含めて物質のみの様です。 聖書が論じているこの世は、物質、空間を含むそれ以上大きなものです。見えないもの、触れないもの測れないものを含む大きなものです。
神には、初めも無く、終わりも無い、常にいる方です。
--聖書より--
【 さあ行け。私はあなたをファラオのもとに遣わす。私の民、イスラエルの人々をエジプトから導き出しなさい。」
モーセは神に言った。「私は何者なのでしょう。この私が本当にファラオのもとに行くのですか。私がイスラエルの人々を本当にエジプトから導き出すのですか。」
すると、神は言われた。「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えることになる。」
すると、神は言われた。「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えることになる。」
神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」】
出エジプト記 3章 10-15節
私達は、この様な世界に暮らしていますが、
私達にとって、この世とは何かと問うた時、
【初めに神は天と地を創造された。】
と言う原因と結果だけで十分なのです。
なぜならば、
140億年前のビックバンや、それ以前のこと、140億光年の先の宇宙のことなどを知ったとて、
たかだか、多く生きても120歳程度しか生きない人間に何の関係があるでしょうか。
人は今日か明日、または数年後 必ず死ぬのですから。
そんな高邁なことよりも、今日明日の糧、親、兄弟、子供達、隣人との関係にシックハック、七転八倒している様です。
--聖書より--
【 主は言われた。しかし、人間は、空を見上げます。永遠を思います。
「私の霊が人の内に永遠にとどまることはない。人もまた肉にすぎない。その生涯は百二十年であろう。」】
創世記 6章 3節
【 私たちのよわいは七十年
健やかであっても八十年。
誇れるものは労苦と災い。
瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。】
詩編 90篇 10節
--聖書より--【 天の下では、すべてに時機がありすべての出来事に時がある。
生まれるに時があり、死ぬに時がある。
植えるに時があり、抜くに時がある。
殺すに時があり、癒やすに時がある。
壊すに時があり、建てるに時がある。
泣くに時があり、笑うに時がある。
嘆くに時があり、踊るに時がある。
石を投げるに時があり、石を集めるに時がある。
抱くに時があり、ほどくに時がある。
求めるに時があり、失うに時がある。
保つに時があり、放つに時がある。
裂くに時があり、縫うに時がある。
黙すに時があり、語るに時がある。
愛するに時があり、憎むに時がある。
戦いの時があり、平和の時がある。
人が労苦したところで、何の益があろうか。
私は、神が人の子らに苦労させるよう与えた務めを見た。
神はすべてを時に適って麗しく造り、
永遠を人の心に与えた。
だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。】
コヘレト 3章 1-11節
人間にとって必要なことは、140億年前のことや、140億光年遠くのことなどよりも、
今生きているこの世は、何なのか。私は、何なのか。私とこの世の関係は何なのか、私と今生きている人との関係は何のか、そして私は死んでどこに行くのかです。
そして、それが聖書に書かれているのです。
私は【初めに神は天と地を創造された。】の神のことばに、物凄い神の愛を感じます。
地球の太陽からの距離が少しでも、近かったら太陽の高温にさらされ動植物は、生きられません。
反対に少しでも遠かったら極寒の星になってやはり動植物は、生きられません。
地球の位置が今よりも太陽に近くなれば、金星の様になり、遠くなれば、火星の様になるのです。
また、地球の大きさも丁度良く、もう少し大きかったら、重力が大きくなり人は立ってはいられないでしょう。隕石は、絶え間なく降り、小惑星も引き寄せるでしょう。
反対に今よりも地球が小さかったら、動植物も人間も今の形や大きさではないでしょう。それどころか、水を地球に引き留めておく引力が無くなり、水は宇宙に飛び散り干からびた地になります。大気も無くなり太陽からの紫外線がまともに地に当たるので生物は、生きてはいけないでしょう。
自転のスピードや地軸の傾き、月の存在で、地球には季節が有り、海には満ち引きが有って水はかき回されて濁ることがありません。
また、海のおかげで地球の温度の変化は生き物が住めなくなるほどにはなりません。
この様な地球は、このだだっ広い宇宙にはそうは無いでしょう。
人はこれを奇跡といいますが、神がなさることは全てが奇跡です。
神様って最高って叫びたくなります。
そして、この神様の創造の素晴らしさは、神の存在を信じると更に見えて来ます。
--聖書より--
【 信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えるものからできたのではないことを悟ります。】
ヘブライ 11章 3節
【 太陽よ、月よ 主を賛美せよ。
輝く星よ、こぞって 主を賛美せよ。
天の天よ
天の上にある大水よ 主を賛美せよ。
主の名を賛美せよ。
主が命じ、それらは創造された。
主はそれらを代々とこしえに立て
掟を与えて、それが消えうせないようにした。
地上から 主を賛美せよ。
海の竜たちよ、すべての深淵よ
火よ、雹よ、雪よ、霧よ
御言葉を成し遂げる激しい風よ
山々よ、すべての丘よ
実を結ぶ木よ、すべての杉の木よ
生き物よ、すべての獣よ
地を這うものよ、翼ある鳥よ
地上の王たちよ、すべての民よ
高官たちよ、地上のすべての支配者よ
若者もおとめも
老人も子どもも共に。
主の名を賛美せよ。
御名はひとり高く
その威厳は地と天の上にある。】
詩編 148章 13節
さらに聖書では、
この世には、終わりがあるということです。
終わりは黙示録に書かれてあります。
人はこれを終末といいますが、聖書にはこの世の終末は、次の時代の始まりとあります。
人の死は、個人的な終末でもあります。
しかし、神の子イエス・キリストを信じるものには、死は次の世へ入る単なる門にすぎないとあります。
--聖書より--
【 地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、
・・・・ 】
創世記 1章 2- 節
混沌とした中へ、神は「光あれ」と言われ光を創り、それから素晴らしいものを次々と創られた。
よって、神は秩序を好むとも言える。
ゆえに、人類をそのまま許したいが、御子を遣わし人類の罰を受けさせ死んでけじめをつけられた。
十字架を神の「愛と義の十字架」と言う根拠がここにある。
また、神が「光あれ」と最初に言われ、この世界を創ったように。
イエス様がこの世界に来られた時を、
--聖書より--
【 こうして、預言者イザヤを通して言われたことが実現したのである。
「ゼブルンの地とナフタリの地湖沿いの道、ヨルダン川の向こう異邦人のガリラヤ
闇の中に住む民は
大いなる光を見た。
死の地、死の陰に住む人々に
光が昇った。
その時から、イエスは、
「悔い改めよ。天の国は近づいた」
と言って、宣べ伝え始められた。】
マタイ 4章 14-17節
と創世記と同じように言っている。
イエス様が来られたことは、新しい世界、神の国が始まったことでもあるのです。
そして、イエス・キリストを信じ従えは、誰でもこの新しい神の国に入れるのです。
イエス様は、復活して弟子達に現れ下記の様に言われた。
--聖書より--
【 イエスは、近寄って来て言われた。
「私は天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。
私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】
マタイ 28章 18-20節
ですから、この世のことばかりにかかずってばかりいてはダメなのです。
--聖書より--
【 「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。
あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。
なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。 まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、 信仰の薄い者たちよ。
だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。
それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。
だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。
その日の苦労は、その日だけで十分である。」】
マタイ 6章 24-34節
終わりに、
--聖書より--
【 十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。
それは、こう書いてあるからです。
「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし悟りある者の悟りを退ける。」
知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
きょうだいたち、あなたがたが召されたときのことを考えてみなさい。世の知恵ある者は多くはなく、有力な者や家柄のよい者も多くはいませんでした。
ところが、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。
また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。
それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。
なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。
私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。
それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした。
それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした。
私たちが語るのは、隠された秘義としての神の知恵であって、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
この世の支配者たちは誰一人、この知恵を悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
こう書いてあるとおりです。
「目が見もせず、耳が聞きもせず
人の心に思い浮かびもしなかったことを
神はご自分を愛する者たちに準備された。」
私たちには、神は霊を通してこのことを啓示してくださったのです。霊はあらゆることを、神の深みさえも究めるからです。
