70歳からの福音伝道

(福音とは、神様からの良い知らせのことです)



私は、神父や牧師、伝道師のようにちゃんと学んだことはありません。
その私が恥ずかしくも無く、このページを作成したのは、
イエス様に対する熱い思いが、福音の素晴らしさが、70歳にもなる私を青年のように駆り立てるからです。
ですから以下の文は、学びつつ書きますので日々更新されます。

目次

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    1. 初めに

      福音について
       もしも貴方が投資家なら、こんな上手い投資先はありません。
      なにせ、人間は死ぬものだとばかり思っていたのに、死ななくなり且つ天国に行けるのですから。
      また、この投資方法がすごい。
      何せお金が要らない。長い苦学も修行も要らないのですから。
      ただ、イエス様を子供の様に、神の子救い主であると信じれば良いのですから。
      それだけでこの世での罪の許しと、新しい人生と、神からの祝福と、死からの復活と、永遠の命と、天国をゲットできるのです。
      まったく神様らしい救いの仕方です。
       ハレルヤ 神を褒め称えます。

      --聖書より--
      イエスは言われた、
      【 たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。】
        マタイ 16章 26節

      【 天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。
       また、天の国は、良い真珠を探している商人に似ている。
      高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。】
        マタイ 13章 44ー46節

      永遠の命、復活について、
      イエスは次のように言われる、
      --聖書より--
      【 イエスは言われた。
      「わたしは復活であり、命である。
      わたしを信じる者は、死んでも生きる。
      生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
      このことを信じるか。」】
        ヨハネ 11章 25-26節

      死んだ者は、眠っているだけである。
      イエスが十字架で死んだ後、3日めに復活されたように。
      イエスを神の子と信じた者は、イエスと同じように復活する。

      神を知らない人は、これらのことを笑うが、
      世には不思議なことが沢山ある。
      私もこれまで何度か奇跡としか言えないようなことに遭ったことがある。
      また、今の物理学の量子の振る舞い、人が観察する時としてない時とではその振る舞いが違うなどは、現代の人には理解できないことである。アインシュタインでさへ理解できず間違った。
      数学や物理学に虚数が使われているのも面白いことの一つである。
      などなど。
      神は見える物だけではなく、見えないものも創られたのである。
      --聖書より--
      【 イエスはトマスに言われた。
      「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」】
        ヨハネ 20章 29節

      地球がこのように美しく動き、維持していること自体、奇跡である。
      熱力学第二の法則から考えれば、カオスになることさえあれ、無限とも言える生物の種類ができることはない。
      そして、何もかもが美しく感動に満ちている。
      神がそのことばで天地万物を創られたのである。そして、維持しておられる。
      神は生きておられる、何時も働いておられる。そして、神には何でもできる。
      復活、永遠の命はあるのである。天国もあるのである。
      神が言われるから。あるのである。
      救いもあるのである。

      神は御自身について、
      --聖書より--
      【 神はモーセに言われた。
      私はいる、という者である。」】
        出エジプト 3章 14節
      私が思わなくても、神はいるのである。
      私がいなくても、貴方がいなくても、神はいるのである。
      この自然がこの地球がこの宇宙が無くても、神はいるのである。

      この世は神が創られたところです。
      --聖書より--
      【 初めに神は天と地を創造された。】
        創世記 1章 1節

      人とは貴方とは、神によって創られたものなのです。
      --聖書より--
      【 神は人を自分のかたちに創造された。
       神のかたちにこれを創造し
       男と女に創造された。】
        創世記 1章 27節


      また、聖書では、
      【 人間には、ただ一度死ぬことと、
      その後裁きを受けることが定まっている。】
        ヘブライ 9章 27節

      と言われる。
      人は死んだら終わりではないのです。
      人は死んだら、その後神の裁きがあるのです。
      良い人は、天国へ。
      悪い人は、地獄へ送られるのです。
      これは、大変重要なことです。
      声を大にして世界の人々に言わなければならないことです。
      人として知らなければならない大事なことです。


      神は愛なる方です。

      ここにビックニュースがあります。

      ただ、神をイエス・キリスト(キリストとは救い主の意味)を信じれば、死と裁きから救われるようになったのです。
      イエス・キリストにより死と裁きから救われるようになったのです。
      ただ神を信じてイエス・キリストを見上げればいいのです。まったく神らしい救いのやりかたです。

      これは、神から貴方への喜びの知らせです。
      神は、貴方を愛しています。

      神の子イエス・キリストを信じる者は、
      だれでも、裁かれないのです。だれでもです。
      何故ならば、
      神は私達が死なないように、滅びないように、神の独り子をこの世に遣わし、貴方の一切の罪を彼に負わせ十字架で罰と死を与えました。
      これが神の愛であり、真実の義です。
      この神の愛と義を信じるならば貴方は義となり、死なないのです。裁かれないのです。

      イエスは、十字架で死んだ後、三日後に復活しました。
      イエスは、弟子や多くの人に現れ、後に天にのぼられました。
      この死なない裁かれないと言う良い知らせ(福音)が全世界に述べ伝えられた後、イエスは天から再臨されます。
      信じて死んだ人(ただ眠っているだけ)を起こされ(復活され)、天国へつれて行って下さいます。
      そこでは、死も涙もありません。

      --聖書より--
      【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
      御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
        ヨハネ 3章 16節

      --聖書より--
      【 イエスは言われた。
      「わたしは復活であり、命である。
      わたしを信じる者は、死んでも生きる。
      生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
      このことを信じるか。」】
        ヨハネ 11章 25-26節


      十字架





      つづく・・・



    2. 簡単な自己紹介

      私はカトリックでしたが、70歳にもなって、今のカトリックが嫌になり(ボキャブラリーの無さから「嫌になり」と書きました)カトリック教会に行くのを止めました。いや行けなくなりました。妻もカトリックですが行けなくなりました。
      私にとって、カトリックが、汚れが酷く、臭くなった。愛が憐れみが無いところとなった。イエス様がいないところとなった。
      カトリック開南教会のベトナム人の若い神父らは、彼らが生まれる何十年も前に洗礼を受け、奉仕し、七転八倒して信仰を守って来た貧しい老人の私を虐めた。
      沖縄は自動車社会である。ベトナム人の神父らは自動車を乗り回すのが好きなようである。東京の下町、自転車社会から来た私は自転車で教会に通っていた。
      ある朝のミサが終わり、若いベトナム人の神父は、教会の出入り口の階段の上で、帰る信徒たちを見送っていた。彼は私の背から私の頭ごしに私の前を歩く若いベトナム人のシスターにベトナム語で大きな声で話掛けた。シスターは振り向きもせず自動車のキーのフォルダーの輪っかに人差し指を入れ頭の上に高くかかげてその人指し指でキーをクルクル回しそれに答え、自動車に向かって歩いて行った。ここは湘南か。神父は私を横目に見、笑い転げていた。ベトナム語で私の貧しさを嘲笑ったのである。
      それが面白かったのか、その数日の朝のミサの聖体拝領の時、その神父は、パンを私の手の上にパンを置くふりをして、私の手の平の上でその手を止めた。私が見上げたら、犬にでも餌をやるように欲しいのかと言ったふうだった。私が手を少し上げたら、パンを手の平の上に置いた。
      神父が御聖体のパンをそのようにあつかったらカトリックは終わりである。御聖体のパンがただのパンとなった。
      私は、何十年となく朝のミサを楽しんでいた。天からのパンを頂くことに喜びをもっていた。そのパンを頂くたびにイエス様を体現し、イエス様と親しく交わっていた。彼はそれを台無しにした。
      私には、晩婚のこともあり子供がいない。ある朝のミサの後、その若いベトナムの神父は、教会の出入り口の階段の上から私に向かって、背後から「避妊しているのか」と大きな声で言った。
      周りには、帰りがけの信徒やシスターがいた。それでなくても、自分の子供のような歳の若者に言われるのはキツイものがある。それも朝っぱらから。非常識である。
      しばらくして、彼は去り後任に、同じくベトナム人の若い神父が来た。先のベトナム人の神父は相手が弱いと知るとトコトン虐める神父だったが、彼は自分の誉れや評判のためにその信徒が弱くかつ利用できると知るとトコトン利用する神父であった。策略を持って私を利用した。そのやり方は狡猾で、平和ボケした日本人の私にはあきれるばかりで赤子の手をひねるようにやられた。私の問題を知り何とかするからと問題の中身を聞かず電話番号と教会までどの位の時間で来れるかを聞き出した。話もろくに聞かず変なことを聞くなと思ったが、数日後の教会の作業に私を電話で呼び出した。教会に着いてみると、信徒らの前でこれで何人と指を折って見せていた。人徳があると言いたいようだ。七人の侍ではあるまいし、子供じみている。年寄りが若いのにコケにされ利用された気持が分からないらしい。
      また、「遠い所から来てやっているのに」と日本語で皆に聞こえるようにつぶやいた。日本語で言うのだからこう言うのを聞こえよがしと言うのだろう。本人が言う言葉ではない。一人の古くからいる教会役員の信徒が私に「私はベトナム人が嫌いだ」と言った。
      私の問題については、当然内容を知らないのだからその後何時になっても解決されていない。適当に思い込み、自分用に適当に処理したのだろう。それで約束を守ったと思っているらしい。恩を売ったつもりらしい。色々手伝わされた。教会の仕事は好きなので従った。彼には信徒のことより自分の評判しか関心が無いようだ。「右手のしていることは左手には知らせるな。」と言う御言葉を知らないようだ。
      そのうち恩知らずというレッテルを私につけラッパを吹き鳴らすであろう。
      教会の作業は数日続いたが、2、3日後私が教会に行ったら誰も作業をしてないので、教会に居た人に聞いたらその日は中止だった。それまで作業を一緒にしてた他の人達は知ってたようで知らないのは私だけの様だった。私も塾をやっていて暇ではない。こうゆう時は連絡をしない彼に腹が立った。そして帰った。
      後日、教会の勉強会で、急に子供のいない老人の私に、何人もの信徒の前で創世記の「生めよ増えよ」の箇所を何度も私に読ませた。「もう一度」、「もう一度」、「もう一度」、パワハラである。傷口に塩をぬるパワハラである。暴力であり日本では犯罪である。さらし者にされ、どんなに私が傷ついた分からないのか。彼には人の気持ちを思う心が無いようだ。
      その時、教会の事務員の女性が話の間に入ってくれて私をかばってくれた。
      彼はまずいと思ったのか私の耳もとで「歳を取ってからこまらないように」と囁いた。私は「もう歳だよ」と言いたかったが止めた。

      どうも彼ら若いベトナム人の神父らには、子供のいない夫婦は皆避妊していると思いこんでいるらしい。
      東京では子供が欲しくてもできないで苦しんでいる夫婦が多い。その他色々な理由で子供のいない夫婦が多い。それを知らないで人を裁き罪人扱いをする。
      皆の前でさらし者にする。彼らはどこまで子供のいない老人を虐めるのだろう。虐めるのが好きなのか。イエスのものである信者を。
      子供のいない夫婦は、天に召されるまでカトリックでは罪人扱いされるのか。罪人としてさらし者にされるのか。
      彼らは、私達人類の救いの為に十字架上で罪人としてさらし者にされたイエス様の気持ちが分かっているのか。それで神父か。
      私の長年のカトリックの信仰生活を壊した罪は大きい。
      教会に行けなくした罪は大きい。

      また彼らには、信仰の先輩に対しての謙虚さや、年上の者に対する謙虚さが無い。年寄りに対するいたわりが無い。冷酷である。若いのに年寄りを上から目線で対する。
      ベトナムが植民地であったせいもあるのであろうか。神父になると白人にでもなったつもりになっているのだろうか。若いのに威張っている。何故俺を敬わないのかと。
      イエス様からは遠くなっている。原点に帰るべきだ。

      後、日本の神父に変ったので、彼らの行状を訴えたら、神父は信徒の味方だと思っていたが、神父は神父の仲間だった。真、義、愛、信徒よりも仲間のほうが大事らしい。
      彼らのしたことが普通じゃないことが分かってもらえない。
      何を言っても無駄だと感じた。仲間なのだから。無視されるようにあしらわれた。そして追い出しにかかったように私には思える。上司に話したのかもしれない。ヒエラルキーの中にあっては神よりも上司が上なのである。私は疑心暗鬼となった。
      いくら神父が足りないないからと言って、神父は信徒より大事なのか、神父は信徒に仕える者ではないのか、僕の僕ではないのか。
      カトリックは変わったのか、私がアホだったのか。カトリックの特色である家族的な交わりが何処にもない。

      彼らの言動とその心は、一つ残らず主がご存じである。
      彼らのした行為は、主イエス様が命を捧げ、救った信徒に対してすることではない。彼らは神を恐れないのだろうか。
      煉獄どころか永遠の地獄に行くことを恐れないのだろうか。神父になるぐらいなのだから信仰は有るはずであろうが。
      聖職者になったのは、他に目的があるのであろうか。
      ただ確かなことは、彼らが聖職者になったがゆえに、信徒に対してした行為は厳しく裁かれ罰せられるであろう。

      【 あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。
      神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。】
        一コリント 3章 16ー17節

      ゆえに、信徒に仕えると言う本分を忘れ、老信徒に対して威張り虐げた彼ら若い神父らはこの世では罰を受け。
      死んだ後、裁かれ、永遠の地獄にいくであろう。

      私は、主イエスに従い、彼らの私にした行為を全て許し、彼らの為に祈る。
      「神よ、彼らは何をしているか分からないのです。彼らをお許し下さい。」
      主よ私の心を聖くして下さい。
      主によって私の罪は許されたはずなのに、ここでは罪人として若い神父に嘲られる。ここにはイエス様がいない。愛が無い。わたしはここを去る。私は、振り向かず主に向かい、進むこととする。

      イエス様(神様)は聖なる方である、愛なる方である、こんな所に居られようか。出る。

      いくら神父がいないからと言って、後進国の神父の経験の浅い若い神父を先進国の教会に送り任せるべきではない。
      信徒が減るばかりだ。なおなお神父になる人が減る。

      私はここから逃げる。振り向いてはならない。イエス(神)聖なる方だけを見て走る。

      カトリックを出ると決めて、なんの不安もないのに驚いた。主が共にいて下さるからだ。主の臨在を感じるからだ。主が御霊を限りなく下さるので、御霊に満たされている。何処にいても天への梯子が前にある。
      イエス・キリストへの信仰、聖なる方への身近さ、親しさ、愛は昔も今も変わらない。信仰は、死から復活して天に居られるイエス様と変わらずに繋がっている。
      羊は羊飼いの声が解るものだ。

      しかし、信徒が教会に行けなようにした彼ら神父は実に酷いことを信徒にした。
      彼らが生まれる何十年も前から教会へ行くことに喜びを持っていた年老いた信徒が教会に行けなくなった気持ちが彼らには分かるか。
      帰るカトリックの教会が無くなった信徒の気持ちが彼らには分かるか。

      新しい道。
      復活して天におられるイエス様の導きに従い、聖書に学び、先人に学び、御霊にさとされて、祈りを大事にし、心を聖く保ち、神(父と子と聖霊)の愛を信じて共に歩むことにした。

      私の霊名は、パウロです。それをカトリック小禄教会のラサール神父に言ったら、「宣教しなきゃ」と即私に言いました。(「ラサール・パーソンズ神父との私の思い出」参照)
      90歳になろうとする神父が70歳になろうかとする老信徒にですよ。
      驚きと共にやるっきゃないでしょうです。私の心に火が付きました。
      しかし、ラサール神父には申し訳ないけど、カトリックは人にすすめられない。大変だけど、プロテスタントで行くつもりです。
      私の目にはカトリックは終焉に向かっていように見える。プロテスタントの新たな始まりである。新しい時代である。
      モーセは80歳から働きました。それに比べたら私はまだ若い。
      ましてや、永遠の命を既に得ているのですから、時間はたっぷりある。腰を落ち着けてやっていくつもりです。
      イエス様は、復活して天に昇られ神の右の座に就かれたので、私達は何時でも何処でも誰でも、見上げればイエス様を拝することが出来る。
      イエス様が天に居られ、御霊を下さるので、私は聖霊に満たされ、平安で、力と喜びに満たされています。
      【 人の歩みは主によって確かなものとされ
       その人の道を主は喜ばれる。】
        詩編 37編 23節

      まだ、何処の教団にも入っていません。
      神父や牧師、伝道師のようにちゃんと学んだことはありません。そして年取った老人です。
      ですからこのサイトの文は、日々更新されます。


