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 70歳からの福音伝道

(福音とは、神様からの良い知らせのことです)



    神の独り子イエスにより
    私の罪と死は無くなった

十字架

 私は、神学校でちゃんとした勉強をしたこともなく勿論神父、牧師、伝道師でもありません。
主にコンピューターのソフトの開発をしてきた、ただの年老いた労働者です。
イエス様が大工、十二使徒の何名かが漁師であったように。
ましてや、この間までカトリックでした。70歳にもなって嫌になり辞めました。
今はまだ何処の教団、教会にも属してはいません。
私の救いの為と、福音(神の良い知らせ)をまだ知らない人の為に、このページを記述することにしました。

その様な訳で、下記文は、思索しつつ主に気づかされつつ書いていますので、日々更新されます。


目次



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    1. 罪と死について

      貴方の心のふところに有るドスは、罪です。
        そのドスは、貴方の周りの人を傷つけ、
        貴方自身をも傷つけます。
      そして、貴方を虚無と絶望に追いやるのは、その罪の結果である死です。

      初期キリスト教の使徒パウロは、罪と死について下記のように言っています。
      --聖書より--
      【 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。】
        ローマ 5章 12節

      この一人の人とは、人間の始祖アダムのことです。アダムが神がするなと言ったことをしたので、罪が世に入ったのです。その罪が今の人に至るまですべての人に受け継がれ、それによりすべての人が罪を犯し、その結果、すべての人が死ぬのです。

      人は、善を知る者として神のかたちに創られましたが、
      内にある罪は、弱いものをいたわるのではなく虐め。隣人を愛するのではなく呪い。与えるのではなく奪い。貪る。隣人を生かすのではなく、殺す。平和ではなく争い略奪。罪は、人類に何千年、何万年となく戦争をさせました。そして、今も。
      罪は、樹木を刈り尽くし、生き物を追いやり殺し、絶滅させ、家に家を建てつなれ、海はゴミ捨て場と化しました。
      そして、人は「きれいになったでしょう」と口を拭うのです。

      罪が人を人類をその様にさせているのです。

      この世が創られた時は良かった。神は全てを良しと言われた。
      --聖書より--
      【 初めに神は天と地を創造された。
      地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
       神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
      神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、
      光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
       神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。」
      神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。
      神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
       神は言われた。「天の下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ。」そのようになった。
      神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神は見て良しとされた。
       神は言われた。「地は草木を生えさせよ。種をつける草と、種のある実を結ぶ果樹を、それぞれの種類に従って地上に生えさせよ。」そのようになった。
      地は草木を生じさせ、種をつける草をそれぞれの種類に従って、種のある実をつける木をそれぞれの種類に従って生じさせた。神は見て良しとされた。 夕べがあり、朝があった。第三の日である。
       神は言われた。「天の大空に、昼と夜を分ける光るものがあり、季節や日や年のしるしとなれ。
      天の大空に光るものがあって、地上を照らせ。」そのようになった。
      神は二つの大きな光るものを造られた。昼を治める大きな光るものと、夜を治める小さな光るものである。また星を造られた。
      神は地上を照らすため、それらを天の大空に置かれた。
      昼と夜を治めるため、光と闇を分けるためである。神は見て良しとされた。 夕べがあり、朝があった。第四の日である。
       神は言われた。「水は群がる生き物で満ち溢れ、鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
      神は大きな海の怪獣を創造された。水に群がりうごめくあらゆる生き物をそれぞれの種類に従って、また、翼のあるあらゆる鳥をそれぞれの種類に従って創造された。神は見て良しとされた。
      神はそれらを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地に増えよ。」
      夕べがあり、朝があった。第五の日である。
       神は言われた。「地は生き物をそれぞれの種類に従って、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれの種類に従って生み出せ。」そのようになった。 神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て良しとされた。
       神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
       神は人を自分のかたちに創造された。
       神のかたちにこれを創造し
       男と女に創造された。
       神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」
       神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。
      また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。」そのようになった。
      神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
       こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。
      第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。
      神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。】
        創世記 1章1節ー2章3節

      また、大事なことは、罪の結果、貴方は必ず死ぬと言うことです。
      しかし、人は死で終わりではないのです。
      神は生きておられます。貴方のした罪を決して忘れません。
      神は罪のゆえに貴方を必ず罰します。そして、地獄に落します。

      しかし、貴方を創られた神は、愛する貴方が滅びるのを忍びないのです。
      ゆえに神は、恵みと義の賜物である神の独り子イエス・キリストを世に遣わしました。
      彼を信じる者が、罰せられず死なないように。

      神は正しい方です、罪人は必ず罰せられ死ななければなりません。 貴方を愛する神は、貴方の罪と死を御子に負わせ罰し葬りました。そして、御子は3日目に死から復活しました。 御子を信ずるならば、御子の十字架と死は貴方のこととなり、御子と共に復活し、罪のない新しい人として生まれ変わるのです。
      罪と死から解放され、永遠の命を頂くには、ただイエス・キリストを私の救い主と信じるだけでいいのです。
      これは神ゆえになせる御業です。人の目には驚くべきことです。
      貴方は、神が御独り子を十字架に架けて死なせるほど神に愛されています。

      --聖書より--
      【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
      御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

        ヨハネ 3章 16節

      神の救いの御業について、パウロは次のように言っています。
      --聖書より--
      【 しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。
      この賜物は、一人の犯した罪の結果とは異なります。裁きの場合は、一つの過ちであっても、罪に定められますが、恵みの場合は、多くの過ちがあっても、義と認められるからです。
      一人の過ちによって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストを通して、命にあって支配するでしょう。
      そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
      一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
      律法が入り込んで来たのは、過ちが増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。
      こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。】
        ローマ 5章 15-21節

      また、罪については、律法とからめて下記のように言ってます。

      (補足:律法とは、
      神が奴隷から解放した選民ユダヤ人に、モーセを通して渡された、法律、戒め、である、十戒をいいます。)

      --聖書より--
      【 確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。
      しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。】
        ローマ 5章 13節

      【 では、何と言うべきでしょうか。律法は罪なのか。決してそうではない。
      だが、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が「貪るな」と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。
      しかし、罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こしました。律法がなければ罪は死んでいたのです。
      私は、かつては律法なしに生きていました。しかし、戒めが来たとき、罪が生き返り、
      私は死にました。命に導くはずの戒めが、私にとっては死に導くものとなりました。
      罪が戒めによって機会を捉え、私を欺き、その戒めによって私を殺したのです。
      実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです。
      それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによって私に死をもたらしました。こうして、罪は戒めによってますます罪深いものとなりました。
      私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。
      私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
      もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
      ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
      私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
      自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
      それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
      内なる人としては神の律法を喜んでいますが、
      私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
      私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。】
        ローマ 7章 7-24節

      罪と死からの救いをパウロは下記の様に言っています。

      --聖書より--
      【 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
       従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。
      キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
       律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
      律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
      肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思います。
       肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。
      なぜなら、肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです。
      肉の内にある者は、神に喜ばれることができません。
       しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
      キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。
      イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう。  それで、きょうだいたち、私たちは、肉に従って生きるという義務を、肉に対して負ってはいません。
      肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
      神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。
      あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
      この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。
      子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、 共に栄光をも受けるからです。
       思うに、今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません。
      被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます。
      被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。
      それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。
      実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。
      被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。 私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。
      まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。
       霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。
      人の心を見極める方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って聖なる者のために執り成してくださるからです。
      神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。
      神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。
      神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。】
        ローマ 7章25節-8章30節





      つづく・・・



    2. 福音とは

      --聖書より--
      【 この福音は、神が聖書の中で預言者を通してあらかじめ約束されたものであり、
      御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
      聖なる霊によれば死者の中からの復活によって力ある神の子と定められました。この方が、私たちの主イエス・キリストです。】
        ローマ 1章 2-4節

      --聖書より--
      【 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。
      神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。】
        ローマ 1章 2-4節



      つづく・・・




    3. 光について

      光は、ほんのちょっとの隙間があるだけで、暗い部屋を明るくする。
      イエス様もほんのちょっと受け入れるだけで、貴方の心は明るくなる。
      さらに、貴方は周りを明るくする。

      --聖書より--
      【 イエスは再び言われた。
      「私は世の光である。
      私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」】
        ヨハネ 8章 12節



      つづく・・・




    4. 人のおもな目的は

      ヒントとして下記のようなものがあります。

      「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし永遠に神を喜ぶことです。」
        ウエストミンスタ―小教理問答書 より。