人の内にある霊以外に、一体誰が人のことを知るでしょう。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
私たちは世の霊ではなく、神の霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
この賜物について語るにも、私たちは、人の知恵が教える言葉ではなく、霊が教える言葉を用います。つまり、霊によって霊のことを説明するのです。
自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊に属する事柄は、霊によって初めて判断できるからです。
霊の人は一切を判断しますが、その人自身は誰からも判断されたりしません。
「誰が主の思いを知り
主に助言するというのか。」
しかし、私たちは、キリストの思いを抱いています。】
一 コリント 1章18節ー2章16節
つづく・・・
-
この世の真の歴史(ハイル ヒストリー)
この世を創った神には、また人間を創った神には、この世について、人間についての計画があります。
神の計画は必ずなります。人の営みの全ては、ただこの神の計画の中で、しているだけです。
これが、ハイル ヒストリーです。
人類の祖先、アダムとエバから今日に至るまで、さらにこれからのことについて、
この世を創った神は、人間を創った神は、人間に聖書を通して、親切にもこの神の計画をハイル ヒストリーを教えています。
神は愛なる方です。父なる神が人に前もって教えないはずがありません。
人間は、このハイル ヒストリーの中で、生きているのだから、これを常に意識して、それに沿って生き、計画をたて人生を営むべきです。
明日、台風が来るよと分かっているなら、それに備えるでしょう。
聖書では、今は救いの日、恵みの日と言っています。そしてもうすぐ終末が来て、新しい天と地が来ると言っています。
それらを良く知り、準備すべきです。
より良く生きるとはそういうことでもあります。
これを持ってしても、聖書を読むことは、学ぶことは人間にとっていかに重要なことかが分かるものと思います。
・この世の始まる前のことについて
この世の者にとっては、まったく時空ご超えたもの、超えたところ。
理解しがたいところである。
この世以外についても同じことが言える。
・この世の始まりについて
【 初めに神は天と地を創造された。】創世記 1章1節
ゆえに、この世は、天と地からなる。
地は、私達が生きているところ。
天は、イエス様が復活して、昇られたところ。
全ては神のことばによって出来た。 全ては良かった。
--聖書より--
【 地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。」
神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
神は言われた。「天の下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ。」そのようになった。
神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神は見て良しとされた。
神は言われた。「地は草木を生えさせよ。種をつける草と、種のある実を結ぶ果樹を、それぞれの種類に従って地上に生えさせよ。」そのようになった。
地は草木を生じさせ、種をつける草をそれぞれの種類に従って、種のある実をつける木をそれぞれの種類に従って生じさせた。神は見て良しとされた。
夕べがあり、朝があった。第三の日である。
神は言われた。「天の大空に、昼と夜を分ける光るものがあり、季節や日や年のしるしとなれ。
天の大空に光るものがあって、地上を照らせ。」そのようになった。
神は二つの大きな光るものを造られた。昼を治める大きな光るものと、夜を治める小さな光るものである。また星を造られた。
神は地上を照らすため、それらを天の大空に置かれた。
昼と夜を治めるため、光と闇を分けるためである。神は見て良しとされた。
夕べがあり、朝があった。第四の日である。
神は言われた。「水は群がる生き物で満ち溢れ、鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
神は大きな海の怪獣を創造された。水に群がりうごめくあらゆる生き物をそれぞれの種類に従って、また、翼のあるあらゆる鳥をそれぞれの種類に従って創造された。神は見て良しとされた。
神はそれらを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地に増えよ。」
夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神は言われた。「地は生き物をそれぞれの種類に従って、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれの種類に従って生み出せ。」そのようになった。
神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て良しとされた。
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し
男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」
神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。
また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。」そのようになった。
神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。
第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。
神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。
これが天と地が創造された次第である。】
創世記 1章2節-2章4節
全ては良かった。
・全人類の救いの訪れまでのことについて
人類の中から、アブラハムを聖別して、神の民とした。
その目的は、その民から全人類の救い主イエス・キリストを誕生させるためであった。
(後に、時が満ちて、キリスト・イエスが生まれた。)
その民の名をユダヤ人と呼んだ。
・全人類の救いが訪れたことについて
事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。 ニコリント 5:14 これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。 ニコリント 5:18 神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。 私たちはまた、神と共に働く者として勧めます。神の恵みをいたずらに受けてはなりません。 それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 ローマ5:9
・この世の終わりまでのことについて
・この世の終わり終末について
死は、その人の個人的な終末である。
世から見ると、死はその人がいなかったかのように、その人の全てを消す。
世の終末は、この世の死である。
この世がなかったかのように、全てを消す。
しかし、聖書が言う世の終わり終末とは、一つの世が終わり、新しい世が始まることだと言っています。
それゆえに、終末は、新しい世が訪れる、産みの苦しみです。
陣痛の痛みは、少しの痛みから辛い痛みに徐々に変わって行きます。痛みの長さも短い痛みから長い痛みに徐々に変わっていきます。
世の終末の苦痛も同じように、変化していきます。
これは、産みの苦しみです。
--聖書より--
【 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
イエスは言われた。「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
その時、人々は、あなたがたを苦しみに遭わせ、殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての民に憎まれる。
その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
「預言者ダニエルの語った荒廃をもたらす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
畑にいる者は、上着を取りに戻ってはならない。
それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女に災いがある。
逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。
その時には、世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
神がその期間を縮めてくださらなければ、誰一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。
その時、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。
偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
あなたがたには前もって言っておく。
だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、出て行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子もそのように来るからである。
屍のある所には、禿鷲が集まるものだ。」
「それらの日に起こる苦難の後、たちまち
太陽は暗くなり
月は光を放たず
星は天から落ち天の諸力は揺り動かされる。
その時、人の子の徴が天に現れる。そして、その時、地上のすべての部族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
人の子は、大きなラッパの響きとともに天使たちを遣わし、天の果てから果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。」
「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が出て来ると、夏の近いことが分かる。
それと同じように、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
よく言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」
「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
洪水になる前、ノアが箱舟に入る日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
そして、洪水が来て一人残らずさらうまで、何も気が付かなかった。人の子が来る場合も、このようである。