       最後に私がベトナムの人が嫌いなのかと勘違いされないように、また私が会ったベトナムの人達の名誉の為に下記を追加記述します。
      昔、1975年ごろでしょうか、ベトナム人のボートピープルの人達が、私が住んでいた、東京の品川区の図書館があるビルのワンフロアに何十人かが移って来ました。
      公表はされませんでしたが、近所の人はだいたい、それらしいとうすうす知っていました。
      そのフロアの全ての窓と言う窓が目張りされ何かに恐れているかのように昼も夜も音もなくひっそりとしていました。何年かそうであったと思います。近所の人達は哀れに思いできるだけちょっかいを出さないようにそっとしていました。
      それから15年近くたったころ、その図書館の近くの教会の籍に私たち夫婦は移りました。
      教会にはベトナム人が沢山いました。彼らは明るく元気でにぎやかで、私たち夫婦を受け入れてくれてくれました。この人たちは、あのボートピープルの人たちだったのです。ベトナムで肉屋をやっていたと言う老人は、日曜日に会うたびに立って私の手を両手で強く握ってくれました。子供がお腹にいる若夫婦もいました。会社を興した人もいました。イベントがあると女性は民族衣装を羽織り、フランスパンを使ったサンドイッチをふるまいました。美味しかった。このような交わりの光のような明るさは、喜びは、日本が彼らを受け入れ、愛をもって教会の信徒の人達が彼らを受け入れてくれた結果だと私は思いました。天国を垣間見た思いでした。
      そこの神父は、ベトナム戦争の時、逃げて日本に移住したベトナムの方でした。立派な神父で、私の妻はプロテスタントでしたがカトリックに改宗させて下さいました。そしてマリヤと言う霊名を下さいました。私たち夫婦は、大変お世話になりました。尊敬する、また恩ある神父の中の一人です。
      私たち夫婦はそこで何年か楽しく教会生活を過ごさせていただきました。
      十数年後、沖縄に引っ越し、半年ほどコザの教会に通っていましたが、そこもベトナムの若い神父でした。私たちが貧しいことをしって、ミサの帰りには信徒にもらった惣菜を口に合わないのでといって、他の信徒には見えないようにこっそりと毎週ミサの後、渡してくれました。そのころ私は暇だったので、お礼として錆びた教会の門にペンキを塗ってあげることにしました、錆を削り、錆止めを塗り、白いペンキを塗りました。素人なので2週間ほどかかってしまいました。沖縄の炎天下はキツイ。でも主が共に居られました。
      沖縄は自動車社会ですが、東京の下町の自転車社会から来た私はその教会へはバスで通っていました。作業の帰りには、神父が何時も住んでいた北谷まで自動車で送ってくれました。門のペンキ塗りが完成したら、神父は大きな魚を買って来てくれて、その魚の中に教会の庭で育てたと言うベトナムのハーブを詰めたベトナム料理を調理して御馳走してくれました。帰りがけには、飲まないのでと言って、お酒を何本もらいました。
      このように何人ものベトナムの人との付き合ってきた私は、ベトナムの方に好印象をもっていました。だから、私に酷い仕打ちをした、カトリック開南教会のかの若い神父らが同じベトナム人とはとても思えないのです。
      何かがおかしい。
      教会で神の国を作ろうとせず、分断、差別、地獄を作る。
      彼らのしていることは、反神の国であり、反キリストである。
      「仕えられる為に来たのではなくて、仕える為に来たのではなかったか」

      神父が信徒を教会に行けなくする。
      教会に集えなくする。
      これほど馬鹿な話は無い。
      カトリック小禄教会に通っていた時、そこにベトナムの若いシスターが来た。教会の婦人らがベトナムではシスターになると金持ちと結婚できると言うのでなるので直ぐ止めるからベトナムのシスターはだめなんだ。と話していた。ほんとうだろうか。かの若い神父らも違う目的でなったのだろうか。時がたてば分かることだが。まったく私には異次元の世界だ。

      神父によるパラハラの後、私は教会に行けなくなり、1年間病気をしたり精神的に弱りして家で寝転んでいた。その後2年間那覇のプロテスタントの教会を4つほど見て回った。何処もウェルカムだった。カトリック開南教会から来たと言う20代の若い信徒にも2名ほど出会った。何があったのだろうか私おも含めて哀れである。その後カトリックのミサが恋しくなってカトリック小禄教会に行った。主は傷んだ葦であった私にラサール神父を合わせて下さった。私は癒され力を受けた。そこでのことは、「ラサール・パーソンズ神父との私の思い出」を見てく下さい。
      そして、その後この「70歳からの福音伝道」を作成しはじめました。

      これらのことを書いたのは、カトリック信徒で子が無かった昔の友人夫婦、その他私の知らない多くの子の無いカトリック信徒の夫婦の為にもこのことを書きました。
      それと余りにも無視されるので書きました。カトリックのお問合わせにメールを送っても何年まっても返信の一通もない。
      カトリックは私達子供がいない信徒を罪人として見ているのか? 差別しているのか? 迫害してもいいのか? 信徒の仲間と考えていないのか? と言うことです。

      また、彼らの行為は人間の尊厳を無視した行為である。
      そればかりか、先のミサにおいて御聖体を犬や猫に餌をよるように信徒にした行為は、カトリックの根幹に関わることである。

      後から思えば彼らは、私達信徒を最初から劣った者と見ていたような気がする。
      言葉のはしはしから感じられる。
      彼らを教育した者がそうであったのであろう。

      --聖書より--
      【 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
      めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。
      互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。
      キリストは
      神の形でありながら
      神と等しくあることに固執しようとは思わず
      かえって自分を無にして
      僕の形をとり
      人間と同じ者になられました。
      人間の姿で現れ
      へりくだって、死に至るまでそれも十字架の死に至るまで
      従順でした。
      このため、神はキリストを高く上げ
      あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
      それは、イエスの御名によって
      天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが
      膝をかがめ
      すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して
      父なる神が崇められるためです。】
        フィリピ 2章 3ー11節

      もう彼らとは付き合わず、静かな信仰生活を私は送る。主が再臨される日を待つ生活を送る。
      イエス様との聖なる交わりにはいろう。


      -----------------
      クリスチャンで小説家の三浦綾子夫妻には、子供がいない。
      夫妻は妻の病弱な体を理由に子がないことを選択した。
      これらは有名な話である。
      夫妻はプロテスタントで熱心な信者であることは周知の事実である。
      カトリックでは彼ら夫妻を罪人と見るのか。
      カトリックには選択の自由がないのだろうか。


      つづく・・・




    3. 十字架のイエス

      彼は、鞭打たれ、十字架に釘付けされ、刺され、血を流し、死にゆく姿を人類の前にさらされた。
      彼は、ご自分の死んだ姿を十字架に釘付けされ、人類の前にさらされた。

      犯罪人の中の一人として。

      彼は、死の間際、
      「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
      と叫ばれた。

      十字架

      これにより人類に(私に 貴方に)、死からの滅びからの抜け出る道が現れた。
      感謝である。


      つづく・・・




    4. 私の願い、祈り

      【 み国が来ますように。
      みこころが天に行われるとおり
      地にも行われますように 】

      これは主がこの様に祈りなさいと教えて下さった祈りの中の一部です。
      私の願い祈りはこれに尽きる。

      夫婦間、隣人との間、親戚との間、地域の人たちとの間、他県の人達との間、国と国との間、教会、神様との間、
      私の願いと祈りは、
      全てこれに尽きる。
      主イエスがこう祈りなさいと教えて下さった祈りはすごい。
      私の願い、祈りはこれである。
      他は何も無し。


      カトリック 主の祈り
      【 天におられるわたしたちの父よ、
      み名が聖とされますように。
      み国が来ますように。
      みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
      わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
      わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
      わたしたちを誘惑におちいらせず、
      悪からお救いください。

      アーメン。】

      --聖書より--(聖書教会共同訳)
      【 祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。
      彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
      だから、こう祈りなさい。
      『天におられる私たちの父よ
      御名が聖とされますように。
      御国が来ますように。
      御心が行われますように
      天におけるように地の上にも。
      私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
      私たちの負い目をお赦しください
      私たちも自分に負い目のある人を
      赦しましたように。
      私たちを試みに遭わせず
      悪からお救いください。』
      マタイ 6章7-13節

      ルカ 11章1-4節 では、
      【 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、
      「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。
      そこで、イエスは言われた。
      「祈るときには、こう言いなさい。
      『父よ
      御名が聖とされますように。
      御国が来ますように。
      私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。
      私たちの罪をお赦しください。
      私たちも自分に負い目のある人を
      皆赦しますから。
      私たちを試みに遭わせないでください。』」】




      つづく・・・




    5. 私の力は

      私の力は、神が人類の救いの為に人(イエス)となって来てくださったことにある。
      私の力は、主(イエス)が私の代わりに十字架で私の罪を負って罰を受けられたことにある、私の代わりに十字架で私の罪を負って死なれたことにある。
      私の力は、イエスが死から復活したことにある。私もその様になることにある。
      私は生まれる前から神に愛されていることにある。
      私が神をアッバ父よと呼べることにある。

      イエス・キリスト、父なる神、聖霊なる神は、私の永遠の喜びである。

      --聖書より--
      【 主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。】
        フィリピ 4章 4節

      私には目的が無い、しかし神にはある。
      主(神)は私の代わりに死なれた。よって、私は主の代わりに生きる。
      私に目的が出来た。主(神)の御心を行うことである。
      年老いても。

      --聖書より--
      【 その方はすべての人のために死んでくださいました。
      生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。 】
        二 コリント 5章 15節



      つづく・・・




    6. 先の見えない辛いことや病気になった時

      最後は天国に行くんだ。
      これは決まっている。
      よく、朝の来ない夜は無いと言う。
      イエスに繋がっている者には、天国の来ない人生は無い。

      信仰、それは信頼である。
      神(イエス様)は愛なる方である。
      神(イエス様)は貴方を愛しておられる。
      神(イエス様)にお任せし平安を得よ。
      ガリラヤ湖で嵐の中の船上で安らかに眠るイエス様を思え。 信仰が増し加わることを祈れ。

      思い煩いよ、心労よ去れ。主は守られる。
      平安よ来たれ。

      ー ー ー
      自分ではどうすることもで出来ないこと、それが悩みを生む。
      自分ではどうすることも出来ないのに、自分で何とかしようと考えるところにある。
      神(イエス様)に任せることを学ぶ時とせよ。
      信仰、それは信頼である。
      神(イエス様)は愛なる方である。
      神(イエス様)は貴方を愛しておられる。
      信仰が増し加わることを祈りましょう。

      --聖書より--
      【 主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
      あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。
      何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。
      そうすれば、 あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。】
        フィリピ 4章 4ー7節

      つづく・・・




    7. 私は何を信じているのか

      イエス様を信じている。
      若き日より聖書から伝道者からイエス様について聞き、イエス様の御ことばを親しく聞き、いつの間にか信じている。
      イエス様を見たことがないのに身近に親しく信じている。
      羊は飼い主の声が分かるものだ。
      故郷がどこか分かるものだ。

      --聖書より--
      【 イエスはトマスに言われた。
      「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」】
        ヨハネ 20章 29節


      イエス様は、ダビデの子孫で、死者の中から復活され、天に上り、神の右の座につかれた。
      今イエス様は天にいる。イエス様は私の目の前にいる。いつも優しい笑顔で力づよい顔のイエス様が見える。
      イエス様は、神である。私は神をアッバ父よ(アッバは、イエスの時代のお父ちゃん)と呼ぶことを許されている。
      イエス様は、天と地の一切の権能を授かっている。そして何時も働いておられる。

      天地 全ては、神が創られた。
      天地が創られたその時イエス様はおられた。
      そして、神は、何時も働いておられ、維持しておられる。
      しかし、何時か神はそれらを巻物のように巻かれる。終末を信じる。
      イエス様は、世の終わりまで、いつも私と共にいて下さる。
      そして私を新しい天と地に連れて行って下さる。

      イエス様は、キリスト(救い主)である。
      イエス・キリストによって私は永遠の命を得た。よって永遠に私は生きる。死なない。復活を信じる。
      イエス・キリストによって、私の罪は洗われ、雪よりも白くなった。

      私は神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地に行く。 義の宿る天国が私の故郷である。そこにはイエス様が私の住まいを用意している。
      よって、私は既に勝利者である。

      神は何時も働いおられる。
      神は愛なる方である。神は私を愛している。
      摂理を信じている。
      私は神を信頼している。よって、神(イエス・キリスト)にあって平安である。

      イエス様は神であることを信じている。

      三位一体を信じている。
      【父(=父なる神・主権)、子(=神の子・子なるイエス・キリスト)、霊(=聖霊・聖神)
      の三つが「一体(=唯一神・唯一の神)」である】
      イエス様は、天と地の一切の権能を授かっていることを信じる。
      イエス様は、神であることを信じる。

      カトリックと普通(と言っていいのか大体のと言っていいのか?)のプロテスタントでは、
      下記の「使徒信条」が唱えられています。
      (使徒信条は、西暦325年にニケヤ公会議で定められました)
      我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
      我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
      主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。
      我は聖霊を信ず。
      聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
      アーメン(その通りですの意味)


      つづく・・・




    8. 人は死の病を治してこそ楽しんで日々を生きることができる

      だれでも、病気になった経験は有るはずです。
      ものによっては、このまま治らないのではないかと思うものもあります。
      死の病こそ一生ついてまわる病です。
      自分は何時かは死ぬんだと思っていて、日々を楽しんで喜んで生きることができるでしょうか。
      できたとしても、生活の中でふと鐘の音が遠くから微かに聞こえるように死というものが脳裏をかすめるはずです。
      人は病気を治してこそ日々を楽しく生きれるように、死の病を解決してこそ日々を楽しく生きることができるのです。

      イエス様は、貴方に言われます。
      --聖書より--
      【 イエスは言われた。
      「わたしは復活であり、命である。
      わたしを信じる者は、死んでも生きる。
      生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
      このことを信じるか。」】
        ヨハネ 11章 25-26節
      聖書には、そのイエス様のことが書かれています。
      さあ、読んでみましょう。

      --聖書より--
      【 あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。】
        ヨハネ 5章 39節




      つづく・・・




    9. 人は平安の中にこそ幸いに生きることができる

      ゆえに、
      --聖書より--
      【 平和を造る人々は、幸いであるその人たちは神の子と呼ばれる。】
        マタイ 5章 9節



      つづく・・・




    10. イエスは私達を救う為に貧しくなられた

      イエスは神であったが人となられた。
      十字架に架かり死んだイエス様の姿は、貧しさの極みである。



      つづく・・・




    11. お金を貯めるより信仰を貯めよ

      信仰と言う資産は、
      生きる意味や喜びを与え、
      たとえ年を取って寝たっきりになっても復活して若い時のように走り回れる希望を与える。
      死んでも復活の希望がある。

      お金はこの世を生きる為の物である。
      あの世では使えないものである。
      お金は人に取られることも有り、死んだら他人の物になる。



      つづく・・・




    12. 神を知っていくことの魅力

      果てが無いことの様に思える。 宇宙と違い空しくない。次から次へと新しい発見があり神を知る喜びがある。やはり神は神である。



      つづく・・・




    13. この世とは

      --聖書より--
      【 初めに神は天と地を創造された。】
        創世記 1章1節

      この世は、神が創られたもの、神が創られたところです。
      ゆえに神を知ることはこの世を知ることでもある。

      神とは「いる」という方です。

      --聖書より--
      【 私はいる、という者である。
        出エジプト 3章 14節

      神には、神の価値観があり、計画があります。



      つづく・・・



    14. 人とは

      --聖書より--
      【  神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
       神は人を自分のかたちに創造された。
       神のかたちにこれを創造し
       男と女に創造された。】
        創世記 1章 26ー27節


      --聖書より--
      【 神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。】
        創世記 2章 7節


      --聖書より--
      【 人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっている。】
        ヘブライ 9章 27節

      以前、土の大部分は生き物の死骸だと聞いたことがある。
      植物、動物、昆虫、人・・・。
      生き物は、被造物は、みな滅びる。
      しかし、金は滅びない。それ故だろうか、人は金を尊ぶ。
      世の終わりには、金さえ滅びる。
      永遠に滅びないのは、神である。それに結ばれているキリスト者である。
      キリスト者の命は、イエス・キリストの内にある。

      イエス・キリスト(神)が心に住んでいる者は、神の神殿である。
      --聖書より--
      【 あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。
      神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。】
        一コリント 3章 16ー17節


      つづく・・・




    15. 知恵の初めと終着

      知恵の初め
      --聖書より--
      【 主を畏れることは知識の初め。】
        箴言 1章7節

      イエス様がこう祈りなさいと、教えて下さった最初のことばも興味深い。
      【『天におられる私たちの父よ
        御名が聖とされますように。】
        マタイ 6章9節


      知恵の終着
      --聖書より--
      【 私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。
      キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。】
        フィリピ 3章8節



      つづく・・・




    16. 死と罪について

      どの国にも、どの町にも墓地が有り、墓地には、墓が累々とある。
      長く生きれば生きるほど、死別に死別の悲哀を味あう。
      誰でも死ぬのである。
      人は死んだらどうなるのでしょうか。