      ウィキペディアより、
      ウェストミンスター小教理問答、は、1640年代にイングランドとスコットランドの神学者によって書かれた小教理問答である。ウェストミンスター会議は、この教理問答と、ウェストミンスター信仰告白、ウェストミンスター大教理問答を作成した。これらの3文書は、プロテスタントの偉大な教理の宣言であるとみなされている。

      この文を記述することができる根拠は、何処にあるのだろう。
      人間を創った神が、人間にお渡しになった人間ついてのマニュアル、聖書に書かれているから、と言うことです。

      --聖書より--
      【 初めに神は天と地を創造された。】
        創世記 1章1節

      【 神は人を自分のかたちに創造された。
      神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。】
        創世記 1章 27節

      人間を創った神が、創った人間に、マニュアルを渡さないことがあるでしょうか。
      人間でさへパソコン、携帯などを作れば、その使い方、マニュアルを書いて使う人に渡します。
      まして、人間の創造主神が、人間とは何なのか、どの様に生きたらいいのか、その他仕様を書いて、人間に渡さないことがあるでしょうか。

      人間以外の生物には、生き方は、本能として書かれています。
      人間は、本能以外に「神のかたちに創造された」ので理性で、神と向き合って、自分とは何なのか、どの様にいきるのか、生きているこの世はどんなところなのか、死んだら何処に行くのか、その他必要なことを人間のマニュアル聖書でもって知るのです。人間だからです。
      もう一度いいます。神がですよ、人間を創った神が、創った人間に、マニュアルを渡さないことがあるでしょうか。

      そういうわけで、これから聖書を基に、この世とは、私とは、などなどひも解いていきましょう。

      「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし
      とはどう言うことでしょう。

      残念ながら、「神の栄光をあらわし」と言っても、人間には、原罪があるので神の栄光をあらわすことはできません。
      原罪があるので、人は光のない出口のない暗闇の中で、神の栄光とは何なのかすら知らず、
      生まれたらいいが、ただ七転八倒して生き、そして死ぬのです。

      原罪について
      ウキペディアによると、
        「原罪とは、アダムとイヴから受け継がれた罪のこと。」
      とあります。

      また、パウロは、原罪を持つ人間の惨めさを下記のように言っています。
      --聖書より--
      【 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。】
        ローマ 5章 12節

      パウロは、人は罪があるので、人は死ぬのだ。と言っています。
      また、罪については、律法とからめて下記のように言ってます。

      (補足:律法とは、
      神が奴隷から解放した選民ユダヤ人に、モーセを通して渡された、法律、戒め、である、十戒をいいます。)

      --聖書より--
      【 確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。
      しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。】
        ローマ 5章 13節

      --聖書より--
      【 では、何と言うべきでしょうか。律法は罪なのか。決してそうではない。
      だが、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が「貪るな」と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。
      しかし、罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こしました。律法がなければ罪は死んでいたのです。
      私は、かつては律法なしに生きていました。しかし、戒めが来たとき、罪が生き返り、
      私は死にました。命に導くはずの戒めが、私にとっては死に導くものとなりました。
      罪が戒めによって機会を捉え、私を欺き、その戒めによって私を殺したのです。
      実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです。
      それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによって私に死をもたらしました。こうして、罪は戒めによってますます罪深いものとなりました。
      私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。
      私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
      もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
      ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
      私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
      自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
      それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
      内なる人としては神の律法を喜んでいますが、
      私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
      私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。
      私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。】
        ローマ 7章 7-25節


      原罪を持つ人間そのままではあらわせない。
      まず、イエス様を神の子救い主と信じてみる。
      それからのことは、下記の様に、聖書では表現しています。

      --聖書より--
      【 また、イエスは言われた。
      「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、
      夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
      地はおのずから実を結ばせるのであり、初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる。
      実が熟すと、すぐに鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

      また、イエスは言われた。
      「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
      それは、からし種のようなものである。地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
      蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」】
        マルコ 4章 26-32節

      【 また、別のたとえをお話しになった。
      「天の国は、パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの小麦粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ。」】
        マタイ 13章 33節
      補足:サトンとは、当時の容量の単位。1サトンは12.8L、3サトンは37.6L。随分多くの小麦粉ですね。その中にパン種を少しいれるだけでとてつもないおおきさになるとの意味です。

      ただイエス様を信じればいいのです。
      まったく神のなせる業です。

      せっかく天からの信仰をこの土の器に頂いたのだから、
      大事にしなければなりません。
      良く実をむすぶ為に、イエス様は下記の様な注意をたとえで話されました。

      --聖書より--
      【 イエスはたとえを用いて多くのことを語られた。
      「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
      蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
      ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。
      しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
      ほかの種は茨の上に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった。
      ほかの種は良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。
      耳のある者は聞きなさい。」】
        マタイ 13章 3-9節

      【「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
      誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
      石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、
      自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
      茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を塞いで実を結ばない人である。
      良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、実に、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」】
        マタイ 13章 18-23節

      信仰を大事にして、生きていきましょう。
      神の国が自分の内にどんどん広がり、喜びと希望が溢れ、他の人も憩う者ともなるでしょう。

      次に、
      永遠に神を喜ぶこと とはどう言うことでしょう。
      イエス様を喜ぶと言うことです。

      --聖書より--
      【 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。
      すると、雲の中から、
      「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」
      と言う声がした。】
        マタイ 17章 5節

      神様がイエス様を
      「これは私の愛する子、私の心に適う者。」
      と喜んでおられます。
      「心に適う」はヘブル語で、「喜ぶ」という意味でもあります。
      ですから、神を喜ぶとは、神が喜んでおられるイエス様を神と一緒に喜ぶことです。

      では、イエス様とはどんな方でしょうか。
      イエス様はご自身んについては、聖書が証していると言われました。

      --聖書より--
      【 聖書は私について証しをするものだ。】

        ヨハネ 5章 39節
      とイエス様は、言われました。

      ですから、聖書を読んで、イエス様の歩まれた道をイエス様と一緒に訪ね、知って、神様と一緒にイエス様を喜んで行きましょう。

      イエス様は、死から復活したので永遠に生きておられる方です。
      イエス様を信じた私達もその復活に預かり永遠に生きれるのです。
      ですから、永遠に神様(イエス様)を喜ぶことが出来るのです。
      また、喜ぶとは楽しむと言うことでもあります。
      皆で楽しめたらどんなに喜べるでしょう。
      しかし、今は終末が近いのでしょうか、年老いた貧乏人の私が行く教会がない。

      終末のしるし
      --聖書より--
      【 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
      イエスは言われた。「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」
       イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
      イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
      私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
      戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。
      民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
      しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
      その時、人々は、あなたがたを苦しみに遭わせ、殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての民に憎まれる。
      その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
      また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。
      不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
      しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
      そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」】
        マタイ 24章 1-14節


      つづく・・・




    5. 人間のマニュアル、聖書

      --聖書より--
      【 神は人を自分のかたちに創造された。
      神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。】
      創世記 1章 27節

      人間を創った神が、創った人間に、マニュアルを渡さないことがあるでしょうか。
      人間でさへパソコン、携帯などを作れば、その使い方、マニュアルを書いて使う人に渡します。
      まして、人間の創造主神が書いて、人間に渡さないはずがありません。

      携帯をより良く使うには、その能力を最大限発揮させるには、その携帯のマニュアルを読むことです。そして従うことです。
      同じように、人間もより良く生きるには、自分の能力を最大限発揮させるには、人間のマニュアルである聖書を読むことです。そして従うことです。

      また、マニュアルにはしてはいけないことが書かれてあります。 例えば、携帯を金槌がわりにつかってはいけませんね、必ず壊れます。
      人間のマニュアルである聖書にも、してはいけないことが書かれてあります。それをすると不幸になるから、死ぬから、などが書かれてあります。

      はっきり言います、貴方は人間です。間違いなく人間です。
      だから、人間を創った神が、人間に渡されたマニュアル、聖書を読みましょう。
      今、生きる意味が分からなかったり、生きる力がなかったら、自分のマニュアル聖書をまずよみましょう。
      もしも、貴方が今不幸であったら、七転八倒するほどどうしたら良いか分からなかったら、涙を流しながらで良いんです、聖書を読みましょう。神は生きておられます。貴方を創った神は、貴方を愛おしいほど愛しています。神は生きておられます。良い方向に導いて下さいます。さあ、貴方を創った神を見上げましょう。幸福になりましょう。
      自分を創ったかたの話を聞きましょう。
      聖書は、人間のマニュアルなのだから、必ず答えが与えられます。
      幸せになりましょう。
      貴方は幸せになるために生まれたのです。
      自分を創った神に感謝し、喜んで生きるために、神は貴方を御創りになったのです。