その時、畑に二人の人がいれば、一人は取られ、一人は残される。
二人の女が臼を挽いていれば、一人は取られ、一人は残される。
だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである。
このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。
だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」】
マタイ 24章 1節-44節
・その後のことについて
一つの時代が終わり、新しい時代が始まります。
全てが新しくなります。
この世の者にとっては、まったく時空ご超えたもの、超えたところ。
理解しがたいところである。
つづく・・・
-
人間とは
【 神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。】
創世記 1章 27節
【 神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。】
創世記 2章 7節
人は、神のかたちに創られたからこそ、
飛行機を作り、ロケットを作り月や火星に行くことができるのです。
また、このように、聖職者でもなく、40数年コンピューターのソフトの仕事にかかずっていた70歳(2022年現在)の貧しいびっこの老人が、
神を語り、救いを語ることができるのです。
神のかたちに創られたからこそなのです。
人はだれでも、神を見上げ呼ぶことができるのです。
また、「土の塵で人を形づくり」とあるように人間は物質であるが、「その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」とあるように、
霊を持つもの魂を持つもの、つまり人とは、土の器に魂を持つものであると記載されています。
ここに、動物と人間の違いが明記されています。
人間は、単なる物質でもなく、単なる動物でもないのです。
【 アダムは、さらに妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けて言った。
「カインがアベルを殺したので、神がその代わりに一人の子を私に授けられた。」
セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。
その頃、人々は主の名を呼び始めた。】
創世記 4章 25-26節
それゆへ、私達人類は、神から離れた(罪人、原罪を持つもの)アダムとエバの末裔なのです。
つづく・・・
-
科学者よ人として生きなさい
この世は、天地は、神が創られたのだから、
人間の手は、果てにはとどかない。
人間のマニュアル聖書が示すように生きよ。
--聖書より--
【 心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、
また、隣人を自分のように愛しなさい 】
ルカによる福音書 10章 27節
科学者よ人として生きよ。
つづく・・・
-
人は何故尊い
神が創られたから。
さらに、神がご自分のかたちに似せて創られたから。
貴方は尊いのです。
--聖書より--
【 神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。】
創世記 1章 27節
貴方は何か手作りの物を作ったことがあると思います。
上から見たり、横から見たり、何度も見て、そして見飽きない。 愛おしく思います。
同じ様に神もご自分が創られた人類を貴方を愛おしいのです。
そして、人類が滅びていくのが忍びなく、神の独り子を遣わし、代わりに罰と死を受けさせ、人類が滅びないようにして下さいました。
--聖書より--【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
ヨハネ 3章 16節
神に愛されているから貴方は尊いのです。
つづく・・・
-
人間の最大の問題 死
人は誰でも死にます。ゆえに貴方も必ず死にます。
しかし、イエス様を信じた人は、死にません。
たとえ全世界を儲けても、死んだらもともこもありません。
どんな偉い人も、犬のように死にます。
しかし、人は神に似せて創られました。ゆえにその心は、永遠を思います。
永遠の命を思うのです。
この土くれが、思うのですよ。とんでもないことだと思いませんか。
【 神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。】
コヘレトの言葉 3章11節
ここにイエス・キリストと言う方がおられます。
かれは神から来られた方で正しい方でしたが、人が滅び(死)ないように身代わりに罰を受け死なれました。
死んで後3日後に死から蘇り、弟子や多くの人に現れ天に昇られました。
イエスを神の子と信じた人達の初穂として復活し天に昇られたのです。
かれは神です。永遠、無限なかたです。
かれはあらゆる恵みに満ち満ちています。
かれに来るものは、永遠に心が乾くことがありません。
聖書は、新約、旧約、初めから終わりまでイエス・キリストについて書かれています。
イエス・キリストは、貴方に必要だからです。
そこには、死なない方法、心の満たし、生き方、貴方にとって今本当に必要なもの全てがあります。
現代の社会的な問題の根本は、
人生はこの世だけしかないといった新しい迷信にあります。
それにより、人は卑しくなり、がめつくなり、自己欲肉欲を必死で貪ります。
このような人々が織りなす人の世は、押して知るべしです。
先に新しい迷信と書きましたが、近年以前にそのような考えがあったでしょうか。
進化論があたかも紛れもない真実であるかのように教えている義務教育、ほんとは何も知らないのに 知ったかぶりをしてのたまう科学者の責任です。
私たちの祖先はネズミやアメーバだ、死んだら無だと教えられた子供たちに、何の希望、夢、尊厳が生まれるでしょうか。
快楽を求めゲームやYouTube に夢中になって日々を過ごすのはあたりまえではないでしょうか。
果てし無い宇宙の片隅の
小さな地球の日本と言う小さな島にカビのように生え、無くなる。
永遠の宇宙の中で、泡のように現れ、消える。
永遠から見たら、いたかさえも有ったかさえも分からない。
このような唯物論者、無神論者も何時か死ぬわけだから、死んだら無になると知っているわけだから、
生きることが辛いだろうなと想像される。
このような世界観に今の子供たちは生きているのです。
大人も。
このような世界間に誰がした。
人が神から離れたからです。
死ぬまでの時間つぶし。ただぼうとテレビ、映画、YouTubeを見るだけ面白かった感動した、しかし新しい次の動画を見る。次々と。
製作者は暇つぶしの動画を次々作っていくのが仕事。
ゲーム設計者はプレイヤーの前に人参をぶら下げ、追いかけさせ達成感と快感をタイミングよく与える。猫じゃらしに遊ばれる子供、 いや大人。
そのループから抜け出すには、自殺か自分を死刑にしてくれる国だけ。リセットではない選択肢。
何もかもが面白くないと言う前に、神を知ることです。
--聖書より--【 イエスは答えて言われた。
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」】
ヨハネ 4章13〜14節
--聖書より--【 コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
ー代過ぎればまたー代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。
何もかも、もの憂い。
語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
昔のことに心を留めるものはない。
これから先にあることも
その後の世にはだれも心に留めはしまい。】
コヘレトの言葉 1章2-11節
死んだらなにもかも終わりだ。
何もかも空しく消える。
過去の出来事も夫婦生活のことも自分自身も親も兄弟も友人ももちろん思い出も。
何もかも消える。
労したことも空しく消える。
良い人間であっても、死んだら終わりだ。
極悪人と同じ様に死ぬ。
人は死の前に平等である。
どんな人であれ犬のように死ぬ。
死から誰も逃れられない。
人は死んで後、裁かれると聖書にある。
良い人よ神がおられることを信じ、極悪人をうらやむことなかれ。
悪人は死んだ後の裁きと第二の死(地獄)から逃れることはできない。
このことを憶え悪人は恐れ、悔い改めの必要を覚えることである。
愚かであってはいけない。
死んでからでは遅いのだから。
人は、過去にはいない。未来にもいない。今にいるのである。
そして、死は来る。死は必ず、貴方にも私にも来る。
他人事だと思っていたことが私の番か、という時が来る。
避けることはできない。
さらに、聖書では、
【 人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。】
ヘブライ人への手紙 9章27節
とある。
死とは個人で体験するものである。
赤信号皆で渡れば怖くないというものではない。
死はすべてを失うものである。財産も家族も友も知識も体も全て失うのである。
よって哀れなものである。
全ての人と別れなけばならない。そして、一人で生まれた時のように裸で行くのである。
よって哀れなものである。
もう努力しようが無い。
よって哀れなものである。
理不尽に殺されても、文句の一つも言えない。
よって哀れなものである。
人は裸で生まれ、裸で死んで行くのである。
マリー・ローランサンの詩の中に、
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。
と言うのがあります。
死んで誰からも忘れられた女はどうなのだろう。哀れの極みである。
墓地に行くと死んだ人の墓がるいるいとある。
墓碑を見ても顔も知らない。誰も知るよしもない。
哀れである。実に悲しい限りである。
何も無い。
宇宙の広さからみたら、いたかいなかったかさへ分からない。
誰も知らないのだから。
宇宙の片隅の小さな地球の日本と言う小さな島にカビのように生え、死ぬ。
永遠に死ぬ。消える。いたかどうかさへ分からない。
哀れである。
人はあっけなく死ぬ。
しかし、本人にとって死は長く、重い。
死とはまったく個人として面と向かって迎えるものである。
死はいつも生きている人間にとりついている。
お祭りで楽しく踊り踊っていても、幸せに生活していても、山の向こうから鐘の音が遠く聞こえるようにふと死と言う音が聞こえて来る。
楽しければ楽しいほど、幸せなら幸せなほど、これが永遠であったらと思う。
しかし、死は別れは終わりは、来る。
【 神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。】
聖書 コヘレトの言葉(3章:11節)
死からの解放は、イエス・キリストの十字架に有る。
神の救いの十字架を見上げる者は、皆死なない。
私は信じるのです。
神の恵みに生きるのです。
神の存在を信ぜず、進化論を信じている者ほど哀れなものはない。
彼らにとって死は恐ろしいものである。
彼らにとってこの世しか無いので、死は自分の全てが終わりであり、世界の終わりである。