      --聖書より--
      【 人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっている。】
        ヘブライ 9章 27節

      人は死んだ後、裁かれるとある。
      悪をなしたものは、地獄へ、
      正しい人は、天国へ、
      行くのである。
      神は義なる方である。ゆえに、これほどの道理は無い。

      人の心には、罪と言うドスが有る。
        そのドスは、貴方の周りの人を傷つけ、
        貴方自身をも傷つける。
      誰が全てを見ておられる神の裁きに、耐えようか。
      神の前に自分は正しいと言える人はい。

      --聖書より--
      【 愚か者は心の中で言う「神などいない」と。
      彼らは堕落し、忌むべきことをした。
      善を行う者はいない。
      主は天から人の子らを見下ろし
      神を求める悟りある者はいないかと探られる。
      すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。
      善を行う者はいない。一人もいない。】
        詩編 14章 1ー3節

      【 私は自分の背きを知っています。
      罪は絶えず私の前にあります。
      あなたに、ただあなたに私は罪を犯しました。
      あなたの前に悪事を行いました。
      あなたの言われることは正しく
      あなたの裁きに誤りはありません。
      私は過ちの内に生まれ
      母は罪の内に私を身ごもりました。】
        詩編 51章 5ー7節

      【 次のように書いてあるとおりです。
      「正しい者はいない。一人もいない。
      悟る者はいない。
      神を探し求める者はいない。
      皆迷い出て、誰も彼も無益な者になった。
      善を行う者はいない。ただの一人もいない。
      彼らの喉は開いた墓であり
      彼らは舌で人を欺き
      その唇の裏には蛇の毒がある。
      口は呪いと苦味に満ち
      足は血を流そうと急ぎ
      その道には破壊と悲惨がある。
      彼らの目には神への畏れがない。」】
        ローマ 3章 10ー18節

      【 人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっています 】   ローマ 3章 23節

      【 さて、あなたがたは、過ちと罪とのために死んだ者であって、
      かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいたのです。
      私たちも皆、以前はこういう者たちの中にいて、肉の欲のままに生き、肉とその思いとの欲することを行い、ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。】
        エフェソ 2章 1ー3節

      初期キリスト教の使徒パウロは、死と罪とについて下記のように言っています。
      --聖書より--
      【 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。】
        ローマ 5章 12節

      この一人の人とは、人間の始祖アダムのことです。アダムが神がするなと言ったことをしたので、罪が世に入ったのです。その罪が今の人に至るまですべての人に受け継がれ、それによりすべての人が罪を犯し、その結果、すべての人が死ぬのです。

      人は、善を知る者として神のかたちに創られましたが、
      内にある罪は、弱いものをいたわるのではなく虐め。隣人を愛するのではなく呪い。与えるのではなく奪い。貪る。隣人を生かすのではなく、殺す。平和ではなく争い略奪。罪は、人類に何千年、何万年となく戦争をさせました。そして、今も。
      罪は、樹木を刈り尽くし、生き物を追いやり殺し、絶滅させ、家に家を建てつなれ、海はゴミ捨て場と化しました。
      そして、人は「きれいになったでしょう」と口を拭うのです。

      罪が人を人類をその様にさせているのです。

      この世が創られた時は良かった。神は全てを良しと言われた。
      --聖書より--
      【 初めに神は天と地を創造された。
      地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
       神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
      神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、
      光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
       神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。」
      神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。
      神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
       神は言われた。「天の下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ。」そのようになった。
      神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神は見て良しとされた。
       神は言われた。「地は草木を生えさせよ。種をつける草と、種のある実を結ぶ果樹を、それぞれの種類に従って地上に生えさせよ。」そのようになった。
      地は草木を生じさせ、種をつける草をそれぞれの種類に従って、種のある実をつける木をそれぞれの種類に従って生じさせた。神は見て良しとされた。 夕べがあり、朝があった。第三の日である。
       神は言われた。「天の大空に、昼と夜を分ける光るものがあり、季節や日や年のしるしとなれ。
      天の大空に光るものがあって、地上を照らせ。」そのようになった。
      神は二つの大きな光るものを造られた。昼を治める大きな光るものと、夜を治める小さな光るものである。また星を造られた。
      神は地上を照らすため、それらを天の大空に置かれた。
      昼と夜を治めるため、光と闇を分けるためである。神は見て良しとされた。 夕べがあり、朝があった。第四の日である。
       神は言われた。「水は群がる生き物で満ち溢れ、鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
      神は大きな海の怪獣を創造された。水に群がりうごめくあらゆる生き物をそれぞれの種類に従って、また、翼のあるあらゆる鳥をそれぞれの種類に従って創造された。神は見て良しとされた。
      神はそれらを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地に増えよ。」
      夕べがあり、朝があった。第五の日である。
       神は言われた。「地は生き物をそれぞれの種類に従って、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれの種類に従って生み出せ。」そのようになった。 神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て良しとされた。
       神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
       神は人を自分のかたちに創造された。
       神のかたちにこれを創造し
       男と女に創造された。
       神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」
       神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。
      また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。」そのようになった。
      神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
       こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。
      第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。
      神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。】
        創世記 1章1節ー2章3節

      また、大事なことは、人は、死んだ後 神の裁きが有ると言うことです。
      人は死で終わりではないのです。
      神は生きておられます。貴方のした罪を決して忘れません。
      神の目に焼き付いています。
      神は罪のゆえに貴方を必ず罰します。そして、地獄に落します。

      しかし、貴方を創られた神は、愛する貴方が滅びるのを忍びないのです。
      ゆえに神は、恵みと義の賜物である神の独り子イエス・キリストを世に遣わしました。
      彼を信じる者が、罰せられず死なないように。

      神は正しい方です、罪人は必ず罰せられ死ななければなりません。
      貴方を愛する神は、貴方の罪と死を御子に負わせ罰し葬りました。そして、御子は3日目に死から復活しました。
      御子を信ずるならば、御子の十字架と死は貴方のこととなり、御子と共に復活し、罪のない新しい人として生まれ変わるのです。
      罪と死から解放され、永遠の命を頂くには、ただイエス・キリストを私の救い主と信じるだけでいいのです。
      信じるだけで、
      イエス・キリストの十字架の血潮によっり罪が洗いきよめられ、天使のようにきよい者とされ、
      イエス・キリストの義の衣を着せられ、何の欠点もない非の打ち所がない者となるのです。
      天国に住むに相応しい者とされるのです。
      これは神ゆえになせる御業です。人の目には驚くべきことです。
      貴方は、神が御独り子を十字架に架けて死なせるほど神に愛されています。

      --聖書より--
      【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
      御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

        ヨハネ 3章 16節

      【 ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。
      しかし、神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、
      過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――、
      キリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました。
      それは、キリスト・イエスにおいて私たちが賜った慈しみにより、神の限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に現すためでした。あなたがたは恵みにより、 信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。
      行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。
      私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。】
        エフェソ 2章 3ー10節

      神の救いの御業について、パウロは次のように言っています。
      --聖書より--
      【 しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。
      この賜物は、一人の犯した罪の結果とは異なります。裁きの場合は、一つの過ちであっても、罪に定められますが、恵みの場合は、多くの過ちがあっても、義と認められるからです。
      一人の過ちによって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストを通して、命にあって支配するでしょう。
      そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
      一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
      律法が入り込んで来たのは、過ちが増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。
      こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。】
        ローマ 5章 15-21節

      また、罪については、律法とからめて下記のように言ってます。

      (補足:律法とは、
      神が奴隷から解放した選民ユダヤ人に、モーセを通して渡された、法律、戒め、である、十戒をいいます。)

      --聖書より--
      【 確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。
      しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。】
        ローマ 5章 13節

      【 では、何と言うべきでしょうか。律法は罪なのか。決してそうではない。
      だが、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が「貪るな」と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。
      しかし、罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こしました。律法がなければ罪は死んでいたのです。
      私は、かつては律法なしに生きていました。しかし、戒めが来たとき、罪が生き返り、
      私は死にました。命に導くはずの戒めが、私にとっては死に導くものとなりました。
      罪が戒めによって機会を捉え、私を欺き、その戒めによって私を殺したのです。
      実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです。
      それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによって私に死をもたらしました。こうして、罪は戒めによってますます罪深いものとなりました。
      私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。
      私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
      もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
      ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
      私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
      自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
      それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
      内なる人としては神の律法を喜んでいますが、
      私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
      私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。】
        ローマ 7章 7-24節

      罪と死からの救いをパウロは下記の様に言っています。

      --聖書より--
      【 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
       従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。
      キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
       律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
      律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
      肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思います。
       肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。
      なぜなら、肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです。
      肉の内にある者は、神に喜ばれることができません。
       しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
      キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。
      イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう。  それで、きょうだいたち、私たちは、肉に従って生きるという義務を、肉に対して負ってはいません。
      肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
      神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。
      あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
      この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。
      子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、 共に栄光をも受けるからです。
       思うに、今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません。
      被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます。
      被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。
      それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。
      実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。
      被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。 私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。
      まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。
       霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。
      人の心を見極める方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って聖なる者のために執り成してくださるからです。
      神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。
      神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。
      神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。】
        ローマ 7章25節-8章30節





      つづく・・・




    17. 十戒と主の御ことばについて

      十戒は、第一部と第二部にわかれています。
      初めは神に対する私どもの姿勢が教えられており、後のほうは一緒に生きて行く人間の仲間たちに対する私どもの態度について教えられています。
      さらに、主イエスの十戒に対する姿勢は、
      原罪を持つ人間には、到底なしえないことであります。
      しかし、イエスは私どもににおいて十戒が成就する、完成すると言われた。



      つづく・・・




    18. 死ぬということは怖く、そして恐ろしいことなのです

      --聖書より--
      【 人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっている。】
        ヘブライ 9章 27節

      裁きは、良い人は天国へ、
      悪い人は、地獄へ 行く。
      分けられるのである。

      死んだら裁きがある。だから死は怖いのだ。
      神が裁くのだから、それは正しい裁きである。
      貴方が生まれてから死ぬまで、何をしたか。何を思ったか。全て見ておられる。
      神の目から逃れられることは出来ない。

      しかし、キリストの救いを受け入れた人は、この裁きをパスする。
      なぜならば、キリスト・イエスがその人の代わりに裁きと死をを受けたからです。
      そして、復活して今生きておられるイエス・キリストの元、天国に行く。
      キリストに繋がっている者は、日々復活したイエス・キリストと一緒であるから、
      天国は身近である。
      キリストに繋がっているものは、イエス様と同じ様に復活するので、
      復活したイエス様を見ると、自分がどうなるかが分かる。
      弟子の中の二人が、イエス様が十字架に架かられ死んでしまったので落胆して故郷のエマオに行く途中、復活したイエス様が現れ同行した。彼らはイエス様は死んだとばかり思っていたので、一緒に歩ている人がイエス様だとは考えもしなかったので、気づかなかった。家でイエス様がパンを祝福して裂いて二人にお渡しになった時、二人の目が開きイエスだと分かった。
      ここで解る通り、復活したイエス様は、普通の人と変わらない姿っだったことが見て取れる。
      さらに、弟子たちの前でムシャムシャ焼き魚を食べられた。
      私達の今の生活、姿と何ら変わらない。

      また、ペテロやトマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち、その他二人の弟子たちが、やはり落胆し、お腹が空いたのか、元の職業である漁をして、ティベリアス湖畔で網をうった。3年ぶりだったせいか何も取れず夜明けとなった。
      イエス様が岸に現れ、彼らを呼び、炭火を起こし、パンと焼いた魚で朝の食事に招いた。
      まったく、死から復活しても、十字架に架かって死ぬ前のイエス様となんら変ってなかったことを知る。

      しかし、弟子たちが集まっている真ん中に、スーと現れた。
      他の箇所でも、戸にみな鍵がかけてあるのに、スーと皆の真ん中に立たれた。
      復活したら、自動車も飛行機もいらずスーと何処へでも行けるようだ。
      十字架の傷口は有っても痛くないようだ。そして、元気に動く。
      復活したら傷も障害も持病も癒され、元気に動ごけるようだ。

      よって、イエス様によって罪赦されイエスの復活に預かっている者は、イエスと同じように、復活したら、
      前と姿かたちは変わらない姿となるらしい。復活しても違和感がない。
      更に今悪い体の箇所も治り、凄い能力が付くらしい。

      また、復活したイエス様と何時も一緒にいると、復活が身近で、死が無い。
      この世と復活した世とがスーとつながっている。
      よって、死は単なる通る箇所であり、復活したら全てが過去になる。主にある者は、主が前を歩まれるので、死をそんなに怖がらなくていいのである。
      復活したら、時代を超え、主にある人達とあえる。勿論今の主にある信仰の友とも。
      復活したら、イエス様を呼んで皆で美しい野外の青空のしたでパーティーだ。
      更に天国に行ったら悪い奴が居なというのが素晴らしい。
      こんな嬉しいことはない。

      イエス様に繋がっている者の死と復活のしだいはこうです。
      死んだら眠りに入り、イエス様が再臨された時、イエス様に「起きなさい」と言われ復活し目覚めるのである。この世での生と復活の間は、普段の寝る時と起きる時と同じように、人には無いように感じるのである。

      --聖書より--
      会堂長の一人娘が死んで、
      【 人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた。「泣かなくてもよい。娘は死んだのではない。眠っているのだ。」
      人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスを嘲笑った。
      イエスは娘の手を取って、「子よ、起きなさい」と呼びかけられた。
      すると、霊が戻って、娘はすぐに起き上がった。】
        ルカ 8章 52ー55節

      イエス様に繋がっていない者のはそうではない。
      死んだら眠りに入り、イエス様が再臨された時、神に起こされ裁かれ、
      永遠の地獄に入るのである。

      ですから、私は声を大にして言いたい。
      今は、その様な目に合わない、救いの時なのです。救われるチャンスの時なのです。
      財産を沢山持っていてもだめなのです。元気でもだめなのです。今更良いことをしてもだめなのです。
      ただ、イエス様を神から来られた救い主と信じ、私が滅びない為に代わりに罰を受け死なれたと信じることだけなのです。
      イエス様を信じるだけでいいのです。救われるにはだだ天から来られたイエス・キリストを信じるほかはないのです。

      --聖書より--
      【 この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、
      この一切の出来事について話し合っていた。
      話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。
      しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
      イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。それで、二人は暗い顔をして立ち止まった。
      その一人のクレオパと言う人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
      イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。
      「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
      それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡し、十字架につけてしまったのです。
      私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
      ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たちが朝早く墓へ行きますと、
      遺体が見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 それで、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
      そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、
      メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」
      そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。
       一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
      二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。
      一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。
      すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
      二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」
      すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
      主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。
      二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。】
        ルカ 24章 13ー35節

      【 こう話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
      彼らは恐れおののき、霊を見ているのだと思った。
      そこで、イエスは言われた。「なぜ、取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか。
       私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ。」
      こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
      彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていると、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
      そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
      イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。】
        ルカ 24章 36ー43節

      【 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
      そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。】
        ヨハネ 20章 19ー20節

      【 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
      そこで、ほかの弟子たちが、「私たちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」
      八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
      それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
      トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。
      イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」】
        ヨハネ 20章 24ー29節

      【 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身を現された。その次第はこうである。
      シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子が一緒にいた。
      シモン・ペトロが、「私は漁に出る」と言うと、彼らは、「私たちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何も捕れなかった。
      すでに夜が明けた頃、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
      イエスが、「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と言われると、彼らは、「捕れません」と答えた。
      イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
      イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
      ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚が載せてあり、パンもあった。
      イエスが、「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 そこで、シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多く捕れたのに、網は破れていなかった。
      イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であると分かっていたからである。 イエスは来て、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
      イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。】
        ヨハネ 21章 1ー14節


      しかし、神からの救い主イエス・キリストを信じない者は、死を恐れよ。
      罪人のままで死ぬのだから。
      神がいるので、悪いことをしたら必ず罰せられる。
      これが神の前における鉄則である。
      キリストに繋がっている者は裁かれない。
      イエス様を信ぜず、粋がっているものは哀れである。
      聖職者の衣を着、救われた当時の自分を忘れ、イエスの誉れよりも自分の誉れを追い、信者を裁き優越感に浸り、弱いもの貧しいものをいたぶる者は言語道断である。
      一般の人より多く罰せられるであろう。
      地獄がまっている。
      神を誉め讃えます。アーメン。

      地獄とはとんでもないところだと早く気が付てください。
      --聖書より--
      【 誰を恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。】   ルカ 12章 5節
      【「しかし、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるほうがましである。
        人をつまずかせるこの世に災いあれ。つまずきは必ず来るが、つまずきをもたらす者には災いがある。
      もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になって命に入るほうがよい。
      もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。両目がそろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりは、一つの目になって命に入るほうがよい。」】
        マタイ 18章 6ー9節