      神は、貴方の名を手に刻むほど愛しています。
      --聖書より--
      【 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。
      自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。
      たとえ、女たちが忘れても
      私はあなたを忘れない。
      見よ、私はあなたを手のひらに刻みつけた。】
      イザヤ 49章15-16節

      聖書は、66巻からなります。
      約1500年にわたって書き継がれてきたものです。
      書いた人の数は、約40人です。
      王様や祭司、政府の高官、漁師、羊飼い、医者・・・様々な職業の人によって書かれたものです。
      しかし、聖書は、初めから終わりまで不思議な統一性があります。
      何故かというと、彼ら著者の背景に本物の著者がいるからです。
      それが神です。
      神がそれら40人の著者を導き、彼らの個性を生かし、各書を執筆させたのです。
      それゆえ、聖書には統一性と一貫性があるのです。
      こんなのが他に有りますか。

      【 聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。
      こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。】
      二 テモテ 3章16-17節

      書き方は数学的に書かれています。
      すなわち人間が理解しやすいように書かれているのです。
      始めに変わらないことが書かれ、そこから付随したことがらが、出来事が木の枝、木の根のように順序よく書かれています。フラクタル、樹形です。
      聖書は樹形の構造をもって書かれています。

      聖書の始めは、
      【 初めに神は天と地を創造された。】
      創世記 1章1節
      から始まります。

      人間の罪と不幸の始まり。
      原罪を持つ人間の悲惨な人の世の話。 そこからの救い主がお生まれになるまでの話。
      救いの時の話。
      世の終わりの話。
      新しい天と地の話。

      救い主、イエス様の誕生までのことも、
      初めの人アダムからアブラハム、ダビデ、イエス、系図でもって順序良く書かれています。
      そして、私達日本人もクリスチャンとして新しく生まれ変わるなら、信仰による神の民としてその系図の中に組み込まれます。
      よって、アダムから現代の私たちまでの系図を聖書を追って読むことによって、私が誰なのか、何処から来たのか、何処へ行くのかがわかるのです。

      人の人生も、 人の生まれ。
      人の原罪による暗闇の人生。
      人の救い。
      人の光と希望の人生。
      人の死。
      人の復活。
      人の新しい天と地への移動。
      と順序良く書かれています。

      実に聖書は、貴方のことが書かれているのです。

      この系図には、当然多くの登場人物が現れます。信仰の系図に照らせば、彼らは貴方のお祖父さん、御婆さんです。
      ですから良いとこも悪いところも貴方ににています。
      お祖父さん、あんたもやっちまったか。です。
      また、今艱難にあるなら、にたような艱難にあった貴方のお祖父さんがいたことを知るでしょう。
      そして、それらを、私のお祖父さんは、どのように解決したかが分かり、参考になります。
      また神は、貴方の多くのお祖父さん御婆さんを、愛し、守り導いて下さったことを知るでしょう。あなたもそうなるでしょう。
      ですから、聖書を読み、愛なる神を信じて生きると、楽天家になるのです。
      神が創られた世界は、素晴らしい。美しい。そして多くのお祖父さんや御婆さんに囲まれて、愛されて、貴方は幸せもんだ。
      人生は、素晴らしい。


      以前こんな話を聞いたことがあります。
      ある人が、亡くなる前にベットで召使に本を持ってくるように頼みました。
      彼は本を沢山持っていたのでしょう。
      召使が「どの本をお持ちしましょうか?」と尋ねました。
      主人は「本といったら聖書だろう。」と答えました。
      そうです。聖書は、本の中の本なのです。



      つづく・・・



    6. 福音の枝葉


      • だれでも渇いているなら

        お盆の夜、公園の方から、遠くエイサーが聞こえた。
        コロナ禍の中、何年ぶりだろう。
        しばらく聞いていた。
        エイサーは消えた。
        家の前を「エイサー」と叫ぶ幼い娘の声と、家族ずれの声が聞こえた。
        それも遠くへ消えて行った。

        --聖書より--
        【 祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。
        「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。
        私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」
        イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。】
          ヨハネ 7章 37-39節



      つづく・・・



    7. この世とは

      --聖書より--
      【 初めに神は天と地を創造された。】
        創世記 1章1節

      この世は、神が創られたもの、神が創られたところです。

      また、この世には、
      始まりがあり、終わりがあるとのことです。
      始まりは、聖書の最初の巻、創世記に記述されています。
      終わりは、聖書の最後の巻、黙示録に記述されています。
      その間の巻を含め全66巻がこの世の歴史です。人の世の歴史です。

      科学的な宇宙の概念は、専門外ですので正しくないかもしれませんが、
      知るうる範囲では、こうです。
      銀河間は、遠くへ行けば行くほど広がって行くことが知られています。さらに、遠くの銀河ほど速く地球から遠のいていることが観測されています。
      そこから、宇宙は膨張していると考えます。
      時間を逆に戻すと、銀河は収縮していくので、宇宙の始まりは、大きさがゼロ、重力の大きさは無限大の小さな一つの点になります。
      その点を特異点と言います。またの名をビックバンと言います。
      さらにその特異点は、ブラックホールの中心にもあることが知られています。
      そして、宇宙の空間の中には、ブラックホールは無数にがあります。
      ・・・・・
      これからも宇宙に関しては、色々な発見や理論が出てくるでしょう。
      永遠に人間が探求しても果ては有りません。
      何故なら神が御創りになったからです。
      ですから、数学や物理の学問も果てが無いのです。神が御創りになったものを対象にしているからです。私の意見では途中で止めた方がよいと思う。もっと大事なものを探求した方が良いと思う。
      若い時はそう長くはない。人生は一度しかない。

      --聖書より--
      さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。
      彼女にはマリアと言う姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。
      マルタは、いろいろともてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。
      「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
      主はお答えになった。
      マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。
      しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。

      それを取り上げてはならない。」
        ルカ 10章 38-42節


      また、科学者が論じているこの世は、光や電磁波も含めて物質のみの様です。 聖書が論じているこの世は、物質、空間を含むそれ以上大きなものです。見えないもの、触れないもの測れないものを含む大きなものです。

      神には、初めも無く、終わりも無い、常にいる方です。

      --聖書より--
      【 さあ行け。私はあなたをファラオのもとに遣わす。私の民、イスラエルの人々をエジプトから導き出しなさい。」
      モーセは神に言った。「私は何者なのでしょう。この私が本当にファラオのもとに行くのですか。私がイスラエルの人々を本当にエジプトから導き出すのですか。」
      すると、神は言われた。「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えることになる。」
      すると、神は言われた。「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えることになる。」
      神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」】
        出エジプト記 3章 10-15節

      私達は、この様な世界に暮らしていますが、
      私達にとって、この世とは何かと問うた時、
      【初めに神は天と地を創造された。】
      と言う原因と結果だけで十分なのです。

      なぜならば、
      140億年前のビックバンや、それ以前のこと、140億光年の先の宇宙のことなどを知ったとて、
      たかだか、多く生きても120歳程度しか生きない人間に何の関係があるでしょうか。
      人は今日か明日、または数年後 必ず死ぬのですから。
      そんな高邁なことよりも、今日明日の糧、親、兄弟、子供達、隣人との関係にシックハック、七転八倒している様です。

      --聖書より--
      【 主は言われた。
      「私の霊が人の内に永遠にとどまることはない。人もまた肉にすぎない。その生涯は百二十年であろう。」】
        創世記 6章 3節

      【 私たちのよわいは七十年
      健やかであっても八十年。
      誇れるものは労苦と災い。
      瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。】
        詩編 90篇 10節
      しかし、人間は、空を見上げます。永遠を思います。

      --聖書より--
      【 天の下では、すべてに時機がありすべての出来事に時がある。
      生まれるに時があり、死ぬに時がある。
      植えるに時があり、抜くに時がある。
      殺すに時があり、癒やすに時がある。
      壊すに時があり、建てるに時がある。
      泣くに時があり、笑うに時がある。
      嘆くに時があり、踊るに時がある。
      石を投げるに時があり、石を集めるに時がある。
      抱くに時があり、ほどくに時がある。
      求めるに時があり、失うに時がある。
      保つに時があり、放つに時がある。
      裂くに時があり、縫うに時がある。
      黙すに時があり、語るに時がある。
      愛するに時があり、憎むに時がある。
      戦いの時があり、平和の時がある。