かつ、宇宙の広さ高さからみたら、時間の長さから見たら貴方など無に等しいものとなる。
そこでは、隣人に対する愛など意味が無く、ありようがない。
無神論者の権力者が、死ぬことが分かった時、核のボタンを押すことも考えられる。
自分がいない世界など有っても意味がないのだから。
また、彼らにとって死は、耐えられないことがあった場合の逃げ場となる。
しかし、神の前に逃げ場はないことを死んで知ることであろう。
進化論者、唯物論者にとっては、生きるも死ぬるも虚無である。本人が死んだら全てが消えるのであるから。
全てが空しいことを少しづつ一つづつ知らされながら老いて死んでいくのである。哀れである。
キリスト者は、おぼろげに見えていた真理がイエス・キリストが歳をとるごとにもやが去りはっきりと見えてくるのである。
人は死んだら終わりではない。そう甘くない。
神の前で裁かれ、永遠の地獄に行くか、永遠の天国に行くかのどちらかである。
神はいるのである。
今の科学者は、無神論で世を説明しようとしている。理解しようとしている。
日本では、進化論をあたかも真理であるかのように子供に教えている。
結果、日本は愛の無い国になることは確実である。
愚かな今の科学者は、気が付くべきだ、悟べきだ。直観で悟れ。直観で知れ。
神は、顕微鏡や望遠鏡で見れるものではない。ましてやフラスコをゆすって観察するものではない。
崇めるかたである。究極の真理はそうゆうものである。
【かれらは、『その名は一体何か』と問う・・・
神は・・「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ・・・。】
聖書 出エジプト記(3章・13-14節)
神は死なない。アルファでありオメガであり、初めが無く終わりがない。
そのような神の前で人は今生きているのである。
そして、死んで神の前に立たされるのである。
イエス様が語られた死後の話を聞こう。
--聖書より--
【「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴膳でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』】
ルカ 16章19-26節
【 二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。・・・・
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」
と言った。
するとイエスは、
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
と言われた。】
ルカ 23章32-43節
キリスト者にとって、この世は神の栄光の場である。死は罪の世からの脱出である。素晴らしいところに行く門である。
進化論者、唯物論者は、この世しか無いので、この世に未練たらたら死ぬのである。
キリスト者は、神がお許しになることを行い、出来ないことは神の御心と思いあきらめるのである。この世に思い残すことなく生き、死ぬ(この世を去る)のである。
キリスト者は、この世に宝を積まず、天に宝を積むのである。
世の人は皆 原罪があるので恨みと悔やみの中で死ぬのである。
世の人は皆 原罪があるので人との関わりに苦しみ、この世を自ら去るのである。
神を信じ、イエス・キリストを信じている者にとって死はほっとする所であって、希望であって、新しく素晴らしい世界の門であり始まりである。
世の人は皆原罪があるので恨みと悔やみの中で生きるが、キリストに従い赦し、キリストに赦されこの世で御国を味わうのである。
世の人は皆原罪があるので人との関わりに苦しむが、キリスト者は確実な新しい世界を待ち望むので耐えることが出来、救い主イエス・キリストの十字架の御姿を仰ぎ、艱難の中にあっても、人に優しく出来るのである。
何故。
キリスト者は、神の独り子イエス・キリスト様が代りに罰を受け死なれたので、 キリスト者は神の前に義とされている。死はなくなったのである。
死からの解放は、実にイエス・キリストの十字架に有るのである。
神の救いの十字架を見上げる者は、皆死なないのである。
--聖書より--【イエスは言われた。
「・・・死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」】
ルカによる福音書 20章34-38節
--聖書より--【神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。】
伝道者の書 3章11節
--聖書より--【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
ヨハネ 3章16節
--聖書より--【 イエスは言われた。--聖書より--
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなけらば、だれも父のみのとに行くことができない。」】
ヨハネ 14章6節
【 イエスは言われた。死んだらなにもかも終わりだ。
「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」】
ヨハネ 11章25-26節
何もかも空しく消える。
過去の出来事も夫婦生活のことも自分自身も親も兄弟も友人ももちろん思い出も。
何もかも消える。
労したことも空しく消える。
良い人間であっても、死んだら終わりだ。
極悪人と同じ様に死ぬ。
人は死の前に平等である。
どんな人であれ犬のように死ぬ。
死から誰も逃れられない。
人は死んで後、裁かれると聖書にある。
良い人よ神がおられることを信じ、極悪人をうらやむことなかれ。
悪人は死んだ後の裁きと第二の死(地獄)から逃れることはできない。
このことを憶え悪人は恐れ、悔い改めの必要を覚えることである。
愚かであってはいけない。
死んでからでは遅いのだから。
人は、過去にはいない。未来にもいない。今にいるのである。
そして、死は来る。死は必ず、貴方にも私にも来る。
他人事だと思っていたことが私の番か、という時が来る。
避けることはできない。
さらに、聖書では、
【 人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。】
ヘブライ人への手紙 9章27節
とある。
死とは個人で体験するものである。
赤信号皆で渡れば怖くないというものではない。
死はすべてを失うものである。財産も家族も友も知識も体も全て失うのである。
よって哀れなものである。
全ての人と別れなけばならない。そして、一人で生まれた時のように裸で行くのである。
よって哀れなものである。
もう努力しようが無い。
よって哀れなものである。
理不尽に殺されても、文句の一つも言えない。
よって哀れなものである。
人は裸で生まれ、裸で死んで行くのである。
つづく・・・
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律法について
ガラテヤの信徒への手紙(2:15-21)
ガラテヤの信徒への手紙(3:10-14)
ガラテヤの信徒ねの手紙 4章4-7節
マタイによる福音書(23:1-39)
ルカによる福音書10章25~37節
ヨハネによる福音書 1章1-18節
2章12節~16節
(ローマ人への手紙3:10~18)
ローマ信徒への手紙(7:18-25)
さらに、神の子イエス・キリストは、神は心を見られると言い、人を憎むことは殺すのと同じです。女性の情欲で見るのは姦淫したのと同じです。と言われました。神の目線は人間よりはるかに高いのです。よって、自分を正しいとし他人を裁くものは大いなる罰をうけるのです。
ゆえに、「正しい者はいない。一人もいない。人間はすべて罪人であって、だれもが救いを必要としている」のです。
つづく・・・
-
救いとは
死なないと言うことです。
--聖書より--【 イエスは言われた。
「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」】
ヨハネ 11章25-26節
さらに、この世が終末を向かえる時に、一緒に滅びないと言うことです。
新しい幸いな地に迎えられ、新しい体が与えられ、主の民と一緒に住むと言うことです。
貴方の罪は許されたと言うことです。
--聖書より--【 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。】
エフェソの信徒への手紙 1章7節
つづく・・・
-
どうしたら救われるか
--聖書より--【 聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。】
ローマ 4章3節
【 イエスは言われた。
「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」】
ヨハネ 11章25-26節
【 イエスは言われた。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」】
ルカ 8章48節
つづく・・・
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救われた確信について
神が人類(私)を哀れに思い、神が人となって(神の子イエス)私達(人類)の中にこられ、
十字架の血と死をもって私を聖霊によって新しく生まれ変らせて下さり、神の子イエスのもの、兄弟として下さった。
そして、神の子イエスは死んだ後、3日後、人類(私)の初穂として死から蘇られた。
そして、天に昇られた。
そして、時が来たら私達の元に来て、私達を天の新しい世界(故郷)につれて行って下さる。
つづく・・・
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神を信じたらどう生きるか
神を信じる生き方をする。と言うこと。
--聖書より--【 心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神(イエス・キリスト)である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい 】
ルカによる福音書 10章 27節
生き方が迷ったら、分からなくなったら、ここに戻って始めよう。
--聖書より--【「闇から光が照り出でよ」と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったからです。
私たちは、この宝を土の器に納めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。 私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。 私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。イエスの命が私たちの死ぬべき肉体に現れるためです。
こうして、私たちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働くのです。
「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それゆえに語ってもいるのです。