      【「ある金持ちがいた。紫の布や上質の亜麻布を着て、毎日、派手な生活を楽しんでいた。
      この金持ちの門前に、ラザロと言う出来物だらけの貧しい人が横たわり、
      その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼の出来物をなめていた。
      やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
      そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、アブラハムとその懐にいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
      そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。この炎の中で苦しくてたまりません。』
      しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
      そればかりか、私たちとお前たちの間には大きな淵が設けられ、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない。』
      金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。私の父親の家にラザロを遣わしてください。
      私には兄弟が五人いますので、こんな苦しい場所に来ることのないように、彼らによく言い聞かせてください。』
      しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
      金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死者の中から誰かが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
      アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないならば、たとえ誰かが死者の中から復活しても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」】
        ルカ 16章 19ー31節

      【 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。
      海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。
      死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
      命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。】
        黙示録 20章 12ー15節



      つづく・・・




    19. イエス・キリストを信じれば(信頼すれば)死ぬということは怖くなく、そして恐ろしいことではなくなるのです

      イエス様を見上げると、死はない。


      つづく・・・




    20. 罪人が義人となる福音について

      --聖書より--
      【 私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、
      その真実に基づいて神から与えられる義があります。】
        フィリピ 3章 9節

      --聖書より--
      【 この福音は、神が聖書の中で預言者を通してあらかじめ約束されたものであり、
      御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
      聖なる霊によれば死者の中からの復活によって力ある神の子と定められました。この方が、私たちの主イエス・キリストです。】
        ローマ 1章 2-4節

      --聖書より--
      【 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。
      神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。】
        ローマ 1章 16-17節

      救われるには初めに自分がいかに罪深いものか知ることです。
      「健康な者には医者は要らない」の通りです。
      親に犯した罪、兄弟に犯した罪、妻に犯した罪、子に犯した罪、隣人に犯した罪、天地を創られた聖なる神に対する罪、・・・
      どうしょうもない、罪深い自分を見つめることです。
      このままだと、罪人として死に、地獄に行くことを恐れることです。
      そんな、貴方の為にイエス様は、貴方の代わりとなって十字架で罰を受け死なれたのです。
      神は御独り子を貴方の為にそうさせたのです。神が貴方を愛しているからです。
      イエス様は聖霊によってお生まれになった方です。原罪がありません。そして、十字架に架かって死なれるまで何の罪をも犯しませんでした。それだからこそ、貴方の罪を担えるのです。
      イエス様と一緒に十字架に架かった二人の一人が十字架上で証した通りです。

      --聖書より--
      【 はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」
      すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。 同じ刑罰を受けているのに。
      我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
      そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。
      するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。
      すでに昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、三時に及んだ。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
      イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。】
        ルカ 23章 29ー46節

      自分がいかに罪深いのかを自覚そたら、イエスに「貴方を信じます。私は救われたいのです。救って下さい。」と言うことです。
      イエスの十字架と死は、私の十字架と死だと受け入れることです。
      貴方は、イエスと共に罪に死んだのです。イエスが貴方の身代わりとなって死んだのです。
      貴方の罪はそれで無くなったのです。神の御前に義人となったのです。
      人に後ろ指を刺されようが、神は貴方には何の罪も無い、義人だと見てくれるのです。
      イエス様は、死んで三日の後、死から復活なさいました。
      貴方がもし死んでもイエス様のように復活します。
      そして御国に行きます。
      ハレルヤ 神を誉め讃えましょう。


      つづく・・・




    21. イエスを信じたらどうなるか

      死から復活して天に昇られたイエス様に祈れる。
      お話ができる。
      イエス様が身近になる。
      つまり、イエス様との交わりに入る。
      イエス様は死から復活したので、もう死なない。
      死なないイエス様と交わりにはいるので、信じた人も死なない。
      イエス様と永遠に生きる。

      --聖書より--
      【 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。】
        二コリント 13章 13節

      【 あなたは、すべての人を支配する権能を子にお与えになったからです。
      こうして、子が、あなたから賜ったすべての者に、永遠の命を与えることができるのです。
      永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。】
        ヨハネ 17章 3節

      【 父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。
      あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
      あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
      父よ、私に与えてくださった人々を、私のいる所に、共にいるようにしてください。天地創造の前から私を愛して、与えてくださった私の栄光を、彼らに見させてください。
      正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私をお遣わしになったことを知っています。
      私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。】
        ヨハネ 17章 21ー26節

      【 私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせるのは、あなたがたも、私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
      私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためです。】
        一ヨハネ 1章 3ー4節

      イエス様を信じた人へのお勧め

      --聖書より--
      【 あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
      上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。
      あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。
      あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
       だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。
      これらのことのために、神の怒りが不従順の子らの上に下るのです。
      あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました。
      しかし今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、冒瀆、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
      互いに噓をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
      新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。 そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。
       ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
      互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
      さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。
      また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。また、感謝する人になりなさい。
      キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。
      そして、言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。
       妻たちよ、主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
      夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはなりません。
      子どもたちよ、何事につけ両親に従いなさい。それが主に喜ばれることです。
      父親たち、子どもたちをいらだたせてはなりません。いじけるといけないからです。
      ・・・
      何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
      あなたがたは、相続にあずかるという報いを主から受けることを知っています。主キリストに仕えなさい。
      不正を働く者はその不正の報いを受けるでしょう。そこに分け隔てはありません。
      ・・・
      たゆまず祈りなさい。感謝のうちに、目を覚まして祈りなさい。
      ・・・
      時をよく用い、外部の人に対して知恵をもって振る舞いなさい。
      いつも、塩味の効いた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどのように答えるべきか、分かるでしょう。】
        コロサイ 3章1節 ー 4章9節



      つづく・・・




    22. イエスを信じたらどう生きるか

      神を喜んで生きるのである。

      --聖書より--
      【 私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。
      キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。
      キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。
      私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。
      私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
      私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。
      きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
      だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたが何か別の考え方をしているなら、神はそのことも明らかにしてくださいます。
      いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう。
       きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
      何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架の敵として歩んでいる者が多いのです。
      彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません。
      しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
      キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです。
       ですから、私が愛し、慕っているきょうだいたち、私の喜びであり、冠である愛する人たち、このように、主にあってしっかりと立ちなさい。
      私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい。
      なお、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです。
       主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
      あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。
      何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。
      そうすれば、 あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。
       なお、きょうだいたち、すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
      私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたと共におられます。】
        フィリピ 3章8節 ー 4章9節

      神を喜んで生きる。
      主の祈りをとなえ生きる。
      父なる神、御子イエス、聖霊なる神を聖とし、歩む。
      「心を尽くし、思いを尽くし、主なる神を愛せよ。隣人を自分を愛するように愛せよ。」
      に従い歩む。

      罪を避け、聖なる主を見上げ、主に告白して悔い改め、聖く成って行くこと。 イエス様を信じていない人とはあまり付き合わない。
      偽信者を避ける。
      日曜日を聖なる日とする。
      主と助けてであり信仰の友(妻)といることを神に感謝すること。
      キリストの名によって二人三人集まるところにキリストは居られる。キリストに有って妻といる所にはイエス様は居られる。神様イエス様聖霊様について喜んで語り合う。
      大事なことは、イエスと共にいること、そこに私はいる。私の現存の全てがそこにある。
      「我思う。ゆえに我有り」ではない。



      つづく・・・



    23. 夫婦について妻について

      年ごとに
      互いの信仰と愛が増してくる
      感謝である。

      私と妻とイエス様
      小さな教会

      --聖書より--
      【 二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。】
        マタイ 18章 20節



      つづく・・・



    24. 母親、父親について

      幸せそうな母親の顔しか思い出せない。
      これは私が幼きころ初めて見た母親の顔だろうか。
      父親も。

      優しく力強いイエス様、アッバ父(神様)の顔しか見えない。
      救われた時から、天地が造られる前から。



      つづく・・・



    25. 神はいつも働いておられる




      つづく・・・



    26. 復活したイエス様は、何故天に昇られたか

      イエス様は、天に昇られる時に、
      --聖書より--
      【 全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。】
        マルコ 16章 15節
      と御命じになった。
      イエス様は、天に居られるので、地球の何処からでも見上げることが出来る。



      つづく・・・



    27. 天国について

      天国は、イエス様が居られるので身近に感じる。
      天国は、飛行機で行けない。船でも行けない。歩いても行けない。
      でも、イエス様が居られるので身近だ。

      天国には、墓が無い。よって、死別の悲哀が無い。
      天国には、愛の無い人は居ない。
      悪い人は居ない。主イエス・キリストによって新たに生まれ御霊に生きる人だけ居る。
      意地の悪い人、嫉妬深い人は居ない。虐める人は居ない。偽善者は居ない。

      ・・・・・



      つづく・・・




    28. 主の祈りについて

      十代から主の祈りを唱え続けて、もう70歳になるが、いまだに主の祈りはすごいと思う。 常に新鮮に私の心をつかむ。

      カトリック 主の祈り
      【 天におられるわたしたちの父よ、
      み名が聖とされますように。
      み国が来ますように。
      みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
      わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
      わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
      わたしたちを誘惑におちいらせず、
      悪からお救いください。

      アーメン。】

      --聖書より--(聖書教会共同訳)
      【 祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。
      彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
      だから、こう祈りなさい。
      『天におられる私たちの父よ
      御名が聖とされますように。
      御国が来ますように。
      御心が行われますように
      天におけるように地の上にも。
      私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
      私たちの負い目をお赦しください
      私たちも自分に負い目のある人を
      赦しましたように。
      私たちを試みに遭わせず
      悪からお救いください。』
      マタイ 6章7-13節

      ルカ 11章1-4節 では、
      【 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、
      「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。
      そこで、イエスは言われた。
      「祈るときには、こう言いなさい。
      『父よ
      御名が聖とされますように。
      御国が来ますように。
      私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。
      私たちの罪をお赦しください。
      私たちも自分に負い目のある人を
      皆赦しますから。
      私たちを試みに遭わせないでください。』」】




      つづく・・・




    29. 死なないことの喜び

      生きていることの喜びを知った者が言えるのであろう。
      この世だけで生きている者には無い。
      この世は、茨とあざみが生え、全ての人は悪いことをたくらみ、愛が無い。そして土に帰る。

      本当の喜びは、天から来たものによるのであろう。
      イエス・キリストは天から来たものである。
      よって、イエス・キリストを知らない者は、本当の喜びを知らないと言える。



      つづく・・・




    30. 永遠の命を得ていなかったら

      のんびりと音楽を鑑賞することができるだろうか。
      コーヒーを丁寧に淹れられるだろうか。
      老人のつまらない話など聞いてあげられるだろうか。
      永遠の命を得てこそ、人は本当のセレブな生き方ができるのである。



      つづく・・・




    31. 人の本当の成長とは、成長して行くとは

      子供は成長して行く。そして成長は止まり年老いていく。そして死ぬ。
      学問は、技術は、勤勉に継続していけば成長して行く。しかし、年をとればそれは止まり、忘れて行き、そして死ぬ。
      神を知って行くことは、相手が神なので果てがない。汲めど尽きない。
      イエス・キリストを知って行くことは神を知って行くことである。
      更にイエス・キリストから永遠の命が与えられる。
      永遠の喜びを知るのである。
      神を知って行くこと、神に近づいて行くことが本当の成長していくことである。



      つづく・・・



    32. 私とは何者なのでしょうか

      --聖書より--
      【 あなたの指の業である天をあなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。
      人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。
      人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。
      あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ
      栄光と誉れの冠を授け
      御手の業を治めさせ
      あらゆるものをその足元に置かれた。
      羊も牛もことごとく、また野の獣
      空の鳥、海の魚
      潮路をよぎるものまでも。】
        詩編 8章 1ー9節

      私とは何者なのでしょうか
      私が滅びないように、神の御独り子を十字架に架け血をながされ死なせるとは。
      私とは何者なのでしょうか

      --聖書より--
      【 どんな家でも誰かが建てるものですが、万物を建てられたのは神なのです。
      モーセは後に語られることを証しするため、仕える者として神の家全体にわたり忠実でした。
      しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められます。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるなら、私たちこそ神の家なのです。】
        ヘブライ 3章 4ー6節


      つづく・・・




    33. イエス様と言う方

      王の中の王なのに、
      馬小屋で生まれ、飼い葉桶の中に寝かせられた。

      王の中の王なのに、
      生まれて直ぐに、その地の権力者に命を狙われ、親と共にエジプトに逃れた。

      王の中の王なのに、
      育った故郷の人達に、崖から落されかけた。

      王の中の王なのに、
      ロバの子に乗って、エルサレムへ入場した。


      --聖書より--
      【 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
      なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。
       「ホサナ。
       主の名によって来られる方に、祝福があるように
       イスラエルの王に。」
      イエスは子ろばを見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
      「シオンの娘よ、恐れるな。
      見よ、あなたの王が来る。
      ろばの子に乗って。」】
        ヨハネ 8章 12節

      復活しても、私達と同じような姿で現れた。
      エマオの途上で、二人の弟子に現れた時は、普通の人で彼らは気が付かなかった。

      --聖書より--
      【 この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、
      この一切の出来事について話し合っていた。
      話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。
      しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。】
        ヨハネ 8章 12節

      復活しても、私達と同じ物を私達と一緒に普通に食べた。

      --聖書より--
      【 私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ。」
      こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
      彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていると、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
      そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
      イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。】
        ルカ 24章 36ー43節

      【 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であると分かっていたからである。 イエスは来て、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。】
        ヨハネ 21章 1ー14節


      --聖書より--
      【 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており】
        コロサイ人への手紙 2章9節


      【 ある箇所で、こう証しされています。
      「人とは何者なのか
        あなたが心に留めてくださるとは。
      また、人の子とは何者なのか
        あなたが顧みてくださるとは。
      あなたは彼を僅かの間
        天使たちよりも劣る者とし
      栄光と誉れの冠を授け
      万物をその足元に従わせられました。」
      「万物を彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、私たちはいまだに、万物がこの方に従っている状態を見ていません。
      ただ、「僅かの間、天使より劣る者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と誉れの冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれたのです。
      というのは、多くの子たちを栄光へと導くために、彼らの救いの導き手を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。
      実際、聖とする方も、聖とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それゆえ、イエスは彼らをきょうだいと呼ぶことを恥としないで、
      「私は、きょうだいたちに
      あなたの名を告げ知らせ
      集会の中であなたを賛美しよう」
      と言い、また、
      「私は神に信頼する」
      と言い、さらにまた、
      「見よ、私と
      神が私に与えてくださった子たちがいます」
      と言われます。
      そこで、子たちは皆血と肉とを持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました。それは、ご自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にし、
      死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放されるためでした。
      確かに、イエスは天使たちを助けるのではなく、アブラハムの子孫を助けられるのです。
      それで、イエスは、神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を宥めるために、あらゆる点できょうだいたちと同じようにならなければなりませんでした。
      事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
      だから、天の召しにあずかっている聖なるきょうだいたち、私たちが告白している使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
      モーセが神の家全体にわたり忠実であったように、イエスは、ご自分を任命した方に忠実であられました。
      家を建てた者が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。
      どんな家でも誰かが建てるものですが、万物を建てられたのは神なのです。
      モーセは後に語られることを証しするため、仕える者として神の家全体にわたり忠実でした。
      しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められます。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるなら、私たちこそ神の家なのです。】
        ヘブライ 2章 6ー 3章 6節


      つづく・・・




    34. 人のおもな目的は

      イエス様について、聖書では
      【 万物の存在の目標であり源である方 】
        ヘブライ 2章10節
      とあります。 深いことばだと思います。時間を掛けて味わいたい御ことばだと思います。

      また、ウエストミンスタ―小教理問答書 では、
      「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし永遠に神を喜ぶことです。」

      ウィキペディアより、
      ウェストミンスター小教理問答、は、1640年代にイングランドとスコットランドの神学者によって書かれた小教理問答である。ウェストミンスター会議は、この教理問答と、ウェストミンスター信仰告白、ウェストミンスター大教理問答を作成した。これらの3文書は、プロテスタントの偉大な教理の宣言であるとみなされている。

      この文を記述することができる根拠は、何処にあるのだろう。
      人間を創った神が、人間にお渡しになった人間ついてのマニュアル、聖書に書かれているから、と言うことです。

      --聖書より--
      【 初めに神は天と地を創造された。】
        創世記 1章1節

      【 神は人を自分のかたちに創造された。
      神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。】
        創世記 1章 27節