      人が労苦したところで、何の益があろうか。
      私は、神が人の子らに苦労させるよう与えた務めを見た。
      神はすべてを時に適って麗しく造り、
      永遠を人の心に与えた。
      だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。】
        コヘレト 3章 1-11節


      人間にとって必要なことは、140億年前のことや、140億光年遠くのことなどよりも、
      今生きているこの世は、何なのか。私は、何なのか。私とこの世の関係は何なのか、私と今生きている人との関係は何のか、そして私は死んでどこに行くのかです。
      そして、それが聖書に書かれているのです。

      私は【初めに神は天と地を創造された。】の神のことばに、物凄い神の愛を感じます。
      地球の太陽からの距離が少しでも、近かったら太陽の高温にさらされ動植物は、生きられません。
      反対に少しでも遠かったら極寒の星になってやはり動植物は、生きられません。
      地球の位置が今よりも太陽に近くなれば、金星の様になり、遠くなれば、火星の様になるのです。
      また、地球の大きさも丁度良く、もう少し大きかったら、重力が大きくなり人は立ってはいられないでしょう。隕石は、絶え間なく降り、小惑星も引き寄せるでしょう。
      反対に今よりも地球が小さかったら、動植物も人間も今の形や大きさではないでしょう。それどころか、水を地球に引き留めておく引力が無くなり、水は宇宙に飛び散り干からびた地になります。大気も無くなり太陽からの紫外線がまともに地に当たるので生物は、生きてはいけないでしょう。
      自転のスピードや地軸の傾き、月の存在で、地球には季節が有り、海には満ち引きが有って水はかき回されて濁ることがありません。
      また、海のおかげで地球の温度の変化は生き物が住めなくなるほどにはなりません。
      この様な地球は、このだだっ広い宇宙にはそうは無いでしょう。
      人はこれを奇跡といいますが、神がなさることは全てが奇跡です。
      神様って最高って叫びたくなります。
      そして、この神様の創造の素晴らしさは、神の存在を信じると更に見えて来ます。

      --聖書より--
      【 信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えるものからできたのではないことを悟ります。】
        ヘブライ 11章 3節

      【 太陽よ、月よ   主を賛美せよ。
      輝く星よ、こぞって  主を賛美せよ。
      天の天よ
      天の上にある大水よ  主を賛美せよ。
      主の名を賛美せよ。
      主が命じ、それらは創造された。
      主はそれらを代々とこしえに立て
      掟を与えて、それが消えうせないようにした。

      地上から       主を賛美せよ。
      海の竜たちよ、すべての深淵よ
      火よ、雹よ、雪よ、霧よ
      御言葉を成し遂げる激しい風よ
      山々よ、すべての丘よ
      実を結ぶ木よ、すべての杉の木よ
      生き物よ、すべての獣よ
      地を這うものよ、翼ある鳥よ
      地上の王たちよ、すべての民よ
      高官たちよ、地上のすべての支配者よ
      若者もおとめも
      老人も子どもも共に。
      主の名を賛美せよ。
      御名はひとり高く
      その威厳は地と天の上にある。】
        ヘブライ 148章 13節

      さらに聖書では、
      この世には、終わりがあるということです。
      終わりは黙示録に書かれてあります。
      人はこれを終末といいますが、聖書にはこの世の終末は、次の時代の始まりとあります。
      人の死は、個人的な終末でもあります。
      しかし、神の子イエス・キリストを信じるものには、死は次の世へ入る単なる門にすぎないとあります。


      --聖書より--
      【 地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
      神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
      神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、
      ・・・・ 】
        創世記 1章 2- 節

      混沌とした中へ、神は「光あれ」と言われ光を創り、それから素晴らしいものを次々と創られた。
      よって、神は秩序を好むとも言える。
      ゆえに、人類をそのまま許したいが、御子を遣わし人類の罰を受けさせ死んでけじめをつけられた。
      十字架を神の「愛と義の十字架」と言う根拠がここにある。

      また、神が「光あれ」と最初に言われ、この世界を創ったように。
      イエス様がこの世界に来られた時を、

      --聖書より--
      【 こうして、預言者イザヤを通して言われたことが実現したのである。
      「ゼブルンの地とナフタリの地湖沿いの道、ヨルダン川の向こう異邦人のガリラヤ

      闇の中に住む民は
      大いなる光を見た。
      死の地、死の陰に住む人々に
      光が昇った。

      その時から、イエスは、
      「悔い改めよ。天の国は近づいた」
      と言って、宣べ伝え始められた。

        マタイ 4章 14-17節

      と創世記と同じように言っている。
      イエス様が来られたことは、新しい世界、神の国が始まったことでもあるのです。

      そして、イエス・キリストを信じ従えは、誰でもこの新しい神の国に入れるのです。

      イエス様は、復活して弟子達に現れ下記の様に言われた。

      --聖書より--
      【 イエスは、近寄って来て言われた。
      「私は天と地の一切の権能を授かっている。
      だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。
      彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
      あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。
      私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】
        マタイ 4章 14-17節

      ですから、この世のことばかりにかかずってばかりいてはダメなのです。

      --聖書より--
      【 「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

      「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
      空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。
      あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。
      なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。
      しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
      今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。 まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、 信仰の薄い者たちよ。
      だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。
      それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。
      まず神の国と神の義とを求めなさい。
      そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。
      だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。
      その日の苦労は、その日だけで十分である。」】
        マタイ 6章 24-34節



      つづく・・・



    8. この世の真の歴史(ハイル ヒストリー)

      この世を創った神には、また人間を創った神には、この世について、人間についての計画があります。
      神の計画は必ずなります。人の営みの全ては、ただこの神の計画の中で、しているだけです。
      これが、ハイル ヒストリーです。
      人類の祖先、アダムとエバから今日に至るまで、さらにこれからのことについて、
      この世を創った神は、人間を創った神は、人間に聖書を通して、親切にもこの神の計画をハイル ヒストリーを教えています。
      神は愛なる方です。父なる神が人に前もって教えないはずがありません。
      人間は、このハイル ヒストリーの中で、生きているのだから、これを常に意識して、それに沿って生き、計画をたて人生を営むべきです。
      明日、台風が来るよと分かっているなら、それに備えるでしょう。
      聖書では、今は救いの日、恵みの日と言っています。そしてもうすぐ終末が来て、新しい天と地が来ると言っています。
      それらを良く知り、準備すべきです。
      より良く生きるとはそういうことでもあります。
      これを持ってしても、聖書を読むことは、学ぶことは人間にとっていかに重要なことかが分かるものと思います。

      ・この世の始まる前のことについて
      この世の者にとっては、まったく時空ご超えたもの、超えたところ。
      理解しがたいところである。
      この世以外についても同じことが言える。


      ・この世の始まりについて
      【 初めに神は天と地を創造された。】創世記 1章1節
      ゆえに、この世は、天と地からなる。
      地は、私達が生きているところ。
      天は、イエス様が復活して、昇られたところ。

      全ては神のことばによって出来た。 全ては良かった。
      --聖書より--
      【 地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
      神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
      神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
      光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
       神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。」
      神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。
      神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
       神は言われた。「天の下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ。」そのようになった。
      神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神は見て良しとされた。
      神は言われた。「地は草木を生えさせよ。種をつける草と、種のある実を結ぶ果樹を、それぞれの種類に従って地上に生えさせよ。」そのようになった。
      地は草木を生じさせ、種をつける草をそれぞれの種類に従って、種のある実をつける木をそれぞれの種類に従って生じさせた。神は見て良しとされた。
      夕べがあり、朝があった。第三の日である。
       神は言われた。「天の大空に、昼と夜を分ける光るものがあり、季節や日や年のしるしとなれ。
      天の大空に光るものがあって、地上を照らせ。」そのようになった。
      神は二つの大きな光るものを造られた。昼を治める大きな光るものと、夜を治める小さな光るものである。また星を造られた。
      神は地上を照らすため、それらを天の大空に置かれた。
      昼と夜を治めるため、光と闇を分けるためである。神は見て良しとされた。
      夕べがあり、朝があった。第四の日である。
       神は言われた。「水は群がる生き物で満ち溢れ、鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
      神は大きな海の怪獣を創造された。水に群がりうごめくあらゆる生き物をそれぞれの種類に従って、また、翼のあるあらゆる鳥をそれぞれの種類に従って創造された。神は見て良しとされた。
      神はそれらを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地に増えよ。」
      夕べがあり、朝があった。第五の日である。
       神は言われた。「地は生き物をそれぞれの種類に従って、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれの種類に従って生み出せ。」そのようになった。
      神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て良しとされた。
       神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
       神は人を自分のかたちに創造された。
       神のかたちにこれを創造し
       男と女に創造された。
       神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」
       神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。
      また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。」そのようになった。
      神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
       こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。
      第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。
      神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。
       これが天と地が創造された次第である。】
       創世記 1章2節-2章4節