主イエスを復活させた方が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと共に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。
すべてのことはあなたがたのためであり、こうして、恵みがますます多くの人に及んで、感謝を満ち溢れさせ、神の栄光となるのです。
だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。
このしばらくの軽い苦難は、私たちの内に働いて、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。
私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。
私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋にあって呻いています。
それを着たなら、裸ではないことになります。
この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではなく、死ぬべきものが命に吞み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。
私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです。
それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。
というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。
それで、私たちは安心していますが、願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。
だから、体を住みかとしていようと、体を離れていようと、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならないからです。
こういうわけで、私たちは主を畏れることを知っているので、人々の説得に努めます。私たちのことは、神の前に明らかにされていますが、あなたがたの良心にも明らかになることを、私は望みます。
私たちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようとするのではありません。ただ、内面ではなく外面を誇る者たちに向かって、私たちのことを誇る機会をあなたがたに提供しようとしているのです。 私たちが正気でなかったというなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。
事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。
その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。
その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。
だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。
これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。
こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。
私たちはまた、神と共に働く者として勧めます。神の恵みをいたずらに受けてはなりません。
なぜなら、
「私は恵みの時に、あなたに応え
救いの日に、あなたを助けた」
と神は言っておられるからです。今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。
私たちは、この奉仕の務めについて、とやかく言われないように、どんなことにも人につまずきを与えず、あらゆる場合に自分を神に仕える者として推薦しているのです。大いなる忍耐をもって、苦難、困窮、行き詰まりにあっても、鞭打ち、投獄、騒乱、労苦、不眠、空腹にあっても、純潔、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛によって、真理の言葉、神の力によってそうしています。
また、左右の手に持った義の武器によって、栄誉を受けるときも、侮辱を受けるときも、不評を買うときも、好評を博するときにも、そうしているのです。
私たちは人を欺いているようでいて、真実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかけているようでいて、こうして生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています。
コリントの人たち、私たちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。
私たちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたのほうが自分で心を狭めているのです。
子どもに話すように言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。
あなたがたは、不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とにどんな交わりがありますか。
キリストとベリアルとにどんな調和がありますか。信者と不信者とにどんな関係がありますか。
神の神殿と偶像とにどんな一致がありますか。私たちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。
「『私は彼らの間に住み、巡り歩く。
私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。
だから、彼らの中から出て行き彼らから離れよ』と主は言われる。『汚れたものに触れるな。そうすれば、私はあなたがたを受け入れ
あなたがたの父となりあなたがたは私の息子、娘となる』と全能の主は言われる。」
愛する人たち、私たちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。】
第二 コリント 4章6節-7章1節
--聖書より--【 このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。
この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。
しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。このアダムは来るべき方の雛型です。
しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。
この賜物は、一人の犯した罪の結果とは異なります。裁きの場合は、一つの過ちであっても、罪に定められますが、恵みの場合は、多くの過ちがあっても、義と認められるからです。
一人の過ちによって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストを通して、命にあって支配するでしょう。
そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
律法が入り込んで来たのは、過ちが増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。 こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。
では、何と言うべきでしょうか。恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。
決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。
私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。
私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。
私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。
死んだ者は罪から解放されているからです。
私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。
ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。
罪があなたがたを支配することはありません。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるからです。
では、どうなのか。私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか。決してそうではない。
知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。
あなたがたの肉の弱さを考慮して、私は分かりやすい物言いをしています。かつて、五体を汚れと不法の奴隷として献げて不法に陥ったように、今は、五体を義の奴隷として献げて聖なる者となりなさい。
あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
では、その時、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥とするものです。その行き着くところは死です。
しかし、今や罪から自由にされて神の奴隷となり、聖なる者となるための実を結んでいます。その行き着くところは永遠の命です。
罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。
それとも、きょうだいたち、私は律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、夫の律法から解放されます。
ですから、もし夫の生存中、他の男のものになれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死ねば、その律法から自由な身となり、他の男のものになっても姦淫の女とはなりません。
それと同じように、きょうだいたち、あなたがたも、キリストの体によって、律法に対して死んだのです。それは、あなたがたがほかの方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、私たちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
私たちが肉にあったときは、律法による罪の欲情が五体の内に働き、死に至る実を結んでいました。
しかし今は、私たちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されました。その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えるようになったのです。