      人間を創った神が、創った人間に、マニュアルを渡さないことがあるでしょうか。
      人間でさへパソコン、携帯などを作れば、その使い方、マニュアルを書いて使う人に渡します。
      まして、人間の創造主神が、人間とは何なのか、どの様に生きたらいいのか、その他仕様を書いて、人間に渡さないことがあるでしょうか。

      人間以外の生物には、生き方は、本能として書かれています。
      人間は、本能以外に「神のかたちに創造された」ので理性で、神と向き合って、自分とは何なのか、どの様にいきるのか、生きているこの世はどんなところなのか、死んだら何処に行くのか、その他必要なことを人間のマニュアル聖書でもって知るのです。人間だからです。
      もう一度いいます。神がですよ、人間を創った神が、創った人間に、マニュアルを渡さないことがあるでしょうか。

      そういうわけで、これから聖書を基に、この世とは、私とは、などなどひも解いていきましょう。

      「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし
      とはどう言うことでしょう。

      残念ながら、「神の栄光をあらわし」と言っても、人間には、原罪があるので神の栄光をあらわすことはできません。
      原罪があるので、人は光のない出口のない暗闇の中で、神の栄光とは何なのかすら知らず、
      生まれたらいいが、ただ七転八倒して生き、そして死ぬのです。

      原罪について
      ウキペディアによると、
        「原罪とは、アダムとイヴから受け継がれた罪のこと。」
      とあります。

      また、パウロは、原罪を持つ人間の惨めさを下記のように言っています。
      --聖書より--
      【 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。】
        ローマ 5章 12節

      パウロは、人は罪があるので、人は死ぬのだ。と言っています。
      また、罪については、律法とからめて下記のように言ってます。

      (補足:律法とは、
      神が奴隷から解放した選民ユダヤ人に、モーセを通して渡された、法律、戒め、である、十戒をいいます。)

      --聖書より--
      【 確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。
      しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。】
        ローマ 5章 13節

      --聖書より--
      【 では、何と言うべきでしょうか。律法は罪なのか。決してそうではない。
      だが、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が「貪るな」と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。
      しかし、罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こしました。律法がなければ罪は死んでいたのです。
      私は、かつては律法なしに生きていました。しかし、戒めが来たとき、罪が生き返り、
      私は死にました。命に導くはずの戒めが、私にとっては死に導くものとなりました。
      罪が戒めによって機会を捉え、私を欺き、その戒めによって私を殺したのです。
      実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです。
      それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによって私に死をもたらしました。こうして、罪は戒めによってますます罪深いものとなりました。
      私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。
      私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
      もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
      ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
      私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
      自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
      それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
      内なる人としては神の律法を喜んでいますが、
      私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
      私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。
      私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。】
        ローマ 7章 7-25節


      原罪を持つ人間そのままではあらわせない。
      まず、イエス様を神の子救い主と信じてみる。
      それからのことは、下記の様に、聖書では表現しています。

      --聖書より--
      【 また、イエスは言われた。
      「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、
      夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
      地はおのずから実を結ばせるのであり、初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる。
      実が熟すと、すぐに鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

      また、イエスは言われた。
      「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
      それは、からし種のようなものである。地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
      蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」】
        マルコ 4章 26-32節

      【 また、別のたとえをお話しになった。
      「天の国は、パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの小麦粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ。」】
        マタイ 13章 33節
      補足:サトンとは、当時の容量の単位。1サトンは12.8L、3サトンは37.6L。随分多くの小麦粉ですね。その中にパン種を少しいれるだけでとてつもないおおきさになるとの意味です。

      ただイエス様を信じればいいのです。
      まったく神のなせる業です。

      せっかく天からの信仰をこの土の器に頂いたのだから、
      大事にしなければなりません。
      良く実をむすぶ為に、イエス様は下記の様な注意をたとえで話されました。

      --聖書より--
      【 イエスはたとえを用いて多くのことを語られた。
      「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
      蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
      ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。
      しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
      ほかの種は茨の上に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった。
      ほかの種は良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。
      耳のある者は聞きなさい。」】
        マタイ 13章 3-9節

      【「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
      誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
      石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、
      自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
      茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を塞いで実を結ばない人である。
      良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、実に、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」】
        マタイ 13章 18-23節

      信仰を大事にして、生きていきましょう。
      神の国が自分の内にどんどん広がり、喜びと希望が溢れ、他の人も憩う者ともなるでしょう。

      次に、
      永遠に神を喜ぶこと とはどう言うことでしょう。
      イエス様を喜ぶと言うことです。

      --聖書より--
      【 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。
      すると、雲の中から、
      「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」
      と言う声がした。】
        マタイ 17章 5節

      神様がイエス様を
      「これは私の愛する子、私の心に適う者。」
      と喜んでおられます。
      「心に適う」はヘブル語で、「喜ぶ」という意味でもあります。
      ですから、神を喜ぶとは、神が喜んでおられるイエス様を神と一緒に喜ぶことです。

      では、イエス様とはどんな方でしょうか。
      イエス様はご自身んについては、聖書が証していると言われました。

      --聖書より--
      【 聖書は私について証しをするものだ。】

        ヨハネ 5章 39節
      とイエス様は、言われました。

      ですから、聖書を読んで、イエス様の歩まれた道をイエス様と一緒に訪ね、知って、神様と一緒にイエス様を喜んで行きましょう。

      イエス様は、死から復活したので永遠に生きておられる方です。
      イエス様を信じた私達もその復活に預かり永遠に生きれるのです。
      ですから、永遠に神様(イエス様)を喜ぶことが出来るのです。
      また、喜ぶとは楽しむと言うことでもあります。
      皆で楽しめたらどんなに喜べるでしょう。
      しかし、今は終末が近いのでしょうか、年老いた貧乏人の私が行く教会がない。

      終末のしるし
      --聖書より--
      【 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
      イエスは言われた。「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」
       イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
      イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
      私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
      戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。
      民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
      しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
      その時、人々は、あなたがたを苦しみに遭わせ、殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての民に憎まれる。
      その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
      また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。
      不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
      しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
      そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」】
        マタイ 24章 1-14節


      つづく・・・




    35. 光について

      光は、ほんのちょっとの隙間があるだけで、暗い部屋を明るくする。
      イエス様もほんのちょっと受け入れるだけで、貴方の心は明るくなる。
      さらに、貴方は周りを明るくする。

      --聖書より--
      【 イエスは再び言われた。
      「私は世の光である。
      私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」】
        ヨハネ 8章 12節



      つづく・・・




    36. 聖書とは人間のマニュアルでもある

      --聖書より--
      【 神は人を自分のかたちに創造された。
      神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。】
      創世記 1章 27節

      人間を創った神が、創った人間に、マニュアルを渡さないことがあるでしょうか。
      人間でさへパソコン、携帯などを作れば、その使い方、マニュアルを書いて使う人に渡します。
      まして、人間の創造主神が書いて、人間に渡さないはずがありません。

      携帯をより良く使うには、その能力を最大限発揮させるには、その携帯のマニュアルを読むことです。そして従うことです。
      同じように、人間もより良く生きるには、自分の能力を最大限発揮させるには、人間のマニュアルである聖書を読むことです。そして従うことです。

      また、マニュアルにはしてはいけないことが書かれてあります。 例えば、携帯を金槌がわりにつかってはいけませんね、必ず壊れます。
      人間のマニュアルである聖書にも、してはいけないことが書かれてあります。それをすると不幸になるから、死ぬから、などが書かれてあります。

      はっきり言います、貴方は人間です。間違いなく人間です。
      だから、人間を創った神が、人間に渡されたマニュアル、聖書を読みましょう。
      今、生きる意味が分からなかったり、生きる力がなかったら、自分のマニュアル聖書をまずよみましょう。
      もしも、貴方が今不幸であったら、七転八倒するほどどうしたら良いか分からなかったら、涙を流しながらで良いんです、聖書を読みましょう。神は生きておられます。貴方を創った神は、貴方を愛おしいほど愛しています。神は生きておられます。良い方向に導いて下さいます。さあ、貴方を創った神を見上げましょう。幸福になりましょう。
      自分を創ったかたの話を聞きましょう。
      聖書は、人間のマニュアルなのだから、必ず答えが与えられます。
      幸せになりましょう。
      貴方は幸せになるために生まれたのです。
      自分を創った神に感謝し、喜んで生きるために、神は貴方を御創りになったのです。

      神は、貴方の名を手に刻むほど愛しています。
      --聖書より--
      【 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。
      自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。
      たとえ、女たちが忘れても
      私はあなたを忘れない。
      見よ、私はあなたを手のひらに刻みつけた。】
      イザヤ 49章15-16節

      聖書は、66巻からなります。
      約1500年にわたって書き継がれてきたものです。
      書いた人の数は、約40人です。
      王様や祭司、政府の高官、漁師、羊飼い、医者・・・様々な職業の人によって書かれたものです。
      しかし、聖書は、初めから終わりまで不思議な統一性があります。
      何故かというと、彼ら著者の背景に本物の著者がいるからです。
      それが神です。
      神がそれら40人の著者を導き、彼らの個性を生かし、各書を執筆させたのです。
      それゆえ、聖書には統一性と一貫性があるのです。
      こんなのが他に有りますか。

      【 聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。
      こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。】
      二 テモテ 3章16-17節

      書き方は数学的に書かれています。
      すなわち人間が理解しやすいように書かれているのです。
      始めに変わらないことが書かれ、そこから付随したことがらが、出来事が木の枝、木の根のように順序よく書かれています。フラクタル、樹形です。
      聖書は樹形の構造をもって書かれています。

      聖書の始めは、
      【 初めに神は天と地を創造された。】
      創世記 1章1節
      から始まります。

      人間の罪と不幸の始まり。
      原罪を持つ人間の悲惨な人の世の話。 そこからの救い主がお生まれになるまでの話。
      救いの時の話。
      世の終わりの話。
      新しい天と地の話。

      救い主、イエス様の誕生までのことも、
      初めの人アダムからアブラハム、ダビデ、イエス、系図でもって順序良く書かれています。
      そして、私達日本人もクリスチャンとして新しく生まれ変わるなら、信仰による神の民としてその系図の中に組み込まれます。
      よって、アダムから現代の私たちまでの系図を聖書を追って読むことによって、私が誰なのか、何処から来たのか、何処へ行くのかがわかるのです。

      人の人生も、 人の生まれ。
      人の原罪による暗闇の人生。
      人の救い。
      人の光と希望の人生。
      人の死。
      人の復活。
      人の新しい天と地への移動。
      と順序良く書かれています。

      実に聖書は、貴方のことが書かれているのです。

      この系図には、当然多くの登場人物が現れます。信仰の系図に照らせば、彼らは貴方のお祖父さん、御婆さんです。
      ですから良いとこも悪いところも貴方ににています。
      お祖父さん、あんたもやっちまったか。です。
      また、今艱難にあるなら、にたような艱難にあった貴方のお祖父さんがいたことを知るでしょう。
      そして、それらを、私のお祖父さんは、どのように解決したかが分かり、参考になります。
      また神は、貴方の多くのお祖父さん御婆さんを、愛し、守り導いて下さったことを知るでしょう。あなたもそうなるでしょう。
      ですから、聖書を読み、愛なる神を信じて生きると、楽天家になるのです。
      神が創られた世界は、素晴らしい。美しい。そして多くのお祖父さんや御婆さんに囲まれて、愛されて、貴方は幸せもんだ。
      人生は、素晴らしい。


      以前こんな話を聞いたことがあります。
      ある人が、亡くなる前にベットで召使に本を持ってくるように頼みました。
      彼は本を沢山持っていたのでしょう。
      召使が「どの本をお持ちしましょうか?」と尋ねました。
      主人は「本といったら聖書だろう。」と答えました。
      そうです。聖書は、本の中の本なのです。



      つづく・・・




    37. 神様の勝手でしょ

      神は祝福したいものを祝福する。
      それを神は不公平だとか、その様なユダヤ教、キリスト教の神は本当の神ではない。
      神は平等だ。
      と言う人がいるが、神を知らない人の言葉である。
      神はしたいことをする。誰からも束縛されない。神だから。
      神様の勝手でしょ。である。



      つづく・・・




    38. 福音の枝葉


      • だれでも渇いているなら

        お盆の夜、公園の方から、遠くエイサーが聞こえた。
        コロナ禍の中、何年ぶりだろう。
        しばらく聞いていた。
        エイサーは消えた。
        家の前を家族ずれが通った。
        「イヤ サッサー」と幼い女の子の声が聞こえた。
        それもまた遠くへ消えて行った。

        --聖書より--
        【 祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。
        「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。
        私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」
        イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。】
          ヨハネ 7章 37-39節


        ここに一人の女がいた。
        彼女には、飽きられたのだろうか、捨てられたのだろうか、
        飽きたのだろうか、捨てたのだろうか、
        4人の男がいた。
        今は5人目の男といる。
        涼しい朝や夕暮れをさけ、人気のない暑い日中井戸に水を汲みに来た。
        イエス様は旅に疲れ喉が渇き、彼女に水を飲ませてくれないかと言った。

        --聖書より--
        【 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際していなかったからである。
        イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。」
        女は言った。「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。
        あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から飲んだのです。」
        イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。 しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
        女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」
        イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
        女は答えて、「私には夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』というのは、もっともだ。
        あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたの言ったことは本当だ。」
        女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
        私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
        イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
        あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
        しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
        神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」
        女は言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」
        イエスは言われた。「あなたと話をしているこの私が、それである。」】
          ヨハネ 4章 9-26節



      • イエス・キリストを信じるとどうなるか

        --聖書より--
        【 あなたがたの信仰によって、キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように。
        あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、
        すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、
        人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。】
          エフェソ 3章 17-19節



      • 大いなる梯子

        イエス様は、今天に居られる。
        と同時に私と共に居られる。
        これは、ヤコブの梯子どころではない。
        大いなる梯子である。
        私は人生の嵐の中で、安心して枕して眠る。

        --聖書より--
        【 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
        だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。
        彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
        あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】
          創世記 28章 10-15節

        --聖書より--
        【 ヤコブはベエル・シェバをたって、ハランへと向かった。
        ある場所にさしかかったとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。彼はそこにあった石を取って頭の下に置き、その場所に身を横たえて眠り、
        夢を見た。すると、先端が天にまで達する階段が地に据えられていて、神の使いたちが昇り降りしていた。
        すると、主がそばに立って言われた。「私は主、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神である。今あなたが身を横たえているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
        あなたの子孫は地の塵のようになって、西へ東へ、北へ南へと広がってゆく。そして地上のすべての氏族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
        私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない。」
        ヤコブは眠りから覚めて言った。「本当に、主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。」】
          創世記 28章 10-15節




      • 神はいると信じるとこの世が解る

        神は見えない、触れない、科学的に証明することは出来ない。
        神は信じることでしか知ることが出来ない方である。
        それは、神だからである。

        神がいることを信じないで知らなければ、この世は解らない。
        神がいることを信じて知れば、この世が解る。

        --聖書より--
        【 主を畏れることは知識の初め。】
          箴言 1章 7節

        【 モーセは神に言った。
        「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、
        『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。
        すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。
        私は何と彼らに言いましょう。」
        神はモーセに言われた。
        私はいる、という者である。
        そして言われた。
        「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」】
          出エジプト 3章 13ー14節



      • イエス様は真実な方

        --聖書より--


           章 節



      • イエスにある生き方

        イエス様を喜ぶこと。
        イエス様を誇りに思うこと。
        イエス様に泥を塗るような行為をしないこと。
        --聖書より--


           章 節





      • イエス様を愛する

        --聖書より--
        【「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
        そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
        羊を右に、山羊を左に置く。
        そうして、王は右側にいる人たちに言う。
        『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。
        そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。
        裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
        すると、正しい人たちが王に答える。
        『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
        いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
        いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
        そこで、王は答える。
        『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』
        それから、王は左側にいる人たちにも言う。
        『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその使いたちに用意してある永遠の火に入れ。
        あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせず、喉が渇いていたときに飲ませず、
        よそ者であったときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、世話をしてくれなかったからだ。』
        すると、彼らも答える。
        『主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、よその人であったり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お仕えしなかったでしょうか。』
        そこで、王は答える。
        『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。』
        こうして、この人たちは永遠の懲らしめを受け、正しい人たちは永遠の命に入るであろう。」】
          マタイ 25章 31ー46節