      全ては良かった。

      ・全人類の救いの訪れまでのことについて
      人類の中から、アブラハムを聖別して、神の民とした。
      彼らをユダヤ人と言う名で呼んだ。
      (後に、時が満ちて、キリスト・イエスが生まれた。)


      ・全人類の救いが訪れたことについて
      事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。 ニコリント 5:14 これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。 ニコリント 5:18 神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。 私たちはまた、神と共に働く者として勧めます。神の恵みをいたずらに受けてはなりません。 それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 ローマ5:9


      ・この世の終わりまでのことについて




      ・この世の終わり終末について
      死は、その人の個人的な終末である。
      世から見ると、死はその人がいなかったかのように、その人の全てを消す。
      世の終末は、この世の死である。
      この世がなかったかのように、全てを消す。

      しかし、聖書が言う世の終わり終末とは、一つの世が終わり、新しい世が始まることだと言っています。
      それゆえに、終末は、新しい世が訪れる、産みの苦しみです。
      陣痛の痛みは、少しの痛みから辛い痛みに徐々に変わって行きます。痛みの長さも短い痛みから長い痛みに徐々に変わっていきます。
      世の終末の苦痛も同じように、変化していきます。
      これは、産みの苦しみです。

      --聖書より--
      【   イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
      イエスは言われた。「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」
       イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
      イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
      私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
      戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。
      民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
      しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
      その時、人々は、あなたがたを苦しみに遭わせ、殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての民に憎まれる。
      その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
      また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。
      不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
      しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
      そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
       「預言者ダニエルの語った荒廃をもたらす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
      その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
      屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
      畑にいる者は、上着を取りに戻ってはならない。
      それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女に災いがある。
      逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。
      その時には、世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
      神がその期間を縮めてくださらなければ、誰一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。
      その時、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。
      偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
      あなたがたには前もって言っておく。
      だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、出て行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
      稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子もそのように来るからである。
      屍のある所には、禿鷲が集まるものだ。」
       「それらの日に起こる苦難の後、たちまち
       太陽は暗くなり
       月は光を放たず
       星は天から落ち天の諸力は揺り動かされる。
      その時、人の子の徴が天に現れる。そして、その時、地上のすべての部族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
      人の子は、大きなラッパの響きとともに天使たちを遣わし、天の果てから果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。」
       「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が出て来ると、夏の近いことが分かる。
      それと同じように、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
      よく言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
      天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」
       「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
      人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
      洪水になる前、ノアが箱舟に入る日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
      そして、洪水が来て一人残らずさらうまで、何も気が付かなかった。人の子が来る場合も、このようである。
      その時、畑に二人の人がいれば、一人は取られ、一人は残される。
      二人の女が臼を挽いていれば、一人は取られ、一人は残される。
      だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである。
      このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。
      だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」】
        マタイ 24章 1節-44節

      ・その後のことについて

      一つの時代が終わり、新しい時代が始まります。
      全てが新しくなります。
      この世の者にとっては、まったく時空ご超えたもの、超えたところ。
      理解しがたいところである。




      つづく・・・



    9. 人間とは

      【 神は人を自分のかたちに創造された。
      神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。】
       創世記 1章 27節

      【 神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。】
       創世記 2章 7節

      人は、神のかたちに創られたからこそ、
      飛行機を作り、ロケットを作り月や火星に行くことができるのです。
      また、このように、聖職者でもなく、40数年コンピューターのソフトの仕事にかかずっていた70歳(2022年現在)の貧しいびっこの老人が、
      神を語り、救いを語ることができるのです。
      神のかたちに創られたからこそなのです。
      人はだれでも、神を見上げ呼ぶことができるのです。

      また、「土の塵で人を形づくり」とあるように人間は物質であるが、「その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」とあるように、
      霊を持つもの魂を持つもの、つまり人とは、土の器に魂を持つものであると記載されています。
      ここに、動物と人間の違いが明記されています。
      人間は、単なる物質でもなく、単なる動物でもないのです。

      【 アダムは、さらに妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けて言った。
      「カインがアベルを殺したので、神がその代わりに一人の子を私に授けられた。」
      セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。
      その頃、人々は主の名を呼び始めた。】
       創世記 4章 25-26節

      それゆへ、私達人類は、神から離れた(罪人、原罪を持つもの)アダムとエバの末裔なのです。



      つづく・・・



    10. 人は何故尊い

      神が創られたから。
      さらに、神がご自分のかたちに似せて創られたから。
      貴方は尊いのです。

      --聖書より--
      【 神は人を自分のかたちに創造された。
      神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。】
        創世記 1章 27節

      貴方は何か手作りの物を作ったことがあると思います。
      上から見たり、横から見たり、何度も見て、そして見飽きない。 愛おしく思います。
      同じ様に神もご自分が創られた人類を貴方を愛おしいのです。
      そして、人類が滅びていくのが忍びなく、神の独り子を遣わし、代わりに罰と死を受けさせ、人類が滅びないようにして下さいました。

      --聖書より--
      【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
      御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
        ヨハネ 3章 16節

      神に愛されているから貴方は尊いのです。


      つづく・・・



    11. 人間の最大の問題 死

      人は誰でも死にます。ゆえに貴方も必ず死にます。
      しかし、イエス様を信じた人は、死にません。
      たとえ全世界を儲けても、死んだらもともこもありません。
      どんな偉い人も、犬のように死にます。

      しかし、人は神に似せて創られました。ゆえにその心は、永遠を思います。
      永遠の命を思うのです。
      この土くれが、思うのですよ。とんでもないことだと思いませんか。
      【 神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。】
      コヘレトの言葉 3章11節

      ここにイエス・キリストと言う方がおられます。
      かれは神から来られた方で正しい方でしたが、人が滅び(死)ないように身代わりに罰を受け死なれました。
      死んで後3日後に死から蘇り、弟子や多くの人に現れ天に昇られました。
      イエスを神の子と信じた人達の初穂として復活し天に昇られたのです。
      かれは神です。永遠、無限なかたです。
      かれはあらゆる恵みに満ち満ちています。
      かれに来るものは、永遠に心が乾くことがありません。

      聖書は、新約、旧約、初めから終わりまでイエス・キリストについて書かれています。
      イエス・キリストは、貴方に必要だからです。
      そこには、死なない方法、心の満たし、生き方、貴方にとって今本当に必要なもの全てがあります。

      現代の社会的な問題の根本は、
      人生はこの世だけしかないといった新しい迷信にあります。
      それにより、人は卑しくなり、がめつくなり、自己欲肉欲を必死で貪ります。
      このような人々が織りなす人の世は、押して知るべしです。
      先に新しい迷信と書きましたが、近年以前にそのような考えがあったでしょうか。
      進化論があたかも紛れもない真実であるかのように教えている義務教育、ほんとは何も知らないのに 知ったかぶりをしてのたまう科学者の責任です。
      私たちの祖先はネズミやアメーバだ、死んだら無だと教えられた子供たちに、何の希望、夢、尊厳が生まれるでしょうか。
      快楽を求めゲームやYouTube に夢中になって日々を過ごすのはあたりまえではないでしょうか。

      果てし無い宇宙の片隅の
      小さな地球の日本と言う小さな島にカビのように生え、無くなる。
      永遠の宇宙の中で、泡のように現れ、消える。
      永遠から見たら、いたかさえも有ったかさえも分からない。
      このような唯物論者、無神論者も何時か死ぬわけだから、死んだら無になると知っているわけだから、
      生きることが辛いだろうなと想像される。

      このような世界観に今の子供たちは生きているのです。
      大人も。
      このような世界間に誰がした。
      人が神から離れたからです。

      死ぬまでの時間つぶし。ただぼうとテレビ、映画、YouTubeを見るだけ面白かった感動した、しかし新しい次の動画を見る。次々と。
      製作者は暇つぶしの動画を次々作っていくのが仕事。
      ゲーム設計者はプレイヤーの前に人参をぶら下げ、追いかけさせ達成感と快感をタイミングよく与える。猫じゃらしに遊ばれる子供、 いや大人。
      そのループから抜け出すには、自殺か自分を死刑にしてくれる国だけ。リセットではない選択肢。