では、何と言うべきでしょうか。律法は罪なのか。決してそうではない。だが、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が「貪るな」と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。
しかし、罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こしました。律法がなければ罪は死んでいたのです。
私は、かつては律法なしに生きていました。しかし、戒めが来たとき、罪が生き返り、
私は死にました。命に導くはずの戒めが、私にとっては死に導くものとなりました。
罪が戒めによって機会を捉え、私を欺き、その戒めによって私を殺したのです。
実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです。
それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによって私に死をもたらしました。こうして、罪は戒めによってますます罪深いものとなりました。
私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。
私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。
自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
内なる人としては神の律法を喜んでいますが、内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。
私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。
キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためです。
肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思います。 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。
なぜなら、肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです。
肉の内にある者は、神に喜ばれることができません。
しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。
イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう。
それで、きょうだいたち、私たちは、肉に従って生きるという義務を、肉に対して負ってはいません。
肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。
子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、 共に栄光をも受けるからです。
思うに、今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません。
被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。
それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。
実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。
被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。
私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。
まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。
霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。
人の心を見極める方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って聖なる者のために執り成してくださるからです。
神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。
神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。
では、これらのことについて何と言うべきでしょう。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。
私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。
誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。
誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。
「私たちはあなたのゆえに、日夜、死にさらされ
屠られる羊と見なされています」
と書いてあるとおりです。
しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。
私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。】
ローマ 5章1節-8章39節
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私たちは、信実な方、偽りのない方、聖い方、つまり神(イエス様)に出会ったのだから、
今までの不信実なもの、偽りなもの、聖くないものの交わりから、出て行き、
神(イエス様)に近づいていこう。
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摂理を受け入れ、過去を後にして、前に生きる。
摂理とは、
日本基督教団 齋藤真行牧師YouTubeより
「キリスト教の基本的な信仰の一つに、摂理信仰と言うのがあります。
これは、神が備え、導いてくださる。また、神様は私たちの生活を支えて下さるということですが、
私はどんな学校に行くのかとか、どんな会社で働くのとか、どんな仕事をするのとか、どんな友達と付き合うかとか
どんな人と結婚するかとか、こんなこと全て神様は、導いて相応しく御与え下さると、そういう意味になります。
で、こう言った摂理信仰と言ったことを信じて生きることで、全てですね、よきものと言うのは神様から与えられたという風に感謝することが出来る。
逆に逆境や試練のときにおいては、そのことも神様がお与え下さったときだから、神様は必ず良い方向にもっていって下さると、信頼をもって歩めると、いうことになります。 この、摂理信仰があることで、私たちは殉教でも逆境でも守られて安らかに生きることが出来る。と言うことです。」
つづく・・・
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私たちは、信実な方、偽りのない方、聖い方、つまり神(イエス様)に出会ったのだから、
-
終末を前にした生き方
マルティン・ルターは、
「たとい明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」
と言われた。
イエス様の生き方を見て言われたのだろう。
十字架と言う個人的な終末を前にして、
イエス様は、毎日、
「傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すこともなく」
隣人を愛し、癒し救いに導き、神の御心を行っておられた。
--聖書より--【 イエスはお答えになった。
「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」】
ヨハネ 5章 17節
つづく・・・
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イエス様と私
--聖書より--【 私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです。私たちはこの御子において、その血による贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。これは、神の豊かな恵みによるものです。神は、この恵みを私たちの上に溢れさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、御心の秘義を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってご自身でお決めになっていた御心によるものであって、時が満ちるというご計画のためです。それは、天にあるものも地にあるものも、あらゆるものが、キリストのもとに一つにまとめられることです。キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。それは、キリストに以前から希望を抱いている私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。あなたがたも、キリストにあって、真理の言葉、あなたがたの救いの福音を聞き、それを信じ、約束された聖霊によって証印を受けたのです。聖霊は私たちが受け継ぐべきものの保証であり、こうして、私たちは神のものとして贖われ、神の栄光をほめたたえることになるのです。】
エフェソの信徒への手紙 1章3-14節
つづく・・・
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理に適った礼拝
何処を向いてイエス様を礼拝をしたらいいのだろうか。
天である。イエス様が復活して、天に昇られたから。
今は、天に向かって礼拝すべきである。
主の天からの降臨まで。
【 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」
女は言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」
イエスは言われた。「あなたと話をしているこの私が、それである。」】
ヨハネ 4章19-26節
不思議なことに、
【「よく言っておく。あなたがたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。
また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。
二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」】
マタイ 18章18-20節
天に居られる方が、
「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」とは、
神の神たるゆえんである。