      • クリスチャンとは

        --聖書より--
        【 イエスはこれらのことを話してから、天を見上げて言われた。
        「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子に栄光を現してください。
        あなたは、すべての人を支配する権能を子にお与えになったからです。こうして、子が、あなたから賜ったすべての者に、永遠の命を与えることができるのです。
        永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
        私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
        父よ、世が造られる前に、私が御もとで持っていた栄光で、今、御前に私を輝かせてください。
         世から選んで私に与えてくださった人々に、私は御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に与えてくださいました。彼らはあなたの言葉を守っています。
        私に与えてくださったものはみな、あなたから出たものであることを、今、彼らは知っています。
        なぜなら、私はあなたからいただいた言葉を彼らに与え、彼らはそれを受け入れて、私が御もとから出て来たことを本当に知り、あなたが私をお遣わしになったことを信じたからです。
        彼らのためにお願いします。世のためではなく、私に与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
        私のものはすべてあなたのもの、あなたのものは私のものです。私は彼らによって栄光を受けました。
        私は、もはや世にはいません。彼らは世におりますが、私は御もとに参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです。
        私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした。聖書が実現するためです。
        しかし今、私は御もとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ち溢れるようになるためです。
        私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではないからです。
        私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
        私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではありません。
        真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの言葉は真理です。
        私を世にお遣わしになったように、私も彼らを世に遣わしました。
        彼らのために、私は自らを聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者とされるためです。
         また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします。
        父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。
        あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
        私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。
        父よ、私に与えてくださった人々を、私のいる所に、共にいるようにしてください。天地創造の前から私を愛して、与えてくださった私の栄光を、彼らに見させてください。
        正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私をお遣わしになったことを知っています。
        私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」】
          ヨハネ 17章 1ー26節

        クリスチャンは、この邪悪な時代に有って、イエス・キリストを心に抱き、光の子として歩むのである。
        そして、暗闇に誠の光を証するものである。
        イエス・キリストを喜び、イエス・キリストを誇りとし、イエス・キリストの為に生きるのである。



        つづく・・・




    39. この世とは2

      --聖書より--
      【 初めに神は天と地を創造された。】
        創世記 1章1節

      この世は、神が創られたもの、神が創られたところです。
      重要なことは、この世には始まりがあると言うことです。
      また、人類にも始まりがあると言うことです。
      それは、それらが創られる以前には無かったということです。
      更に重要なことは、神はそれらが創られる以前にもいて、今もいる方であると言うことです。
      神は、始まりも無く終わりも無い、「ある」と言う方だと言いうことです。

      この世には、
      始まりがあり、終わりがあるとのことです。
      始まりは、聖書の最初の巻、創世記に記述されています。
      終わりは、聖書の最後の巻、黙示録に記述されています。
      その間の巻を含め全66巻がこの世の歴史です。人の世の歴史です。

      科学的な宇宙の概念は、専門外ですので正しくないかもしれませんが、
      知るうる範囲では、こうです。
      銀河間は、遠くへ行けば行くほど広がって行くことが知られています。さらに、遠くの銀河ほど速く地球から遠のいていることが観測されています。
      そこから、宇宙は膨張していると考えます。
      時間を逆に戻すと、銀河は収縮していくので、宇宙の始まりは、大きさがゼロ、重力の大きさは無限大の小さな一つの点になります。
      その点を特異点と言います。またの名をビックバンと言います。
      さらにその特異点は、ブラックホールの中心にもあることが知られています。
      そして、宇宙の空間の中には、ブラックホールは無数にがあります。
      ・・・・・
      これからも宇宙に関しては、色々な発見や理論が出てくるでしょう。
      永遠に人間が探求しても果ては有りません。
      何故なら神が御創りになったからです。
      ですから、数学や物理の学問も果てが無いのです。神が御創りになったものを対象にしているからです。
      人は、神のかたちに似せて創られたが、能力にも、命にも限りがある。神には限りがない。
      神が創られた物にも人の目には、はてしないものだ。

      --聖書より--
      【 あなたは海の源まで行ったことがあるか。
      深い淵の奥底を歩いたことがあるか。
      死の門があなたに姿を現したか。
      死の陰の門をあなたは見たことがあるか。
      あなたは地の広がりを悟ったのか。そのすべてを知っているなら、言ってみよ。
      ・・・・・】
        ヨブ記 38章 4節~

      この世のはての探求は、止めた方がよいと思う。

      --聖書より--
      【 私は言った。
      「ここまでは来てもよいが、越えてはならない。
      あなたの高ぶる波はここで止められる」と。】
        ヨブ記 38章 11節

      また、下記の創世記の箇所もそのことを言っているのではないだろうか。

      --聖書より--
      【 神である主は、人に命じられた。 「園のどの木からでも取って食べなさい。 ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」】   創世記 2章 16ー17節

      もっと大事なものを探求した方が良いと思う。
      また、神はその様な探求をしなくてもいいように、神のもとから御子イエス・キリストを遣わされたのだ。
      そしてイエスは、大事なことは
      --聖書より--
      【 心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、
      また、隣人を自分のように愛しなさい 】
      ルカによる福音書 10章 27節
      と言われた。
      若い時はそう長くはない。この世での人生も長くはない。
      空しいことに費やすべきでない。

      --聖書より--
      【 さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。
      彼女にはマリアと言う姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。
      マルタは、いろいろともてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。
      「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
      主はお答えになった。
      マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。
      しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。

      それを取り上げてはならない。」】
        ルカ 10章 38-42節


      また、科学者が論じているこの世は、光や電磁波も含めて物質のみの様です。 聖書が論じているこの世は、物質、空間を含むそれ以上大きなものです。見えないもの、触れないもの測れないものを含む大きなものです。

      神には、初めも無く、終わりも無い、常にいる方です。

      --聖書より--
      【 さあ行け。私はあなたをファラオのもとに遣わす。私の民、イスラエルの人々をエジプトから導き出しなさい。」
      モーセは神に言った。「私は何者なのでしょう。この私が本当にファラオのもとに行くのですか。私がイスラエルの人々を本当にエジプトから導き出すのですか。」
      すると、神は言われた。「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えることになる。」
      すると、神は言われた。「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えることになる。」
      神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」】
        出エジプト記 3章 10-15節

      私達は、この様な世界に暮らしていますが、
      私達にとって、この世とは何かと問うた時、
      【初めに神は天と地を創造された。】
      と言う原因と結果だけで十分なのです。

      なぜならば、
      140億年前のビックバンや、それ以前のこと、140億光年の先の宇宙のことなどを知ったとて、
      たかだか、多く生きても120歳程度しか生きない人間に何の関係があるでしょうか。
      人は今日か明日、または数年後 必ず死ぬのですから。
      そんな高邁なことよりも、今日明日の糧、親、兄弟、子供達、隣人との関係にシックハック、七転八倒している様です。

      --聖書より--
      【 主は言われた。
      「私の霊が人の内に永遠にとどまることはない。人もまた肉にすぎない。その生涯は百二十年であろう。」】
        創世記 6章 3節

      【 私たちのよわいは七十年
      健やかであっても八十年。
      誇れるものは労苦と災い。
      瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。】
        詩編 90篇 10節
      しかし、人間は、空を見上げます。永遠を思います。

      --聖書より--
      【 天の下では、すべてに時機がありすべての出来事に時がある。
      生まれるに時があり、死ぬに時がある。
      植えるに時があり、抜くに時がある。
      殺すに時があり、癒やすに時がある。
      壊すに時があり、建てるに時がある。
      泣くに時があり、笑うに時がある。
      嘆くに時があり、踊るに時がある。
      石を投げるに時があり、石を集めるに時がある。
      抱くに時があり、ほどくに時がある。
      求めるに時があり、失うに時がある。
      保つに時があり、放つに時がある。
      裂くに時があり、縫うに時がある。
      黙すに時があり、語るに時がある。
      愛するに時があり、憎むに時がある。
      戦いの時があり、平和の時がある。

      人が労苦したところで、何の益があろうか。
      私は、神が人の子らに苦労させるよう与えた務めを見た。
      神はすべてを時に適って麗しく造り、
      永遠を人の心に与えた。
      だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。】
        コヘレト 3章 1-11節


      人間にとって必要なことは、140億年前のことや、140億光年遠くのことなどよりも、
      今生きているこの世は、何なのか。私は、何なのか。私とこの世の関係は何なのか、私と今生きている人との関係は何のか、そして私は死んでどこに行くのかです。
      そして、それが聖書に書かれているのです。

      私は【初めに神は天と地を創造された。】の神のことばに、物凄い神の愛を感じます。
      地球の太陽からの距離が少しでも、近かったら太陽の高温にさらされ動植物は、生きられません。
      反対に少しでも遠かったら極寒の星になってやはり動植物は、生きられません。
      地球の位置が今よりも太陽に近くなれば、金星の様になり、遠くなれば、火星の様になるのです。
      また、地球の大きさも丁度良く、もう少し大きかったら、重力が大きくなり人は立ってはいられないでしょう。隕石は、絶え間なく降り、小惑星も引き寄せるでしょう。
      反対に今よりも地球が小さかったら、動植物も人間も今の形や大きさではないでしょう。それどころか、水を地球に引き留めておく引力が無くなり、水は宇宙に飛び散り干からびた地になります。大気も無くなり太陽からの紫外線がまともに地に当たるので生物は、生きてはいけないでしょう。
      自転のスピードや地軸の傾き、月の存在で、地球には季節が有り、海には満ち引きが有って水はかき回されて濁ることがありません。
      また、海のおかげで地球の温度の変化は生き物が住めなくなるほどにはなりません。
      この様な地球は、このだだっ広い宇宙にはそうは無いでしょう。
      人はこれを奇跡といいますが、神がなさることは全てが奇跡です。
      神様って最高って叫びたくなります。
      そして、この神様の創造の素晴らしさは、神の存在を信じると更に見えて来ます。

      --聖書より--
      【 信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えるものからできたのではないことを悟ります。】
        ヘブライ 11章 3節

      【 太陽よ、月よ   主を賛美せよ。
      輝く星よ、こぞって  主を賛美せよ。
      天の天よ
      天の上にある大水よ  主を賛美せよ。
      主の名を賛美せよ。
      主が命じ、それらは創造された。
      主はそれらを代々とこしえに立て
      掟を与えて、それが消えうせないようにした。

      地上から       主を賛美せよ。
      海の竜たちよ、すべての深淵よ
      火よ、雹よ、雪よ、霧よ
      御言葉を成し遂げる激しい風よ
      山々よ、すべての丘よ
      実を結ぶ木よ、すべての杉の木よ
      生き物よ、すべての獣よ
      地を這うものよ、翼ある鳥よ
      地上の王たちよ、すべての民よ
      高官たちよ、地上のすべての支配者よ
      若者もおとめも
      老人も子どもも共に。
      主の名を賛美せよ。
      御名はひとり高く
      その威厳は地と天の上にある。】
        詩編 148章 13節

      さらに聖書では、
      この世には、終わりがあるということです。
      終わりは黙示録に書かれてあります。
      人はこれを終末といいますが、聖書にはこの世の終末は、次の時代の始まりとあります。
      人の死は、個人的な終末でもあります。
      しかし、神の子イエス・キリストを信じるものには、死は次の世へ入る単なる門にすぎないとあります。


      --聖書より--
      【 地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
      神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
      神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、
      ・・・・ 】
        創世記 1章 2- 節

      混沌とした中へ、神は「光あれ」と言われ光を創り、それから素晴らしいものを次々と創られた。
      よって、神は秩序を好むとも言える。
      ゆえに、人類をそのまま許したいが、御子を遣わし人類の罰を受けさせ死んでけじめをつけられた。
      十字架を神の「愛と義の十字架」と言う根拠がここにある。

      また、神が「光あれ」と最初に言われ、この世界を創ったように。
      イエス様がこの世界に来られた時を、

      --聖書より--
      【 こうして、預言者イザヤを通して言われたことが実現したのである。
      「ゼブルンの地とナフタリの地湖沿いの道、ヨルダン川の向こう異邦人のガリラヤ

      闇の中に住む民は
      大いなる光を見た。
      死の地、死の陰に住む人々に
      光が昇った。

      その時から、イエスは、
      「悔い改めよ。天の国は近づいた」
      と言って、宣べ伝え始められた。

        マタイ 4章 14-17節

      と創世記と同じように言っている。
      イエス様が来られたことは、新しい世界、神の国が始まったことでもあるのです。

      そして、イエス・キリストを信じ従えは、誰でもこの新しい神の国に入れるのです。

      イエス様は、復活して弟子達に現れ下記の様に言われた。

      --聖書より--
      【 イエスは、近寄って来て言われた。
      「私は天と地の一切の権能を授かっている。
      だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。
      彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
      あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。
      私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】
        マタイ 4章 14-17節

      ですから、この世のことばかりにかかずってばかりいてはダメなのです。

      --聖書より--
      【 「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

      「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
      空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。
      あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。
      なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。
      しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
      今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。 まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、 信仰の薄い者たちよ。
      だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。
      それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。
      まず神の国と神の義とを求めなさい。
      そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。
      だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。
      その日の苦労は、その日だけで十分である。」】
        マタイ 6章 24-34節

      終わりに、
      --聖書より--
      【 十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。
      それは、こう書いてあるからです。
      「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし悟りある者の悟りを退ける。」
      知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
      世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。
      ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
      私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
      ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
      なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
       きょうだいたち、あなたがたが召されたときのことを考えてみなさい。世の知恵ある者は多くはなく、有力な者や家柄のよい者も多くはいませんでした。
      ところが、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。
      また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。
      それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
      あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
      「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
       きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。
      なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
      そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。
      私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。
      それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした。
       それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした。
      私たちが語るのは、隠された秘義としての神の知恵であって、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
      この世の支配者たちは誰一人、この知恵を悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
      こう書いてあるとおりです。
      「目が見もせず、耳が聞きもせず
      人の心に思い浮かびもしなかったことを
      神はご自分を愛する者たちに準備された。」
      私たちには、神は霊を通してこのことを啓示してくださったのです。霊はあらゆることを、神の深みさえも究めるからです。
      人の内にある霊以外に、一体誰が人のことを知るでしょう。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
      私たちは世の霊ではなく、神の霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
      この賜物について語るにも、私たちは、人の知恵が教える言葉ではなく、霊が教える言葉を用います。つまり、霊によって霊のことを説明するのです。
      自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊に属する事柄は、霊によって初めて判断できるからです。
      霊の人は一切を判断しますが、その人自身は誰からも判断されたりしません。
      「誰が主の思いを知り
      主に助言するというのか。」
      しかし、私たちは、キリストの思いを抱いています。】
        一 コリント 1章18節ー2章16節




      つづく・・・



    40. この世の真の歴史(ハイル ヒストリー)

      この世を創った神には、また人間を創った神には、この世について、人間についての計画があります。
      神の計画は必ずなります。人の営みの全ては、ただこの神の計画の中で、しているだけです。
      これが、ハイル ヒストリーです。
      人類の祖先、アダムとエバから今日に至るまで、さらにこれからのことについて、
      この世を創った神は、人間を創った神は、人間に聖書を通して、親切にもこの神の計画をハイル ヒストリーを教えています。
      神は愛なる方です。父なる神が人に前もって教えないはずがありません。
      人間は、このハイル ヒストリーの中で、生きているのだから、これを常に意識して、それに沿って生き、計画をたて人生を営むべきです。
      明日、台風が来るよと分かっているなら、それに備えるでしょう。
      聖書では、今は救いの日、恵みの日と言っています。そしてもうすぐ終末が来て、新しい天と地が来ると言っています。
      それらを良く知り、準備すべきです。
      より良く生きるとはそういうことでもあります。
      これを持ってしても、聖書を読むことは、学ぶことは人間にとっていかに重要なことかが分かるものと思います。

      ・この世の始まる前のことについて
      この世の者にとっては、まったく時空ご超えたもの、超えたところ。
      理解しがたいところである。
      この世以外についても同じことが言える。


      ・この世の始まりについて
      【 初めに神は天と地を創造された。】創世記 1章1節
      ゆえに、この世は、天と地からなる。
      地は、私達が生きているところ。
      天は、イエス様が復活して、昇られたところ。

      全ては神のことばによって出来た。 全ては良かった。
      --聖書より--
      【 地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
      神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
      神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
      光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
       神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。」
      神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。
      神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
       神は言われた。「天の下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ。」そのようになった。
      神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神は見て良しとされた。
      神は言われた。「地は草木を生えさせよ。種をつける草と、種のある実を結ぶ果樹を、それぞれの種類に従って地上に生えさせよ。」そのようになった。
      地は草木を生じさせ、種をつける草をそれぞれの種類に従って、種のある実をつける木をそれぞれの種類に従って生じさせた。神は見て良しとされた。
      夕べがあり、朝があった。第三の日である。
       神は言われた。「天の大空に、昼と夜を分ける光るものがあり、季節や日や年のしるしとなれ。
      天の大空に光るものがあって、地上を照らせ。」そのようになった。
      神は二つの大きな光るものを造られた。昼を治める大きな光るものと、夜を治める小さな光るものである。また星を造られた。
      神は地上を照らすため、それらを天の大空に置かれた。
      昼と夜を治めるため、光と闇を分けるためである。神は見て良しとされた。
      夕べがあり、朝があった。第四の日である。
       神は言われた。「水は群がる生き物で満ち溢れ、鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
      神は大きな海の怪獣を創造された。水に群がりうごめくあらゆる生き物をそれぞれの種類に従って、また、翼のあるあらゆる鳥をそれぞれの種類に従って創造された。神は見て良しとされた。
      神はそれらを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地に増えよ。」
      夕べがあり、朝があった。第五の日である。
       神は言われた。「地は生き物をそれぞれの種類に従って、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれの種類に従って生み出せ。」そのようになった。
      神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て良しとされた。
       神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
       神は人を自分のかたちに創造された。
       神のかたちにこれを創造し
       男と女に創造された。
       神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」
       神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。
      また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。」そのようになった。
      神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
       こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。
      第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。
      神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。
       これが天と地が創造された次第である。】
       創世記 1章2節-2章4節