      何もかもが面白くないと言う前に、神を知ることです。

      --聖書より--
      【 イエスは答えて言われた。
      「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」】
      ヨハネ 4章13〜14節


      --聖書より--
      【 コヘレトは言う。
      なんという空しさ
      なんという空しさ、すべては空しい。

      太陽の下、人は労苦するが
      すべての労苦も何になろう。
      ー代過ぎればまたー代が起こり
      永遠に耐えるのは大地。
      日は昇り、日は沈み
      あえぎ戻り、また昇る。
      風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
      風はただ巡りつつ、吹き続ける。
      川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
      どの川も、繰り返しその道程を流れる。

      何もかも、もの憂い。
      語り尽くすこともできず
      目は見飽きることなく
      耳は聞いても満たされない。
      かつてあったことは、これからもあり
      かつて起こったことは、これからも起こる。
      太陽の下、新しいものは何ひとつない。
      見よ、これこそ新しい、と言ってみても
      それもまた、永遠の昔からあり
      この時代の前にもあった。
      昔のことに心を留めるものはない。
      これから先にあることも
      その後の世にはだれも心に留めはしまい。】
      コヘレトの言葉 1章2-11節


      死んだらなにもかも終わりだ。
      何もかも空しく消える。
      過去の出来事も夫婦生活のことも自分自身も親も兄弟も友人ももちろん思い出も。
      何もかも消える。
      労したことも空しく消える。

      良い人間であっても、死んだら終わりだ。
      極悪人と同じ様に死ぬ。

      人は死の前に平等である。
      どんな人であれ犬のように死ぬ。
      死から誰も逃れられない。
      人は死んで後、裁かれると聖書にある。
      良い人よ神がおられることを信じ、極悪人をうらやむことなかれ。
      悪人は死んだ後の裁きと第二の死(地獄)から逃れることはできない。
      このことを憶え悪人は恐れ、悔い改めの必要を覚えることである。
      愚かであってはいけない。
      死んでからでは遅いのだから。

      人は、過去にはいない。未来にもいない。今にいるのである。
      そして、死は来る。死は必ず、貴方にも私にも来る。
      他人事だと思っていたことが私の番か、という時が来る。
      避けることはできない。

      さらに、聖書では、
      【 人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。】
      ヘブライ人への手紙 9章27節
      とある。

      死とは個人で体験するものである。
      赤信号皆で渡れば怖くないというものではない。

      死はすべてを失うものである。財産も家族も友も知識も体も全て失うのである。
      よって哀れなものである。
      全ての人と別れなけばならない。そして、一人で生まれた時のように裸で行くのである。
      よって哀れなものである。
      もう努力しようが無い。
      よって哀れなものである。
      理不尽に殺されても、文句の一つも言えない。
      よって哀れなものである。

      人は裸で生まれ、裸で死んで行くのである。

      マリー・ローランサンの詩の中に、
      捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
      よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
      追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
      死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。
      と言うのがあります。
      死んで誰からも忘れられた女はどうなのだろう。哀れの極みである。

      墓地に行くと死んだ人の墓がるいるいとある。
      墓碑を見ても顔も知らない。誰も知るよしもない。
      哀れである。実に悲しい限りである。
      何も無い。
      宇宙の広さからみたら、いたかいなかったかさへ分からない。
      誰も知らないのだから。
      宇宙の片隅の小さな地球の日本と言う小さな島にカビのように生え、死ぬ。
      永遠に死ぬ。消える。いたかどうかさへ分からない。
      哀れである。

      人はあっけなく死ぬ。
      しかし、本人にとって死は長く、重い。
      死とはまったく個人として面と向かって迎えるものである。

      死はいつも生きている人間にとりついている。
      お祭りで楽しく踊り踊っていても、幸せに生活していても、山の向こうから鐘の音が遠く聞こえるようにふと死と言う音が聞こえて来る。
      楽しければ楽しいほど、幸せなら幸せなほど、これが永遠であったらと思う。
      しかし、死は別れは終わりは、来る。

      【 神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。】
      聖書 コヘレトの言葉(3章:11節)

      死からの解放は、イエス・キリストの十字架に有る。
      神の救いの十字架を見上げる者は、皆死なない。
      私は信じるのです。
      神の恵みに生きるのです。

      神の存在を信ぜず、進化論を信じている者ほど哀れなものはない。
      彼らにとって死は恐ろしいものである。
      彼らにとってこの世しか無いので、死は自分の全てが終わりであり、世界の終わりである。
      かつ、宇宙の広さ高さからみたら、時間の長さから見たら貴方など無に等しいものとなる。
      そこでは、隣人に対する愛など意味が無く、ありようがない。
      無神論者の権力者が、死ぬことが分かった時、核のボタンを押すことも考えられる。
      自分がいない世界など有っても意味がないのだから。
      また、彼らにとって死は、耐えられないことがあった場合の逃げ場となる。
      しかし、神の前に逃げ場はないことを死んで知ることであろう。
      進化論者、唯物論者にとっては、生きるも死ぬるも虚無である。本人が死んだら全てが消えるのであるから。
      全てが空しいことを少しづつ一つづつ知らされながら老いて死んでいくのである。哀れである。
      キリスト者は、おぼろげに見えていた真理がイエス・キリストが歳をとるごとにもやが去りはっきりと見えてくるのである。
      人は死んだら終わりではない。そう甘くない。
      神の前で裁かれ、永遠の地獄に行くか、永遠の天国に行くかのどちらかである。
      神はいるのである。

      今の科学者は、無神論で世を説明しようとしている。理解しようとしている。
      日本では、進化論をあたかも真理であるかのように子供に教えている。
      結果、日本は愛の無い国になることは確実である。
      愚かな今の科学者は、気が付くべきだ、悟べきだ。直観で悟れ。直観で知れ。
      神は、顕微鏡や望遠鏡で見れるものではない。ましてやフラスコをゆすって観察するものではない。
      崇めるかたである。究極の真理はそうゆうものである。

      【かれらは、『その名は一体何か』と問う・・・
      神は・・「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ・・・。】
      聖書 出エジプト記(3章・13-14節)

      神は死なない。アルファでありオメガであり、初めが無く終わりがない。
      そのような神の前で人は今生きているのである。
      そして、死んで神の前に立たされるのである。

      イエス様が語られた死後の話を聞こう。
      --聖書より--
      【「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴膳でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』】
      ルカ 16章19-26節

      【 二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。・・・・

      十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
      「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
      すると、もう一人の方がたしなめた。
      「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
      そして、
      「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」
      と言った。
      するとイエスは、
      「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
      と言われた。】
      ルカ 23章32-43節

      キリスト者にとって、この世は神の栄光の場である。死は罪の世からの脱出である。素晴らしいところに行く門である。
      進化論者、唯物論者は、この世しか無いので、この世に未練たらたら死ぬのである。
      キリスト者は、神がお許しになることを行い、出来ないことは神の御心と思いあきらめるのである。この世に思い残すことなく生き、死ぬ(この世を去る)のである。
      キリスト者は、この世に宝を積まず、天に宝を積むのである。

      世の人は皆 原罪があるので恨みと悔やみの中で死ぬのである。
      世の人は皆 原罪があるので人との関わりに苦しみ、この世を自ら去るのである。

      神を信じ、イエス・キリストを信じている者にとって死はほっとする所であって、希望であって、新しく素晴らしい世界の門であり始まりである。
      世の人は皆原罪があるので恨みと悔やみの中で生きるが、キリストに従い赦し、キリストに赦されこの世で御国を味わうのである。
      世の人は皆原罪があるので人との関わりに苦しむが、キリスト者は確実な新しい世界を待ち望むので耐えることが出来、救い主イエス・キリストの十字架の御姿を仰ぎ、艱難の中にあっても、人に優しく出来るのである。

      何故。
      キリスト者は、神の独り子イエス・キリスト様が代りに罰を受け死なれたので、 キリスト者は神の前に義とされている。死はなくなったのである。

      死からの解放は、実にイエス・キリストの十字架に有るのである。
      神の救いの十字架を見上げる者は、皆死なないのである。


      --聖書より--
      【イエスは言われた。
      「・・・死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
      神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」】
      ルカによる福音書 20章34-38節