【 こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。】
ローマ人:12章1節
つづく・・・
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どのように祈ったらいいか
--聖書より--【 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。
そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。
私たちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
私たちを試みに遭わせないでください。』」
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
友達が旅をして私のところに着いたのだが、何も出すものがないのです。』
すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない。』
しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。
そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。
誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。】
ルカ 11章1-13節
【「また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。
あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。
彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
だから、こう祈りなさい。
『天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように
天におけるように地の上にも。
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。』
もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」】
マタイ 6章5-15節
つづく・・・
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神の愛
--聖書より--【 ほかにも、二人の犯罪人がイエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。
犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
その時、イエスは言われた。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」】
ルカ 23章 32-34節
「見よ、私の選んだ僕私の心が喜びとする、私の愛する者を。この僕に私の霊を授け彼は異邦人に公正を告げる。 彼は争わず、叫ばずその声を大通りで聞く者はいない。 公正を勝利に導くまで 彼は傷ついた葦を折ることもなくくすぶる灯心の火を消すこともない。 異邦人は彼の名に望みを置く。」 マタイ 12:21
つづく・・・
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簡単な自己紹介
私は誰と自分に問いたら
「父なる神様に愛されている者」
と答えるだろう。
私は誰と自分に問いたら
「信仰のみ、恵みのみ、聖書のみ、イエス・キリストのみ」
に生きたいと望むもの、
と答えるだろう。
また「私はイエスキリストのものである」 と答えるだろう。
そして、キリストのものは神のもの
よって私は神様のもの、だから神は私を大事にして下さる。
--聖書より--
【 その方(イエスキリスト)はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。】
二 コリント 5章 15節
【 神は、その独り子(イエスキリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
ヨハネ 3章16節
簡単な自己紹介
私はカトリックでしたが、70歳にもなって、今のカトリックが嫌になり(ボキャブラリーの無さから「嫌になり」と書きました)カトリック教会に行くのを止めました。いや行けなくなりました。妻もカトリックですが行けなくなりました。
私にとって、カトリックが、汚れが酷く、臭くなった。愛が憐れみが無いところとなった。イエス様がいないところとなった。
カトリック開南教会のベトナム人の若い神父らは、彼らが生まれる何十年も前に洗礼を受け、奉仕し、七転八倒して信仰を守って来た貧しい老人の私を虐めた。
沖縄は自動車社会である。ベトナム人の神父らは自動車を乗り回すのが好きなようである。東京の下町、自転車社会から来た私は自転車で教会に通っていた。
ある朝のミサが終わり、若いベトナム人の神父は、教会の出入り口の階段の上で、帰る信徒たちを見送っていた。彼は私の背後から頭ごしに私の前を歩く若いベトナム人のシスターにベトナム語で大きな声で話掛けた。シスターは振り向きもせず自動車のキーのフォルダーの輪っかに人差し指を入れ頭の上に高くかかげてその人指し指でキーをクルクル回しそれに答えた。そして自動車に向かって歩いて行った。ここは湘南か。神父は私を横目に見、笑い転げていた。ベトナム語で私の貧しさを嘲笑ったのである。
それが面白かったのか、その数日後の朝のミサの聖体拝領の時、その神父は、パンを私の手の上にパンを置くふりをして、私の手の平の上でその手を止めた。私が見上げたら、犬にでも餌をやるように欲しいのかと言ったふうだった。私が手を少し上げたら、パンを手の平の上に置いた。
神父が御聖体のパンをそのようにあつかったらカトリックは終わりである。御聖体のパンがただのパンとなった。
私は、何十年となく朝のミサを楽しんでいた。神の宮(教会)への坂道、ミサ、天からのパンを頂くこと、それらに喜びをもっていた。そのパンを頂くたびにイエス様を体現し、イエス様と親しく交わっていた。彼はそれを台無しにした。
私には、晩婚のこともあり子供がいない。ある朝のミサの後、その若いベトナムの神父は、教会の出入り口の階段の上から私に向かって、背後から「避妊しているのか」と大きな声で言った。
周りには、帰りがけの信徒やシスターがいた。それでなくても、自分の子供のような歳の若者に言われるのはキツイものがある。それも朝っぱらから。非常識である。
しばらくして、彼は去り後任に、同じくベトナム人の若い神父が来た。先のベトナム人の神父は相手が弱いと知るとトコトン虐める神父だったが、彼は自分の誉れや評判のためにその信徒が弱くかつ利用できると知るとトコトン利用する神父であった。策略を持って私を利用した。そのやり方は狡猾で、平和ボケした日本人の私にはあきれるばかりで赤子の手をひねるようにやられた。私の問題を知り何とかするからと問題の中身を聞かず電話番号と教会までどの位の時間で来れるかを聞き出した。話もろくに聞かず変なことを聞くなと思ったが、数日後の教会の作業に私を電話で呼び出した。教会に着いてみると、先に来ていた信徒らの前でこれで何人と指を折って見せていた。人徳があると言いたいようだ。七人の侍ではあるまいし、子供じみている。年寄りが若いのにコケにされ利用されたことを知った気持が分からないらしい。
またこの神父は、自分について「遠い所から来てやっているのに」と日本語で皆に聞こえるようにつぶやいた。日本語で言うのだからこう言うのを聞こえよがしと言うのだろう。本人が言う言葉ではない。こんなことを言う外国の神父には、初めて出会った。一人の古くからいる教会役員の信徒が私に「私はベトナム人が嫌いだ」と言った。
その後も、私の問題については、その神父は詳しい内容を知らないのだから何時になっても解決されていないままであった。適当に思い込み、自分用に適当に処理したのだろうか、それで約束を守ったと思っているのかもしれない。恩を売ったつもりなのかもしれない。その後も色々手伝わされた。教会の仕事は好きなので従った。彼には信徒のことより自分の評判しか関心が無いようだ。「右手のしていることは左手には知らせるな。」と言う御言葉を知らないようだ。
そのうち恩知らずというレッテルを私につけラッパを吹き鳴らすのであろうか。
教会の作業は数日続いたが、2、3日後だろうか教会に行ったら誰も作業をしてないので、教会に居た人に聞いたらその日は作業は中止とのことだった。それまで作業を一緒にしてた他の人達は知ってたようで知らないのは私だけの様だった。私も塾をやっていて暇ではない。こうゆう時は連絡をしない彼に腹が立った。そして帰った。
後日、教会の勉強会で、急に子供のいない老人の私に、何人もの信徒の前で創世記の「生めよ増えよ」の箇所を何度も私に読ませた。「もう一度」、「もう一度」、「もう一度」、小学生の子供もあるまいし、傷口に塩をぬるパワハラである。暴力であり日本では犯罪である。さらし者にされ、どんなに私が傷ついたか分からないのか。彼には人の気持ちを思う心が無いようだ。
その時、見かねたのか教会の事務員の女性が話の間に入ってくれて私をかばってくれた。
彼はまずいと思ったのか私の耳もとで「歳を取ってからこまらないように」と囁いた。私は「もう歳だよ」と言いたかったが止めた。
どうも彼ら若いベトナム人の神父らには、子供のいない夫婦は皆避妊していると思いこんでいるらしい。
東京では子供が欲しくてもできないで苦しんでいる夫婦が多くいる。その他色々な理由で子供のいない夫婦も多い。それを知らないで人を裁き罪人扱いをする。
皆の前でさらし者にする。彼らはどこまで子供のいない老人を虐めるのだろう。虐めるのが好きなのか。イエスのものである信者を。
子供のいない夫婦は、天に召されるまでカトリックでは罪人扱いされるのか。罪人としてさらし者にされるのか。
彼らは、私達人類の救いの為に十字架上で罪人としてさらし者にされたイエス様の気持ちが分かっているのか。それで神父か。
私の長年のカトリックの信仰生活を壊した罪は大きい。
教会に行けなくした罪は大きい。
また彼らには、信仰の先輩に対しての謙虚さや、年上の者に対する謙虚さが無い。年寄りに対するいたわりが無い。冷酷である。若いのに年寄りを上から目線で対する。
ベトナムが植民地であったせいもあるのであろうか。神父になると白人にでもなったつもりになっているのだろうか。若いのに威張っている。何故俺を敬わないのかと。
イエス様からは遠くなっている。原点に帰るべきだ。
その後何年か開南教会には行かなくなったが、 その間のことは、(「ラサール・パーソンズ神父との私の思い出」にあります)
後、日本の神父に変ったので、開南教会の朝のミサだけ行くことのした。
神のことに飢えていたので、神父に沢山質問した。
的確に答えてくれた。益であった。尊敬の念を覚えた。
しかしある時、彼らの行状を訴えたら、神父は信徒の味方だと思っていたが、神父は神父の仲間だった。
真、義、愛、信徒よりも仲間のほうが大事らしい。
彼らのしたことが普通じゃないことが分かってもらえない。
何を言っても無駄だと感じた。仲間なのだから。