      全ては良かった。

      ・全人類の救いの訪れまでのことについて
      人類の中から、アブラハムを聖別して、神の民とした。
      彼らをユダヤ人と言う名で呼んだ。
      (後に、時が満ちて、キリスト・イエスが生まれた。)


      ・全人類の救いが訪れたことについて
      事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。 ニコリント 5:14 これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。 ニコリント 5:18 神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。 私たちはまた、神と共に働く者として勧めます。神の恵みをいたずらに受けてはなりません。 それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 ローマ5:9


      ・この世の終わりまでのことについて




      ・この世の終わり終末について
      死は、その人の個人的な終末である。
      世から見ると、死はその人がいなかったかのように、その人の全てを消す。
      世の終末は、この世の死である。
      この世がなかったかのように、全てを消す。

      しかし、聖書が言う世の終わり終末とは、一つの世が終わり、新しい世が始まることだと言っています。
      それゆえに、終末は、新しい世が訪れる、産みの苦しみです。
      陣痛の痛みは、少しの痛みから辛い痛みに徐々に変わって行きます。痛みの長さも短い痛みから長い痛みに徐々に変わっていきます。
      世の終末の苦痛も同じように、変化していきます。
      これは、産みの苦しみです。

      --聖書より--
      【   イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
      イエスは言われた。「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」
       イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
      イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
      私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
      戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。
      民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
      しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
      その時、人々は、あなたがたを苦しみに遭わせ、殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての民に憎まれる。
      その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
      また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。
      不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
      しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
      そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
       「預言者ダニエルの語った荒廃をもたらす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
      その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
      屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
      畑にいる者は、上着を取りに戻ってはならない。
      それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女に災いがある。
      逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。
      その時には、世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
      神がその期間を縮めてくださらなければ、誰一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。
      その時、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。
      偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
      あなたがたには前もって言っておく。
      だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、出て行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
      稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子もそのように来るからである。
      屍のある所には、禿鷲が集まるものだ。」
       「それらの日に起こる苦難の後、たちまち
       太陽は暗くなり
       月は光を放たず
       星は天から落ち天の諸力は揺り動かされる。
      その時、人の子の徴が天に現れる。そして、その時、地上のすべての部族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
      人の子は、大きなラッパの響きとともに天使たちを遣わし、天の果てから果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。」
       「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が出て来ると、夏の近いことが分かる。
      それと同じように、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
      よく言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
      天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」
       「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
      人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
      洪水になる前、ノアが箱舟に入る日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
      そして、洪水が来て一人残らずさらうまで、何も気が付かなかった。人の子が来る場合も、このようである。
      その時、畑に二人の人がいれば、一人は取られ、一人は残される。
      二人の女が臼を挽いていれば、一人は取られ、一人は残される。
      だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである。
      このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。
      だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」】
        マタイ 24章 1節-44節

      ・その後のことについて

      一つの時代が終わり、新しい時代が始まります。
      全てが新しくなります。
      この世の者にとっては、まったく時空ご超えたもの、超えたところ。
      理解しがたいところである。




      つづく・・・



    41. 人間とは

      【 神は人を自分のかたちに創造された。
      神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。】
       創世記 1章 27節

      【 神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。】
       創世記 2章 7節

      人は、神のかたちに創られたからこそ、
      飛行機を作り、ロケットを作り月や火星に行くことができるのです。
      また、このように、聖職者でもなく、40数年コンピューターのソフトの仕事にかかずっていた70歳(2022年現在)の貧しいびっこの老人が、
      神を語り、救いを語ることができるのです。
      神のかたちに創られたからこそなのです。
      人はだれでも、神を見上げ呼ぶことができるのです。

      また、「土の塵で人を形づくり」とあるように人間は物質であるが、「その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」とあるように、
      霊を持つもの魂を持つもの、つまり人とは、土の器に魂を持つものであると記載されています。
      ここに、動物と人間の違いが明記されています。
      人間は、単なる物質でもなく、単なる動物でもないのです。

      【 アダムは、さらに妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けて言った。
      「カインがアベルを殺したので、神がその代わりに一人の子を私に授けられた。」
      セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。
      その頃、人々は主の名を呼び始めた。】
       創世記 4章 25-26節

      それゆへ、私達人類は、神から離れた(罪人、原罪を持つもの)アダムとエバの末裔なのです。



      つづく・・・



    42. 科学者よ人として生きなさい

      この世は、天地は、神が創られたのだから、
      人間の手は、果てにはとどかない。
      人間のマニュアル聖書が示すように生きよ。
      --聖書より--
      【 心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、
      また、隣人を自分のように愛しなさい 】
       ルカによる福音書 10章 27節

      科学者よ人として生きよ。



      つづく・・・



    43. 人は何故尊い

      神が創られたから。
      さらに、神がご自分のかたちに似せて創られたから。
      貴方は尊いのです。

      --聖書より--
      【 神は人を自分のかたちに創造された。
      神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。】
        創世記 1章 27節

      貴方は何か手作りの物を作ったことがあると思います。
      上から見たり、横から見たり、何度も見て、そして見飽きない。 愛おしく思います。
      同じ様に神もご自分が創られた人類を貴方を愛おしいのです。
      そして、人類が滅びていくのが忍びなく、神の独り子を遣わし、代わりに罰と死を受けさせ、人類が滅びないようにして下さいました。

      --聖書より--
      【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
      御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
        ヨハネ 3章 16節

      神に愛されているから貴方は尊いのです。


      つづく・・・



    44. 人間の最大の問題 死

      人は誰でも死にます。ゆえに貴方も必ず死にます。
      しかし、イエス様を信じた人は、死にません。
      たとえ全世界を儲けても、死んだらもともこもありません。
      どんな偉い人も、犬のように死にます。

      しかし、人は神に似せて創られました。ゆえにその心は、永遠を思います。
      永遠の命を思うのです。
      この土くれが、思うのですよ。とんでもないことだと思いませんか。
      【 神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。】
      コヘレトの言葉 3章11節

      ここにイエス・キリストと言う方がおられます。
      かれは神から来られた方で正しい方でしたが、人が滅び(死)ないように身代わりに罰を受け死なれました。
      死んで後3日後に死から蘇り、弟子や多くの人に現れ天に昇られました。
      イエスを神の子と信じた人達の初穂として復活し天に昇られたのです。
      かれは神です。永遠、無限なかたです。
      かれはあらゆる恵みに満ち満ちています。
      かれに来るものは、永遠に心が乾くことがありません。

      聖書は、新約、旧約、初めから終わりまでイエス・キリストについて書かれています。
      イエス・キリストは、貴方に必要だからです。
      そこには、死なない方法、心の満たし、生き方、貴方にとって今本当に必要なもの全てがあります。

      現代の社会的な問題の根本は、
      人生はこの世だけしかないといった新しい迷信にあります。
      それにより、人は卑しくなり、がめつくなり、自己欲肉欲を必死で貪ります。
      このような人々が織りなす人の世は、押して知るべしです。
      先に新しい迷信と書きましたが、近年以前にそのような考えがあったでしょうか。
      進化論があたかも紛れもない真実であるかのように教えている義務教育、ほんとは何も知らないのに 知ったかぶりをしてのたまう科学者の責任です。
      私たちの祖先はネズミやアメーバだ、死んだら無だと教えられた子供たちに、何の希望、夢、尊厳が生まれるでしょうか。
      快楽を求めゲームやYouTube に夢中になって日々を過ごすのはあたりまえではないでしょうか。

      果てし無い宇宙の片隅の
      小さな地球の日本と言う小さな島にカビのように生え、無くなる。
      永遠の宇宙の中で、泡のように現れ、消える。
      永遠から見たら、いたかさえも有ったかさえも分からない。
      このような唯物論者、無神論者も何時か死ぬわけだから、死んだら無になると知っているわけだから、
      生きることが辛いだろうなと想像される。

      このような世界観に今の子供たちは生きているのです。
      大人も。
      このような世界間に誰がした。
      人が神から離れたからです。

      死ぬまでの時間つぶし。ただぼうとテレビ、映画、YouTubeを見るだけ面白かった感動した、しかし新しい次の動画を見る。次々と。
      製作者は暇つぶしの動画を次々作っていくのが仕事。
      ゲーム設計者はプレイヤーの前に人参をぶら下げ、追いかけさせ達成感と快感をタイミングよく与える。猫じゃらしに遊ばれる子供、 いや大人。
      そのループから抜け出すには、自殺か自分を死刑にしてくれる国だけ。リセットではない選択肢。

      何もかもが面白くないと言う前に、神を知ることです。

      --聖書より--
      【 イエスは答えて言われた。
      「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」】
      ヨハネ 4章13〜14節


      --聖書より--
      【 コヘレトは言う。
      なんという空しさ
      なんという空しさ、すべては空しい。

      太陽の下、人は労苦するが
      すべての労苦も何になろう。
      ー代過ぎればまたー代が起こり
      永遠に耐えるのは大地。
      日は昇り、日は沈み
      あえぎ戻り、また昇る。
      風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
      風はただ巡りつつ、吹き続ける。
      川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
      どの川も、繰り返しその道程を流れる。

      何もかも、もの憂い。
      語り尽くすこともできず
      目は見飽きることなく
      耳は聞いても満たされない。
      かつてあったことは、これからもあり
      かつて起こったことは、これからも起こる。
      太陽の下、新しいものは何ひとつない。
      見よ、これこそ新しい、と言ってみても
      それもまた、永遠の昔からあり
      この時代の前にもあった。
      昔のことに心を留めるものはない。
      これから先にあることも
      その後の世にはだれも心に留めはしまい。】
      コヘレトの言葉 1章2-11節


      死んだらなにもかも終わりだ。
      何もかも空しく消える。
      過去の出来事も夫婦生活のことも自分自身も親も兄弟も友人ももちろん思い出も。
      何もかも消える。
      労したことも空しく消える。

      良い人間であっても、死んだら終わりだ。
      極悪人と同じ様に死ぬ。

      人は死の前に平等である。
      どんな人であれ犬のように死ぬ。
      死から誰も逃れられない。
      人は死んで後、裁かれると聖書にある。
      良い人よ神がおられることを信じ、極悪人をうらやむことなかれ。
      悪人は死んだ後の裁きと第二の死(地獄)から逃れることはできない。
      このことを憶え悪人は恐れ、悔い改めの必要を覚えることである。
      愚かであってはいけない。
      死んでからでは遅いのだから。

      人は、過去にはいない。未来にもいない。今にいるのである。
      そして、死は来る。死は必ず、貴方にも私にも来る。
      他人事だと思っていたことが私の番か、という時が来る。
      避けることはできない。

      さらに、聖書では、
      【 人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。】
      ヘブライ人への手紙 9章27節
      とある。

      死とは個人で体験するものである。
      赤信号皆で渡れば怖くないというものではない。

      死はすべてを失うものである。財産も家族も友も知識も体も全て失うのである。
      よって哀れなものである。
      全ての人と別れなけばならない。そして、一人で生まれた時のように裸で行くのである。
      よって哀れなものである。
      もう努力しようが無い。
      よって哀れなものである。
      理不尽に殺されても、文句の一つも言えない。
      よって哀れなものである。

      人は裸で生まれ、裸で死んで行くのである。

      マリー・ローランサンの詩の中に、
      捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
      よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
      追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
      死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。
      と言うのがあります。
      死んで誰からも忘れられた女はどうなのだろう。哀れの極みである。

      墓地に行くと死んだ人の墓がるいるいとある。
      墓碑を見ても顔も知らない。誰も知るよしもない。
      哀れである。実に悲しい限りである。
      何も無い。
      宇宙の広さからみたら、いたかいなかったかさへ分からない。
      誰も知らないのだから。
      宇宙の片隅の小さな地球の日本と言う小さな島にカビのように生え、死ぬ。
      永遠に死ぬ。消える。いたかどうかさへ分からない。
      哀れである。

      人はあっけなく死ぬ。
      しかし、本人にとって死は長く、重い。
      死とはまったく個人として面と向かって迎えるものである。

      死はいつも生きている人間にとりついている。
      お祭りで楽しく踊り踊っていても、幸せに生活していても、山の向こうから鐘の音が遠く聞こえるようにふと死と言う音が聞こえて来る。
      楽しければ楽しいほど、幸せなら幸せなほど、これが永遠であったらと思う。
      しかし、死は別れは終わりは、来る。

      【 神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。】
      聖書 コヘレトの言葉(3章:11節)

      死からの解放は、イエス・キリストの十字架に有る。
      神の救いの十字架を見上げる者は、皆死なない。
      私は信じるのです。
      神の恵みに生きるのです。

      神の存在を信ぜず、進化論を信じている者ほど哀れなものはない。
      彼らにとって死は恐ろしいものである。
      彼らにとってこの世しか無いので、死は自分の全てが終わりであり、世界の終わりである。
      かつ、宇宙の広さ高さからみたら、時間の長さから見たら貴方など無に等しいものとなる。
      そこでは、隣人に対する愛など意味が無く、ありようがない。
      無神論者の権力者が、死ぬことが分かった時、核のボタンを押すことも考えられる。
      自分がいない世界など有っても意味がないのだから。
      また、彼らにとって死は、耐えられないことがあった場合の逃げ場となる。
      しかし、神の前に逃げ場はないことを死んで知ることであろう。
      進化論者、唯物論者にとっては、生きるも死ぬるも虚無である。本人が死んだら全てが消えるのであるから。
      全てが空しいことを少しづつ一つづつ知らされながら老いて死んでいくのである。哀れである。
      キリスト者は、おぼろげに見えていた真理がイエス・キリストが歳をとるごとにもやが去りはっきりと見えてくるのである。
      人は死んだら終わりではない。そう甘くない。
      神の前で裁かれ、永遠の地獄に行くか、永遠の天国に行くかのどちらかである。
      神はいるのである。

      今の科学者は、無神論で世を説明しようとしている。理解しようとしている。
      日本では、進化論をあたかも真理であるかのように子供に教えている。
      結果、日本は愛の無い国になることは確実である。
      愚かな今の科学者は、気が付くべきだ、悟べきだ。直観で悟れ。直観で知れ。
      神は、顕微鏡や望遠鏡で見れるものではない。ましてやフラスコをゆすって観察するものではない。
      崇めるかたである。究極の真理はそうゆうものである。

      【かれらは、『その名は一体何か』と問う・・・
      神は・・「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ・・・。】
      聖書 出エジプト記(3章・13-14節)

      神は死なない。アルファでありオメガであり、初めが無く終わりがない。
      そのような神の前で人は今生きているのである。
      そして、死んで神の前に立たされるのである。

      イエス様が語られた死後の話を聞こう。
      --聖書より--
      【「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴膳でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』】
      ルカ 16章19-26節

      【 二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。・・・・

      十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
      「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
      すると、もう一人の方がたしなめた。
      「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
      そして、
      「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」
      と言った。
      するとイエスは、
      「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
      と言われた。】
      ルカ 23章32-43節

      キリスト者にとって、この世は神の栄光の場である。死は罪の世からの脱出である。素晴らしいところに行く門である。
      進化論者、唯物論者は、この世しか無いので、この世に未練たらたら死ぬのである。
      キリスト者は、神がお許しになることを行い、出来ないことは神の御心と思いあきらめるのである。この世に思い残すことなく生き、死ぬ(この世を去る)のである。
      キリスト者は、この世に宝を積まず、天に宝を積むのである。

      世の人は皆 原罪があるので恨みと悔やみの中で死ぬのである。
      世の人は皆 原罪があるので人との関わりに苦しみ、この世を自ら去るのである。

      神を信じ、イエス・キリストを信じている者にとって死はほっとする所であって、希望であって、新しく素晴らしい世界の門であり始まりである。
      世の人は皆原罪があるので恨みと悔やみの中で生きるが、キリストに従い赦し、キリストに赦されこの世で御国を味わうのである。
      世の人は皆原罪があるので人との関わりに苦しむが、キリスト者は確実な新しい世界を待ち望むので耐えることが出来、救い主イエス・キリストの十字架の御姿を仰ぎ、艱難の中にあっても、人に優しく出来るのである。