      --聖書より--
      【神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。】
      伝道者の書 3章11節

      --聖書より--
      【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
      独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
      ヨハネ 3章16節

      --聖書より--
      【 イエスは言われた。
      「わたしは道であり、真理であり、命である。
      わたしを通らなけらば、だれも父のみのとに行くことができない。」】
      ヨハネ 14章6節

      --聖書より--
      【 イエスは言われた。
      「わたしは復活であり、命である。
      わたしを信じる者は、死んでも生きる。
      生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
      このことを信じるか。」】
      ヨハネ 11章25-26節
      死んだらなにもかも終わりだ。
      何もかも空しく消える。
      過去の出来事も夫婦生活のことも自分自身も親も兄弟も友人ももちろん思い出も。
      何もかも消える。
      労したことも空しく消える。

      良い人間であっても、死んだら終わりだ。
      極悪人と同じ様に死ぬ。

      人は死の前に平等である。
      どんな人であれ犬のように死ぬ。
      死から誰も逃れられない。
      人は死んで後、裁かれると聖書にある。
      良い人よ神がおられることを信じ、極悪人をうらやむことなかれ。
      悪人は死んだ後の裁きと第二の死(地獄)から逃れることはできない。
      このことを憶え悪人は恐れ、悔い改めの必要を覚えることである。
      愚かであってはいけない。
      死んでからでは遅いのだから。

      人は、過去にはいない。未来にもいない。今にいるのである。
      そして、死は来る。死は必ず、貴方にも私にも来る。
      他人事だと思っていたことが私の番か、という時が来る。
      避けることはできない。

      さらに、聖書では、
      【 人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。】
      ヘブライ人への手紙 9章27節
      とある。

      死とは個人で体験するものである。
      赤信号皆で渡れば怖くないというものではない。

      死はすべてを失うものである。財産も家族も友も知識も体も全て失うのである。
      よって哀れなものである。
      全ての人と別れなけばならない。そして、一人で生まれた時のように裸で行くのである。
      よって哀れなものである。
      もう努力しようが無い。
      よって哀れなものである。
      理不尽に殺されても、文句の一つも言えない。
      よって哀れなものである。

      人は裸で生まれ、裸で死んで行くのである。



      つづく・・・




    12. 律法について

      ガラテヤの信徒への手紙(2:15-21) ガラテヤの信徒への手紙(3:10-14) ガラテヤの信徒ねの手紙 4章4-7節 マタイによる福音書(23:1-39) ルカによる福音書10章25~37節 ヨハネによる福音書 1章1-18節 2章12節~16節 (ローマ人への手紙3:10~18) ローマ信徒への手紙(7:18-25)  さらに、神の子イエス・キリストは、神は心を見られると言い、人を憎むことは殺すのと同じです。女性の情欲で見るのは姦淫したのと同じです。と言われました。神の目線は人間よりはるかに高いのです。よって、自分を正しいとし他人を裁くものは大いなる罰をうけるのです。 ゆえに、「正しい者はいない。一人もいない。人間はすべて罪人であって、だれもが救いを必要としている」のです。



      つづく・・・




    13. 救いとは

      死なないと言うことです。
      --聖書より--
      【 イエスは言われた。
      「わたしは復活であり、命である。
      わたしを信じる者は、死んでも生きる。
      生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
      このことを信じるか。」】
      ヨハネ 11章25-26節

      さらに、この世が終末を向かえる時に、一緒に滅びないと言うことです。
      新しい幸いな地に迎えられ、新しい体が与えられ、主の民と一緒に住むと言うことです。

      貴方の罪は許されたと言うことです。

      --聖書より--
      【 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。】
      エフェソの信徒への手紙 1章7節



      つづく・・・




    14. どうしたら救われるか

      --聖書より--
      【 聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。】
      ローマ 4章3節

      【 イエスは言われた。
      「わたしは復活であり、命である。
      わたしを信じる者は、死んでも生きる。
      生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
      このことを信じるか。」】
      ヨハネ 11章25-26節

      【 イエスは言われた。
      「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」】
      ルカ 8章48節





      つづく・・・




    15. 救われた確信について

      神が人類(私)を哀れに思い、神が人となって(神の子イエス)私達(人類)の中にこられ、
      十字架の血と死をもって私を聖霊によって新しく生まれ変らせて下さり、神の子イエスのもの、兄弟として下さった。
      そして、神の子イエスは死んだ後、3日後、人類(私)の初穂として死から蘇られた。
      そして、天に昇られた。
      そして、時が来たら私達の元に来て、私達を天の新しい世界(故郷)につれて行って下さる。



      つづく・・・




    16. 神を信じたらどう生きるか

      神を信じる生き方をする。と言うこと。

      --聖書より--
      【 心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神(イエス・キリスト)である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい 】
       ルカによる福音書 10章 27節

      生き方が迷ったら、分からなくなったら、ここに戻って始めよう。

      --聖書より--
      【「闇から光が照り出でよ」と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったからです。
      私たちは、この宝を土の器に納めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。 私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。 私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。
      私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。イエスの命が私たちの死ぬべき肉体に現れるためです。
      こうして、私たちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働くのです。
      「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それゆえに語ってもいるのです。
      主イエスを復活させた方が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと共に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。
      すべてのことはあなたがたのためであり、こうして、恵みがますます多くの人に及んで、感謝を満ち溢れさせ、神の栄光となるのです。
      だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。
      このしばらくの軽い苦難は、私たちの内に働いて、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
      私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。
      私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。
      私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋にあって呻いています。
      それを着たなら、裸ではないことになります。
      この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではなく、死ぬべきものが命に吞み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。
      私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです。
      それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。
      というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。
      それで、私たちは安心していますが、願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。
      だから、体を住みかとしていようと、体を離れていようと、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
      私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならないからです。
      こういうわけで、私たちは主を畏れることを知っているので、人々の説得に努めます。私たちのことは、神の前に明らかにされていますが、あなたがたの良心にも明らかになることを、私は望みます。
      私たちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようとするのではありません。ただ、内面ではなく外面を誇る者たちに向かって、私たちのことを誇る機会をあなたがたに提供しようとしているのです。 私たちが正気でなかったというなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。
      事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。
      その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。
      その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。
      だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
      これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。
      これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。
      こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。
      神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。
      私たちはまた、神と共に働く者として勧めます。神の恵みをいたずらに受けてはなりません。
      なぜなら、
      「私は恵みの時に、あなたに応え
      救いの日に、あなたを助けた」
      と神は言っておられるからです。今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。
      私たちは、この奉仕の務めについて、とやかく言われないように、どんなことにも人につまずきを与えず、あらゆる場合に自分を神に仕える者として推薦しているのです。大いなる忍耐をもって、苦難、困窮、行き詰まりにあっても、鞭打ち、投獄、騒乱、労苦、不眠、空腹にあっても、純潔、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛によって、真理の言葉、神の力によってそうしています。
      また、左右の手に持った義の武器によって、栄誉を受けるときも、侮辱を受けるときも、不評を買うときも、好評を博するときにも、そうしているのです。
      私たちは人を欺いているようでいて、真実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかけているようでいて、こうして生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています。
      コリントの人たち、私たちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。
      私たちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたのほうが自分で心を狭めているのです。
      子どもに話すように言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。
      あなたがたは、不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とにどんな交わりがありますか。
      キリストとベリアルとにどんな調和がありますか。信者と不信者とにどんな関係がありますか。
      神の神殿と偶像とにどんな一致がありますか。私たちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。
      「『私は彼らの間に住み、巡り歩く。
      私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。
      だから、彼らの中から出て行き彼らから離れよ』と主は言われる。『汚れたものに触れるな。そうすれば、私はあなたがたを受け入れ
      あなたがたの父となりあなたがたは私の息子、娘となる』と全能の主は言われる。」
      愛する人たち、私たちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。】
      第二 コリント 4章6節-7章1節