無視されるようにあしらわれた。そして追い出しにかかったように私には思えた。上司に話したのかもしれない。ヒエラルキーの中にあっては神よりも上司が上なのである。私は疑心暗鬼となった。
いくら神父が足りないないからと言って、神父は信徒より大事なのか、神父は信徒に仕える者ではないのか、僕の僕ではなかったのか。
カトリックは変わったのか、私がアホだったのか。カトリックの特色である家族的な交わりが何処にもない。イエス様が言われた掟、愛が何処にもない。
また、カトリックの聖職者は、高慢の罪に陥る環境にあるのかもしれない。
先のベトナム人の神父らの言動とその心は、一つ残らず主がご存じである。
彼らのした行為は、主イエス様が命を捧げ、救った信徒に対してすることではない。彼らは神を恐れないのだろうか。
聖職者になったのは、他に目的があるのであろうか。
ただ確かなことは、彼らが聖職者になったがゆえに、信徒に対してした行為は厳しく裁かれ罰せられるであろう。
私は、主イエスに従い、彼らの私にした行為を全て許し、彼らの為に祈る。
良い神父になられることを祈る。
「神よ、彼らは何をしているか分からないのです。彼らをお許し下さい。」
主よ私の心を聖くして下さい。
主によって私の罪は許されたはずなのに、ここでは罪人として若い神父に嘲られる。ここにはイエス様がいない。愛が無い。わたしはここを去る。私は、振り向かず主に向かい、進むこととする。
イエス様(神様)は聖なる方である、愛なる方である、こんな所に居られようか。出る。
いくら神父がいないからと言って、後進国の神父の経験の浅い若い神父を先進国の教会に送り任せるべきではない。
信徒が減るばかりだ。なおなお神父になる人が減る。
私はここから逃げる。振り向いてはならない。イエス(神)聖なる方だけを見て走る。
カトリックを出ると決めて、なんの不安もないのに驚いた。主が共にいて下さるからだ。主の臨在を感じるからだ。主が御霊を限りなく下さるので、御霊に満たされている。何処にいても天への梯子が前にある。
イエス・キリストへの信仰、聖なる方への身近さ、親しさ、愛は昔も今も変わらない。信仰は、死から復活して天に居られるイエス様と変わらずに繋がっている。
羊は羊飼いの声が解るものだ。
しかし、信徒が教会に行けなようにした彼ら神父は実に酷いことを信徒にした。
彼らが生まれる何十年も前から教会へ行くことに喜びを持っていた年老いた信徒が教会に行けなくなった気持ちが彼らには分かるか。
帰るカトリックの教会が無くなった信徒の気持ちが彼らには分かるか。
新しい道。
復活して天におられるイエス様の導きに従い、聖書に学び、先人に学び、御霊にさとされて、祈りを大事にし、心を聖く保ち、神(父と子と聖霊)の愛を信じて共に歩むことにした。
私の霊名は、パウロです。それをカトリック小禄教会のラサール神父に言ったら、「宣教しなきゃ」と即私に言いました。(「ラサール・パーソンズ神父との私の思い出」参照)
90歳になろうとする神父が70歳になろうかとする老信徒にですよ。
驚きと共にやるっきゃないでしょうです。私の心に火が付きました。
しかし、ラサール神父には申し訳ないけど、カトリックは人にすすめられない。大変だけど、プロテスタントで行くつもりです。
私の目にはカトリックは終焉に向かっていように見える。愛の無いところにイエス様は居ない。
プロテスタントの新たな始まりである。新しい時代である。
モーセは80歳から働きました。それに比べたら私はまだ若い。
ましてや、永遠の命を既に得ているのですから、神の御心なら時間はたっぷりある。腰を落ち着けてやっていくつもりです。
イエス様は、復活して天に昇られ神の右の座に就かれたので、私達は何時でも何処でも誰でも、見上げればイエス様を拝することが出来る。
イエス様が天に居られ、御霊を下さるので、私は聖霊に満たされ、平安で、力と喜びに満たされています。
【 人の歩みは主によって確かなものとされ
その人の道を主は喜ばれる。】
詩編 37編 23節
まだ、何処の教団にも入っていません。
神父や牧師、伝道師のようにちゃんと学んだことはありません。そして年取った老人です。
ですからこのサイトの文は、日々更新されます。
最後に私がベトナムの人が嫌いなのかと勘違いされないように、また私が会ったベトナムの人達の名誉の為に下記を追加記述します。
昔、1975年ごろでしょうか、ベトナム人のボートピープルの人達が、私が住んでいた東京の品川区の近くにある図書館の上のワンフロアに何十人かが移って来ました。
公表はされませんでしたが、近所の人はだいたい、それらしいとうすうす知っていました。
そのフロアの全ての窓と言う窓が目張りされ何かに恐れているかのように昼も夜も音もなくひっそりとしていました。何年かそうであったと思います。近所の人達は哀れに思いできるだけちょっかいを出さないようにそっとしていました。
それから15年近くたったころ、その図書館の近くの教会の籍に私たち夫婦は移りました。
教会にはベトナム人が沢山いました。彼らは明るく元気でにぎやかで、私たち夫婦を受け入れてくれてくれました。この人たちは、あのボートピープルの人たちだったのです。ベトナムで肉屋をやっていたと言う老人は、日曜日に会うたびに立って私の手を両手で強く握ってくれました。子供がお腹にいる若夫婦もいました。会社を興した人もいました。イベントがあると女性は民族衣装を羽織り、フランスパンを使ったサンドイッチをふるまいました。美味しかった。このような交わりの光のような明るさは、喜びは、日本が彼らを受け入れ、愛をもって教会の信徒の人達が彼らを受け入れてくれた結果だと私は思いました。天国を垣間見た思いでした。
そこの神父は、ベトナム戦争の時、逃げて日本に移住したベトナムの方でした。立派な神父で、私の妻はプロテスタントでしたがカトリックに改宗させて下さいました。そしてマリヤと言う霊名を下さいました。私たち夫婦は、大変お世話になりました。尊敬する、また恩ある神父の中の一人です。
私たち夫婦はそこで何年か楽しく教会生活を過ごさせていただきました。
十数年後、沖縄に引っ越し、半年ほどコザの教会に通っていましたが、そこもベトナムの若い神父でした。私たちが貧しいことをしって、ミサの帰りには信徒にもらった惣菜を口に合わないのでといって、他の信徒には見えないようにこっそりと毎週ミサの後、渡してくれました。そのころ私は暇だったので、お礼として錆びた教会の門にペンキを塗ってあげることにしました、錆を削り、錆止めを塗り、白いペンキを塗りました。素人なので2週間ほどかかってしまいました。沖縄の炎天下はキツイ。でも主が共に居られました。
沖縄は自動車社会ですが、東京の下町の自転車社会から来た私はその教会へはバスで通っていました。作業の帰りには、神父が何時も住んでいた北谷まで自動車で送ってくれました。門のペンキ塗りが完成したら、神父は大きな魚を買って来てくれて、その魚の中に教会の庭で育てたと言うベトナムのハーブを詰めたベトナム料理を調理して御馳走してくれました。帰りがけには、飲まないのでと言って、お酒を何本もらいました。
このように何人ものベトナムの人との付き合ってきた私は、ベトナムの方に好印象をもっていました。だから、私に酷い仕打ちをした、カトリック開南教会のかの若い神父らが同じベトナム人とはとても思えないのです。
何かがおかしい。
教会で神の国を作ろうとせず、分断、差別、地獄を作る。
彼らのしていることは、反神の国であり、反キリストである。
「仕えられる為に来たのではなくて、仕える為に来たのではなかったか」
神父が信徒を教会に行けなくする。
教会に集えなくする。
これほど馬鹿な話は無い。
カトリック小禄教会に通っていた時、そこにベトナムの若いシスターが来た。教会の婦人らがベトナムではシスターになると金持ちと結婚できると言うのでなるので直ぐ止めるからベトナムのシスターはだめなんだ。と話していた。ほんとうだろうか。かの若い神父らも違う目的でなったのだろうか。時がたてば分かることだが。まったく私には異次元の世界だ。
神父によるパラハラの後、私は教会に行けなくなり、1年間病気をしたり精神的に弱りして家で寝転んでいた。その後2年間那覇のプロテスタントの教会を4つほど見て回った。何処もウェルカムだった。カトリック開南教会から来たと言う20代の若い信徒にも2名ほど出会った。何があったのだろうか私おも含めて哀れである。その後カトリックのミサが恋しくなってカトリック小禄教会に行った。主は傷んだ葦であった私にラサール神父を合わせて下さった。私は癒され力を受けた。そこでのことは、「ラサール・パーソンズ神父との私の思い出」を見てく下さい。
そして、その後この「70歳からの福音伝道」を作成しはじめました。
これらのことを書いたのは、カトリック信徒で子が無かった昔の友人夫婦、その他私の知らない多くの子の無いカトリック信徒の夫婦の為にもこのことを書きました。
それと余りにも無視されるので書きました。カトリックのお問合わせにメールを送っても何年まっても返信の一通もない。
カトリックは私達子供がいない信徒を罪人として見ているのか? 差別しているのか? 迫害してもいいのか? 信徒の仲間と考えていないのか? と言うことです。
また、彼らの行為は人間の尊厳を無視した行為である。
そればかりか、先のミサにおいて御聖体を犬や猫に餌をよるように信徒にした行為は、カトリックの根幹に関わることである。
後から思えば彼らは、私達信徒を最初から劣った者と見ていたような気がする。
言葉のはしはしから感じられる。
彼らを教育した者がそうであったのであろう。
--聖書より--【 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。
互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。
キリストは
神の形でありながら
神と等しくあることに固執しようとは思わず
かえって自分を無にして
僕の形をとり
人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ
へりくだって、死に至るまでそれも十字架の死に至るまで
従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって
天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが
膝をかがめ
すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して
父なる神が崇められるためです。】
フィリピ 2章 3ー11節
もう彼らとは付き合わず、静かな信仰生活を私は送る。主が再臨される日を待つ生活を送る。
イエス様との聖なる交わりにはいろう。
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クリスチャンで小説家の三浦綾子夫妻には、子供がいない。
夫妻は妻の病弱な体を理由に子がないことを選択した。
これらは有名な話である。
夫妻はプロテスタントで熱心な信者であることは周知の事実である。
カトリックでは彼ら夫妻を罪人と見るのか。
カトリックには選択の自由がないのだろうか。
つづく・・・
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つづく・・・
つづく・・・