      何故。
      キリスト者は、神の独り子イエス・キリスト様が代りに罰を受け死なれたので、 キリスト者は神の前に義とされている。死はなくなったのである。

      死からの解放は、実にイエス・キリストの十字架に有るのである。
      神の救いの十字架を見上げる者は、皆死なないのである。


      --聖書より--
      【イエスは言われた。
      「・・・死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
      神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」】
      ルカによる福音書 20章34-38節

      --聖書より--
      【神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。】
      伝道者の書 3章11節

      --聖書より--
      【 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
      独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。】
      ヨハネ 3章16節

      --聖書より--
      【 イエスは言われた。
      「わたしは道であり、真理であり、命である。
      わたしを通らなけらば、だれも父のみのとに行くことができない。」】
      ヨハネ 14章6節

      --聖書より--
      【 イエスは言われた。
      「わたしは復活であり、命である。
      わたしを信じる者は、死んでも生きる。
      生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
      このことを信じるか。」】
      ヨハネ 11章25-26節
      死んだらなにもかも終わりだ。
      何もかも空しく消える。
      過去の出来事も夫婦生活のことも自分自身も親も兄弟も友人ももちろん思い出も。
      何もかも消える。
      労したことも空しく消える。

      良い人間であっても、死んだら終わりだ。
      極悪人と同じ様に死ぬ。

      人は死の前に平等である。
      どんな人であれ犬のように死ぬ。
      死から誰も逃れられない。
      人は死んで後、裁かれると聖書にある。
      良い人よ神がおられることを信じ、極悪人をうらやむことなかれ。
      悪人は死んだ後の裁きと第二の死(地獄)から逃れることはできない。
      このことを憶え悪人は恐れ、悔い改めの必要を覚えることである。
      愚かであってはいけない。
      死んでからでは遅いのだから。

      人は、過去にはいない。未来にもいない。今にいるのである。
      そして、死は来る。死は必ず、貴方にも私にも来る。
      他人事だと思っていたことが私の番か、という時が来る。
      避けることはできない。

      さらに、聖書では、
      【 人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。】
      ヘブライ人への手紙 9章27節
      とある。

      死とは個人で体験するものである。
      赤信号皆で渡れば怖くないというものではない。

      死はすべてを失うものである。財産も家族も友も知識も体も全て失うのである。
      よって哀れなものである。
      全ての人と別れなけばならない。そして、一人で生まれた時のように裸で行くのである。
      よって哀れなものである。
      もう努力しようが無い。
      よって哀れなものである。
      理不尽に殺されても、文句の一つも言えない。
      よって哀れなものである。

      人は裸で生まれ、裸で死んで行くのである。



      つづく・・・




    45. 律法について

      ガラテヤの信徒への手紙(2:15-21)
      ガラテヤの信徒への手紙(3:10-14)
      ガラテヤの信徒ねの手紙 4章4-7節
      マタイによる福音書(23:1-39)
      ルカによる福音書10章25~37節
      ヨハネによる福音書 1章1-18節
      2章12節~16節
      (ローマ人への手紙3:10~18)
      ローマ信徒への手紙(7:18-25)
       さらに、神の子イエス・キリストは、神は心を見られると言い、人を憎むことは殺すのと同じです。女性の情欲で見るのは姦淫したのと同じです。と言われました。神の目線は人間よりはるかに高いのです。よって、自分を正しいとし他人を裁くものは大いなる罰をうけるのです。
      ゆえに、「正しい者はいない。一人もいない。人間はすべて罪人であって、だれもが救いを必要としている」のです。




      つづく・・・




    46. 救いとは

      死なないと言うことです。
      --聖書より--
      【 イエスは言われた。
      「わたしは復活であり、命である。
      わたしを信じる者は、死んでも生きる。
      生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
      このことを信じるか。」】
      ヨハネ 11章25-26節

      さらに、この世が終末を向かえる時に、一緒に滅びないと言うことです。
      新しい幸いな地に迎えられ、新しい体が与えられ、主の民と一緒に住むと言うことです。

      貴方の罪は許されたと言うことです。

      --聖書より--
      【 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。】
      エフェソの信徒への手紙 1章7節



      つづく・・・




    47. どうしたら救われるか

      --聖書より--
      【 聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。】
      ローマ 4章3節

      【 イエスは言われた。
      「わたしは復活であり、命である。
      わたしを信じる者は、死んでも生きる。
      生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。
      このことを信じるか。」】
      ヨハネ 11章25-26節

      【 イエスは言われた。
      「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」】
      ルカ 8章48節





      つづく・・・




    48. 救われた確信について

      神が人類(私)を哀れに思い、神が人となって(神の子イエス)私達(人類)の中にこられ、
      十字架の血と死をもって私を聖霊によって新しく生まれ変らせて下さり、神の子イエスのもの、兄弟として下さった。
      そして、神の子イエスは死んだ後、3日後、人類(私)の初穂として死から蘇られた。
      そして、天に昇られた。
      そして、時が来たら私達の元に来て、私達を天の新しい世界(故郷)につれて行って下さる。



      つづく・・・




    49. 神を信じたらどう生きるか

      神を信じる生き方をする。と言うこと。

      --聖書より--
      【 心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神(イエス・キリスト)である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい 】
       ルカによる福音書 10章 27節

      生き方が迷ったら、分からなくなったら、ここに戻って始めよう。

      --聖書より--
      【「闇から光が照り出でよ」と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったからです。
      私たちは、この宝を土の器に納めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。 私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。 私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。
      私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。イエスの命が私たちの死ぬべき肉体に現れるためです。
      こうして、私たちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働くのです。
      「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それゆえに語ってもいるのです。
      主イエスを復活させた方が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと共に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。
      すべてのことはあなたがたのためであり、こうして、恵みがますます多くの人に及んで、感謝を満ち溢れさせ、神の栄光となるのです。
      だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。
      このしばらくの軽い苦難は、私たちの内に働いて、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
      私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。
      私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。
      私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋にあって呻いています。
      それを着たなら、裸ではないことになります。
      この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではなく、死ぬべきものが命に吞み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。
      私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです。
      それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。
      というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。
      それで、私たちは安心していますが、願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。
      だから、体を住みかとしていようと、体を離れていようと、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
      私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならないからです。
      こういうわけで、私たちは主を畏れることを知っているので、人々の説得に努めます。私たちのことは、神の前に明らかにされていますが、あなたがたの良心にも明らかになることを、私は望みます。
      私たちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようとするのではありません。ただ、内面ではなく外面を誇る者たちに向かって、私たちのことを誇る機会をあなたがたに提供しようとしているのです。 私たちが正気でなかったというなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。
      事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。
      その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。
      その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。
      だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
      これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。
      これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。
      こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。
      神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。
      私たちはまた、神と共に働く者として勧めます。神の恵みをいたずらに受けてはなりません。
      なぜなら、
      「私は恵みの時に、あなたに応え
      救いの日に、あなたを助けた」
      と神は言っておられるからです。今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。
      私たちは、この奉仕の務めについて、とやかく言われないように、どんなことにも人につまずきを与えず、あらゆる場合に自分を神に仕える者として推薦しているのです。大いなる忍耐をもって、苦難、困窮、行き詰まりにあっても、鞭打ち、投獄、騒乱、労苦、不眠、空腹にあっても、純潔、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛によって、真理の言葉、神の力によってそうしています。
      また、左右の手に持った義の武器によって、栄誉を受けるときも、侮辱を受けるときも、不評を買うときも、好評を博するときにも、そうしているのです。
      私たちは人を欺いているようでいて、真実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかけているようでいて、こうして生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています。
      コリントの人たち、私たちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。
      私たちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたのほうが自分で心を狭めているのです。
      子どもに話すように言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。
      あなたがたは、不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とにどんな交わりがありますか。
      キリストとベリアルとにどんな調和がありますか。信者と不信者とにどんな関係がありますか。
      神の神殿と偶像とにどんな一致がありますか。私たちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。
      「『私は彼らの間に住み、巡り歩く。
      私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。
      だから、彼らの中から出て行き彼らから離れよ』と主は言われる。『汚れたものに触れるな。そうすれば、私はあなたがたを受け入れ
      あなたがたの父となりあなたがたは私の息子、娘となる』と全能の主は言われる。」
      愛する人たち、私たちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。】
      第二 コリント 4章6節-7章1節

      --聖書より--
      【 このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。
      このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
      そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。
      この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
      キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
      正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。
      しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
      それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
      敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
      それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。
      このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
      確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。
      しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。このアダムは来るべき方の雛型です。
      しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。
      この賜物は、一人の犯した罪の結果とは異なります。裁きの場合は、一つの過ちであっても、罪に定められますが、恵みの場合は、多くの過ちがあっても、義と認められるからです。
      一人の過ちによって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストを通して、命にあって支配するでしょう。
      そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
      律法が入り込んで来たのは、過ちが増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。 こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。
      では、何と言うべきでしょうか。恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。
      決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
      それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。
      私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。
      私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。
      私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。
      死んだ者は罪から解放されているからです。
      私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
      そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
      キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
      このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。
      ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
      また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。
      罪があなたがたを支配することはありません。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるからです。
      では、どうなのか。私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか。決してそうではない。
      知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
      しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。
      あなたがたの肉の弱さを考慮して、私は分かりやすい物言いをしています。かつて、五体を汚れと不法の奴隷として献げて不法に陥ったように、今は、五体を義の奴隷として献げて聖なる者となりなさい。
      あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
      では、その時、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥とするものです。その行き着くところは死です。
      しかし、今や罪から自由にされて神の奴隷となり、聖なる者となるための実を結んでいます。その行き着くところは永遠の命です。
      罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。
      それとも、きょうだいたち、私は律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
      結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、夫の律法から解放されます。
      ですから、もし夫の生存中、他の男のものになれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死ねば、その律法から自由な身となり、他の男のものになっても姦淫の女とはなりません。
      それと同じように、きょうだいたち、あなたがたも、キリストの体によって、律法に対して死んだのです。それは、あなたがたがほかの方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、私たちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
      私たちが肉にあったときは、律法による罪の欲情が五体の内に働き、死に至る実を結んでいました。
      しかし今は、私たちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されました。その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えるようになったのです。
      では、何と言うべきでしょうか。律法は罪なのか。決してそうではない。だが、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が「貪るな」と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。
      しかし、罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こしました。律法がなければ罪は死んでいたのです。
      私は、かつては律法なしに生きていました。しかし、戒めが来たとき、罪が生き返り、
      私は死にました。命に導くはずの戒めが、私にとっては死に導くものとなりました。
      罪が戒めによって機会を捉え、私を欺き、その戒めによって私を殺したのです。
      実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです。
      それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによって私に死をもたらしました。こうして、罪は戒めによってますます罪深いものとなりました。
      私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。
      私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
      もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
      ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
      私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。
      自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
      それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
      内なる人としては神の律法を喜んでいますが、内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
      私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。
      私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
      従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。
      キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
      律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
      それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためです。
      肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思います。 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。
      なぜなら、肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです。
      肉の内にある者は、神に喜ばれることができません。
      しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
      キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。
      イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう。
      それで、きょうだいたち、私たちは、肉に従って生きるという義務を、肉に対して負ってはいません。
      肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
      神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。
      あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
      この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。
      子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、 共に栄光をも受けるからです。
      思うに、今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません。
      被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます。
      被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。
      それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。
      実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。
      被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。
      私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。
      まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。
      霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。
      人の心を見極める方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って聖なる者のために執り成してくださるからです。
      神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。
      神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。
      神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。
      では、これらのことについて何と言うべきでしょう。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。
      私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。
      誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
      誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。
      誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。
      「私たちはあなたのゆえに、日夜、死にさらされ
      屠られる羊と見なされています」
      と書いてあるとおりです。
      しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。
      私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
      高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。】
      ローマ 5章1節-8章39節

      • 私たちは、信実な方、偽りのない方、聖い方、つまり神(イエス様)に出会ったのだから、
        今までの不信実なもの、偽りなもの、聖くないものの交わりから、出て行き、
        神(イエス様)に近づいていこう。

      • 摂理を受け入れ、過去を後にして、前に生きる。
        摂理とは、
        日本基督教団 齋藤真行牧師YouTubeより
        「キリスト教の基本的な信仰の一つに、摂理信仰と言うのがあります。
        これは、神が備え、導いてくださる。また、神様は私たちの生活を支えて下さるということですが、
        私はどんな学校に行くのかとか、どんな会社で働くのとか、どんな仕事をするのとか、どんな友達と付き合うかとか
        どんな人と結婚するかとか、こんなこと全て神様は、導いて相応しく御与え下さると、そういう意味になります。
        で、こう言った摂理信仰と言ったことを信じて生きることで、全てですね、よきものと言うのは神様から与えられたという風に感謝することが出来る。
        逆に逆境や試練のときにおいては、そのことも神様がお与え下さったときだから、神様は必ず良い方向にもっていって下さると、信頼をもって歩めると、いうことになります。 この、摂理信仰があることで、私たちは殉教でも逆境でも守られて安らかに生きることが出来る。と言うことです。」




      つづく・・・



    50. 終末を前にした生き方

      マルティン・ルターは、
      「たとい明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」
      と言われた。

      イエス様の生き方を見て言われたのだろう。
      十字架と言う個人的な終末を前にして、
      イエス様は、毎日、
      「傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すこともなく」
      隣人を愛し、癒し救いに導き、神の御心を行っておられた。

      --聖書より--
      【 イエスはお答えになった。
      「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」】
        ヨハネ 5章 17節



      つづく・・・




    51. イエス様と私

      --聖書より--
      【 私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです。私たちはこの御子において、その血による贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。これは、神の豊かな恵みによるものです。神は、この恵みを私たちの上に溢れさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、御心の秘義を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってご自身でお決めになっていた御心によるものであって、時が満ちるというご計画のためです。それは、天にあるものも地にあるものも、あらゆるものが、キリストのもとに一つにまとめられることです。キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。それは、キリストに以前から希望を抱いている私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。あなたがたも、キリストにあって、真理の言葉、あなたがたの救いの福音を聞き、それを信じ、約束された聖霊によって証印を受けたのです。聖霊は私たちが受け継ぐべきものの保証であり、こうして、私たちは神のものとして贖われ、神の栄光をほめたたえることになるのです。】
      エフェソの信徒への手紙 1章3-14節


      つづく・・・




    52. 理に適った礼拝

      何処を向いてイエス様を礼拝をしたらいいのだろうか。
      天である。イエス様が復活して、天に昇られたから。
      今は、天に向かって礼拝すべきである。
      主の天からの降臨まで。

      【 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
      私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
      イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
      あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
      しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
      神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」
      女は言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」
      イエスは言われた。「あなたと話をしているこの私が、それである。」】
      ヨハネ 4章19-26節

      不思議なことに、
      【「よく言っておく。あなたがたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。
      また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。
      二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」】
      マタイ 18章18-20節

      天に居られる方が、
      「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」とは、
      神の神たるゆえんである。


      【 こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。】
      ローマ人:12章1節


      つづく・・・



    53. どのように祈ったらいいか

      --聖書より--
      【 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。
      そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

      『父よ
      御名が聖とされますように。
      御国が来ますように。
      私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。
      私たちの罪をお赦しください。
      私たちも自分に負い目のある人を
      皆赦しますから。
      私たちを試みに遭わせないでください。』」

      また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
      友達が旅をして私のところに着いたのだが、何も出すものがないのです。』
      すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない。』
      しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。
      そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。
      誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
      あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
      また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。】
      ルカ 11章1-13節

      【「また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。
      あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
      祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。
      彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
      だから、こう祈りなさい。

      『天におられる私たちの父よ
      御名が聖とされますように。
      御国が来ますように。
      御心が行われますように
      天におけるように地の上にも。
      私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
      私たちの負い目をお赦しください
      私たちも自分に負い目のある人を
      赦しましたように。
      私たちを試みに遭わせず
      悪からお救いください。』

      もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。
      しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」】
      マタイ 6章5-15節


      つづく・・・



    54. 神の愛

      --聖書より--
      【  ほかにも、二人の犯罪人がイエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
      「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。
      犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
      その時、イエスは言われた。
      「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」】
      ルカ 23章 32-34節
      「見よ、私の選んだ僕私の心が喜びとする、私の愛する者を。この僕に私の霊を授け彼は異邦人に公正を告げる。 彼は争わず、叫ばずその声を大通りで聞く者はいない。 公正を勝利に導くまで 彼は傷ついた葦を折ることもなくくすぶる灯心の火を消すこともない。 異邦人は彼の名に望みを置く。」 マタイ 12:21




      つづく・・・







    55. つづく・・・