      --聖書より--
      【 このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。
      このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
      そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。
      この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
      キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
      正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。
      しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
      それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
      敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
      それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。
      このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
      確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。
      しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。このアダムは来るべき方の雛型です。
      しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。
      この賜物は、一人の犯した罪の結果とは異なります。裁きの場合は、一つの過ちであっても、罪に定められますが、恵みの場合は、多くの過ちがあっても、義と認められるからです。
      一人の過ちによって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストを通して、命にあって支配するでしょう。
      そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
      律法が入り込んで来たのは、過ちが増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。 こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。
      では、何と言うべきでしょうか。恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。
      決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
      それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。
      私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。
      私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。
      私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。
      死んだ者は罪から解放されているからです。
      私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
      そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
      キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
      このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。
      ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
      また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。
      罪があなたがたを支配することはありません。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるからです。
      では、どうなのか。私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか。決してそうではない。
      知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
      しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。
      あなたがたの肉の弱さを考慮して、私は分かりやすい物言いをしています。かつて、五体を汚れと不法の奴隷として献げて不法に陥ったように、今は、五体を義の奴隷として献げて聖なる者となりなさい。
      あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
      では、その時、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥とするものです。その行き着くところは死です。
      しかし、今や罪から自由にされて神の奴隷となり、聖なる者となるための実を結んでいます。その行き着くところは永遠の命です。
      罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。
      それとも、きょうだいたち、私は律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
      結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、夫の律法から解放されます。
      ですから、もし夫の生存中、他の男のものになれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死ねば、その律法から自由な身となり、他の男のものになっても姦淫の女とはなりません。
      それと同じように、きょうだいたち、あなたがたも、キリストの体によって、律法に対して死んだのです。それは、あなたがたがほかの方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、私たちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
      私たちが肉にあったときは、律法による罪の欲情が五体の内に働き、死に至る実を結んでいました。
      しかし今は、私たちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されました。その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えるようになったのです。
      では、何と言うべきでしょうか。律法は罪なのか。決してそうではない。だが、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が「貪るな」と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。
      しかし、罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こしました。律法がなければ罪は死んでいたのです。
      私は、かつては律法なしに生きていました。しかし、戒めが来たとき、罪が生き返り、
      私は死にました。命に導くはずの戒めが、私にとっては死に導くものとなりました。
      罪が戒めによって機会を捉え、私を欺き、その戒めによって私を殺したのです。
      実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです。
      それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによって私に死をもたらしました。こうして、罪は戒めによってますます罪深いものとなりました。
      私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。
      私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
      もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
      ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
      私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。
      自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
      それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
      内なる人としては神の律法を喜んでいますが、内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
      私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。
      私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
      従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。
      キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
      律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
      それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためです。
      肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思います。 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。
      なぜなら、肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです。
      肉の内にある者は、神に喜ばれることができません。
      しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
      キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。
      イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう。
      それで、きょうだいたち、私たちは、肉に従って生きるという義務を、肉に対して負ってはいません。
      肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
      神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。
      あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
      この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。
      子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、 共に栄光をも受けるからです。
      思うに、今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません。
      被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます。
      被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。
      それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。
      実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。
      被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。
      私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。
      まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。
      霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。
      人の心を見極める方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って聖なる者のために執り成してくださるからです。
      神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。
      神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。
      神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。
      では、これらのことについて何と言うべきでしょう。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。
      私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。
      誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
      誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。
      誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。
      「私たちはあなたのゆえに、日夜、死にさらされ
      屠られる羊と見なされています」
      と書いてあるとおりです。
      しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。
      私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
      高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。】
      ローマ 5章1節-8章39節

      • 私たちは、信実な方、偽りのない方、聖い方、つまり神(イエス様)に出会ったのだから、
        今までの不信実なもの、偽りなもの、聖くないものの交わりから、出て行き、
        神(イエス様)に近づいていこう。

      • 摂理を受け入れ、過去を後にして、前に生きる。
        摂理とは、
        日本基督教団 齋藤真行牧師YouTubeより
        「キリスト教の基本的な信仰の一つに、摂理信仰と言うのがあります。
        これは、神が備え、導いてくださる。また、神様は私たちの生活を支えて下さるということですが、
        私はどんな学校に行くのかとか、どんな会社で働くのとか、どんな仕事をするのとか、どんな友達と付き合うかとか
        どんな人と結婚するかとか、こんなこと全て神様は、導いて相応しく御与え下さると、そういう意味になります。
        で、こう言った摂理信仰と言ったことを信じて生きることで、全てですね、よきものと言うのは神様から与えられたという風に感謝することが出来る。
        逆に逆境や試練のときにおいては、そのことも神様がお与え下さったときだから、神様は必ず良い方向にもっていって下さると、信頼をもって歩めると、いうことになります。 この、摂理信仰があることで、私たちは殉教でも逆境でも守られて安らかに生きることが出来る。と言うことです。」




      つづく・・・



    17. 終末を前にした生き方

      マルティン・ルターは、
      「たとい明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」
      と言われた。

      イエス様の生き方を見て言われたのだろう。
      十字架と言う個人的な終末を前にして、
      イエス様は、毎日、
      「傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すこともなく」
      隣人を愛し、癒し救いに導き、神の御心を行っておられた。

      --聖書より--
      【 イエスはお答えになった。
      「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」】
        ヨハネ 5章 17節



      つづく・・・



    18. イエスと言う御方

      --聖書より--
      【 雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。
      「これはわたしの愛する子。これに聞け。」】
      マルコ 9章7節

      【 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており】
      コロサイ人への手紙 2章9節

      【 イエスは言われた。
      「わたしは道であり、真理であり、命である。
      わたしを通らなけらば、だれも父のみのとに行くことができない。」】
      ヨハネ 14章6節


      つづく・・・




    19. イエス様と私

      --聖書より--
      【 私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです。私たちはこの御子において、その血による贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。これは、神の豊かな恵みによるものです。神は、この恵みを私たちの上に溢れさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、御心の秘義を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってご自身でお決めになっていた御心によるものであって、時が満ちるというご計画のためです。それは、天にあるものも地にあるものも、あらゆるものが、キリストのもとに一つにまとめられることです。キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。それは、キリストに以前から希望を抱いている私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。あなたがたも、キリストにあって、真理の言葉、あなたがたの救いの福音を聞き、それを信じ、約束された聖霊によって証印を受けたのです。聖霊は私たちが受け継ぐべきものの保証であり、こうして、私たちは神のものとして贖われ、神の栄光をほめたたえることになるのです。】
      エフェソの信徒への手紙 1章3-14節


      つづく・・・




    20. 使徒信条

      我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
      我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
      主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。
      我は聖霊を信ず。
      聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
      アーメン


      つづく・・・




    21. 理に適った礼拝

      何処を向いてイエス様を礼拝をしたらいいのだろうか。
      天である。イエス様が復活して、天に昇られたから。
      今は、天に向かって礼拝すべきである。
      主の天からの降臨まで。

      【 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
      私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
      イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
      あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
      しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
      神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」
      女は言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」
      イエスは言われた。「あなたと話をしているこの私が、それである。」】
      ヨハネ 4章19-26節

      不思議なことに、
      【「よく言っておく。あなたがたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。
      また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。
      二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」】
      マタイ 18章18-20節

      天に居られる方が、
      「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」とは、
      神の神たるゆえんである。


      【 こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。】
      ローマ人:12章1節


      つづく・・・



    22. どのように祈ったらいいか

      --聖書より--
      【 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。
      そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

      『父よ
      御名が聖とされますように。
      御国が来ますように。
      私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。
      私たちの罪をお赦しください。
      私たちも自分に負い目のある人を
      皆赦しますから。
      私たちを試みに遭わせないでください。』」

      また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
      友達が旅をして私のところに着いたのだが、何も出すものがないのです。』
      すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない。』
      しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。
      そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。
      誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
      あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
      また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。】
      ルカ 11章1-13節

      【「また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。
      あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
      祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。
      彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
      だから、こう祈りなさい。

      『天におられる私たちの父よ
      御名が聖とされますように。
      御国が来ますように。
      御心が行われますように
      天におけるように地の上にも。
      私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
      私たちの負い目をお赦しください
      私たちも自分に負い目のある人を
      赦しましたように。
      私たちを試みに遭わせず
      悪からお救いください。』

      もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。
      しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」】
      マタイ 6章5-15節


      つづく・・・



    23. 神の愛

      --聖書より--
      【  ほかにも、二人の犯罪人がイエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
      「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。
      犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
      その時、イエスは言われた。
      「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」】
      ルカ 23章 32-34節
      「見よ、私の選んだ僕私の心が喜びとする、私の愛する者を。この僕に私の霊を授け彼は異邦人に公正を告げる。 彼は争わず、叫ばずその声を大通りで聞く者はいない。 公正を勝利に導くまで 彼は傷ついた葦を折ることもなくくすぶる灯心の火を消すこともない。 異邦人は彼の名に望みを置く。」 マタイ 12:21




      つづく・・・







    24. つづく・・・